玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

希望を失っていない

2013年03月27日 | 日記
 十六日に柏崎地域国際化協会が開いた日中関係をめぐるシンポジウムを取材して、いろんなことを考えさせられた。柏崎には中国に友好都市が三つもあること、それなのに現在柏崎市には日中友好協会がないこと等について、複雑な思いがした。
 国際化協会が一昨年に公益財団法人となった時に、旧柏崎市刈羽郡日中友好協会を引き継いだ形になっていて、“日中友好”の文字は消えた。故田中角栄元総理も寂しがっているだろう。
 しかし日中友好の太いパイプは旧西山町と旧高柳町にあったので、旧柏崎市の関心は薄かったという。旧柏崎市刈羽郡日中友好協会の植木征雄さんによれば、平成三年に峨眉山市で良寛詩碑の除幕式があった時も、旧柏崎市からの参加はほとんどなかったという。
 柏崎市には、戦前に満州開拓団を送り込んで、ソ連軍侵攻によって悲惨な体験を強いられた歴史がある。だから、黒龍江省との関係も苦い思い出とともにある。中国側にとっても愉快な歴史ではなかったはずだ。
 しかし、多くの開拓団の子供達は、中国人に引き取られて、中国人として成長することを許された。反日感情から日本の子供達を放置していたとすれば、多くの残留孤児達の今日はない。民衆レベルではそうなのだ。敵国の子供であれ、不憫でないはずはない。
 今日の中国の反日感情は、主に国内事情によっている。国内に国民の不満が鬱積し、内政が不安定になれば、政府は排外的なナショナリズムを煽り立てて、国民を一致団結させようとする。
 それは、歴史上、何回も繰り返されてきたことで、かつて日本が「鬼畜米英」を唱えた時もそうだった。中国に対しては冷静に“待つ”しかない。十六日のシンポジウムでも、発言者の誰一人希望を失ってはいなかった。

越後タイムス3月25日「週末点描」より)

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長谷川龍生氏の新作

2013年03月27日 | 日記
 あれから三年目の三月十一日がやって来ようとしている。あの時、あれほど喰い入るように見つめた大津波の映像を、その後正視できなくなった。破壊された福島第一原発の映像がテレビで流されれば、眼をそむけないではいられない。直視すべきなのだろうか。直視して、記憶に止めておくべきなのだろうか。それが“風化させない”ということなのだろうか。分からない。
「現代詩手帖」という月刊誌がある。大震災直後から機関銃のようにツイッターで詩を発信し続けた、福島の和合亮一氏による最新作が掲載されている。「廃炉詩篇」最終回の「馥郁たる火を」という一編である。タイトルは西脇順三郎の「馥郁タル火夫ヨ」のもじりである。
 器用だ。「闇夜/十万年の孤独に/私の死はあざ笑われている/死よさらば!/私の死は知らないうちに/宇宙の子どもになっている/放射能の夜更けのなかで」という出だしからしてそうだ。しかし、和合氏のはアジテーションのうまさであって、それ以上ではない。彼の作品は残らないだろう。彼は彼で“それでいいのだ”と言うだろう。
 多くの詩人が二年前の三月十一日を境に、絶句するようにして詩を書いた。高齢の大家でさえ例外ではなかった。柏崎で講演したこともある長谷川龍生氏も恐らく二年ぶりの新作「胞衣と空間線量」という一編を「現代詩手帖」に寄せている。妄想のようなイメージ喚起力と言葉のリズムに目眩がする。
「どよめき 空中におどる 指さきの打音/杖があった 老女の杖 にらんで立ちつくしている一本の杖/飢え 兵器 死にたえていく子供/たらし ひきずっていく 胞衣」
 これが八十五歳になる老詩人の創造力の産物とはとても思えない。しかし、ここには、大震災の記憶だけでなく、戦争の記憶が深く刻まれている。詩はすでに若者の文学ではない。二年前から特に、詩は多くの経験と表現を積み重ねてきた者の文学となった。

越後タイムス3月8日「週末点描」より)

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指標にならない

2013年03月27日 | 日記
 市の「市民節電所モニター事業」の結果報告が先月末に出された。節電=発電という考えで市民からモニターを募集し、七月から九月の夏期の節電量を調査したものだ。実は我が家もモニターとして参加したので、その結果に注目した。
 家にはクーラーが五カ所にあるが、昨年は猛暑にも拘わらず、ほとんど冷房を使用しなかった。時間帯によって冷房なしでも何とか我慢できる部屋があり、そこで仕事をすればよいと分かったからだ。
 しかし、モニター事業の結果は惨憺たるものだった。一般家庭九十世帯で九百七十五kwhの節電ができたものの、五十一の事業所では逆に使用電力量が八万八千八百六kwhも増えたため、節電ができなかったという結果に終わったのだ。平成二十三年度は東日本大震災の影響で事業所の節電意識も高かったし、その後の景況の推移も影響しているのだろう。
 モニターには節電意識の高い家庭が応募するだろうし、二年続けて取り組めば自ずと限界はある。百サンプルくらいではとても指標とはならない。景況に左右される事業所のサンプルも参考になるとは思えない。
 ところで、容易ならぬ事態が中国で進行している。PM2・5による大気汚染の深刻化で、防塵マスクや空気の缶詰までが飛ぶように売れている。国民の健康や生命よりも経済発展を優先させてきたことのツケが回ってきているのだ。数年前、北京に行ったことがあり、いつも空が薄汚れていたことを思い出すが、その比ではない。
 二度と、上海にも北京にも行きたくない。いずれあの国は思い知るだろう。しかしPM2・5の影響は日本にも押し寄せてくる。いろんな意味で「アジアはひとつ」なのだ。

越後タイムス2月25日「週末点描」より)

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いびきしか……

2013年03月27日 | 日記
 五年に一回くらいしかやらない書斎の整理をやっていたら、亡くなった叔父さんからもらった資料が出てきた。叔父さんは肺の組織が繊維化していくという奇病と四年間闘った末、昨年十一月、帰らぬ人となった。
 勤勉な人でよく本を読んだ。自らの病いについて、徹底的に知りたかったのだろう。資料を集め、医者に説明を求め、記録を取りなどしたものを「時間があったら読んでみてくれ」と私に託したのだった。しかし、読んでもどうすることもできなかった。
 勉強熱心な人だった。内山知也先生の講座にも通っていたし、市内で文化講演会などがあると、必ず参加していた。なかでも、全国良寛会参与だった故駒谷正雄さんに心酔していて、駒谷さんが亡くなった時などは、虚脱状態に陥っていた。
 ただし、居眠りが得意な人でもあった。講演会に取材に行くとよく一緒になったが、時々大きないびきが聞こえて、「どっかで聞いたような」とふり向くと、叔父さんだったりしたことがたびたびあった。
 ある時、講演会と別の取材がぶつかったことがあって、叔父さんが講演を聴きにいくのであれば録音してもらおうと、ICレコーダーを託したことがある。快く引き受けてくれた叔父さんだったが、そこに大きな危険がひそんでいることを失念していたのである。
 録音スイッチの入れ方とか、そういう問題ではない。ICレコーダーは誰でも簡単にスイッチを入れられるし、録音に失敗する可能性も少ない。危険は別のところにあった。
 ICレコーダーを返す時、叔父さんは「いやいや居眠りしちゃったよ」と、バツが悪そうに言うのだった。居眠りしたって録音されていれば大丈夫と思ったが、そう甘くはなかった。その講演が始まって五分もするといびきが聞こえだし、それは次第に大きくなって、その後はいびきの音だけが延々と録音されていたのだった。

越後タイムス2月8日「週末点描」より)

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