玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

生成の軌跡

2009年11月27日 | 日記
 十月十七日から市立博物館で開かれている「漂着物アートの冒険」をやっと観ることができた。自分が実行委員会の事務局をつとめる展覧会で手一杯で、身動きがとれなかったからだ。
 郷津晴彦さんの流木作品は、浜辺に転がっている裸の流木に虫メガネで太陽光を集め、焦げ目をつけただけのものだ。初期の作品では流木の上に“模様”を描こうとした痕跡が窺えるが、最近のものは木目に沿って数本の焦げ目をつけているだけだ。
 美術作家というものは、なぜこんな意味のない無駄なことを繰り返して、倦むことがないのかと考える人もいるだろう。しかし、その焦げ目を見ているうちに、何ものかが自身の中に呼び覚まされてくるのを抑えることができなくなってくる。
 それは、太古から続く“生成”の軌跡のようなもので、郷津さんはそれを“流木の中にかくれていた目に見えないちから”と呼ぶ。木目にさからうことをやめ、自然の摂理に沿って、焦げ目をつけていく行為が、それを呼び覚ますのである。羨望を禁じ得ないほどの発見に満ちた行為ではないだろうか。
 市内の三上祥司さんのやや古い作品もまた、太古からの“生成”を追体験するための装置のように見える。無数の小枝の流木をボンドで固め、蓑虫の巣のような形をつくり、その上に、樹脂で蓋をして窓を開けてある。
 一見グロテスクではあるが、意味のない無駄な作業を通して、蓑虫が太古から続けてきた営みに近づこうとするための作品のように見える。流木は悠久の“生成”の記憶を喚起する。そうした記憶に比べれば、人類の歴史や営為などほとんど意味のないものと化す。美術作家が“無意味”に挑戦し続ける“意味”がそこにある。

越後タイムス11月6日「週末点描」より)


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