玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

E・T・A・ホフマン『ブラムビルラ王女』(4)

2015年05月27日 | ゴシック論
『ブラムビルラ王女』には他にもフモールと思想ということについてのたくさんの議論が含まれていて、作品は一種寓話的なメルヒェンのおもむきを呈している。
 ボードレールがこの作品を「美学の教理問答書」と呼んだ理由がそこにある。フモールを優先させるならば、フモールに導かれた直観が思想を壊す、それが自我の分裂を回避させる有効な回路である。
 しかし思想そのものを全面的に否定することはできない。「家来として服従するもの」としての思想をフモールは従えなければならない、ということになろうか。
 ボードレールは人間というものの二重性に深くとらわれた詩人であった。それも極めて自覚的に。だからボードレールは次のように言うことができた。「芸術家というのは、二重性があって、しかも自らの二重性のいかなる現象をも知らないことがないという条件においてのみ芸儒家となる」と。
 ホフマンもまた、霊肉二元論というヨーロッパ的観念の下で、人間というものの二重性に、あるいは芸術家というものの二重性に深くとらわれた作家であった。『悪魔の霊酒』のメダルドゥス贖罪の場面で印象的な部分がある。悪魔の声を聞いた後で、メダルドゥスが次のように言う場面である。
「こんなことを喋っているのは、なんと、わたしじしんである。が、しかし、わたしじしんが自分の死んだ自己から切り離されていると感じたとたんに、わたしというものが私の自我の実体のない想念にしかすぎないと気がつくのであった」
『悪魔の霊酒』でホフマンは、ゴシック的文脈で分身を扱い、霊肉二元論と格闘している様に見える。『ブラムビルラ王女』はその5年後に書かれた作品で、霊肉二元論に対して、フモールという解答を与えているように思われはするが、しかし、『悪魔の霊酒』における分身のテーマはそれでも重い。フモールという解答だけですむとは思えないのである。
いつか再度この問題について深く考えてみたいと思っている。
(この項おわり)
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E・T・A・ホフマン『ブラムビルラ王女』(3)

2015年05月25日 | ゴシック論
 同様な病気にかかっていたのが『悪魔の霊酒』におけるメダルドゥスであっただろう。彼は分身と“互いちがいにものを考えていたから”自分が行ったことが本当に自分が行ったことなのかどうか分からなくなるのである。
 意識をすら共有する分身の究極の姿をホフマンは“慢性二元論”と呼んでいるのである。このような分身あり方を創造したのは数ある分身小説を書いた多くの作家の中でも、ホフマンただ一人と言っていいだろう。
 ところでホフマンのイリュージョンは読者にまで波及する。呼んでいる我々自身がどちらがジルリオでどちらがコルネリアなのか、あるいはどちらがブラムビルラ王女でどちらがジアチンタであるのか判然としなくなるように仕掛けられている。
 カロの描く二人の道化師の決闘場面のように、両者が入り乱れているうちに、どちらがどちらなのか分からなくなってしまう。この作品をホフマン自身が“狂想曲”と呼んでいる所以である。
 ウルダル国に水晶のプリズムから流れ出て透明に輝く湖があり、この水面の鏡はホフマンの言う“フモール”(ドイツ語でHumor、英語でhumour)の象徴であるとされる。この水面の鏡が最後は分身を雲散霧消させることになるのだ。
 コルネリオ・キアッペリ王子とブラムビルラ王女が二人で湖水をのぞき込む時「はじめてふたりは互いに自分自身を識りそめる」のである。そればかりでなく、この二人はあろうことかジルリオとジアチンタに一体化するのである。ジルリオとジアチンタこそが「あのすばらしい澄んだウルダルの湖水をのぞきこんで、自分のことを識っ」たというのである。
 分身を解消するのは“フモール”そのものである。だからウルダル庭園国の物語の中で、魔法使いヘルモートは次のように述べるのである。
「思想が直観をぶちこわすのだ。そして、人間は母なるものの胸からもぎはなされ、迷いの妄想にとりつかれ、なにひとつほんとうに感じとることもできず、故郷をうしなってさまよっているものだが、やがていつかは、思想独自の映像が思想みずからに思想は存在する、思想は母なる女王が開けてみせてくれる深くて豊かな穴の中で支配者として号令するものだ、という認識を与えることになるが、思想はやはり家来として服従するものでなければならぬぞ」

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E・T・A・ホフマン『ブラムビルラ王女』(2)

2015年05月21日 | ゴシック論
『ブラムビルラ王女』はカロ風に味付けされたメールヒェンとも言える作品であり、その“カロ風”という要素が“狂想曲”(カプリッチョ)にまで昂じていることで、最もホフマンらしい作品の一つとなっている。
 この作品にはジャック・カロがコンメディア・デラルテの道化師達を描いた版画を模写したもの八葉が添えられているが、ホフマンは八葉のカロの作品から着想を膨らませていったことが、読んでいくと分かってくる。ホフマンもまた絵画を模倣しているのだと言ってもよい。



『ブランビルラ王女』には二組の分身(ダブルではなくトリプルの分身かも知れない)が登場する。ブランビルラ王女と着飾ると王女にそっくりなお針娘ジアチンタ、そして王女が恋するコルネリア・キアッペリ王子と本作品の主人公である悲劇役者ジルリオ・ファーヴァ。更に入れ子式に挿入されるウルダム庭園国の物語に登場するオフィオーク王とリリス王妃を含めると、三重の分身ということになる。
物語はまるでカロの版画の世界のようにおどけた人物達が入り混じって、熱に浮かされたように進行する。ほとんど狂気じみた物語であって、『悪魔の霊酒』のリアリズムは微塵もない。
 最も重要なテーマはもちろん“分身”である。ジルリオは“慢性二元論”という病気にかかっている。この慢性二元論という病気は「自分固有の自我が自分自身と分裂をおこし、それで自分の人格がもはやそれにはしがみつくことができなくなる、あの異様な痴愚のこと」と解釈されるが、しかしそれでも正確ではない。
 この病気については重要な登場人物チェリオナティがシャム双生児の王の例を持ち出して正確に定義する。つまり
「このふたりは互いちがいにものを考えていたから、いずれも自分の考えたことがはたして現実に自分自身で考えたものであるか、それとも双子のもう一方が考えたものか、かつてまともにわかったためしがなかった」
という風な病気こそがジルリオの“慢性二元論”なのである。
 主人公ジルリオはそのような病気にかかっている。だからジルリオは、自分がコルネリア王子だと思い込むこともあるし、終始自分の考えていることを自分自身で把握することができないのである。
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E・T・A・ホフマン『ブラムビルラ王女』(1)

2015年05月20日 | ゴシック論
 先にホフマンの『悪魔の霊酒』を取り上げた時に、最後に“分身”の問題に触れた。分身というものがヨーロッパの宗教的世界観が作り上げてきた“霊肉二元論”に起因するという問題提起を行った。
 ところで私は若い時に買って読んだ創土社版の「ホフマン全集」全10巻のうち、第7巻、8巻、9巻を所有している。第9巻の「最期の物語集」の中に『分身』というそのものずばりのタイトルを持った作品があることを発見した。『悪魔の霊酒』と同じ1815年の作品である。
 普通“分身”と訳されるドイツ語はDoppelgängerで、ホフマンの『分身』の原題はDoppeltgänger、“t”がよけいに付いている。Doppelgängerは“二重の自我” Doppeltgängerは“二番目の自我”と訳すことができるそうで、そう大きな違いはあるまい。英語で言うdoubleとsecondの違いだろうか。
 ホフマンの『分身』は一人の女性ナターリエをめぐる、デオダートゥス・シュヴェンディとジョルシュ・ハーバーラントという分身同士の物語である。『悪魔の霊酒』に比べたらストーリーは単純で荒唐無稽であるが、むしろこの方がホフマンらしい作品で、ドイツ・ロマン派でいうメールヒェン的な作品と言える。
 そんな作品の中にもホフマンは分身を登場させているわけで、やはり分身のテーマはホフマンにとって重要な意味を持っていたことが理解される。ただし、この分身には超自然的要素は存在しない。二人は最後に領主とその側近の子で、取り違えられたうり二つの子供同士であったことが明かされる。
 それよりもデオダートゥスがいつでもジョルシュに間違えられるため、自我喪失の恐怖に襲われ続けるところが興味深い。ナターリエに対してデオダートゥスは「きみはぼくの自我が在ることを信じてくれるかい、そうでないと君の眼の前で死にとりつかれてしまうのだ!(中略)ぼくじしんぼくの自我そのものであって、それ以外のなにものでもないのだ」と叫ぶ。分裂の恐怖にあらがう叫びである。
 さてもう一編、第8巻に収められている『ブラムビルラ王女』という、ボードレールが「美学の教理問答書」(カテシスムcatechism)とまで賞賛したホフマンにとって重要な作品もまた、分身をテーマにした物語なのである。こちらは1820年の作品である。
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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(14)

2015年05月19日 | ゴシック論
 バークは『崇高と美の観念の起原』を第五編の言語についての考察で締めくくっている。言語はいかにして崇高の観念を呼び起こすかがテーマであるが、その前提となるのは「詩歌は厳密には模倣的芸術ではない」という考え方である。
 例えば絵画は模倣によって自然界の対象物を、我々にとって刺激的なものにすることができる。一方言語はいかなる映像をも生み出すことなしに作用することができるし、観念に先立ってさえ機能する。
 絵画は自然界の中に客観的等価物を持つことができるが、言語はそうではないということについて、バークは次のように書いている。
「模倣ということは或る事物が他の或る事物と似通う限りでのみ成立するのであってそれ以外の領域では模倣はあり得ぬ道理であるが、言葉は疑いもなくそれが意味する観念との如何なる相似も持たないのである」
 これが18世紀の人間の言葉であることに驚きを禁じ得ない。言語と観念の間にはいかなる相似関係もない。この言葉から我々は、ソシュールの「意味するものと意味されるものとの恣意的関係」ということを想起することも可能である。
 つまり、言語と観念は相似関係において結びついているのではないのであるから、そこには模倣ということはあり得ない。絵画が自然的事象を模倣して成立するというようなことは、言語においてはあり得ない。だからこそ「詩歌は模倣的芸術ではない」ということになる。
 確かに言語は日常会話においても、書かれたものを読む場面においても、いかなる映像をも喚起せずして機能するし、いかなる観念をも再現することなしに機能もするのである。言語は客観的等価物を持たない。言語は言語自身を指し示すのだと言ったら、これはもう20世紀の言語学の世界である。
 バークは第五編で言語について大変画期的なことを考え始めているのであるが、バーク自身そのことに気づいてはいないように思う。
「正直な話、詩歌や修辞学は厳密な描写という点ではとうてい絵画に立ち討ちできないのであって、それの本務は模倣よりもむしろ共感によって心を動かすことに、つまり事物それ自体についての明晰な観念を再現するよりも、むしろ話者その他の人々の心に及ぼすこれらの事物の効果を描くことに存するのである」
と書く時、バークは決して間違ってはいない。
しかしでは、模倣による快がもたらす美が言語にはないのであれば、言語にとって美はどのようにして生み出されるのかについては説明されない。言語は“共感”によってひとの心を動かすということが強調されているが、どのようにしてなのかについては充分に解明されることはない。

 最後はゴシック小説の話題とはかけ離れてしまったが、バーク自身言語の問題に突入した途端に頓挫してしまっているので、これ以上私にも言うことはない。
(この項ようやくおわり)
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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(13)

2015年05月18日 | ゴシック論
 高山宏はその「目の中の劇場――ゴシック的視覚の観念史」(国書刊行会『城と眩暈』所収)で、デジデリオとピラネージだけでなく、時代は下るが、イギリスのジョン・マーチンなど城や廃墟を好んで描いた画家を取り上げ、彼らの作品を“ゴシック絵画”と呼んでいる。イタリアで活躍したフランス人デジデリオやイタリア人ピラネージだけでなく、本国イギリスにもそのような画家がたくさんいたことが分かる。
 高山宏はゴシック小説とゴシック絵画との関連について論じているのだが、「ウォルポールもベックフォードも、そのメガロマニアをピラネージから汲んでいたことがはっきりしている」と証拠文献を挙げて書いている。
 たとえば、ウォルポールの『オトラント城奇譚』に登場する甲冑に身を固めた幽霊は、ピラネージの作品〈オペレ・ヴァリエ〉に着想を得たものだという。
 こうしたことはゴシックの美学とバークの美学との関連よりも重要な事実ではないだろうか。もしそうだとすれば、ゴシック小説はバークの美学ではなく、ゴシック絵画に直接学んだということを意味するのだから。
 とくにベックフォードは自分の父に作品を献呈してくれたピラネージの作品に決定的な影響を受けたという。そしてベックフォードのゴシック小説『ヴァテック』は極めて“絵画的”な描写によって成り立つことになる。
 高山宏はそこに世界を絵画のように眺めるゴシック小説的視点を見ることで、“目の中の劇場”というテーマにつなげていくのだが、そのことよりも前に、ゴシック小説が直接自然を模倣するのではなく、絵画をこそ模倣していたことに意を止めなければならない。
 このような二重の人工性は、廃墟を模倣した建築物を実際に造るというような実践において見られるだけでなく、小説を書く場面にあっても同様であったということが分かる。
 あるいは絵画が文学作品や言語表現を模倣するという、それまでの絵画の歴史が大きな転換点を迎えたということも意味しているに違いない。文学作品が絵画を模倣するというような倒錯が、ゴシック小説において初めて出現するのだと言ってもよい。
 ミルトン的崇高を至上のものとしたバークが、そのような倒錯を許容したとはとても考えられない。ゴシック小説の美学はだから、バークの美学の嫡子ではあり得ない。むしろ鬼っ子のような存在であったのである。
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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(12)

2015年05月17日 | ゴシック論
 だからバークがゴシック小説誕生以前に活躍していたとしたら、かれはゴシック小説を好まなかっただろうことが想像できる。バークのような端正な知性にとって、ゴシック小説は耐え難いものとなったかも知れない。
 グロテスクなものを含まないゴシック小説というものはほとんど考えられない。ウォルポールも、ルイスも、ホフマンも、シェリーも、マチューリンでさえ彼らの作品にグロテスクなものを充填している。
 ホフマンのグロテスクな想像力には他を圧倒するものがあるし、シェリーもまたグロテスクな怪物を創造した。グロテスクな形象だけではなく、ルイスの『マンク』にはグロテスクな欲望が描かれているし、『マンク』の影響を受けて書かれた『悪魔の霊酒』においても同様である。
 マチューリンの『放浪者メルモス』では、グロテスクな愛とグロテスクな意志が全編を覆い尽くしているし、ホッグの『悪の誘惑』にはグロテスクな狂信が描かれている。
 バークは第一編の「9.自己維持に属する情念と両性の社会的交渉に関する情念の差異の根本的原因」で、人間の性的欲望が快としての美に関わるものではないとし、性欲の重要性を否定しているのだから、間違ってもルイスやホフマンの作品にみられる“獣的な欲望”の表現を認めることはないだろうし、それを自身の美学に含めることもなかっただろう。
 さて、前回“曖昧さ”に対するバークの評価に触れたが、絵画と違ってそのような“曖昧さ”を達成することができるのは言語表現である。バークは次のように言っている。
「私が与えうる最も生き生きして溌剌たる言語描写は、この種の対象についての極めて曖昧で不完全な観念しか生み出しえないが、しかしその場合私はこの描写にもとづいて、最善の絵によるよりも更に一層強力な情緒を心中に呼び起こすことができる」
“曖昧さ”はバークにとって否定的概念ではない。バークは“曖昧さ”を“崇高”の一要因とさえしているのであり、言語表現はその“曖昧さ”において強力である。このようにバークにとって言語表現こそが完全な伝達の手段なのであり、他の表現はどれも欠陥を持ったものだというのである。
 では言語表現としてのゴシック小説はどうであったかと言うならば、いずれも隠されてあるべき幽霊や欲望をあからさまにするのであり、バークの言う“曖昧さ”の境地に止まろうとはしない。
 バークが嫌った聖アントニウスの誘惑の絵と同様に、ゴシック小説は「自分の想像力に思い浮かべられる限りの無数の恐ろしい妖怪を集めようという意気込みを示し」ているからである。
 ゴシック小説にはそれ故、必ず滑稽の領域にまで近づいてしまう“俗悪さ”がつきまとうのであり、バークの言う“崇高”には至りえないものと言わなければならない。したがって私は、ゴシック小説をバークの“崇高の美学”と過剰に関連づけようとは思わないのである。

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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(11)

2015年05月16日 | ゴシック論
 ところでバークは第二編「4.情念に関してみた限りでの明晰さと曖昧さの差異について」で、地獄を描いた絵や聖アントニウスの誘惑をテーマにした絵について触れている。地獄の絵についてバークは次のように言っている。
「画家がこれらの極めて空想的で恐ろしい観念の明晰な表現を生み出そうと試みた時、彼らはほとんど例外なく失敗したに違いないと私は考える。事実私はこれまで地獄を描いた絵を見るごとに、果たして画家は何か滑稽な作品を企てたのではないかという怪訝な気持に打たれたものである」
 何が言いたいのかといえば、画家達が曖昧さobscurityを捨てて、地獄の形象を明晰に描こうとする時、かならず滑稽に陥るということである。ここで言う“曖昧さ”はいい意味でのそれであって、第二編でバークは“曖昧さ”を崇高の不可欠の要件のひとつとして取り上げている。
 そのことは聖アントニウスの誘惑をテーマにした絵についても言えることである。バークがどの画家の絵を見て言っているのかは分からないが、地獄の絵と同様に厳しい見方をしている。
「一部の画家はこの種の主題を描き出す際に、自分の想像力に思い浮かべられる限りの無数の恐ろしい妖怪を集めようという意気込みを示した。しかし私が偶然聖アントニウスの誘惑の絵の中で見た各種の図柄は、何か真剣な情念を生み出しうるというよりもむしろ奇妙かつ乱雑な一種のグロテスク模様に過ぎないものであった」
 バークは聖アントニウスの誘惑の絵を好んでいない。聖アントニウスの誘惑は美術史上数多くの画家が取り組んだテーマで、バーク以前の画家としては、ボッシュ、グリューネヴァルト、ブリューゲル、ショーンガウアーなどが挙げられる。そのいずれもが例外なくグロテスクな想像力を全開にした作品になっている。
 特にグリューネヴァルトの作品はホフマンの時に書いたように、無類にグロテスクでリアルなものである。バークはグリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉を好まないだろう。バークの言う“崇高”をもたらす要素の中には“グロテスク”は含まれていないのである。


グリューネヴァルト〈聖アントニウスの誘惑〉部分


ボッシュ〈聖アントニウスの誘惑〉
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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(10)

2015年05月15日 | ゴシック論
 バークの視覚芸術に対する崇高の理論に影響を与えたのが、どの時代のどの画家であったのかは分からない。デジデリオではなくバークの同時代人であった銅版画家ピラネージ(1720-1778)であったかも知れない。ピラネージの作品もまた、デジデリオの作品と同様に、崇高の念を抱かせるものである。とくにその〈ローマの景観〉シリーズにおいて。


ピラネージ〈ローマの古代遺跡〉より〈古代のマルスの競技場〉

ピラネージはローマの廃墟を好んで描いたし、デジデリオもまた空想の廃墟を好んで描いた。ピラネージの描く廃墟は悠久の時間を感じさせるもので、その無限感もまた崇高の観念を呼び起こす原因となっているのである。
 デジデリオは必ずしも廃墟ばかりを描いたわけではなく、崩壊などしていない巨大建築物も描いているが、不思議なことにそれがいつでも崩壊の予兆を漂わせている。それがデジデリオの作品の大きな特徴である。
 ところで“廃墟”というテーマはゴシック・リヴァイヴァルを先導した、ホレース・ウォルポールとウィリアム・ベックフォードが財産を注ぎ込んで追求したものであったし、それがイギリスにおける“ピクチャレスク趣味”と言われるものにつながっていくのだが、バークの議論はそこまでを予想するものであっただろうか。
 多分そうではない。バークの美学は廃墟を人工的に作り上げて、それを眺めて楽しむと言ったような悪趣味を退けるであろう。それよりもバークは模倣芸術としてのピラネージやデジデリオの描いた廃墟の絵画をこよなく愛するであろう。
 バークの崇高の美学は破壊や崩壊といった“苦”や“恐怖”に起因する崇高を最もよく達成しているピラネージやデジデリオの作品に最もよく適合するのである。彼らの作品は描いている対象物が喚起する“崇高”と、模倣の完璧さに起因する“快”がもたらす“美”との両方を兼ね備えている作品なのである。
 繰り返すが、私は必ずしもピラネージやデジデリオの作品がバークの崇高の美学に影響を与えたということを言いたいのではない。ピラネージの作品がバークの美学に影響したということはあったかも知れないが、それよりも、あくまでもこの二人の視覚芸術が最もよくバークの美学に適合するということを言いたいのである。


デジデリオ〈建築的奇想〉
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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(9)

2015年05月13日 | ゴシック論
 第四編は第三編までに論じてきた内容の展開部というか、変奏部と言ってもいいような部分で、崇高と美についてさまざまなテーマが追求されている。
 私が最も興味を持ったのは「9.大きな容積の視覚的対象は何故に崇高か」から「13.視覚的対象に継起が及ぼす効果の説明」の部分である。そこでバークは概ね次のようなことを言っている。
「小さな物よりも容積の大きなものの方が、視覚に対して大きな刺激を与える。その刺激が苦に近づくほどに大きくなった時、崇高の概念が生じてくる。しかもその大きな容積は斉一的なもので満たされていなければならず、それが人為的無限を生み、偉大さを生む(この部分でバークは聴覚を対象に論じているが)。再び視覚のテーマに戻り、「同じ直線状に置かれた斉一的部分の継起的配列」は「順を追うて刺激ないし鼓動が繰り返され」るため「連続的な攪乱によって烈しい刺激を受ける結果」として「心の中に壮大ないし崇高な観念をもたらすまでになる」
 この部分を読んでいて私は、すぐさまモンス・デジデリオ(1593-1620)の壮大な廃墟を描いた作品を眼前に思い描くことになった。ほとんどデジデリオの作品についての文章と言ってもいいくらいだ。
 デジデリオの作品はどれも壮大な建築物を描いていて「容積の大きな物」であるし、多様な物が入り混じることのない「斉一性」を持っている。また、同じ柱や人柱、屋根などが繰り返し繰り返し描かれて「一直線状に置かれた斉一的部分の継起的配列」の条件も満たしている。
「連続的な攪乱」continued agitationという言葉こそほとんどデジデリオの作品のためにあるようなもので、それが眩暈のするような圧倒的無限感を生じさせる。それが人為的無限であることは言うまでもないことだ。
 そしてこれこそ大事なことであるが、デジデリオのような作品こそが“崇高”という概念にぴったりと当てはまるものなのである。

デジデリオ〈ヨナと怪魚〉

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