玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

越後タイムス休刊にあたって

2015年01月06日 | 日記
 この休刊号を発行するにあたって、書いておきたいことがある。まず四本の連載について。渡辺和裕氏の「感覚のルネッサンス~災害と社会あるいは文学について」の連載は五十六回を数えた。東日本大震災と福島原発事故の直後から開始されたこの連載は、「決して終わらない」と宣言されていた。
 震災や原発事故を風化させるべく、東京オリンピックの開催決定や、景気回復最優先、つまりは経済至上主義に同調する総選挙などが行われたが、文学的精神にとって、それは忘れることを許されぬ事件であって、だからこの連載は「決して終わらない」のである。
 徳間佳信氏の「中国新時期文学連載」も二十六回にわたり、今号の最後には「この項続く」と記されている。中国の現代文学について通観するこの論考は、日本で初めての試みであり、おそらく中国本国においてもなされていないものかも知れない。
 前人未踏のこの論考に対して、紙面を提供する必要があると判断して始めた連載であり、最後まで貫徹させてあげられなかったことを申し訳なく思っている。いずれ一本にまとめられ、中国現代文学を学ぶ日本人にとって必須の文献となることを願っている。
 また、木島次郎氏の「柏崎を変革した男たち」も、大河内正敏と彼に関わる四人の人物について、まだ二人目が登場したばかりであり、今後どこまで続くのか予想もできない。
 私自身の「大岡昇平」についても、まだ『武蔵野夫人』について論じただけで、タイトルの「“明晰”という隘路」によって言いたいところまで辿り着いていない。これもまた「つづく」とした所以である。
 まだ何も終わっていないのである。休刊であって廃刊でもなければ終刊でもない。ただし新聞としての発行は、この号が最後になる。来年になったら、少し休ませていただいて、別の形での「越後タイムス」の続行について模索したいと考えている。
 休刊を惜しむ声がたくさん寄せられていて、申し訳ないと思うと同時に嬉しい気がしないでもない。熱烈に愛読してくださった方がたくさんいることが分かるからだ。
 そんな方々に最後のお願いがある。越後タイムス五代目編集発行人・柴野のことを「タイムスを終わらせた男」ではなく、「タイムスを十五年間延命させた男」として記憶していただきたいというお願いである。でも、まだ終わりではない。

越後タイムス12月25日号「週末点描」より)

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日本翻訳文化賞受賞

2015年01月06日 | 日記
 越後タイムス編集発行人が一人で細々とやっている出版社「玄文社」で手掛けた本が、何と今年度の日本翻訳文化賞特別賞を受賞したので、著者がお住まいの長岡市でささやかな祝賀会を開いた。
 同賞は、ユネスコ国際翻訳家連盟日本代表機関である日本翻訳家協会が主宰するもので、対象作品は早稲田大学名誉教授・大井邦雄氏による訳述書『シェイクスピアはどのようにしてシェイクスピアになったか』と『「ハムレット」の「ことば、ことば、ことば」とはどんな「ことば」か』の二冊。
 この賞は「その年の、優れた翻訳作品の翻訳者に対して」与えられるもので、もとより出版社の功績ではなく、偏に翻訳者の栄誉に帰せられるものであるが、それにしても嬉しかった。歴代の受賞作品を見てみると、ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』、ドゥールーズ、ガタリ『アンチ・オイディプス』やエーコの『薔薇の名前』など錚々たる作品が並んでいる。
 しかも、岩波書店や白水社、東京創元社や国書刊行会など、一流の出版社ばかりが名を連ねている。「玄文社」などという名前だけは立派だが、何の実績もないゴミのような出版社はひとつもない。どうしてこんなことになったんだろう。
 大井氏の二著はイギリスの演出家・俳優、ハーリー・グランヴィル=バーカーという人の講演の一部を翻訳したもので、本文の十倍以上の注が付いた大著である。注がないと読んでも分からない。注がすごいのだけれど、読むのは結構大変である。そんな本を東京の出版社では出版できなくなっているのが実情なのだ。出しても売れないからだ。結局、著者が自費出版で出すしか道はない。そんなお手伝いをさせてもらったというわけだ。
 祝賀会は、よき理解者ばかりが集まって楽しくも充実した会となった。大井氏は八十二歳。次の本の出版に向けて研鑽、準備中である。見習いたいと思う。

越後タイムス12月10日号「週末点描」より)

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ヘンデルのアリア

2015年01月06日 | 日記
 かしわざき大使で、市文化会館アルフォーレのパートナーシップ・アーティストの池辺晋一郎さん企画によるコンサート「音楽の不思議~歌の国イタリアを訪ねて」は、聴きに行くかどうか迷った。イタリア歌曲が苦手で、聴いて楽しむ自信がなかったからだ。
 池辺さんの「N響アワー」はよく聴いていて、その独特の切り口とダジャレが大好きだったから、アルフォーレ柿落としのコンサートにも、昨年のオーケストラ・アンサンブル金沢のコンサートにも参加した。
 柿落としのコンサートではN響の指揮者だった故岩城裕之さんの奥さんである木村かをりさんのピアノで、初めてメシアンを聴いて刺激を受け、その後「トゥーランガリラ交響曲」や「世の終わりのための四重奏曲」など、メシアンの主要な曲を聴くようになった。 結局、出掛けた今年のコンサートは、いきなりヘンデルの二曲から始まって、“ドイツ人なのに?”と思ったが、ヘンデルは「イギリスにおけるイタリア・オペラの完成者」なのだそうで、よく意味は分からないが一応納得した。ヘンデルのOmbra mai fu(なつかしい木陰よ)は聴いたことがあるが、Lascia ch'io pianga(わが泣くままに)は初めて聴いた。
 Lascia ch'io piangaがいたく気に入ったので、You Tubeで聞き直すことにした。検索するとたくさんの演奏をただで聴けることが分かった。CDが売れないわけだ。キャスリーン・バトルもあれば、サラ・ブライトマンもある。日本人の演奏もたくさんあるが、平板で声量も足りない。
 一番気に入ったのはアメリカのルネ・フレミングの歌であった。ずっと記事を書きながらフレミングの歌声を聴いている。声の振幅が大きくてメリハリがすごい。楽譜にないような微妙な声の揺らぎが心を震わせる。
 この人、オバマ大統領就任記念コンサートで歌うくらい超人気の歌手だそうで、昨年亡くなったロック界の伝説的スター、ルー・リードと共演しているのもYou Tubeで見つけて聴いた。そんなこともあってか、毀誉褒貶喧しい歌手なのだという。
 結局フレミングの「ヘンデル・アリア集」のCDを買うことにした。ただで聴かせてもらうだけでは申し訳ないからだ。まさかソプラノのCDを買うことになるとは夢にも思わなかった。池辺先生に感謝である。

越後タイムス11月25日号「週末点描」より)

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『柏崎赤れんが棟物語』

2015年01月06日 | 日記
「赤れんが棟を愛する会」がこのほど活動記録集をまとめ発行した。今年三月の「柏崎赤れんが棟物語││記録写真集」に次いでの発行だ。頁を繰っているうちに、いろいろなことを想い出した。「越後タイムス」の記事も、資料の「地元マスコミ掲載記事」にたくさん載っていて、“よく取材したな”と懐かしく思い出す。
 発端は平成十七年の七月だった。すでに平成十三年三月に旧日本石油加工柏崎工場は閉鎖となり、その間、市民は無関心で、保存への動きはまったくなかった。保存運動に火を点けたのは、その年の六月から始まった施設、設備の解体作業だった。このままでは今年中に解体撤去されてしまうと、「赤れんが棟を愛する会」が立ち上がったのであった。
 日石がなくなり、駅前再開発が始まるという認識が背景にあり、赤れんが棟を中心に、いくつかの施設を産業遺産として残すことで、駅前活性化に寄与しようという意識が強くあった。平成十七年十二月に示された「構想」では、赤れんが棟のものづくり体験施設や文化ホールとしての利用などが提言されていた。開発プランでは周辺に屋台村の構想もあった。
 当時はアルフォーレの建設も予定になかったから、現在のアルフォーレの位置には商店街が構想されていた。もし、赤れんが棟が地震によって倒壊することなく、せめて屋台村の構想が実現していれば、面白かっただろうと思う。
 しかし、地震による破壊は再開発を促進させる意味もあった。市文化会館アルフォーレも出来、将来隣りに市役所も建てられることになろう。老人福祉施設も二つ出来、もう一つの計画もある。日石加工跡地は大きく変貌しようとしている。
 赤れんがの面影はアルフォーレ外壁の色と公園の管理棟と記念碑に残るのみだが、“日石町”という地名が残っている。日本石油発祥の地が柏崎であったことを思い出させることはできる。

越後タイムス11月10日号「週末点描」より)

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日本自費出版文化賞授賞式

2015年01月06日 | 日記
 十日間ほどマスクを着けて過ごした。先日、医者の定期検診の時もマスクを着けて受診したが、先生に「風邪が流行ってきたので気を付けてください」と言われてしまった。
 実は風邪をひいたのではなくて、唇の上に怪我をして、血だらけになり、あまりにみっともないのでマスクで隠していたのだった。酔って歩いて帰る途中、側溝に足をとられ、顔から倒れてしまったのだった。
 幸い、歯に損傷はなく、擦り傷で済んだが、瘡蓋がひどい。ひとに見せられないので、マスクを着けていたというわけだ。風邪などほとんどひいたことがないから、マスクもしたことがない。馴れないマスクは眼鏡が曇って具合が悪い。
 東京で、日本自費出版文化賞の授賞式があり、マスク姿で出掛けざるを得なかった。私がつくった本が小説部門の部門賞を受賞したので、受賞者と一緒に出席することになったのだ。
 タイムスを継ぐ前は、積極的に参加していたのだが、余裕がなくなり、十年ほどご無沙汰していた。仲間が大勢いて、皆さん久しぶりの参加を喜んでくれた。志を同じくする仲間の存在はありがたいものだ。
 しかし、皆にバカにされた。「もう若くないんだから気を付けないと」「久しぶりに参加するんだから、綺麗な顔で来なきゃだめじゃないか」などと言われた。「せっかくの器量が台無しだ」などという褒め言葉もいただいたが……。
 受賞作は新潟市の新村苑子さんの『律子の舟』という短編小説集だった。新潟弁で書かれた新潟水俣病をテーマにした小説集で、審査委員長の中山千夏さんが強力に押してくださったのだという。
 中山さん、新村さんと私で記念写真を撮ってもらった。その時だけマスクをはずした。みっともない記念写真になってしまった。

越後タイムス10月25日号「週末点描」より)

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福島被災地へ

2015年01月06日 | 日記
 国道6号線が全線開通となったので、磐越道から常磐道を富岡町まで北上し、右折して6号線に入り、さらに北上した。富岡町、大熊町、双葉町を通って浪江町に向かうのである。
 十日町市松之山在住のカメラマン・橋本紘二さんの案内で、福島の被災地を訪れる二日間の旅だった。異様な光景が目に入ってくる。第一原発が立地する大熊町では、国道沿いの民家の一軒一軒がバリケードで封鎖され、車の進入を禁じている。盗難防止のためだろう。
 第一原発への進入路入口だけでなく、全ての側道にバリケードがほどこされ、警備員が立っている。進入路付近を通過する時に、原発の作業クレーンが見えたので、車を止めて写真を撮ることにした。
 よく見ると、建屋らしきものの一部も見える。手前に山があるため、先端部分しか見えないが、むき出しの鉄骨が生々しい。すぐ手前に無人の人家があって、そのコントラストが不気味である。とにかく、どこを見渡しても“人がいない”のだ。
 写真を撮っていると、パトカーが近付いてきて、警官に「車を止めて歩いてはいけない」と警告された。知らなかった。線量が高い区域なので、車の外に出ては危険なのである。あとで聞くと、通れるのは四輪車のみで、二輪車の通行も禁じられているのだった。
 線量計があったので、車の中であちこち計測したが、やはり大熊町で最も高く、九・四○マイクロシーベルトもあった。車の外ではもっと高い数値になるだろう。事故から三年半経った帰宅困難区域の現実だ。
 ところで、次号二十五日号で、重要なお知らせをしなければならないことになった。

越後タイムス10月10日号「週末点描」より)

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佐藤伸夫さんの美術館

2015年01月06日 | 日記
 新潟病院内に「佐藤伸夫美術館」がオープンし、開館式典とその後の記念講演会にも参加させていただいた。国立病院機構東埼玉病院院長の川井充氏の「筋ジストロフィー医療の変遷について」と題する講演と、佐藤伸夫さんの「今なにがしたいか」という講演だった。
 川井氏の講演は、医療についての知識がないとよく理解できない内容であったが、筋ジス医療が、入院・リハビリ医療から療養介護医療に変わってきているということはなんとか分かった。筋ジス医療五十年の歴史の中で、患者さんの寿命は二倍に伸び、入院者は減って自宅療養者が増えているという。それが望ましい形だとも。
 川井氏が紹介した映像の中に、佐藤さんが入院していた下志津病院(川井氏はそこに勤務)のものがあって、佐藤さんはその映像を見て感ずるところがあったようで、下志津病院時代に感じていた違和感について率直に語った。佐藤さんはリハビリを苦痛に感じていて、病院になじめず、「病院が嫌いだった」と話した。
 そうだったのか。千葉から帰郷したい、自宅に帰りたいという本当の思いは、そこからきていたのか。「自分の時間を自分でつかいたい」という気持ちもそれが理由だったんだ。川井氏もそれに対し「耐え難い経験もあったと思う」と同情を示した。
 幸い佐藤さんの病気は、重症のデュシェンヌ型筋ジストロフィーではなく、自分でも思ってもいなかったという六十五歳という年齢を、来年迎えることになる。美術館は、これから佐藤さんにとって大きな励みになるだろう。
 佐藤さんの凄いところは、健常者にはないさまざまな“制約”を、作品の力に変えていくことである。制約をひとつひとつクリアしていくと、逆にそれが力になるのだという。佐藤さんの作品を見ていると、それがよく理解できる。
 もう一つ、佐藤さんの日常は、ほぼ自宅の窓から日本海を眺め暮らすことだけなのに、そこから非常に幅広いバリエーションをもった作品を生み出していることを挙げておかなければならない。これは“想像力”がなければ、健常者であろうが障害者であろうが、誰も成し得ないことであり、佐藤さんの作品の本質はそこにこそあると私は思っている。

越後タイムス9月25日号「週末点描」より)

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