玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(8)

2017年02月24日 | ゴシック論

 ホーソーンとポーについて取り上げられているのは、それぞれ『七破風の屋敷』と「アッシャー家の崩壊」である。ホーソーンに関して、私は短編小説しか読んだことがなく、『七破風の屋敷』も『緋文字』も読んでいないので、多くは語れないが、短編を読む限りホーソーンもまた、まぎれもなくゴシック作家であったと思う。
 パンターは『七破風の屋敷』について、舞台となる屋敷が「ヨーロッパ・スタイルの猿真似」として造られたものであったこと、そしてそれが抑圧された血脈の物語であったことを指摘する。

「七破風の屋敷の礎石は血で汚されている。迫害を受けた人間の血が付いていて、何を持ってしてもその汚点を除くことはできない。」

 この言葉はポーの「アッシャー家の崩壊」にも当てはまるもので、パンターはそこに「血統という問題を扱おうとした一つの試み」を読み取る。さらにパンターはそれを迫害によって「罪の輪のなかに閉じ込められた」血の記憶がもたらす恐怖というテーマに結びつける。
 パンターのこの本の基調は〈迫害-恐怖〉といったものになっていて、そこから階級間の闘争のような議論も出発している。『七破風の屋敷』についてパンターは次のように言う。

「『七破風の屋敷』は貴族についての中産階級の神話ではなく、庶民の権利を奪おうとした強力な〈上層中産階級〉についての下層中産階級の神話である。」

 プロレタリアートが出現するまであと一歩といったところだが、パンターにとってはゴシックの担い手が、虐げられ迫害された下層階級であればあるほど好ましいのである。
 何度も書くがこのような階級論からは、その時代に流行する小説の傾向の根拠を見出すことは出来るかも知れないが、ゴシック小説の本質とその継承については何も発見することは出来ない。
 むしろ抑圧された血統ということの方が、ゴシックの本質にとっては重要な概念である。ポーの「アッシャー家の崩壊」はその典型をなす物語であるが、しかし、そこに迫害される主体の権利の正統性があるのだろうか。
「アッシャー家の崩壊」で主人公は迫害されるのではなく、むしろ迫害する主体である。妹との近親相姦的な関係、そこに流れる汚れた血脈、そして自身を苛む罪障感、さらにそこに醸し出される恐怖、それらが一体となってアッシャーの屋敷とロデリック・アッシャーとを崩壊に導くのである。迫害・血脈・罪障感・恐怖は渾然一体となっていて、どれがどれの原因でもなければ結果でもない。
 以前に取り上げたクリス・ボルディックはゴシック小説の特徴を、時間的な相続恐怖と空間的な閉所恐怖に見ていたが、こちらの方がはるかに本質を突いた見解であると同時に、ゴシック小説を考える上で有効な見方であると思う。
 相続恐怖と閉所恐怖の二つを同時に徹底して追求したのが「アッシャー家の崩壊」という作品ではなかったか。パンターの議論からは〈迫害-恐怖〉という図式しか見えてこず、作品の背景に社会的・歴史的な要因を探し回るという作業が必要になるが、それでは文学を理解したことにはならない。
 相続恐怖と閉所恐怖を軸にすれば、ゴシックの屈折と倒錯について見通すことが出来るし、ゴシック小説の特殊性について理解する展望が開けるのである。アメリカ文学のゴシック性についての探求にとっても、それは有効な議論だと思う。
 さて、第8章は「ゴシックと煽情小説」で、再び本国イギリスの作家たちについての議論に戻るのであるが、もういいだろう。初めに、読むに値する一冊と評価したのに、批判ばかり書いてしまった。
(この項おわり)

 

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(7)

2017年02月23日 | ゴシック論

 第7章は「アメリカ・ゴシック小説」で、チャールズ・ブロックデン・ブラウン、ナサニエル・ホーソーン、エドガー・アラン・ポーの三人の作家を取り上げて、アメリカ・ゴシック小説の特徴の分析に充てている。
 ブラウンはアメリカ最初の職業作家と言われているが、最初の作家がゴシック作家であったということ自体がアメリカ文学の在り方を象徴しているように思う。
 アメリカ文学はそのほとんどがゴシックだという人さえいて、本家イギリスのゴシック小説が衰退した後も、根強く生き続けて今日に至っている。それがなぜなのかということの分析を、私はパンターに期待したのであったが、その期待が十分かなえられたとは言い難い。
 まずパンターはアメリカ・ゴシック小説というものを、「イギリス・ゴシック小説の〈屈折したもの〉」と定義する。その後でパンターは続ける。

「イギリス・ゴシックには、直接に連なる過去の背景があるが、アメリカ・ゴシックの場合には、現在と過去の間に介在する一つの段階がある。つまり、漠然とした歴史的「ヨーロッパ」、即ち、既に神話化した「旧世界」によってしばしば表現されている段階である。」

 歴史的廃墟もなければ、カトリックの修道院も、異端審問所もないアメリカで、なぜゴシック小説が猖獗を極めたのか不思議なのだが、その要因としてパンターの言う「ピューリタニズムとその遺産」があったことは確かと思われる。
 イギリスのゴシック小説の特徴としての反カトリシズム、あるいはジェイムズ・ホッグに見られる狂信的なピューリタニズムに対する批判を、アメリカ・ゴシックは受け継いでいるのである。
 しかし、この辺の事情がキリスト教のことも知らない日本人である私にはよく理解出来ない。だから、パンターにその謎の解明を期待したのであったが、彼はその期待に応えてくれない。
 確かにアメリカの作家は、旧世界的なゴシック小説をよく書いた。ハーマン・メルヴィルの短編「鐘塔」という作品を思い出す。この短編などは、遠いヨーロッパの記憶なしには書かれ得ない作品である。
 またパンターも言うように、ポーの作品もまた旧世界的である。しかしそのことは、歴史の浅いアメリカにおいて、先行するヨーロッパの作品の影響なしに小説は書かれ得ないという意味はあっても、そのことがアメリカ・ゴシックのゴシック性を強化したという説明にはならない。
 三人の作家のことに戻ろう。ブラウンの『ウィーランド』という作品を私は読んだが、その推理小説的結構が好きになれなかったし、ゴシックの暗黒という面でも食い足りなかった。ただし、主人公ウィーランドが宗教的妄想に駆られて家族を惨殺するところは、ホッグに共通する部分もあり、よく書けていると思った。
 パンターによるブラウンへの評価は次のようなものになる。

「ブラウンの著作に見られる理性の力強さと、感情の希薄さが彼の描くアメリカの特徴なのである。つまり、精神的諸世界が恐怖に満ちた過去の重圧の下に埋没してはいない状況に、固有の正確さでその精神的諸世界を探求するのが、ブラウンの手腕である。」

 このことはブラウンの限界であって、パンターによればその方向を決定的に変えたのがホーソーンとポーであった。ならばこの二人は「精神的諸世界が恐怖に満ちた過去の重圧の下にある状況」をなによりも描き出したのである。

 

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(6)

2017年02月22日 | ゴシック論

 第6章は「ゴシックと歴史と中産階級」であり、ゴシック小説への歴史的テーマの導入を扱っている。前章で取り上げた3人の作家にはなかった視点である。取り上げられている作家は、ウォルター・スコット、ブルワー=リットン、G・P・R・ジェイムズ、ウィリアム・ハリソン、エインズワース、G・W・M・レノルズであるが、いずれも超多作の大衆作家であるらしい。
 ウォルター・スコットとブルワー=リットン以外は名前さえ知らなかったし、読んだことのあるのはリットンの作品だけである。だから私はリットンの作品ついて触れることしかできない。
 ブルワー=リットンの代表作は、短編では「幽霊屋敷」という作品である。この作品が世界中で最も恐い小説三作のうちの一つとされていることは前にも書いた。パンターは次のように書いている。

「リットンは怪物の姿そのものを描こうとするような過ちは犯さない。むしろ、それを曖昧で正体が知れないままにしておいて、怪物が引き起こす次第に高まっていく恐怖の感情を綿密に描写することで、怪物が与える衝撃を高めようとするのである。」

 パンターがここで言っていることは恐怖を煽り立てる技術的な側面についてであって、前章で展開された恐怖の原因となる迫害といった、本質的な問題についてではない。
 私も「幽霊屋敷」を読んで戦慄を覚えた人間の一人であるが、評価したいのはやはり描写の技術であって、文学の本質に関わる部分ではない。
 リットンの本格的なゴシック小説『ザノーニ』は邦訳があって、私も読んだ。しかし、どう読んでも先行するゴシック小説を換骨奪胎した作品以上のものではない。それでもパンターはこの作品を積極的に評価するのである。
 その理由は『ザノーニ』が社会から締め出された個人の悲劇的な運命を描いているからだという。リットンは「中産階級と対決した作家」であったし、貴族社会の復権を望んでいたにも拘わらず、パンターは彼を擁護する。このマルクス主義者としてはかなり屈折した考え方は、パンターのゴシック小説への偏愛そのものから来るのだとみなさなければならない。
 リットンもたくさんの本を書いたが、レノルズはもっと膨大な量の本を書いた大衆作家であったという。マルクス主義者であるパンターはその作品の質に拘わらず、レノルズが「女性の権利の承認、反ユダヤ主義運動の排斥、私有財産の廃止、国教会の解散に賛成し、死刑と貴族の特権に反対する論陣を張った」がために、彼の作品を評価する。
 しかしこれでは、作品論はおろか文学研究にもならない。パンターは「階級間の問題に、明白にそして教訓的にさえ関連した事柄が、ゴシックというジャンルで始めて述べられたのである」と言っているが、これが彼の階級論の結論だとすれば、私にはとうてい受け入れられない考え方である。せっかく第5章で優れたゴシック作家を取り上げて、その作品を評価して見せたのに、これでは台無しである。
 確かに、もともとゴシック小説は大衆小説として出発した。そのほとんどが通俗的で、文学的価値の薄いものであることは認めるが、今日見向きもされない作家たちの作品を取り上げて賞賛し、ゴシック小説の本質をそこに見るという姿勢は褒めたものではない。

 

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(5)

2017年02月21日 | ゴシック論

 第4章は「ゴシックとロマン主義」。ブレイク、コールリッジ、シェリー、バイロン、キーツなどイギリスロマン派の主流詩人たちが、ゴシック小説から大きな影響を受けたと、パンターは主張している。
 私はイギリスロマン派についてまったく知らないので、この章について多くを語ることは出来ないが、パンターはロマン派詩人たちが、ゴシック小説の影響を一時的には受け入れながらも、すぐにそれを捨て去ったという通説を否定している。
「ゴシック作品の至るところに登場する三人の主要な象徴的人物――放浪者、吸血鬼、禁断の知識の探求者」が、主流派詩人の作品の中に大きく影を落としているというのである。放浪者を代表するのはマチューリンの『放浪者メルモス』であり、吸血鬼はジョン・ポリドリの『吸血鬼』、禁断の知識の探求者はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の主人公フランケンシュタイン(怪物の方ではない)である。
 そしてこの三人の象徴的人物は「不正の強力な象徴」であり、ゴシック小説流行の事実は「社会的な権力を得た中産階級が、彼等自身の上昇の状況や歴史を理解しようと努め始めた段階」を示しているとパンターは言う。
 パンターは再度階級論的なテーマを持ち出すのであるが、事実はそれほど単純なものではない。そのことには後ほど触れるが、そうでなければゴシック小説の主流小説に対する屈折や倒錯的なあり方を説明出来ないのではないか。この問題はこの本全体を巡る総括的なテーマとなる。
 
第5章は「迫害の弁証法」。この章でパンターは、彼自身が最も評価に値すると考えている三人のゴシック作家を取り上げている。『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)のウィリアム・ゴドウィン(メアリー・シェリーの父親)、『放浪者メルモス』(1820)のC・R・マチューリン、『悪の誘惑』(1824)のジェイムズ・ホッグの三人である。
私はゴドウィンだけは読んでいないので判断を保留するが、マチューリンとホッグについては、間違いなくゴシック小説における最も偉大な作品を書いた作家であったと断言出来る。
 この二人の作家については、この「ゴシック論」でも何回も取り上げてきたので、評価について繰り返すことはしない。ここでは私の評価ではなくパンターの評価について紹介しておこう。まずパンターは三つの作品の目的を同じものと見る。

「『ケイレブ・ウィリアムズ』、『放浪者メルモス』、『悪の誘惑』の目的は同じなのである。それは、実際に、恐怖の極限状況を〈探求する〉ことである。……この三作品は悪夢の本である。」

 そしてパンターは、その恐怖の原因を〝迫害〟ということに求めている。『ケイレブ・ウィリアムズ』は主人公ケイレブが、悪人フォークランドの罪の秘密を知り、執拗な復讐を受けるという物語であるから、迫害ということは当たっているように思う。
『悪の誘惑』も、主人公ウリンギムが悪魔の化身ギル・マーティンに執拗につきまとわれ、地獄の苦しみの中で自殺を遂げる物語である。しかもウリンギム自身も狂信的なカルヴィニズムによって、兄ジョージを迫害するのであり、ここには二重の迫害が存在する。
『放浪者メルモス』もまた、主人公メルモスが執拗な迫害を受ける副主人公アロンソと取引しようとする物語であり、サブストーリーとしても多くの迫害される人物達が登場する。そればかりでなくこの作品は、メルモスとイマリーとの悪魔的な愛の物語でもあり、単純に迫害ということで括ることは出来ない。
 だから、恐怖のよってきたるところを迫害にのみ求めることは出来ないし、この三つの作品が「恐怖の極限状況」だけをテーマにしているとも思えないのだが、パンターはこの本を『恐怖の文学』としてまとめる必要があった。
 ところで、「恐怖の弁証法」とは何なのか? こんなところに弁証法を持ち出す意味があるのだろうか。そこに正-反-合の運動があるとでも言うのだろうか。
 しかし、パンターがこの三人の作家の作品をパラノイアの文学と位置づけていることに異論はない。『放浪者メルモス』と『悪の誘惑』における語り手こそ、パラノイアに冒されているのだし、ひょっとして作者その人がパラノイアではないかと思われる瞬間すらある。それほどにパラノイアックな物語なのである。
 また、パンターが次のように書くとき、特にその近代性についての指摘には全面的に同意したい。

「三人が我々を誘う世界が、ラドクリフやルイスのそれと比べると驚くほど近代的な世界であるのは、それは三人がドストエフスキーや、特にカフカの現代的とも言うべき悪夢の世界を予期しているからである。」

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(4)

2017年02月20日 | ゴシック論

 第3章「古典ゴシック小説」は、ゴシック小説がピークを迎えた時代の二人の作家、アン・ラドクリフとマシュー・グレゴリー・ルイスを扱っている。
 パンターがゴシック小説の創始者であるホレース・ウォルポールやウィリアム・ベックフォードの作品をあまり重要視せず、ラドクリフとルイスに重点を置いている(ベックフォードについてはほとんど言及がない)のは、彼がこの二人の作品をゴシック小説の典型的な作品と考えているからであろう。二人の作品を分析することで、それ以降のゴシック小説を見通す視座を獲得しているように思う。
 しかし、私はルイスの『マンク』は大嫌いであるし、ラドクリフの『ユドルフォの謎』も文学作品として評価することがまったく出来ない。パンターはこの二人の作品に過大な評価を与えているように思われるが、それがゴシック小説の典型であることは認めてもよい。
 ただし、二人の作品が同質なものであるという指摘に対してはそれに同意することは出来ない。パンターは次のように書いている。

「ラドクリフとルイスは、二つのはっきりと異なったタイプのゴシック小説の主唱者だと従来みなされてきたが、実際のところは、文体上の差異はあるものの、恐怖という主題に没入している点では、大いに、そして考えようによっては当惑を覚えるほど、両者は一体なのである。」

 ゴシック小説が後に、推理小説的な方向と悪漢小説あるいは残酷小説的な方向に分離していくのだとすれば、この二人の作家の作品が源流にあるのに違いない。
 ラドクリフの作品は超自然を許容せず、すべてに合理的な説明を与えていくという意味で、推理小説の源に位置する。ラドクリフの作品にはルイスの『マンク』に見られるような、性的欲望の全面的な解放あるいはサディズム的な要素はない。エミリーがいかにいわれなき辛苦に耐え続けるとしても、それはラドクリフがエミリーに対してサディズム的な嗜好を持っているからではなく、「最後は善が勝利を収める」という勧善懲悪的な考えからそうしているのである。
 一方、ルイスの『マンク』にはアンブロシオの欲望貫徹への作者の共感が読み取れる。この作品も勧善懲悪的な考えに貫かれているのかも知れないが、明らかに作者のサディズム的な欲望を背景にしているのである。
 またパンターは、二人の作品における悪漢達の人物造形に対しても、過大な評価を下しているように思われる。『マンク』におけるアンブロシオ、『ユドルフォの謎』におけるモントーニの描き方に、私はそれほどの深みも独創性も認めることは出来ないが、パンターはそうは考えない。
 ゴシック小説はもともと「かなり型にはまった登場人物が出てくること」を特徴としていたと、パンター自身が言うように『ユドルフォの謎』の登場人物も、『マンク』の登場人物も十分に類型的であって、モントーニもアンブロシオも悪人としてまったく個性的ではない。
 悪の化身としての登場人物を、その比類なき苦悩も含めて真に迫真的に描いた小説としては、チャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』と、ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』を待たなければならない。そしてラドクリフのモントーニやルイスのアンブルロシオは、マチューリンのメルモスやホッグのウリンギムの源流に位置づけられる存在ではない。
 またパンターがラドクリフとルイスの作品を、恐怖の同質性に置いて評価しているのも、私には違うのではないかと思われる。ラドクリフの恐怖は超自然的現象に対する恐怖を主にしているのに対して、ルイスの恐怖は欲望の犠牲となることへの恐怖、つまりは暴力への恐怖を主にしていると思われるからである。

 

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(3)

2017年02月19日 | ゴシック論

 第2章は「ゴシック小説の起源」であり、いわゆる墓畔派の詩歌から、ゴシック小説の創始者ホレース・ウォルポール、クララ・リーヴにいたるまでを扱っている。墓畔派というと聞こえはいいが、原語のGraveyard Schoolを直訳すれば
墓場派ということになり、墓場のことばかりを作品にしていた詩人たちがそれである。
 パンターはエドワード・ヤングなどの詩人を取り上げているが、私は読んだことがないので知らない。ただし、パンターが引用する以下のような詩句を読めば、それがゴシック的世界に直結していることが理解される。たとえば……

 沈黙と暗黒よ、厳粛な姉妹よ! 双児よ、
 太鼓の夜から生まれ、理性に向けて優しい思いを育て、
 理性に堅忍不抜をもたらすものよ。
 (それは人間の真の尊厳の柱なのだ)
 私をたすけよ、私は墓にあっておまえたちに感謝する。

 ここに見られるのは理性主義と、墓に象徴される死への洞察との同居である。18世紀はこのようにして啓蒙の世紀、理性の世紀であったのである。では啓蒙思想が席巻していた時代に、反理性的とも思えるゴシック小説が誕生する余地がどこにあったのかというのが、パンターの議論になる。
 パンターはマルクス主義者らしく、ナチスの反ユダヤ主義の原理に〝啓蒙〟というものが関わっていたと主張する、ホルクハイマー、アドルノの『啓蒙の弁証法』を援用しながら、次のように述べている。

「恐怖とは、あらゆるものを理性の支配下に置こうとする試みの、根源でもあり、結果でもある。理性的には同化し得ないものが、同化できないがゆえになおさらタブーになるので、理性主義は、自己破壊的な論理となる。つまり理性そのものが、自らの敵を作り出すこととなるのである。」

ここで言われていることは、20世紀のヨーロッパで行き過ぎた画一的な理性主義が、その反動として反ユダヤ主義を生んだように、18世紀の啓蒙思想はその画一的な理性主義から逸脱するものを生んでいったということに他ならない。
しかし、本当にそうなのだろうか。ゴシック小説は理性主義からの反動形成にすぎないのだろうか。私はそうは思わない。
 啓蒙思想が生み出したものが理性主義であるとすれば、それは自然と超自然というものを峻別する考え方につながったと考えるべきである。怪異が怪異として認識されるためには、そこに理性の介在がなければならない。
 啓蒙思想以前には怪異や超自然は人間にとって自然と未分化な存在なのであって、怪異や超自然がそれとして認識されていなかったことが指摘出来る。怪異や超自然が認識されない限り、恐怖小説や怪奇小説は生み出され得ない。
 このことは20世紀・21世紀の科学万能の時代にあっても、依然として恐怖小説や怪奇小説が書かれ続け、読まれ続けていることからも理解されるだろう。ゴシック小説は理性主義に対する反動としてあるのみではなく、理性主義そのものに含まれるある部分を代表してもいるのである。
 だからラドクリフの『ユドルフォの謎』では、そこに描かれるすべての怪異が小説の後半で合理的に説明される。ラドクリフは超自然の存在を許容しないが、ゴシックの伝統のなかで、そのような部分もまた今日まで引き継がれてきているのである。 
 ところでパンターは18世紀における貴族の没落と中産階級(ブルジョワジー)の勃興ということを、ゴシック小説誕生の時代背景として考えているが、この辺の議論がうまくいっていない。
 当時は書物が大変高価なものであったから、誰でも買って読めたわけではない。写実主義からゴシックへの転換の背景に読者層の交替があったとする考え(貴族からブルジョワジーへの交替)もあるが、パンターはどちらも読者層は同じであったと結論づけているから、階級交替論が成り立たない。
 そんなに図式的にうまく割り切れると考える方が間違っているのだろう。

 

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(2)

2017年02月18日 | ゴシック論

 第1章は「序論 ゴシックの諸相」と題されている。この章は概括的に「ゴシック」ということを定義しようとする試みである。表層的にゴシック小説を定義するならば、パンターの言うように以下のようなものとなるだろう。

「なかでも重要なものは恐怖の念を呼び起こすものの描写に重点をおくこと、古めかしい設定を一様に強調していること、超自然の使用が目立つこと、かなり型にはまった登場人物が出てくること、文学的サスペンスの技巧を効果的な使用によって完成させようと試みること」 

 このような定義は私の知っている限りでは、アン・ラドクリフの『ユドルフォの謎』のような作品に過不足なくピタリと当てはまるものであり、パンターは本書のなかで、ラドクリフの作品『ユドルフォの謎』と『イタリアの惨劇』をゴシック小説を代表するものとして、繰り返し取り上げることになる。
『イタリアの惨劇』に関しては古書価が高すぎて、購入して読むにいたっていないが、『ユドルフォの謎』については、ちょうど一年前に原文で読んでいる。『ユドルフォの謎』を読んでいないと、パンターの議論について行けない部分があるので、一年前に苦労して読んでおいてよかったと思う。
 しかも翻訳でなく、原文で読むという体験は、とにかく丁寧に読むこと、すっ飛ばしたりしないできちんと読んでいくことを強いるので、私は『ユドルフォの謎』の様々な場面をよく記憶している。翻訳で読むよりも細かいところまで記憶することになるので、これは小説を原語で読むことの効用の一つということになるかもしれない。
 以上のような定義は初期のゴシック小説には当てはまるが、今日まで連綿と続くゴシックの流れ全体には適用出来ない。パンターもそのことを理解していて、アメリカン・ゴシックと言われるものの存在についても触れている(第7章は初期のアメリカン・ゴシックのために割かれている)。
 しかし、もっと新しい作品、たとえばウィリアム・フォークナーやトマス・ピンチョンのような作品にどう対応するのかは示されていない(ひょっとして翻訳されていない第2巻でその問題は展開されているのだろうか)。
 だから、ここでパンターの言う「ゴシックの諸相」はその誕生から19世紀初めにかけての作品群にのみ当てはまるものだということが分かる。ゴシックの特徴はパンターによれば以下のようなものになる。

「中世的で、原初的で、野性的であったものに、それ自体でひとりでに、積極的な価値が付与されるようになった。」

「ゴシックは古風で異教的な世界であり、確立された文明社会の価値や整然とした社会に先行し、対抗し、抵抗した」

啓蒙の世紀と言われる18世紀に、なぜ中世的なもの、原初的なものへの回帰の運動がおきたのか、それは「文明社会の整然とした社会」に対する抵抗からであったというのが、マルクス主義者らしいパンターの考え方である。


 ところで、今年の読売文学賞を受賞したジェフリー・アングルスさんが英語に翻訳した折口信夫の『死者の書』は、ジェフリーさん自身によってa gothic tale of loveとして紹介されている。
 我々日本人も『死者の書』について、そのような作品として認識し直す必要があるのかも知れない。確かにいにしえの貴族と幽霊との愛を描いたこの小説は日本の小説史の上では例外的にゴシック的であり、この「ゴシック論」でも取り上げるに値する。
 だから、ジェフリーさんの翻訳と折口の原文とを照らし合わせて読んでみようと思っている。なるべく早いうちにやってみることにしたい。

 

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デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(1)

2017年02月15日 | ゴシック論

 このところゴシック関連の研究書がいろいろ翻訳されていて、目移りがするが、いちいち全部読んでいてはきりがないので、代表的なものだけを買って読むことにしている。
 昨年、松柏社から出版されたデイヴィッド・パンターの『恐怖の文学』は読むに値する一冊ではないだろうか。サブタイトルに「その社会的・心理的考察~1765年から1872年までの英米ゴシック文学の歴史」とあるが、これは松柏社の方でつけた題名で、原題はThe Literature of Terror : A HISTORY OF GOTHIC FICTIONS from1765 to the Present Day VOLUME 1 THE GOTHIC TRADITIONである。
 つまりもともとは1765年から今日までを通観する二巻本の一巻であって、1765年はホレース・ウォルポールの『オトラントの城』(前に『オトラント城奇譚』としていたが、より原題に近いこのタイトルを使用する)が、そして1872年はジョセフ・シェリダン・レ・ファニュの短編集『鏡のなかにおぼろげに』が出版された年である(なぜパンターがろくに取り上げてもいないこの短編集の出版年を入れたのか分からない。代表作『アンクル・サイラス』の出版年1865年にすべきである)。
 パンターのこの本の第一巻はウォルポールからラドクリフ、ルイス、マチューリンを経て、レ・ファニュまでを扱っている。私にとってはむしろその後、1865年から今日までの方に興味があるのだが、一応復習の意味もあって、この『恐怖の文学』を読むことにしたのである。
 ところが、いきなり「初版序文」に「文学批評を行う際に最も価値ある包括的な研究方法は、マルクス主義的・社会学的な思考に基づくものであると私は考えている」などということが書いてあって、「こんな本買うんじゃなかった」と思わざるを得なかった。
 私は文学研究にマルクス主義が有効だなどとは考えていない。その史的唯物論や反映論、あるいは唯物論的弁証法と言われるものはとうの昔に破綻しているし、そうした理論は文学に害悪を与えることはあっても、益をもたらすことはないと考えているからである。それらが不毛なプロレタリア文学しか産まなかったことは歴史が証明している。
「社会学的な」研究方法というなら、まだ考慮に値する部分がある。パンターは「第二版序文」で、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に触れているが、この本は文学作品に対する社会学的なアプローチと同時に、言語論的なアプローチ(いかに〝国語〟がネーション・ステイト形成の原動力となり、ナショナリズムを醸成していくかという分析)を含んでいて、どうせならもっと言語論的な展開がほしかったと読み終えてから思うことになった。
 ただし古典的なマルクス主義が、パンターも言うように、リアリズム小説を取り上げることこそあれ、幻想文学や反リアリズムの作品を無視してきたのとは違って、彼はゴシック小説をこそテーマとしているのである。
 パンターは「初版序文」で「本書にはマルクスやマルクス主義者への言及が見出されるはずだと読者が推測するであろうことは、私も十分に承知している。しかし実はそうなってはいない。むしろ特にフロイトに言及した箇所が非常に多いのである」と書いている。
 ここでも私は「待てよ」と思わざるを得ない。文学作品に適用されるフロイトの理論もまた、とうに破綻していると考えているからである。精神分析理論ほど、恣意的な基準で文学作品に対して、無意味で無責任な発言を繰り返してきたものはない。
 しかし、パンターのこの本には本人が言うほどフロイトの理論を拠り所とした部分が多くあるわけではない。むしろパンター本人が言うように「本書が示す主要な態度は「批判的な」立場にとどまっている」のである。私はそれでいいのではないかと思う。
「批判的な」視座は、これまでの通説や常識を覆す上で最も有効なものであるし、今日文学作品分析に当たって採用出来る万能の理論などありはしないからである。

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(2016、松柏社)石月正伸他訳

 

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ジェフリーさん、読売文学賞受賞おめでとう(2)

2017年02月07日 | 玄文社

 平田さんの紹介文の中で大事な部分は、その「ぎこちなさ」を言うところよりも、この詩集が「詩や言語を巡る果敢な実験の産物」だという指摘にある。
 ジェフリーさんの詩は日本の現代詩としてはかなりオーソドックスであり、それもまた読売文学賞の選考理由であったに違いないのだが、単にオーソドックスといって済ませられない部分がある。それこそがジェフリーさんの言語論的なアプローチに他ならない。
『わたしの日付変更線』には44年ぶりに生みの母親(ジェフリーさんは生まれてすぐに両親と別れ、アングルス家に養子に出された)と会ったことをきっかけに書かれた作品が4編含まれている。
 このような私小説的なテーマで詩を書くこと自体、いささか古くてオーソドックスなスタイルと言えるかも知れない。しかし、ジェフリーさんの作品には日本の現代詩にもめったにない要素がある。
 それはやはり、母語と母語ではない言語との間に引き裂かれた越境者としての体験そのものであるし、あるいは母語ではない言語によって自らを他者として認識せざるを得ない体験もまた大きな意味を持つ。
 ジャック・デリダの言うように「あらゆる言語は他者の言語」である。母語ですらある共同体からの強制によって〝私〟にもたらされるものであるのだから、デリダの言葉は絶対的に正しい。母語しか知らない者は言語の他者性を認識することが出来ないし、ひたすら母語の〝私性〟に淫することもしばしばである。それは日本文学の主要な特性であった。
 ジェフリーさんの作品の言語論的なアプローチは、言語の他者性の中から生み出されるものであって、ジェフリーさんは日本の現代詩にそのような稀有な体験を付加したのである。『わたしの日付変更線』の中でジェフリーさんが、二つの言語に引き裂かれた体験を言語論的なアプローチとして語っている作品はたくさんある。
 そのものズバリの題名を持った「翻訳について」という作品や「文法のいない朝」などという作品もある。そしてジェフリーさんの場合、こうした言語論的なテーマは分身のテーマに繋がっていく。「翻訳について」は次のように始まる。

寝室にはいると そこに
もう一人のわたしを見つける
そのわたしは金髪ではなく
そのわたしには黒髪がある
わたしが どうしてここに? と聞くと
そのわたしはただ 早く入れ と言う
ずっとわたしを待っていたと
生まれた瞬間から今まで

 そして、この作品は次のように終わる。

二人のわたしはため息を漏らし
部屋は沈黙に戻ってしまう
シーツの下でおどおどして
お互いの手を取り
そしてしばらく天井を仰ぐ
やがて 抱きあい
赤の他人のように愛撫しあう
一個の完全な人格になれるように

 この詩集の栞の中で柴田元幸さんは、ジェフリーさんの分身にはポオの「ウィリアム・ウィルソン」のような分身同士の対立がないことを指摘し、分身同士の〝歩みより〟を羨んでいる。
 一方、高橋睦郎さんはそこに「二つの異言語間にどんなエロティシズムが成立しうるかの実験」を見ている。二人とも自分にあったテーマに引き寄せて、ジェフリーさんの作品を読んでいるわけだ。
「ウィリアム・ウィルソン」の分身は古典的な善と悪との対立から生み出されるものであり、二つの分身同士はもともと対立の相のもとにある。ジェフリーさんの分身とは決定的に違うのだ。
 高橋睦郎さんの言うエロティシズムが、分身同士の快楽に満ちた融合を意味するのではなく、二つの言語の間の決定的な相違に対する侵犯を意味するのであれば、彼の言い方は当たっているように思う。
 ところで第68回読売文学賞の小説賞は、わが游文舎が2年に渡ってお招きして講演をお願いしたリービ英雄さんの『模範郷』が受賞した(これについては游文舎のブログ「ギャラリーと図書室の一隅で」に書いた)。
 さらに戯曲・シナリオ賞はケラリーノ・サンドロヴィッチという人が受賞していて、読売文学賞というのは外国人にばかり賞を与えるのかと思われるかも知れないが、ケラリーノさんはれっきとした日本人である。
 しかし今回、二人の日本語で書く外国人(アメリカ人)が受賞したということは、日本文学において外国人の果たす役割が拡大している証拠であるし、選考委員がそうした作品を日本文学における、ある正統性の中に位置づけていることの証拠でもある。
 ジェフリーさんもリービさんも、今の若い日本の作家が喪失している重要な部分を担っている。それは言語に対する深い意識性に由来するもので、それこそが越境者が必然的に自らのものとする資質なのである。
(この項おわり)

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ジェフリーさん、読売文学賞受賞おめでとう(1)

2017年02月06日 | 玄文社

 2月1日、第68回読売文学賞受賞者の発表があった。詩歌俳句賞には、玄文社が発行する「北方文学」第74号の巻頭に作品を寄せてくださった、ジェフリー・アングルスさんの詩集『わたしの日付変更線』が選ばれた。
 すでにこのブログにも『わたしの日付変更線』について書いているが、受賞にあわせてもう少し書いておきたい。
 まず、1月26日の新聞紙上に発表された、詩人の平田俊子さんの紹介文について。平田さんは次のように書いている。

「慎重に言葉が選ばれ、紡がれている。どの作品も巧みに仕上がっている。が、どことなく、ぎこちなさはつきまとう。日本語にたけた人でさえ、母語以外の言語で詩を書くことはかくも難しいものらしい。しかし、ぎこちなさこそ、この詩集の特色であり、魅力でもあると思う。なぜなら詩や言語をめぐる果敢な実験の産物だからだ。」(新潟日報)

 確かに〝ぎこちなさ〟というのはあって、「北方文学」に掲載した「あやふやな雲梯」についても、日本人の誰もが納得する表現とは言えない部分もあり、修正したい気持ちに駆られたが、直してしまうと詩句としての魅力の大半が失われてしまう懸念があり、最小限の修正に止めた(本人が「おかしいところがあったら直してくれ」と言うので)。
 ある意味でこのような在り方は詩人にとって僥倖とも言えるのであり、母語以外の言語で詩を書く場合にしかこのようなことは起こり得ないだろう。多分、小説ではそのような僥倖が作家にもたらされることはない。
 ところで、オバマ大統領の広島訪問に触発して書かれたという「あやふやな雲梯」について少し紹介しておきたい。第4連は次のようなものである。

 哲学者が言う
 荒れ狂う大洋にも
 鳴り始める雷雲にも
 崇高が宿っている
 落ちかかる断崖も
 荒廃のみ残す暴風も
 雄大であればあるほど
 人類を自己超越という
 方向に惹きつける

 ジェフリーさんの言う哲学者とは、イマヌエル・カントのことであるが、ここに示されている、恐怖をもたらす現象や凶暴性にも〝崇高〟の概念が含まれるという考え方は、カントが影響を受けたエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』で展開されたものである。
 カントもバークも、もちろん核兵器などを想定することは出来なかったわけだが、現代の美学は核兵器の凶暴な破壊力にも崇高の概念を見出すのであろうか。
 ジェフリーさんは多分そのことを否定している。最終の第5連はその証左と考えられる。

 振り返ってみると
 雲梯の計り知れない
 輪郭に見出すのは
 自分自身ではないか
 自己というものの限界と
 そのみすぼらしい
 壊れやすさ

 雲梯は「みすぼらし」く、「壊れやすい」。「あやふや」なものでそれはある。それにしても、いわゆるキノコ雲の輪郭を自分自身の存在に譬えるなどという発想が途方もないものではないか。
 バーク=カントの美学は崇高というものを内面化したのであり、ジェフリーさんは彼等の美学に依拠して、崇高なる破壊力というものを内面化して見せた。それを自己否定によって乗り越える作業が、この作品として結実しているのだと私は思う。

ジェフリー・アングルス「あやふやな雲梯」(2016、「北方文学」第74号)


 

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