しかし、「幻想」を「怪奇」と「驚異」の境界上に位置づけたのはトドロフの卓見であって、それによって「幻想文学」というもののジャンル区分が画定するのは確かである。
「怪奇」は超自然現象を許容しないから、それを突き詰めればミステリー(推理小説)に行き着くだろう。アン・ラドクリフの『ユドルフォの秘密』がその先駆けであったし、現在のミステリーは全て幻想文学からは除外されている。
一方で「驚異」は超自然現象を前提とするから、それを突き詰めれば妖精物語やファンタジーに行き着く。それらは幻想小説と違って、確固とした日常空間を舞台としないのである。
幻想文学はだから、現実空間における「うつつか夢か」という「とまどい」を本質とするのである限りでは、あくまでも「現実」を前提としているというべきだろう。幻想文学は現実空間なしには成立しないし、そこで強固な現実との接点を持つのである。
そうした幻想文学の特徴は、怪奇を本質とするミステリーや驚異を本質とするファンタジーのそれとは大きく異なっている。ミステリーはトリックに拘泥するあまり、現実空間を忘却していくし、ファンタジーはもともと現実空間を前提とするものではない。
そのように考えれば、幻想文学というものが、ある事象が怪奇に属するのか、驚異に属するのか判断が終わってしまえば消えてしまう一過性のものとしてのみあるのではなく、怪奇と驚異の間にあってその成立根拠を担っているというのは大きな逆説であるとも言えるが、トドロフはそのことを我々に気づかせてくれたのだとも言えるだろう。
トドロフの幻想文学に対する高い評価はそこから来ていて、だからこそトドロフは次のように言うのである。
「幻想文学から受ける背反的で曖昧な印象の由来は、そのようにして説明される。現実と非現実の間の境界の疑問視という、文学固有の営為を自己の明示的中心としている限り、幻想文学こそは文学の精華なのである」
つまり「現実と非現実といった言語的対立」は幻想文学において、「現実と非現実という抜きがたい対立の存在を疑問視させる」のであり、幻想文学ではそうした対立項の両方について深い認知が求められるのである。
たとえばジェラル・ド・ネルヴァルがその「オーレリア」の冒頭に「夢は第二の人生である」と書きつけるとき、ネルヴァルは現実と非現実の対立項の奥深くまで分け入っていく必要に迫られるのだし、実際にそれを実現するのである。
「現実と非現実といった言語的対立」の解明について言うならば、それは幻想文学に限らず、文学全般の課題であるということ、それをトドロフは主張したいのであって、だからトドロフの「幻想文学論」は単なる「幻想文学論」にとどまることはないのである。
トドロフは構造主義的な考えのもとに、言語と文学との抜き差しがたい関係にまで筆を進めていく。長くなるが、モーリス・ブランショの「芸術とは、救いの道となるには十分に真実であり、障害となるにはあまりにも非現実的であり、しかもそのいずれでもない」との一文を引いたあとの次のような一節はトドロフの文学観を遺憾なく示すものである。
「文学はいかなる二分法の存在も否認するものである。言語の本性には、言表可能なものの全体を非連続な部分へと切断することがある。(中略)文学は言葉によって存在する。しかしながら、その弁証法的性格故に、文学は、言語が語る以上のことを語るものであり、言語による諸分割を越えて出るものである。文学は言語の内部にありながら、言語に固有の形而上学を破壊している。文学ディスクールの特性は彼方へおもむくことにある(さもなければ文学の存在理由はないであろう)。文学とは、言語が自殺するための凶器のごときものなのだ」
トドロフは構造主義者ではあるが、ノースロップ・フライのような冷徹さを持っていない。そのことは上の一文を読んでいただければよく分かってもらえるだろう。