玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(13)

2024年02月15日 | ラテン・アメリカ文学

 ここでレサマ=リマは、「タミエラ」という単語の言語的多面体としての機能について、美しくも危うい直喩と隠喩によって語りつくしている。「タミエラ」は「川の水に濡れた草の間をなめらかに這っていくヘビのように」見える、というのは、言語的多面体が意識の光源を反射して、様々な色彩に輝く姿を捉えているし、言語的多面体が「通り抜けたあと」では、周辺の単語たちがその反射熱によって「燃えあがりはじめ」るが、その時には言語的多面体としての「タミエラ」という単語は、炎を見つめながらじっとしているのだという風に読める。
 直喩として持ち出されたヘビが、いつしか隠喩としてのヘビにすり替わり、直喩は単純な放物線を描いてすぐに着地するのではなく、隠喩の作用によって重力の軛をしばらく逃れた後、「ずっと身をかがめたルビー色の山猫のように」という、新たな直喩を起動しつつ、美しい放物線を描いて着地するのである。
 レサマ=リマのこの文章から、彼が隠喩というものをどう捉えていたかが理解されてくるだろう。「ヘビのように見え、それがゆっくりと通り抜けたあと」の部分で、直喩から隠喩への移行がすでに行われている。「通過したところの落ち葉」は隠喩をさらに次の段階へと移行させ、「パチパチと燃えあがりはじめ」の部分は、ヘビという直喩に導き出されながらも、さらに違った次元へと上昇を見せる。レサマ=リマによる比喩表現の修辞学の典型のように美しい文章であり、このような直喩と隠喩の組み合わせによって実現された美しい表現は、『パラディーソ』という作品の中には無数に存在しているのである。
 では、ヘビが通過した後に燃え上がる落葉=「タミエラ」の背後にふたたび隠されてしまったいくつもの単語は、どのような姿を見せるのだろうか。先の引用に続く部分をさらに引用してみよう。

「タミエラの背後にふたたび隠れてしまったいくつもの単語は、いくつもの新たなきらめきに分割されていた。だから、それはたとえば、性格的な「慎重さ」、 思慮深さの持ち主で あることと、危険がある際に向かうべき「保留地」のことの両方に言及しているのだった。「穀物倉庫」と「屋根裏窓」は、誰かが穀物倉庫に住みついたとたんに同じもののことになるのだった、というのも、収穫物の集積と、自分の貝殻をまだ見つけていない個人性の不調にかかわってくるからだ。「沈殿物」と「堆積物」は、その類似性、その重量あるいは その油性の根本原理によって??それによってその対象は大地の地獄的な中心を探し求めていくわけだが??保管されている対象を、重力の隠れた法則が踏みつけていったとたんに同一物になるのだった。」

 つまり「タミエラ」の周辺にある単語たちもまた、「タミエラ」の言語的多面体の反射作用によって多面体化され、いくつもの意味を発散させながら、そこに隠された同一性を結晶化させていくのである。隠喩はレサマ=リマのこの一節によれば、二つの別々の単語もそれらの「類似性」や「重量の根本原理」によって同一化される、という風に理解される。しかしその「類似性」は万人に開示された「類似性」ではなく、〝隠された〟類似性でなければならない。そしてそれを見出すのが詩人の使命なのである。この原理はシャルル・ボードレールの「万物照応」(Corespondance)の原理にも通じているし、人類学でいう類間呪術の原理にも通じている。つまり隠喩とは隠された類似性による、単語と単語の結びつき、あるいは同一化の作用のことなのだ。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(12)

2024年02月14日 | ラテン・アメリカ文学

 とにかくこの二人のペダンティスムは互いによく似ている。と言うか、博物学に関する部分では、レサマ=リマがデュカスの影響下に書いていることが明らかに示されている。アルベルト伯父の手紙は、それがデュカスの影響を受けていることを宣言するに等しいもので、それを明示するために書かれているのだから、当然とも言える。しかし、他にも『パラディーソ』には『マルドロールの歌』の博物学的ペダンティスムを意識して書かれていると思われる部分がたくさんある。たとえば第9章でのフロネーシスの長い議論の中から拾ってみるとすれば、次のような一節にその典型を見ることができる。

「木によじのぼる魚のひとつ、アナバス・スカンデンス〔キノポリウオ〕は、海岸線から百メートルも離れたところで、海洋ヨードによって肺の?が最大限にふくらんでいる状態で目撃されている。木に登る海牛とも言うべきこうしたスカンデンスの仲間には、口づけ魚と呼ばれている種類があって、それの面白いのは、円形の口をもう一匹の口にぴったりくっつける習性があるところだ。まったく愛の優美とは無関係に。」

 ここで「キノボリウオ」が学名で示されていることに注目しよう。前に紹介したように動物の名前は『パラディーソ』に頻出するが、学名で登場するのは多分ここ一箇所だけである。翻訳の問題が絡んでいるのではと言われるかもしれないが、ここだけ学名の後に〔キノボリウオ〕と訳者の注がついていることから、他の動物名で学名で出てくるものは、ここより他にないと思われる。
 面白いことに、『マルドロールの歌』でも、昆虫名が学名で出てくるところが一箇所だけある。第4歌にその部分はある。

「また茂みの背後に身を隠し、巣から頭しか外に見せないカミキリムシの一種、アカントフォルス・セラティコルニスよろしく、じっとしていた。女たちは潮が満ちるような速さで近づいてきた。地面に耳をつけてみると、はっきり足音が聞こえ、彼女たちの足取りが叙情的に揺れている様子が伝わってくる。」

『マルドロールの歌』には、観たことも聞いたこともないような動物名が頻出するが、特に学名の出現には、ペダンティスムのもたらす積極的な効果があると思われる。『マルドロールの歌』の世界が通常の日常世界ではなく、そこから遠く離れたところにあるという認識を読者の与える効果である。シュルレアリスムの用語で言えば、〝デペイズマン〟ということになろうか。
『マルドロールの歌』では、マルドロールが次から次へと様々な動物に変身していく場面が続いていくが、これは動物名を渡り歩く、博物学的逍遥とでも呼ぶべきものであり、動物名そのものが次々とデペイズマンの効果を持続させていくのである。ものの名または単語の持つイメージ喚起力は、読者を現実の世界から拉致し去って、はるか遠くの世界に連れていく。『パラディーソ』でセミーが、そのような単語の力に目覚める場面があり、それは次のように感動的に書かれている。

「ある日セミーは、コプト語の単語「タミエラ」を撫でまわしていた。これはわれわれの言語では、大きく異なった意味を持つさまざまな単語に分解されるものなのだ。複数の母音 のさえずりと、Lのよろこばしい口蓋音が流れるのだった。 タミエラ、それは彼には、笛(フラウタ)、沈黙(シレンシオ)、賢人(サビオ)、口唇的(ラビアル)、皮膚(ピエル)のように聞こえたのだった。しかし、今回、この言語的多面体は、地獄の根そのものを形成していた。多数の重なりあった鱗が、この泳ぐ言語的身体のきらめきを作っていた。タミエラが意味するのは、同時に、保留=慎重さ(レセルバ)、穀物倉庫、屋根裏窓、沈殿物、堆積物、宝物、便所、事務所、居室、住居、これらのすべてだった。この単語と初めて出会った夜には、それは彼には川の水に濡れた草の間をなめらかに這っていくヘビのように見え、それがゆっくりと通り抜けたあと、通過したところの落ち葉がパチパチと燃えあがりはじめ、その晩の残りをヘビはずっと身をかがめたルビー色の山猫のようにじっとしていたのだった。」

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(11)

2024年02月13日 | ラテン・アメリカ文学

 一方私が常に比較対象にしてきたイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』における衒学的要素はどの様なものなのか。デュカスには当然、レサマ=リマのような歴史や哲学、文学、美術、音楽などの広範な領域におけるペダンティスムは存在しない。それはデュカスが『マルドロールの歌』を書いたのが20歳そこそこだったのに対して、レサマ=リマの『パラディーソ』は十数年かけて書かれ、1966年に出版されたもので、その時彼はすでに56歳になっていたのだから、それまでに蓄積した膨大な知識を惜しげもなく投入できたのである。
 しかしデュカスには、博物学的な知識があり、特に動物についての博識ぶりには目を瞠るものがある。そして、そうした知識は『マルドロールの歌』において、鮮烈な直喩表現に活かされている。第5歌からいくつか引用する。

「いつも飢えているかのように落ち着きのない鳥であるトウゾクカモメが、南北両極を浸す海洋地帯を好み、温帯には偶然やってくるにすぎないのと同じく、私もやはり平静ではいられず、ひどくゆっくりと脚を進めていたからだ。だが、私の行く手にあるあの人体のような物質は、いったい何なのか? ペリカン科の仲間には相異なる四つの種族が含まれることを、私は知っていた。カツオドリ、ペリカン、鵜、それに軍艦鳥だ。姿を現した灰色っぽい形状は、カツオドリではなかつた。垣間見える変形自在の塊は、軍艦鳥ではなかつた。私が 見つめている結晶化した肉は、鵜ではなかつた。」

「成長への傾向が組織体の取りこむ分子量には比列していない成人における胸部の発育停止の法則のように美しい子羊禿鷹は、大気の高層部へと消えてしまった。ペリカンはといえば、その寛大な赦しは当然のものとは思えなかったので大いに私を感動させたのだったが、まるで人類という航海者たちに、自分という実例に注意を払い、陰鬱な魔女たちの愛からおのれの運命を守りたまえと警告するかのように、丘の上で灯台のようにおごそかな冷静さを取り戻し、相変わらず前方を見つめていた。」

 実はレサマ=リマの博物学的ペダンティスムもまた、いくつかの例によって実証されるのである。それはあのアルベルト伯父の手紙の文章において露骨に示されている。たとえば、

「癒顎目(ゆがくもく)という戦士の部族は、顎に兜が打ちつけてあり、卜ールの槌をもって戦闘に向かう。〈盗賊魚〉(ガラファテ)は海のティレシアス、おどけ者、釣り針の悲劇的な意味を愚弄して、いたずら者、針だけを王様たちのために残して、自らの零の中で燐をめらめらと燃やしながら深みの底へと眠りにもどっていく。 盗賊魚の近くには針千本、棘のかたまりだが、棍棒の扱いは下手、ずる賢い神学者で、生まれながら抜け目がない。一方は針に食いつかず、他方は舳先に詐術で対抗する。」

 博物学の知識に歴史の知識が混入して、複雑なペダンティスムの味を感じさせる部分もある。

「栄光に満ちた硬鱗類は苦痛の王。ピナ?ル・デル・リオの黄昏には緑色の糸くず。シエナの地には原始の魚マンフアリー〔硬鱗類に属するキューバの淡水魚、尖った嘴がある〕、その脊椎はバウハウスの工房で研究された。尻鰭の使用に断固反対する男根魚。彼は陸に横たわり、最期の苦しみのうちに身を伸ばし、身を伸ばすことで死を勝ち取る、まるでイッポリト・デ・エステ〔十五世紀のイタリアの貴族、幼少時から教会の要職を歴任した〕の階梯を昇るかのように。信念は死して地下の出口へ、竜巻は死して始原の渾沌へ。」(〔〕内は訳者注)

 博物学単体での知識のイメージへの転用の面では、デュカスの方が刺激的かもしれないが、博物学に他の領域が混入した知識のイメージへの転用という点では、レサマ=リマの方が(アルベルト伯父の方が)鮮烈さの点で優っているように思う。
 奇態な、名前も聞いたこともないような動物たちがもたらすイメージ喚起力は、彼らのペダンティスムと不即不離の関係にあり、それを必ずしも否定的に捉えて指弾することはできないだろう。イジドール・デュカスがもっと長生きしていたら、レサマ=リマのように様々な領域に衒学の幅を広げていたかもしれないのである。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(10)

2024年02月12日 | ラテン・アメリカ文学

 うっかりしていたが、隠喩について考える前に、もう少し直喩のあり方について触れておくべきことがあった。たとえば、主人公ホセの父ホセ・エウヘニオが若い時に祖母のムンダから、彼の進むべき進路についてアドヴァイスを受ける場面で、レサマ=リマはムンダばあさんの尊大さを次のような直喩で表現している。

「老母は反駁しようのない尊大な様子で頭をもち上げたが、それはまるで、ロシアの女帝エ カテリーナが重農主義者の陳情団を迎えて、最初は儀式ばった峻厳さの中に思いやりをにじませておきながら、じきに情け容赦なく、侮蔑的に、冷酷になって、その日の晩のうちにもう帰るようにと、代表団の笑劇的な退散のための橇を用意しようとしているみたいな感じだった。」

 このような歴史に関する蘊蓄を感じさせる直喩、しかもなかなか着地することなく、歴史上の出来事についての知識を開陳しながら、長い放物線を描いていく直喩表現は『パラディーソ』の中にはいたるところに出てくる。歴史上の人物や出来事だけでなく、ギリシャ神話の神々の業績やギリシャの哲人たちの発言、あるいは文学、美術、音楽などあらゆる分野のテクストを踏まえた直喩表現は、時に〝衒学的〟と言いたくなるほどの執拗さで繰り返される。
 このようなレサマ=リマの衒学趣味は、第8章以降にセミーの友人として登場する、フロネーシスとフォシオンの二人が繰り広げるぺダンティックな果てしない議論で頂点に達する。フロネーシスは大学生活で出逢ったばかりのセミーにいきなり、次のようなフォシオンとの議論を聴かせるのである。フロネーシスとフォシオンの議論は限りなく長く、無作為に引用してもそのサンプルとすることができるだろう。

「すでに性的器官の話はした。また、フロイトが通常の性的表現の媒体に、口と肛門??ラブレーの同時代人たちがあの黒い穴ぼこと呼んでいたものだ??をつけくわえることで、その数をふやしたことも話した。一部の人がフロイトによる拡大として評価しているこれも、キリストの七千年前のものと目されるマヌ法典と比べてみれば、根底においてはむしろ制限なのだ。」

 ここは直接に直喩に関わる部分ではないが、二人の友人、そしてセミーも含めた三人のあいだで闘わされる議論ではない場面でも、レサマ=リマのペダンティスムは旺盛であり、それは直喩表現だけではなく隠喩表現としても展開される。
 ここで我々は、アルベルト伯父の手紙に美質について、デメトリオがセミーに語って聞かせる言葉を思い出しておかなければならない。「馬鹿にしたような、衒学的な外見の下に心の優しさが隠れていて」という部分がそれである。デメトリオはこの部分で「君の伯父さんと一緒に勉強していたころのことを」思い出して「泣かされた」と言うのであり、青年時代の学問に対する熾烈な欲求と、それが果たされた時の悦びについてデメトリオは語っているのだ。
 それがアルベルト伯父の文章の美質だと、デメトリオが言っているのだとすれば、彼はここで『パラディーソ』全体のペダンティスムに対して、先回りして免責を与えているのであり、それはレサマ=リマが自らのペダンティスムに対して前もって免責を与えていることに等しいのである。

 

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