玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(2)

2015年10月31日 | ゴシック論

 二番目の作品「生命線」はもともと短編小説ではなく、フエンテスの最初の長編『澄みわたる大地』の一部であり、メキシコ革命に関わる挿話である。『澄みわたる大地』はフエンテスの小説としては非常に分かりやすい作品であり、いわゆる"全体小説"として読んだが、それほど優れた作品とは思わない。
 ゴシック的な要素はないし、フエンテスの良さが出ているとは思えない。むしろ訳の分からない『脱皮』の方がフエンテスらしくて私は好きだ。ただし、この「生命線」と題した挿話は強烈な印象を残す。
 革命軍に所属する四人の兵士が脱獄するが、目的意識を失った三人が意気阻喪する中、ヘルバシオだけは革命への忠誠のためになんとしてでも生き延びようとする。ヘルバシオは一人で革命軍の一派と思われる将軍のもとにたどり着くが、すでに寝返ったあとで、彼は監獄に舞い戻ることになる。
 ヘルバシオは残りの三人がどこに逃げたかと詰問され、一人で銃殺になるのが恐いがために、彼らの居場所を告げてしまう。「一人で死ぬのは嫌だ。死ぬなら一緒に死にたい」と言っていた三人とともにヘルバシオは銃殺される。
 フエンテスはヘルバシオの最期について「人より先に死ぬのがこわかったので目をつむった」と書いている。人はみな一人でしか死にようがないのだが、最後の希望として仲間と一緒に死にたいと思うのだろうか。
 この救いようのない物語には、カルロス・フエンテスのメキシコ革命に対する絶望や、人間の本性へのペシミズムが色濃く刻印されているように思う。そんな意味で『澄みわたる大地』の中でもっとも強い印象を残す部分なのである。

 三番目の「最後の恋」も、もともと短編小説ではなく、彼の次の長編『アルテミオ・クルスの死』の一部である。『アルテミオ・クルスの死』も複雑な話法を駆使しているわりには大変分かりやすい小説であり、メキシコ革命に乗じて裏切りをも含めてあらゆる手段を使って成り上がったアルテミオ・クルスの晩年の絶望を描く。
「最後の恋」はバカンスのために、金で買った若い女と海辺のリゾートホテルで過ごすアルテミオ・クルスの若い肉体への嫉妬と、老いたる自分への絶望を一人称で語る部分である。この部分にはフエンテスのゴシック的な感性がいかんなく発揮されていると思う。
 次のような肉体観はヨーロッパ中世の「死の舞踏」とも通底する、極めてゴシック的な思想を明示している。
「淫らな肉体、くびれた腰、はちきれそうな腿。その小さな細胞の中にもすでに時間という癌細胞が秘められているのだ。あの見事な肉体も束の間のものでしかない。年月が経てば、あの美しい肉体もほかの肉体と見分けがつかなくなるのだ。陽射しを浴びて汗をかき、オリーブ油で光っているあの肉体も死体と変わるところはない」
 ボードレールにも通ずるこのような肉体観は、カルロス・フエンテスがいかにヨーロッパのそれに影響されていたかを証しているのである。フエンテスが古代メキシコの土着的精神性とのアンビバレンツな葛藤を持っていたとしても、それを強調しすぎるのは間違っているのではないか。

 

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カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(1)

2015年10月27日 | ゴシック論

 ゴシック小説を愛したラテン・アメリカの作家といえば、メキシコのカルロス・フエンテスを挙げないわけにはいかない。フエンテスの長編は『澄みわたる大地』『アルテミオ・クルスの死』『脱皮』『老いぼれグリンゴ』の四作が翻訳されている。
 私は『脱皮』と『アルテミオ・クルスの死』『澄みわたる大地』の三作を読んだが、この人の小説はほとんど意味不明なものが多く、中編の『聖域』を読んだあと、ずっと足踏み状態だった。何が書いてあるのか分からないのである。
『脱皮』も難解で、とりとめのない作品だが、それがゴシック小説の影響のもとに書かれていることくらいは分かった。しかし、よりゴシック的なのは彼の短編作品の方である。短編集『アウラ・純な魂』はゴシック小説の影響と言うよりも、ゴシック小説そのものと言ってもよい。一編ずつ読んでいくことにしよう。
 最初の「チャック・モール」は古い神像にとり殺される男の話で、ストーリーも完全なゴシック仕様となっている。このような話はゴシック小説の専売のようなもので、似たような話はいくらでも探すことが出来る。
 フエンテスというと父親が外交官だったために、南米の主要都市を転々とし、アメリカにも長く住んだことから、メキシコ人としてのアイデンティティーを追い求めた作家と言われることも多く、訳者の木村榮一も同じような視点から「チャック・モール」について書いている。
「相互理解、それも対立する文化の相互理解というのは、民芸品や骨董品、古代の遺物をおっとり優雅に鑑賞するといった類のものではない。相手の文化を認めることが、時には自らがよって立っている文化的基盤を失うことになりかねないのである。その意味では、異文化間の相互理解というのは、人を死ぬか生きるかのぎりぎりの瀬戸際まで追いつめることもある」
 以上のように木村は書いているのだが、このメキシコ古代の雨の神の像が、フィリベルトの生活に介入していって、彼を自殺に追い込んでいくという物語を、こんなにきまじめに読む必要があるのだろうか。
 私としてはこの作品を典型的なゴシック小説として読まざるを得ないし、古代の神像が甦って登場人物を呪い殺すというようなゴシック的結構は、掃いて捨てるほどあるのだから、むしろフエンテスがそこに何を付け加えたかを見た方がいいのではないか。
 チャック・モールはフィリベルトと一緒に生活しながら、次第に現代人の生活に魅力を感じていく。フィリベルトは次のように語る。
「ワインの貯蔵庫から酒がどんどん消えてゆくし、絹のガウンを愛撫するようになった。また、女中を雇うようにうるさく言い、石けんやローションの塗り方を教えてくれと言ったりする。たぶん、チャック・モールは人間的な誘惑に負けそうになっているのだ」
 最後に語り手の私の前に姿を見せるチャック・モールは、ガウンを羽織り、マフラーをし、ローションを塗り、おしろいをはたき、口紅をつけているのである。
 古代神が人間の誘惑に抗しきれずに、現代人の生活スタイルを真似ていくというユーモアをこそそこに読み取るべきだろう。とにかく「チャック・モール」はフエンテスのゴシック小説に対するオマージュであるのだし、フエンテスはそこに奇抜なユーモアを付け加えたのである。
 雨の神によって部屋中が水浸しになったり、水道料金が払えなくなって止められてしまうというような場面に、それほど深刻な問題を読み取る必要はないのではないか。

チャック・モール像

 

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(1995、岩波文庫)木村榮一訳

 

 

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ホセ・ドノソ『この日曜日』(4)

2015年10月27日 | ゴシック論

『この日曜日』についてこれ以上書くことはしないでおくが、この「筑摩世界文学大系83」に鼓直が書いている「ラテン・アメリカの現代文学」という解説が素晴らしいので最後に触れておきたい。
 鼓の解説は1976年に書かれたわけだが、すでに世界的にはラテン・アメリカ文学のブームが終わりを告げていた年代であり、まだ日本ではアルゼンチンのボルヘスの主要作品が翻訳紹介されたにすぎない年代であった。
 それほどに日本のラテン・アメリカ文学の紹介が遅れていたことが分かる。当時の日本ではフランス文学が世界文学の中心の地位を占めていて、フランスのヌーボーロマンのたぐいは多く紹介されていたのに、スペイン語圏の文学に目を向ける人はほとんどいなかった。
 このことは当時の日本人がラテン・アメリカ文学のブームをリアルタイムで体験できなかったことを意味していて、私を含めて大変不幸なことであったと言わなければならない。ヌーボーロマンこそが世界文学の最先端であるというような迷信が長く続いたのだから。
 鼓直が「ボルヘス即ラテン・アメリカ文学と観ずる者がいるのではないかという危惧を抱かされるくらいだ」と、当時の状況を憂慮しているのも無理はない。日本人がほとんどラテン・アメリカ文学について知らない年代に、鼓はこの解説を書いているのだ。
 鼓は1920~30年代の「メキシコ革命小説」に代表される政治主義的な小説から書き始め、1940~50年代のアドルフォ・ビオイ=カサーレス(アルゼンチン)、アレホ・カルペンティエール(キューバ)、ミゲル・アンヘル・アストウリアス(グアテマラ)、カルロス・オネッティ(ウルグアイ)など、「内的独白や意識の流れ、多面的な視点や自由な空間的、時間的な移動などの多彩な前衛的手法を駆使しながら(中略)個人および集団の内面的な意識の深層を作品に定着させる」作家達へと筆を進めていく。
 60年代には、これら先行する作家達にフリオ・コルターサル(アルゼンチン)、ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)、カルロス・フエンテス(メキシコ)、マリオ・バルガス=リョサ(ペルー)、そしてホセ・ドノソ(チリ)などの若い作家達が加わって、ラテン・アメリカ文学の世界は沸騰状態を呈していく。
 鼓直は多くの作家達を主に、もっぱら言語的実験を追求したグループと、そうではなく「飽くまでも物語性を保持しながら、あるいはリアリズムの骨格を強く残しながら、すでに現代文学の共通の資産となった前衛的な技法を自在に駆使して、重層的な世界を築き上げている」作家達のグループに分けている。
 おそらく前者はボルヘスの影響を強く受けた作家達なのであろう。鼓はコルターサル、ギリェルモ・カブレラ=インファンテ(キューバ)、レイナルド・アレナス(キューバ)、マヌエル・プイグ(アルゼンチン)などを挙げている。
 一方後者についてはマルケス、リョサ、フエンテス、ドノソなどを挙げているが、鼓がこちらのグループの方を評価しているのは明白である。後に"魔術的リアリズム"といわれるラテン・アメリカ文学特有の方法を確立したのは後者のグループなのだから。
 この40年前に描かれた解説は、今日でも通用する内容となっている。ほとんどラテン・アメリカ文学が知られていなかった当時の日本で、これだけ全体を見通した解説を書いたことに対して、鼓に敬意を表したいと思う。
(この項おわり)

 

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ホセ・ドノソ『この日曜日』(3)

2015年10月23日 | ゴシック論

 この項の初回に私は「この小説には『別荘』を予感させる部分がたくさんある」と書いた。崩壊に曝されていく屋敷の姿を最後に置いているところは、グラミネア(寺尾隆吉によれば、植物の種名ではなく。穂をつける植物の総称だという)の放つ綿毛に浸食されていく別荘の姿をラストシーンとしている『別荘』と共通するところである。
 綿毛の侵入によって別荘だけでなく、『別荘』の舞台となったマルランダ全体も滅びてしまうことを予感させる『別荘』の終結部は、『この日曜日』のラストのより規模を大きくした再現として読むことも出来る。
 それよりもなによりも、人数は少ないとはいえ「おばあさんの家」に日曜日毎に集まってくるのは、アルバロとチェパの孫達(なぜか娘と娘婿のことはほとんど話題にならない)のいとこ同士なのであり、『別荘』で大人達に置き去りにされるのも33人のいとこ達なのである。
『別荘』ではその33人のいとこ達のあるグループによって「侯爵夫人は五時に外出した」ごっこなるものが行われていて、このゲームが子供達の存在を不可解で不気味なものとしている。そして『この日曜日』でも毎週日曜日に「おばあさんの家」に集まってくる子供達は、「マリオラ・ロンカフォール」ごっこに夢中になるのだ。
 マリオラ・ロンカフォールというのは、子供達が始めた空想ごっこの中から生まれてきた想像上の女性で、それを演じるのは「ぼく」のいとこのマルタである。
「マルタは知りもしないフランス語をしゃべり、まぼろしに恋をし、それを追って、ヨットや飛行機でアフリカにトラ狩りに行き、パリまで踊りに出掛け、みんなに賛えられ、偉大な画家によって肖像画に描かれ、高慢で、とほうもなく華やかであった」
 マリオラ・ロンカフォールの人物像は、明らかにヨーロッパかぶれのチリのブルジョア女性を皮肉ったもので、子供達をこんなゲームに熱中させることで、ドノソはこのゲームを子供達による大人達への批判の道具としているのである。
 それは『別荘』における「侯爵夫人は五時に外出した」ごっこでも同じような意味を持っていたと思うのだが、近日中に『別荘』を再読して確認しておきたい(この言葉がポール・ヴァレリーによる、報告書的な小説の書き出しに対する批判であることはまた別の問題である)。
 こうした不気味な子供達の存在は明らかに、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』におけるマイルズとフローラの兄妹の存在に影響されていると、私は断じてもよい。『ねじの回転』の二人の兄妹は、読み方によっては屋敷に棲みついた幽霊に荷担し、女家庭教師を翻弄する主体であるのだから。マイルズとフローラは大人達に向けられた批判の刃としての性格を持っているのだ。
 そして子供達と大人達の決定的な対立は、『この日曜日』にあっては、スラム街におけるチェパと子供達の闘いにおいて描かれるのだし、『別荘』にあっては全編がそれをこそテーマにしていると読むことが、常識をはずれたことではないのである。
 だから、ドノソほど子供達を不気味で大人びた存在として描いた作家はいないのだし、ドノソにとって子供というものが何を意味しているかということは、ドノソの作品世界を知る上でもっとも重要なテーマではないかと私は思っている。 

 

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ホセ・ドノソ『この日曜日』(2)

2015年10月22日 | ゴシック論

『境界なき土地』で指摘したことだが、最初に伏線を張り巡らせておいて一気に最後まで引っ張っていくような構成力や、『別荘』に見られるようなストーリーテラーとしての圧倒的な力量、そして複数の語る主体を交叉させる複雑な話法は、他の追随を許さないものがあるのではないか。おそらくガルシア=マルケスを除いては……。
 そんなことを『この日曜日』を読んで感じている。また『別荘』で33人の子供達を一人ひとり書き分けるという離れ業に挑戦しているように、人物の個性を際立たせて生きいきと描く力量も傑出している。
『この日曜日』での主要な人物、アルバロとその妻チェパ、アルバロと過去に関係していたビオレータとチェパの庇護を受ける受刑者マヤの人物造形は極めてクリアーであり、それは『境界なき土地』における、マヌエラとハポネサ、パンチョ・ベガについても言えることである。
 基本的にこの小説で描かれているのは、ブルジョア夫婦の偽善とその敗北である。妻に無関心でありながら、妻のすることに口を出さないではいられないアルバロと、夫にはまったく関心を持てず、土曜日曜以外は一日中家を空けて慈善事業に血道をあげているチェパの対立を中心に据えている。
 刑務所の囚人が作った品物の販売会でチェパはマヤに会うが、彼の作る革製品のできばえに驚いたチェパは、彼の人柄にも夢中になり、彼の刑期短縮と出所のために奔走するのである。出所が決まればマヤのために仕事場や住居の面倒までみていく。
 マヤはしかし、チェパの善意の重圧に耐えられず、昔の悪い仲間の所へ戻っていく。マヤはチェパに次のように言い放つ。
「あれだけ赦し、あれだけ助けてくれても、奥さんはおれを信用していないんだ……だからおれは悪いことをする……奥さんがオレを信じてくれないから」
「あなたは恐いんだ。おれが罪人だという考えを断ち切ることができなかった。信頼もしていないのに、どうしておれを刑務所から出したんですか?」
 それでもまだチェパには分からない。彼女はマヤの姿を求めてスラム街に入っていく。そこで子供達の集団にからかわれ、取り囲まれて、こう言われるまで分からないのである。
「わからないの? マヤは正しかったってこと……」
 チェパはそこで気を失い、初めて自分の敗北を知るのである。マヤがもとの世界に戻ってしまったのは彼女自身のせいであったことを。
 この作品にはドノソの世界に特有のゴシック的要素もある。孫達に〈お人形さん〉と呼ばれるアルバロの閉鎖的性格、後半に登場するスラム街の子供達の不気味な行動、そして「おばあさんの家」(アルバロとチェパの家)が、彼らの死によって誰も住む者がいなくなり、廃墟と化していくところなど。
 この小説のラストで孫の一人である「ぼく」は「おばあさんの家」が無人となり、転売され、スラム街の子供達のすみかとなり、崩壊への道を辿っていく様子を語る。この寂寞感は喩えようもないものとして読者に迫ってくるのである。

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ホセ・ドノソ『この日曜日』(1)

2015年10月21日 | ゴシック論

 ホセ・ドノソの作品について続けて書いていくことにしよう。友人から筑摩世界文学大系の83巻、ギマランエス=ローザの『大いなる奥地』とホセ・ドノソの『この日曜日』の巻を借りたので、ドノソだけさっそく読んだ。これで短編アンソロジーに含まれる作品を除いて、日本で翻訳されている作品をすべて読破したことになる。
 筑摩の世界文学大系は1958年から1968年にかけて出されたものと、1971年から1982年にかけてのものと2種類あるが、2回目の方にドノソの『この日曜日』は入っている。全89巻の巨大な文学全集であった。その中にギマラエンス・ローザの作品が、ブラジル現代文学を代表する作品として入っているのはよく分かるような気がする。
 しかしスペイン語圏の現代文学から選ばれているのは、ボルヘスの『伝奇集』とドノソの『この日曜日』の二作だけである。ボルヘスが選ばれているのは、いち早く日本に紹介され高い評価をされていたことからも納得できる。しかし、まだ日本でラテン・アメリカ文学のブームが起きる前の1976年に、名前さえ知られていなかっただろうドノソの作品が選ばれていることは不可解な現象である。
 1967年に出版され世界的なベストセラーになり、日本でも1972年に翻訳された、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が入っていないのに、どうしてなのだろう。多分それは後に『夜のみだらな鳥』を翻訳することになる、鼓直の推薦によるものだったのだろう。
 鼓はこの巻の解説として「ラテン・アメリカの現代小説」という文章を書いていて、1970年に出版された『夜のみだらな鳥』を高く評価し、多くの紙幅を割いている。ということで『大いなる奥地』では一巻に満たないため、『夜のみだらな鳥』を書いたドノソの比較的短い作品が選ばれたのだろう。鼓直の先見の明に敬意を表したい。
『この日曜日』は『境界なき土地』や『ロリア侯爵夫人の失踪』よりもやや長めの中編小説であるが、一気に読ませる。初期の作品で、ドノソの作品としてはおとなしいものであるが、後に書かれることになる作品、特に『別荘』を予感させる部分がたくさんある。
『別荘』と同じように読みやすい。それは『境界なき土地』や『ロリア侯爵夫人の失踪』にも言えることで、迷宮に迷い込んでいくような『夜のみだらな鳥』の晦渋さの方がむしろ例外なのかも知れない。
 だから、ホセ・ドノソの作品に最初に触れるとしたら、『夜のみだらな鳥』は避けた方がいい。いちばん凄い作品は最後に取っておいて、『この日曜日』か『別荘』から入っていくのがいいだろう。
『この日曜日』は筑摩世界文学大系という手に入りにくい本であるし、8ポ3段組という恐ろしく読みづらい体裁になっているので、一時も早い復刊が望まれる。『別荘』の刊行でようやく日本にもドノソのファンが増えてきているので、今がチャンスだろう。

 

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ホセ・ドノソ『境界なき土地』(3)

2015年10月20日 | ゴシック論

 ホセ・ドノソはこの『境界なき土地』について、次のように自己解説を行っている。
「そこに描き出された世界では、あらゆる生物が歪み、普通とされる次元を失っていきます。すべてがほとんど判別不可能な実体となり、道徳的、性的、感情的に正常とされるものの規範が意味を失って、バラバラと崩れ落ちていきます」
 まるで『夜のみだらな鳥』について言っているような文章であるが、『境界なき土地』自体が『夜のみだらな鳥』の中の一挿話から派生してできた小説なのだから、当然といえば当然だろう。
 この小説中、一人称で語るのはカマ親父ことマヌエラであり、その妻であるハポネサであり、ひそかにマヌエラを愛しているパンチョ・ベガである。土地の実力者ドン・アレハンドロや娘のハポネシータが一人称で語ることはない。
 このことはドノソが語りの主体を、性的倒錯者に限定していることを意味している。妻のハポネサは小説の現在においてはすでに死んでいるのだが、マヌエラの回想の中に登場して一人称で語り始める場面がある。
ハポネサとマヌエラの出会いの場面である。マヌエラと寝ることが出来たら店をくれてやるというドン・アレハンドロの賭けに応えて、ハポネサがマヌエラをベッドに誘う場面は、女と男ではない男との情交を描いて極めて美しい。勿論店をもらえるという打算はあるが、ハポネサはマヌエラを愛し始めるのである。男ではない男を愛する女は性的倒錯者に他ならない。
 またパンチョ・ベガはアウトローであると同時に、女であるハポネシータではなく、女ではない女マヌエラを愛する性的倒錯者である。そしてマヌエラがそうであることは言うまでもないことだ。
 つまりドノソは性的異常者の視点からこの小説を書いているのであって、それは性的異常者に対する共感の表れに他ならない。ハポネサとマヌエラの情交の場面はこの作家には珍しいほどに情感に溢れているし、最後にマヌエラがパンチョ・ベガの暴行を受け、ドン・アレハンドロの犬達に喰い殺されるであろうことを予感させる部分にも実感が込められている。
 パンチョ・ベガはマヌエラに嫌われているし、彼に暴行を加えるのだが、それもマヌエラに対する愛情を悟られたくないという行き違いによるものであり、ドン・アレハンドロに対する強い反抗心によって、一人称で語ることを許されているのである。
 だから、ドン・アレハンドロがいかにハポネサやマヌエラの尊敬を集めていようが、表面的には善良な姿勢を見せようが、「意味を失った正常とされるものの規範」であるに過ぎない。ドン・アレハンドロの四匹の犬は彼の凶暴性の象徴なのである。
 ドン・アレハンドロのような偽善的な成功者を、ドノソの友人、メキシコのカルロス・フェンテスは、その『アルテミオ・クルスの死』で描いている。フェンテスはアルテミオ・クルスの裏切りと不正に満ちた人生を、クルス自身の視点からも描いているが、ホセ・ドノソは間違ってもそんなことはしないだろう。
ドノソは「正常とされるものの規範」を持たない、あるいは持つことの出来ない作家であった。それは代表作『夜のみだらな鳥』と『別荘』を読めばよく分かることである。
(この項おわり)

カルロス・フェンテス『アルテミオ・クルスの死』(1985,新潮社)木村榮一訳

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ホセ・ドノソ『境界なき土地』(2)

2015年10月18日 | ゴシック論

 この小説は、チリの田舎町エスタシオン・エル・オリーボのある娼家で、娘のハポネシータとひとつのベッドで寝ている、マヌエラが目を覚ます場面から始まる。
 読者はこの親子を、まず母と娘と認識しないわけにはいかない。小説は三人称の語りとマヌエラの独白が複雑に絡み合ったまま進行していくが、マヌエラの独白は女言葉で訳されているし、「娘に朝食を出すまでまだゆうに三十分はある」というような部分を読めば、誰もがマヌエラを母親だと思い込むだろう。
 ところが翻訳で23頁に「あれでも一応はハポネシータの父親だぞ、と言って彼をからかう者もいたが……」という一節が出てきて、読者はマヌエラが母親ではなく、父親であることに気づかされる。一瞬、訳者がとんでもない間違いを犯しているのではないかとさえ思わされる部分である。
 しかし、ちゃんと12頁に「ハポネシータもあのカマ親父も、思い知らせてやるぜ……」という科白があって、読者は自らの注意力の不足に気づくのである。
 日本の読者はそう読んでしまうだろうが、スペイン語圏の読者はどう読むのだろうか。マヌエラという名前は男性の名前なのだろうか。ところがスペイン語でManuela はManuelの女性形であって、マヌエルが男性の名前なのである。このカマ親父は名前も女性の名前にしているのだ。
 つまりこの仕掛けは、スペイン語圏の読者に対してももともと施されているのであって、ドノソの『境界なき土地』を原語で読む読者も、我々と同じ勘違いを避けられないのである。おカマ小説の出だしとして大変よくできていると言えるだろう。
 またもうひとつ驚かされるのは、全部で11章あるこの小説で、ほとんど2章の半ばくらいまでで、結末に効いてくる伏線をすべて張り終えているところである。重要な登場人物がすべて紹介され、それら登場人物たちの性格や社会的地位まで決定され、結末で重要な役割を果たすことになる犬も登場させている。
 しかも、それがほとんどマヌエラの独白の中で行われているということ、そのことに注目しないわけにはいかない。娘のハポネシータはマヌエラによって次のように紹介される。
「あんなにガリガリじゃ、とても娼婦なんか務まらない。でも、店主としては立派だし、確かに商才はある。几帳面で、無駄遣いもしない。毎週月曜日の朝、汽車でタルカへ出向いては、稼ぎを銀行に預金している」
 このようなハポネシータの守銭奴のような性格(父娘がひとつのベッドで寝ているのもそのため)と豊満という女の魅力の欠如も、小説の後半で生きてくる。
 また、マヌエラが怖れているパンチョ・ベガ(以前現れた時にマヌエラお気に入りのスペイン風の赤いドレスをズタズタにした男)に対する、嫌悪や恐怖の感情も十二分に語られている。
 用意周到なのは、町を支配する実力者ドン・アレハンドロ・クルスに対する尊敬の気持ちと、その気持ちを裏切ることになる彼の四匹の黒犬の獰猛さも、導入部できちんと描いていることである。
 マヌエラは四匹の犬を連れたドン・アレハンドロに街角で出会うが、マヌエラは犬に対する恐怖を隠さない。
「あらまあ、ドン・アレホ、犬を連れてこんなところを歩かなくても。イヤだ、怖いわ、ちゃんと抑えてください」
「こんな怖い犬を連れて歩くのは法律で禁止すべきです」
 この二つの科白だけで、犬にまつわるラストシーンの伏線とするに十分である。

 

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ホセ・ドノソ『境界なき土地』(1)

2015年10月16日 | ゴシック論

 久しぶりにホセ・ドノソの『境界なき土地』を読み返した。短い作品なので『夜のみだらな鳥』のような超弩級の重量感はないが、傑作であることは間違いない。今回の読後感は一言で言えば「しみじみと感動した」というところだろうか。
「境界なき土地」とはなにか? それはエピグラフにはっきりと示されている。ドノソの小説ではエピグラフがかなり重要な意味を持っているので、そっくり引用しておく。

 ファウスト まずは地獄についてお聞かせ願おう。
  人間たちが地獄と呼ぶ場所はどこにあるのだ?
 メフィストフェレス 空の下だ。
 ファウスト それはそうだろうが、場所はどこなのだ?
 メフィストフェレス 様々な要素の内側だ。
  我らが拷問を受けながら永久にとどまる場所。
  地獄に境界はないし、一カ所とはかぎらない。
  地獄とは今我らが立つこの場所であり、
  この地獄の地に、我らは永久に住み続けることになるのだ。
                                                     マーロウ『ファウスト博士』
 
マーロウとは、イギリスエリザベス朝時代の劇作家クリストファー・マーロウのこと。『ファウスト博士』は、日本では英語読みで『フォースタス博士』として知られる戯曲である。
「境界なき土地」とは「地獄」のことなのであり、地獄とは我々が生きている現世そのものだとメフィストフェレスは言うのである。またそれが空間的な場所に止まらないことは、それが「様々な要素の内側」にある、という言葉によって明らかである。
 このエピグラフは『夜のみだらな鳥』に掲げられた、父ヘンリー・ジェイムズの息子たちへの手紙の一節とほとんど同じ思想を語っている。前にも取り上げたが、こちらももう一度引用する。

「分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始める。人生は道化芝居ではない。お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者の根が達している本質的な空乏という、いとも深い悲劇の地の底から花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生得受け継いでいる貨財は、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」


 父ヘンリー・ジェイムズの言う「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」そのものである人生と、マーロウの言う"地獄=境界なき土地"は通底しているし、父ヘンリー・ジェイムズが定義するところの"人生=それを生きる者の根が達している本質的な空乏という、いとも深い悲劇の地の底"こそが地獄だと言ってもよい。
 これら二つのエピグラフはホセ・ドノソ自身の世界観を代弁するものであり、『境界なき土地』も『夜のみだらな鳥』もこのような世界観をもって書かれているのだということを、しっかりと認識しておく必要がある。
『境界なき土地』は1966年に発行されていて、1970年の『夜のみだらな鳥』に先行しているが、『夜のみだらな鳥』を書きあぐねていたドノソが、「原稿用紙の裏に書いた」と言われている作品で、『夜のみだらな鳥』執筆中に書かれた作品なのである。
  

ホセ・ドノソ『境界なき土地』(2013,水声社)寺尾隆吉訳

 

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ブラウリオ・アレナス『パースの城』(2)

2015年10月15日 | ゴシック論

 この小説が、すべてはダゴベルトの夢の中の出来事であることを、いたるところで仄めかしていることは、ゴシック小説の流れの中で考えた時に、やはり現代的だなと思わせる部分ではある。
 ゴシック小説はもともと、物語の信憑性を保証するために、古い記録が奇跡的に残されていて、そこに書かれていることだという主張や、信用のおける友人が話したことだというような主張を前提としている。『パースの城』もまた、夢から覚めたダゴベルトが語っているという前提に基づいている。
 しかし、すべてが夢だということが最初から明らかになっているということは、その物語が真実ではないということを示しているのであって、ゴシック小説の伝統に抵触するやり方だと言うことも出来る。
「このお話は作り事ではない」と言明することは、読者に対する詐欺行為であるが、それを承知で読者が虚構の物語を読んでいくという暗黙の了解が失われた現代にあって、「このお話は夢の中の出来事だ」と最初から言っておくことは、ある意味でフェアな行為であるとは言える。
 しかし、そこにリアリティーが存在しないならば、その小説は夢の物語としても失敗作だと言わなければならない。『パースの城』にはゴシック小説特有のご都合主義的ストーリーが溢れているが、そのことだけを言い立てたいのではない。
 少なくともルイス・キャロルの作品には、夢の物語としての圧倒的な衝迫力があって、読者はだからこそ『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』に感銘を受けるのであるし、古典としての価値が揺るぎないものとなるのである。
 フランツ・カフカの作品にしても、それがいかにあり得ない話であろうとも、そこに夢の持つ衝迫力があるということ、そのことが彼の作品をいつまでも読む価値あるものとしているということを言わなければならない。
"小説的リアリティー"ということを私は言いたいのだが、それは決して現実を描いたリアリズム小説であることを前提としない。リアリズム小説が小説的リアリティーを欠いていることだってあり得る。夢の物語であろうが、幻想小説であろうが、そこに小説的リアリティーがなければ、その作品を評価することは出来ない。
 だから私はブラウリオ・アレナスの『パースの城』をまったく評価することが出来ない。夢の話であろうが作り事であろうがかまわないのだが、そこに小説的リアリティーがまったく欠けているからである。
 たとえば我々はホセ・ドノソの『別荘』を思い出すことが出来る。『別荘』では、ところどころに作者が顔を出して、この小説がまったくの虚構であることを明言する。しかしそんなことにはお構いなしに、読者は『別荘』という虚構の世界に引きずり込まれていく。
『別荘』は『パースの城』以上にあり得ない話に満ちている。親たちがたった一日ピクニックに出掛けた間に、残された子供達の世界ではまるまる一年が経過しているというところ、あるいは10歳にもならない少年が、いきなり哲学的な弁舌を振るうところ等々、いくらでも挙げることが出来る。
 しかし、それでも『別荘』は大傑作である。そこに"小説的リアリティー"が思い切り充填されているからである。作者が虚構を明言しているのは、言い訳でもなければ逃げでもない。それは読者への挑戦でさえあるのだ。
 同じチリの作家でほぼ同年代の作家とはいえ、アレナスはドノソと比較できるような作家ではない。
(この項おわり)

 

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