玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(9)

2018年06月05日 | ラテン・アメリカ文学

 登場人物同士の取り替え可能性ということについては、特別に言っておきたいことがある。『夜のみだらな鳥』の中でそうしたことが頻繁に起きることは、これまで書いてきたことから理解してもらえるだろう。
 それはゴシック小説によく見られる〝分身〟というテーマとは少し違っていて、やはり人物同士の互換性、取り替え可能性というしかないあり方である。私はカルロス・フエンテスの「アウラ」という短編小説を取り上げたときに、そのことに触れている。
「アウラ」においてはコンスエロ夫人とその姪のアウラが取り替え可能な存在であり、夫人の夫リョレンテ将軍と主人公モンテーロが取り替え可能な存在である。コンスエロ夫人はアウラの中に生起し、アウラはコンスエロ夫人の中に生起する。リョレンテ将軍はモンテーロの中に生起し、モンテーロはリョレンテ将軍の中に生起する。
 彼らは分身のようで分身ではない。二つの主体として対峙することがないからである。ゴシック小説における分身が、ヨーロッパ特有の霊肉二元論に起因することは、ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』やE・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』を読むとよく分かる。分身同士は厳しく対峙し、霊と肉との分裂こそが小説のテーマとなる。
 しかし、フエンテスの「アウラ」はそのような霊肉二元論的世界をもっているわけではなく、むしろ霊肉一元論的な世界がそこにはある。そこでは分身同士が対峙したり、まして対立したりすることがない。あるいはそこには分身が存在するとさえ言えないのであって、それは「アウラ」の最後でモンテーロがアウラとベッドを共にする場面で際だっている。
 それと同じことが『夜のみだらな鳥』で《ムディート》とイネス夫人が交わる場面で言える。《ムディート》とヘロニモが互いに交換可能となり、イネス夫人とその乳母ペータ・ポンセが互いに交換可能となる。あるいは《ムディート》とヘロニモの欲望が互いに交換可能となり、イネス夫人とペータ・ポンセの欲望が互いに交換可能となる。
 だから現実に誰と誰とが性行為を行ったのかが分からなくなってしまうのである。そこに黄色い牝犬が絡んできたり、アスコイティア家の最初の物語が絡んできたりするから、さらにそれは不分明なものとなる。そうした不分明なあり方はフエンテスの「アウラ」でも共通している。
 フエンテスの「アウラ」は1962年に書かれ、ドノソの『夜のみだらな鳥』は1970年に完成しているから、ドノソの最も親密な友人であり、『夜のみだらな鳥』を完成させるために生活の面倒まで見てくれたフエンテスの「アウラ」を読まなかったはずはない。
〝分身〟がゴシック小説のひとつの要素だとしたら、フエンテスは「アウラ」で登場人物の互換性というゴシック小説の新しい要素を、初めて導入したのだったし、ドノソはそれをより複雑で規模の大きななものに拡張したのである。
 分身というテーマが近代的主体というものの盤石性を揺るがすものであるとしても、そこにはまだ主体として存立する基盤そのものは失われていない。ひとつの主体は霊から発生し、もう一つの主体は肉から発生する。だから分身同士はお互いに厳しく対峙することになるし、分身が派生する方の主体は分身に対して激しい恐怖を感じることになる。
 しかし、フエンテスやドノソの取り替え可能性の場合は、近代的主体そのものがほとんど崩壊しているとさえ言えるかも知れない。言ってみればそれは〝人間の廃墟〟のようなもので、『夜のみだらな鳥』の主人公《ムディート》こそは〝人間の廃墟〟と呼ばれるべき存在である。そして〝廃墟〟こそはゴシック小説が好んで舞台とした背景そのものなのである。
 木村榮一は「現代イスパノアメリカ文学とゴシック」で、ラテンアメリカ文学におけるゴシック的小説として、フリオ・コルターサルの『遊戯の終り』『秘密の武器』など、またカルロス・フエンテスの「アウラ」や『脱皮』『テラ・ノストラ』、そしてホセ・ドノソの『境界なき土地』や『別荘』などを挙げている。
 当然『夜のみだらな鳥』もそのリストの中に含まれているわけだが、『夜のみだらな鳥』こそはラテンアメリカ文学最大のゴシック小説であると、私は断言したい。


 

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