玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

北海道のフキ

2011年09月02日 | 日記
 札幌に用事ができたので、お盆休みを利用して、道東を回ってくることにした。北海道には何回も行っているが、道南、道央中心で、道東には足を踏み入れたことがなかった。念願の旅を実現することができた。
 札幌~釧路~川湯温泉~知床~網走と回ったが、目についたのは今まで見たことのなかった巨大なフキであった。札幌~釧路間は鉄道で移動したが、沿線のいたるところにそれは群生していた。
 とにかく葉っぱがバカでかい。柏崎地方のフキは葉の直径が五十~六十センチくらいだが、北海道のはその倍くらいある。茎の高さも一メートル以上あり、茎の直径も、細いところで三センチ、太いところでは五センチくらいのものもあった。
 このフキは、秋田県で栽培されているアキタブキといわれるものらしいが、道東のどこに行ってもいたるところに生えているのにびっくりした。釧路湿原の木道で間近に見るフキは、まるで恐竜時代の巨大植物のようであった。
 北海道では雨が降っても傘はいらない。このフキを切って、傘がわりにすることができる。また、どこにでも密生しているから、食材としても豊富に利用できる。しかし、八月のフキは茎が赤くなっていて、とても食欲はそそらない。
 知床のホテルの朝食に、このフキを煮たものが並んでいたが、赤くはなく濃い緑色をしていた。あとで調べると、六月頃から茎が赤くなってくるのだそうで、赤くなると繊維が硬くなり、食用にはしないのだという。
 ホテルの朝食に出たものは、六月以前に採ったもののようだ。不気味なイメージで食べなかったが、それを食べた連れは、「おいしかった」と言っていた。食べればよかった。

越後タイムス8月26日「週末点描」より)


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ジュノーのアニメ

2011年09月02日 | 日記
「僅か一発でこの破壊力を持つ原子爆弾の恐るべき能力には驚いた。その原子爆弾を人類として最初に体験した広島市民には全く同情の外はない。われわれはかかるものを二度と再び使用しないですむようつとめなければならない」。
 マルセル・ジュノー博士が当時の新聞に発表したコメントである。広島市民にもあまり知られていないというジュノー博士のことは、大田洋子の『屍の街』(一九四八年十一月)という小説にちゃんと出てくる。この小説は、大田が自らの被爆者としての体験だけではなく、その後の資料等も含めて、冷静に原子爆弾というものの意味を徹底して追求しようとしたものだ。
 津谷静子さん制作の「ジュノー」を見せてもらって、初めてマルセル・ジュノーという人の生涯にわたる活動について知ることができた。とりわけ、スペイン内乱時における捕虜の交換に果たした功績は大きく、被災地広島に十五トンの医療品を送って、多くの人命を救った業績は偉大である。
 しかし、戦争の惨禍を伝えようとする時に、なぜ近頃は、アニメや紙芝居、絵本といった視覚的手段が多用されるのかよく理解できない。“子供達にも分かりやすいように”という気持ちは分からないでもないが、アニメはお金がかかりすぎるし、上映も簡単ではない。正確さという点でも制約が大きい。
 もっと言葉の力を信じたい。大田洋子の『屍の街』だけでなく、ヒロシマ・ナガサキの惨禍を描いた代表的な小説の数々が、今年六月に刊行された集英社の「戦争×文学」地域編19に収載されている。

越後タイムス8月12日「週末点描」より)


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高級メロンなみの……

2011年09月02日 | 日記
 今年は節電対策ということで、どこでも緑のカーテンの取り組みが行われているが、とりわけゴーヤが使われることが多い。節電もでき食べることもできるという一石二鳥をねらうのだ。
 我が家も例外ではなく、六月にネットを買って南向きの窓にセットし、ゴーヤの苗三本を植えた。あれから約二カ月。いやというほど黄色い小さな花を咲かせるのに、いつまでたっても実をつけないと思っていたら、ようやく指の先ほどのゴーヤの実を発見した。
 二週間ほどで約十五センチの長さに成長した。買った苗はずんぐりタイプの品種であったから、丸々と太ってつやつやとした緑色に光っている。もうじき食べ頃になるだろう。しかし、他に結実しそうな様子もなく、今年の収穫はたった一個ということになりそうだ。
 苗は一本四百円位、ネットは八百円位だったから、しめて二千円もかかっている。一個二千円の高級メロンなみのゴーヤを、ありがたくいただくことにしよう。
 ところで、ゴーヤ(当時はニガウリと言った)を初めて食べたのは三十年前、天草生まれの友人宅で振る舞われた時だった。初めて見た時、「何だこれは」とうろたえた。イボイボのついたグロテスクなキュウリのようで、「食えるのか」とさえ思った。
 当時、沖縄・九州地方では栽培されていたが、本州の人間は見たこともない野菜だった。三十年経って、どこでも栽培されるようになり、スーパーにも並び、緑のカーテンにまで利用されるようになった。最初に食べた時は、生のままスライスし、カツオブシをまぶし、醤油をかけて食べた。思いっきり苦くて目が覚めるようだったことを覚えている。

越後タイムス8月5日「週末点描」より)


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