玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

トドロフ『幻想文学論序説』(2)

2016年11月27日 | 日本幻想文学

 しかし、「幻想」を「怪奇」と「驚異」の境界上に位置づけたのはトドロフの卓見であって、それによって「幻想文学」というもののジャンル区分が画定するのは確かである。
「怪奇」は超自然現象を許容しないから、それを突き詰めればミステリー(推理小説)に行き着くだろう。アン・ラドクリフの『ユドルフォの秘密』がその先駆けであったし、現在のミステリーは全て幻想文学からは除外されている。
 一方で「驚異」は超自然現象を前提とするから、それを突き詰めれば妖精物語やファンタジーに行き着く。それらは幻想小説と違って、確固とした日常空間を舞台としないのである。
 幻想文学はだから、現実空間における「うつつか夢か」という「とまどい」を本質とするのである限りでは、あくまでも「現実」を前提としているというべきだろう。幻想文学は現実空間なしには成立しないし、そこで強固な現実との接点を持つのである。
 そうした幻想文学の特徴は、怪奇を本質とするミステリーや驚異を本質とするファンタジーのそれとは大きく異なっている。ミステリーはトリックに拘泥するあまり、現実空間を忘却していくし、ファンタジーはもともと現実空間を前提とするものではない。
 そのように考えれば、幻想文学というものが、ある事象が怪奇に属するのか、驚異に属するのか判断が終わってしまえば消えてしまう一過性のものとしてのみあるのではなく、怪奇と驚異の間にあってその成立根拠を担っているというのは大きな逆説であるとも言えるが、トドロフはそのことを我々に気づかせてくれたのだとも言えるだろう。
 トドロフの幻想文学に対する高い評価はそこから来ていて、だからこそトドロフは次のように言うのである。

「幻想文学から受ける背反的で曖昧な印象の由来は、そのようにして説明される。現実と非現実の間の境界の疑問視という、文学固有の営為を自己の明示的中心としている限り、幻想文学こそは文学の精華なのである」

 つまり「現実と非現実といった言語的対立」は幻想文学において、「現実と非現実という抜きがたい対立の存在を疑問視させる」のであり、幻想文学ではそうした対立項の両方について深い認知が求められるのである。
 たとえばジェラル・ド・ネルヴァルがその「オーレリア」の冒頭に「夢は第二の人生である」と書きつけるとき、ネルヴァルは現実と非現実の対立項の奥深くまで分け入っていく必要に迫られるのだし、実際にそれを実現するのである。
「現実と非現実といった言語的対立」の解明について言うならば、それは幻想文学に限らず、文学全般の課題であるということ、それをトドロフは主張したいのであって、だからトドロフの「幻想文学論」は単なる「幻想文学論」にとどまることはないのである。
 トドロフは構造主義的な考えのもとに、言語と文学との抜き差しがたい関係にまで筆を進めていく。長くなるが、モーリス・ブランショの「芸術とは、救いの道となるには十分に真実であり、障害となるにはあまりにも非現実的であり、しかもそのいずれでもない」との一文を引いたあとの次のような一節はトドロフの文学観を遺憾なく示すものである。

「文学はいかなる二分法の存在も否認するものである。言語の本性には、言表可能なものの全体を非連続な部分へと切断することがある。(中略)文学は言葉によって存在する。しかしながら、その弁証法的性格故に、文学は、言語が語る以上のことを語るものであり、言語による諸分割を越えて出るものである。文学は言語の内部にありながら、言語に固有の形而上学を破壊している。文学ディスクールの特性は彼方へおもむくことにある(さもなければ文学の存在理由はないであろう)。文学とは、言語が自殺するための凶器のごときものなのだ」

 トドロフは構造主義者ではあるが、ノースロップ・フライのような冷徹さを持っていない。そのことは上の一文を読んでいただければよく分かってもらえるだろう。


トドロフ『幻想文学論序説』(1)

2016年11月26日 | 日本幻想文学

 

日本の幻想文学を論ずるときに、ツヴェタン・トドロフを参照する必要がどこにあるのかと言う人もいるかも知れないが、トドロフの名著『幻想文学論序説』は国書刊行会の『日本幻想文学集成』を読んでいくときに、大いに役に立つだろうという予想はある。
 日本の幻想文学論は、渋澤龍彦流の反近代主義に毒されたものが多く、ほとんど参照するに足りないからである。渋澤は正統派文学に対して異端としての文学を対峙させて、その価値を称揚したのであったが、そのような議論は今日ではもはや成り立たない。
 あの荒俣宏でさえ、今日、幻想文学と呼ばれるものの居心地が良くなりすぎたために、もはや「正統」に対する「異端」としての位置を保持することが出来なくなってしまったことを、1982年に書いているが、渋澤流の幻想文学観は60年代、70年代には有効であったかも知れないが、80年代にはすでに破綻していたというわけである。
 ゴシック・ロマンスについてもその創始者であるホレース・ウォルポールやウィリアム・ベックフォードの作品に、18世紀合理主義に対する反時代的な貴族趣味を読み取って賞賛するという風潮があったが、そうしたものの見方もすでに破綻している。
 そのような変化の分水嶺には、構造主義的なものの考え方があって、それ以前とそれ以降を画然と分割しているのは、世界的な潮流であるが、日本ではそれ以降も構造主義的な幻想文学論というものは出現しなかったし、相も変わらぬ渋澤流の俗論が幻想文学の世界を支配していたことは、高原英理の議論を読めば直ぐに解ることである。
 トドロフの『幻想文学論序説』は1975年に朝日出版社から翻訳が出ているが、私は1999年に東京創元社から出た創元ライブラリ版を所有している。日本における幻想文学の定着に果たした東京創元社の役割は「怪奇小説傑作集」全5巻の刊行などによって限りなく大きいものがあるが、トドロフのこの本の文庫化も、幻想文学の理論的著作を紹介したという意味で重要な功績であった。
 トドロフはまずジャンルとしての幻想文学の定義を行っているが、その時に批判的に参照しているのがノースロップ・フライの『批評の解剖』である。フライは構造主義の先駆者といわれた存在であり、文学というものを構造分析的に考察した人であるが、こと幻想文学については恣意的な分類しか行っていないというのがトドロフの批判の要諦である。
 トドロフはジャック・カゾットの『悪魔の恋』を取り上げて、主人公が我が身に起きたことが現実なのか、それとも幻覚にすぎないのかという曖昧さを体験するところに「幻想」の本質があるとする。トドロフは次のように言う。

「「幻想」はこうした不確定の時間を占めている。どちらか答えが選択されてしまえば、幻想を離れて「怪奇」あるいは「驚異」という隣接のジャンルへ入り込むことになる。幻想とは自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである。」

「怪奇」は超自然というものがあることを認めず、起きた出来事を自然的事象へと還元する認識であり、「驚異」は超自然的存在を認め、起きた出来事を超自然に由来するものと判断する認識である。「幻想」はその二つの認識の境界域にある「ためらい」であるというのがトドロフの議論である。
 だから「幻想」は「怪奇」と「驚異」の中間地帯にある、過渡的なものだとトドロフは言うが、ではなぜ世に「幻想小説」というものが存在しうるのかについて、トドロフははっきりとは言わないのである。

ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(1999、東京創元社、創元ライブラリ)三好郁朗訳

カバーに使われているのはギュスターヴ・モローの〈オイディプスとスフィンクス〉

 


ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(3)

2016年11月21日 | ゴシック論

 ゴシック的ということが閉鎖空間に関わる設定を意味するのだとすれば、『さまよえるユダヤ人』はそうした条件を欠いてはいない。レーヌポン伯爵の子孫である、双子の姉妹ローズとブランシュは、妨害者達の計略によって修道院に押し込められてしまうのだし、もう一人の子孫、アドリエンヌ嬢もまた狂気に陥ったとの理由で二度と出ることの出来ない精神病院に幽閉されてしまうのである。
 しかもその修道院と精神病院が隣接しているというところが笑わせる設定であって、これも筋立てを遅滞なく進めるための仕掛けにすぎない。このあり得ざる隣接は、ルイスの『マンク』でアンブロジオの修道院と、もう一つの最後は民衆によって破壊されてしまう女子修道院が、地下通路によって繋がっているという設定を思わせる。救出劇をスピーディーに進めるための経済学がそこには働いているのである。
『さまよえるユダヤ人』の中で、私が最もゴシック・ロマンスの強い影響を受けているなと思う場面がいくつかあるが、中でも露骨なのは主要登場人物の難破船からの救出の場面である。2隻の船がインドからとドイツから、フランスの海岸にやってきて、嵐に逢着する。1隻には本編の主人公ダゴベールと彼が保護する双子の姉妹が乗り組み、もう一隻にはインドから来たジャルマ王子が乗り組んでいる。どちらも遺産相続の権利者であり、妨害者達の奸計をすり抜けてきたのである。
 その2隻がアドリエンヌ嬢の城、カルドヴィル城近くの海岸に座礁し、そこから主要な登場人物だけが城に救出されるのである。ここにも1832年2月13日までにパリのサン=フランソワ街に到達したものだけに遺産相続の権利が与えられるという筋立てをスピーディーに展開させるための経済学がある。
 つまり経済学とはご都合主義の別名であって、この難破船の座礁からの救出場面はアン・ラドクリフの『ユドルフォの秘密』からのほとんど引き写しである。『ユドルフォの秘密』で難破船からヴィルフォール城に救出されるのは、エミリーとデュポン、アネットとルドヴィコという『ユドルフォの秘密』にとって欠かすことの出来ない登場人物達であって、彼等がブランシュ嬢(この名前も共通している)と運命的な出会いをするのも、この難破によってなのである。
 このとんでもないご都合主義については『ユドルフォの秘密』の項で批判しておいたが、『さまよえるユダヤ人』の場合はそれが『ユドルフォの秘密』からのパクリであることにおいて、さらに批判の対象となってもおかしくないだろう。
『ユドルフォの秘密』のこの難破の場面をマチューリンの『放浪者メルモス』もパクっているが、それほどにこの場面は強力なものだったのである。その意味で、私は『ユドルフォの秘密』の一部について評価を見直してもいいくらいなのである。
『さまよえるユダヤ人』はこのように、ゴシック・ロマンスからのパクリと大衆迎合的な筋立てに満ちた通俗小説である。最後の場面も勧善懲悪によるハッピーエンドで笑わせるが、もういいだろう。
 私はこのような通俗作品が、角川文庫のリバイバル・コレクションに含まれていたということを報告し、読み残してある古典的作品にもう一度挑戦するチャンスを自分に与えたいだけなのであるから。
(この項おわり)

 


ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(2)

2016年11月20日 | ゴシック論

 ところで、シューのこの作品を「ゴシック論」のところで取り上げたのには、わけがある。『さまよえるユダヤ人』という作品にはゴシック的な要素がたくさんあるからである。
 まずタイトルの「さまよえるユダヤ人」からして、ゴシック的と言えるだろう。「さまよえるユダヤ人」というのはキリスト処刑の日に、刑場へ引かれるキリストを侮辱した罰として、キリスト再臨の日まで永遠に世界をさまようことを運命づけられたユダヤ人の伝説に基づいている。
 こうした設定は1820年に出版されたマチューリンの『放浪者メルモス』が、そっくりさまよえるユダヤ人の伝説を借りているのに共通している。メルモスは世界中どこにでも瞬時に出現出来るのだが、シューのユダヤ人もどこにでも出現する登場人物となっている。
 また小説の舞台が最初にベーリング海峡に設定されているのは、最後に北極圏を舞台にして終わるメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』の影響かも知れない。とにかくシューはゴシック・ロマンスを強く意識していたのである。
 またシューの前作『パリの秘密』の原題はLes Mystere de Pariで、アン・ラドクリフの代表作『ユドルフォの秘密』の原題はThe Mysteries of Udolphoである。シューがゴシック・ロマンスを意識していたことはこのタイトルからも窺うことが出来る。
 『ユドルフォの秘密』が一番早くて1794年、次が1818年の『フランケンシュタイン』、そして1820年の『放浪者メルモス』で、年代的に見ても影響関係は明らかである。ちなみに『放浪者メルモス』は1821年にフランス語訳されている。
『さまよえるユダヤ人』はしかし、『放浪者メルモス』でメルモスが抱くような大きな苦しみを持ってはいない。『放浪者メルモス』はボードレールが高く評価するほどに文学性の高い作品であったが、『さまよえるユダヤ人』はそうではない。
 メルモスは世界中のいたるところ、災厄に苦しむ登場人物達のところへ、悪魔との契約を肩代わりしてもらうために出現するのだし、そこにメルモスの人間的なドラマがあるのだが、『さまよえるユダヤ人』はまったくそうではない。
 シューのユダヤ人が何のためにいたるところに出現するのかと言えば、主要な登場人物をその苦境から救い出すためなのである。つまりシューのユダヤ人は、主要な人物がどんなに危機的な状況に陥っても、彼を救い出し、小説の筋を遅滞なく進行させるための御都合主義的な道具にすぎない。
 だから『さまよえるユダヤ人』などという思わせぶりなタイトルもまた、新聞大衆小説の扇情的な性質を補強する。小説の内容はレーヌポン伯爵が150年後の子孫に残した莫大な遺産をめぐる争奪戦というのにすぎない。小説の興味はいかに彼等が妨害を受けながらも、その遺産を正統に受け継ぐことが出来るかどうかに懸かっているのである。通俗を極めた作品にすぎない。


ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(1)

2016年11月18日 | ゴシック論

 平成元年に角川書店は角川文庫のリバイバル・コレクションというラインアップを出版している。創刊40年を記念して、古今東西の名作文庫30点を復刻したもので、セット定価が26,530円だった。読者アンケートによる限定出版だった。
 かなり豪華なラインアップであった。フランス文学ならネルヴァルの『暁の女王と精霊の王の物語』『ボードレール芸術論』『ヴァレリー文学論』ジャン・コクトー『阿片』、日本文学なら樋口一葉の『一葉青春日記』萩原朔太郎の『月に吠える』、その他浦松齢の『聊斎志異』、エイゼンシュイテインの『映画の弁証法』、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反乱』など、など。
 昔の角川文庫はこのように古典ばかりが入っていたのだ。別に角川に限らず現在まで続いている文庫本はみなそうだった。そうした流儀を守っているのはもはや岩波文庫以外にはあり得ない。
 フランス文学に比重がかかっている。フランス文学だけで30点のうち7点を占めている。これはかつて日本においてフランス文学至上主義の時代があったことを反映している。「フランス文学にあらずして文学にあらず」というような風潮が、戦前から戦後の一定時期まで続いたのである。
 ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』まで入っている。フランス文学に関しては、いわゆる純文学的なものが主流であるのに、シューの大衆文学的作品まで入っているのに驚かされる。
 とにかく私はその当時は忙しかったので、いつか読んでやろうと思って全巻を購読した。購読したのでなくて、購入したのだった。それから30年近く。私はこのリバイバル・コレクションのうち、なんと柳田國男の『妹の力』以外まったく読んでいなかったのだった。
 最近思い本が重荷になってきたので、なるべく文庫本で読もうと思い、リバコレ(こう言ったものだ)を見直してみたが、シューなら簡単に読めそうだと思い、早速読みに懸かった。
『さまよえるユダヤ人』は新聞連載小説の走りということで、とにかく読みやすい。しかも大衆的な興味を掻き立ててやまない。そのためなら、どんな無理な筋の運びも許容されるし、多少の俗悪さも兼ね備えていなければならない。勧善懲悪的な趣向も欠かせないのだ。
 とにかくこの作品はシューの前作『パリの秘密』と並んで、国民的な人気を博した小説で、後のアレクサンドル・デュマ『三銃士』『モンテ・クリスト伯』等の先駆けとなった作品なのであった。
 だから、ネルヴァルやボードレール、ヴァレリーの作品と同列に扱えるような作品では毛頭ない。そこが読者アンケートの面白いところで、長らく絶版となっていて読者垂涎の一冊であったのであろう。『さまよえるユダヤ人』がラインアップの先頭に掲げられていることからもそのことが窺われる。
 よく見ると頁によって印刷に濃淡がある。初版は活版であったはずだから、在版による重版ではなく、写真製版による印刷だったのである。単行本の場合頁によって濃淡のある印刷など許されるものではないが、文庫本の場合はその辺の基準が緩かったのだろう。
 初版の日付は昭和26年11月15日になっている。私はまだ生まれていない。『さまよえるユダヤ人』文庫本初版出版の13日後に私は生まれている。40年ぶりの復刻だったのだから、真に復刻の名に値する出版なのであった。

ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(平成元年、角川文庫リバイバル・コレクション)小林龍雄訳

 

 


日本幻想文学(1)

2016年11月10日 | 日本幻想文学

 現在刊行されている国書刊行会の『新編日本幻想文学集成』を定期購読していて、現在第2回配本の途中まで読み進んだところだ。日本の幻想文学というと体系立てては泉鏡花しか読んだことがなく、馴染みも薄いので、老後の楽しみとして読むにはいいだろうと思って、購読することにしたのだった。
「新編」というからには「旧編」があるわけで、同じく国書刊行会から1991年に刊行が始まり1995年に完結したシリーズがそれである。旧版は明治から現代までの物故作家33人を一巻ずつに収録したもの。あの白い四六判のシリーズである。
 私は当時、外国の幻想小説とりわけゴシック小説に入れあげていたわけだから、日本の作家に眼を向ける余裕はなかった。従って、あの白い本はまったく買っていない。今になってみれば当時まとめて買わなくて良かったのかも知れない。新編では1巻に4作家ずつ全てが9巻に収められているからである。
 コンパクトにまとまっていていいのだが、1巻ずつが病み上がりには重い。とても寝転がって読むわけにはいかない。姿勢を正してでないと読めないので、向かう心構えもしっかりしてくる。
 ところで、新版には当時まだ生きていた作家の作品が収められていなかった。安部公房、倉橋由美子、中井英夫、日影丈吉の4人である。この4人の巻が新たに「幻戯の時空」のタイトルで1巻にまとめられた。そうか、1990年代前半にはまだこの4人は生きていたのだったか。
 安部公房と倉橋由美子は読まなければと思いながら、読んでいない作家だったのでちょうどいい出会いとなった。二人に関しては食わず嫌いで、これまでほとんど読んだことがなかったのだ。
 安部公房についてはこの巻を読んで、「デンドロカカリア」のような作品があまりにも寓話的で、いただけないという思いを強くした。こんな作品がノーベル賞に擬せられた作家の書いた作品なのかと正直思う。この辺については詳しく書かなければならない。
 倉橋由美子についても寓話性はいつでもつきまとって、まったく食えない。「なんていやらしい女なんだ」などという、今度アメリカの大統領になった馬鹿の科白も言ってみたくなるというもんだ。しかし、晩年の作品に救いがある。イデオロギーから自由になった倉橋の作品は読むに値すると思った。これも詳しく書かねばなるまい。
 中井英夫はその『虚無への供物』にいかれて、若いときにずいぶん読んだものだが、今読むとまったく面白くない。どうしてこんな作家を評価していたのかと恥ずかしくなる。それを高く評価していたという渋澤龍彦もいい加減なもんだと思わざるを得ない。
 日影丈吉はその通俗性で好きになれなかった作家であるが、中井英夫よりはいいのではないかと思った。中井の人工的技巧が無いからである。
 いずれにせよ、きちんと書かなければならないだろう。その前にツヴェタン・トドロフの名著『幻想文学』を再読しておきたいので、しばらく時間をいただきたい。