玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(10)

2018年06月06日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』は以上のようにゴシック小説として定義することができるが、ジャンル分けすることにどんな意味があるのかと問う声が聞こえてきそうだ。しかし私は、ゴシック小説の定義を与えることが、『夜のみだらな鳥』の空間恐怖と相続恐怖の構造を明らかにすることにつながると考えているし、この小説のほかの要素もこの二つの恐怖に緊密に結びついていると指摘することができると思っている。
 ほかの要素とは何か? それはこの小説の基調をなしている〝退嬰〟のイメージであって、それは『夜のみだらな鳥』の至るところに出現して、この小説のイメージを決定づけている。
 まずは妊娠したイリス・マテルーナが、父親が死刑の判決を受けて刑を執行されたらしいということを知らされて動揺し、雨の降る中庭をさまよって倒れ、老婆たちに介抱される場面から見てみよう。介抱者の中に新参のダミアナという老婆がいて、彼女は赤ん坊の真似をしてイリスの母性本能を呼び覚まそうとするのである。

「イリスは小さな腕を伸ばして、ママ、ママと言っている、恐ろしく年を取ったその赤ん坊を見つめる。無心な目で笑いながら赤ん坊は、抱いて愛撫してくれとせがむ。母親に抱かれて愛撫を受けるのが赤ん坊は好きなのだ。子どもを抱いて愛撫するのが母親は好きなのだ。ダミアナは、血管が浮いた脚――その先は節くれだっていて、まめだらけだ――をばたばたさせる。皺くちゃの汚い顔で愛撫を求める。きれいなよだれ掛かけの上に、年寄りくさいよだれを垂れる。」

 こんな調子で赤ん坊ごっこが始まり、イリスはダミアナの求めに応じて歯のないダミアナの口に乳首を含ませたり、おしめを替えたり、皺だらけの性器を拭いたり、パウダーをはたいたりする。ほかの老婆たちも一緒に嬉々として赤ん坊ごっこに耽るのである。
 この集団的退嬰行為の描写を読んで、あまりのおぞましさに吐き気を催す読者もいるだろう。ホセ・ドノソはそんなことは承知の上で描写を進めていく。その後イリスがかたわの子どもを産むのではないかという議論が始まって、ダミアナは〝かたわの子どもの現実的効用〟を説くに至るのだが、《ムディート》はそんなダミアナを内心で非難する。

「家族、母親、父親、子ども、家、扶養、食事、苦労……いいだろう、ダミアナ。そういうものを、信じたければ信じつづけるがいい。あるふれた幸福の、日々の悲しみの物語を練りつづけるがいい。一方おれは、集まって個体と化していく湯気で、無秩序な自由から生まれるあるものを形づくる。おれがそのひとりである老婆たちの意識は、そうした自在な働きをするのだ。」

これは《ムディート》の言葉であると同時に、ドノソの表現論ともなっている。ドノソは日常性におもねることなく、無秩序な自由から生まれるものに形を与えていく。ドノソが描く退嬰行為は日常性に回帰することなく、醜いものは醜いまま、おぞましいものはおぞましいまま、挑発的なあるいは暴力的な退嬰行為と化す。
 ドノソの退嬰は日常的あるいは社会的にはマイナスの価値しか持たないし、この作品をまったく社会性を欠落させたものとして、もっと言えば歴史からの退行的逸脱として位置づけることになるだろう。しかし、ドノソはそんなことにはたじろがない。ドノソはひたすらに〝無秩序な自由から生まれるあるもの〟に形を与えつづけるだろう。
 世界中から畸形たちをあつめて隔離するリンコナーダの屋敷もまた、退嬰的なイメージに染め上げられている。それもまた歴史からの退却と呼ばれなければならない。しかし、ゴシック小説というものがもともと、歴史からの退行的逸脱として、あるいは歴史からの退却として開始されたジャンルだったことを忘れてはならない。

 

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