一体この小説では何が事実なのであるか? 26章の冒頭にこんな一節がある。
「ウンベルト・ペニャローサなる者は存在しない。虚構である。生きた人間ではなく、単なる作中人物なのだ。」
このような文章を読ませられて、読者はどう反応すればいいのだろうか。これと同じような言い方が、ドノソのもう一つの代表長編『別荘』には繰り返し出てくる。『別荘』では作者自身が物語に介入して、「この話は作り話に過ぎない」ということを何度も繰り返す。
こうしたものの言い方は伝統的なゴシック小説における、物語の真実性を保証しようとする姿勢に真っ向から対立するものである。ゴシック小説や怪異譚には「この物語は私が体験したことであるから事実である」というような断り書きがよく出てくるが、18、19世紀の読者には必要であり、有効であったかも知れないそんな保証も、20世紀、21世紀の読者には必要でもなければ有効でもない。
たとえば『夜のみだらな鳥』を読んで、ウンベルト・ペニャローサ、つまりは《ムディート》が現実に存在すると考える読者がいるはずがない。『夜のみだらな鳥』が全くの虚構でないと考える読者もまた、いてみようがないのである。
我々は『夜のみだらな鳥』をホセ・ドノソの想像力の全面展開として読み、その奇怪な想像力に動揺させられるという体験を楽しめばいいのである。この小説の中でもグロテスクの白眉とも言うべき、リンコナーダの屋敷の物語はそのように読まれるほかはない。
ドン・ヘロニモが畸形の息子の誕生に際して、どのように反応したかについてはすでに読んだ。ヘロニモは上院議員であり、「調和の美の模範」とまで言われる人物である。そのヘロニモが《ボーイ》のために、リンコナーダの屋敷に国中から畸形者たちを集めて隔離するなどということを行うのは、彼の生き方にとって矛盾してはいないだろうか。ドノソが嫌うブルジョワにそのような奇態な行動を起こさせていいのだろうか。
一瞬そんな疑問にとらわれるが、しかし、リンコナーダの物語は有無を言わせぬスピードを持って展開していく。ドン・ヘロニモはリンコナーダの屋敷から「外の世界を暗示させる家具、壁掛け、書物、絵などのすべて」を運び出させ、「外部に通じるドアや窓をすべて閉め切らせた」。
リンコナーダの屋敷は外部のない世界、「畸形が例外ではなく常態である世界」と化す。それは《ボーイ》が自分が畸形であるということを認識できない世界に他ならない。そこには正常な人間がいてはならないし、中庭の石像もまた畸形の人間の姿に作られている。
そこでは畸形という概念もなければ、正常という概念もない。もし正常者しかいない世界があるとすれば、そこでは畸形という概念はあり得ない。そんな世界を裏返したのがリンコナーダの屋敷なのである。
ドン・ヘロニモの基準とは次のようなものである。
「ドン・ヘロニモは細かいことまで指図した。《ボーイ》を取り巻くものは、醜かったり、賤しく下品だったりしてはならない。醜悪と怪異とはまったく別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異は、やはり美と対等の特権を与えられなければならない。デン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがその誕生の日から息子の与えたいと願ったのは、ただひとつ、怪異なるものだった。」
そして
「鼻も下顎もゆがみ、黄色い乱ぐい歯がむき出しになった畸形。巨人症の男たち。亡霊のように肌が透きとおっている白子の女たち。ペンギンの手足とコウモリの耳を頂戴した少女たち。彼らの肉体的血管はもはや醜悪の域を超えて、怪異という、あの高貴な範疇にまで達していた。」