玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

木下さんと信濃デッサン館へ

2008年08月30日 | 日記
 五月に柏崎で個展を開いた鉛筆画家の木下晋さんから電話があり、「二十三日に柏崎に行くが、その後あんたを拉致したい」と言われるのだった。長野県上田市の「信濃デッサン館」別館の「槐多庵」で「木下晋展」が開かれ、昔の油絵が展示されるので、「是非あんたにオレの油絵を見てほしい」とのお誘いだった。
 大変光栄なことなので、すぐに車で上田まで同行することに決めた。「信濃デッサン館」は二回目。すぐ近くに戦没画学生の作品を集めた「無言館」がある。「無言館」だけ見て、デッサン館を見ないで帰る人も多いが、館主・窪島誠一郎さんの主眼はデッサン館の方にある。昭和初期のいわゆる“夭折の画家”の作品を集めた、特色ある美術館である。
 「槐多庵」の名は村山槐多からきている。二十二歳で死んだ、原始的エネルギーを感じさせる絵を描いた人だ。一階には柏崎でも展示された鉛筆画が展示されている。木下さんの油絵は二階にあった。自由美術展に史上最年少の十六歳で入選した作品や、鉛筆画に転向する以前の油絵の大作群を初めて見せてもらった。
 木下さんの油絵には、村山槐多以上に原始的エネルギーを感じさせるものがあった。赤ん坊の頭や妊婦の腹、頭蓋骨のようなものが妖しく“発光”している。それは“生命の光”には違いないが、あまりにも不気味で恐ろしく、“始源の生命の胎動”のようなものに思わずおびえてしまうほどだった。
 「火葬場の花」という作品は、靉光の描く花のようにおどろおどろしい。木下さんの絵の“恐ろしさ”には、その不幸な生い立ちが反映されているに決まっているのだが、人間としての木下さんは、いつも明るい。自分の作品を観ながら、「こんな絵、売れるわけねえよな」と屈託なく笑い飛ばすのである。
 窪島誠一郎さんにも紹介されたが、こちらも想像と違って“生きているのが面倒臭くてしょうがない”といった感じの方だった。

越後タイムス8月29日「週末点描」より)


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戦争伝える2大小説

2008年08月30日 | 日記
 北京オリンピックと甲子園野球の同時進行で、テレビも新聞もスポーツオンリー。八月十五日の終戦記念日もスポーツの熱狂で掻き消されてしまったようにさえ思えた。特に新聞は、一面から最終面まで、ほとんどスポーツ新聞のようでさえあった。
 そんな中、NHK教育テレビが十日に大西巨人の『神聖喜劇』についての特集を放送し、NHKテレビが十五日に太平洋戦争末期のレイテ戦についての特集を組んでくれたことは救いに思われた。
 十日の『神聖喜劇』特集については、実は午後十時からの放送を待ちかまえていたのだが、本を読んでいるうちに居眠りしてしまい、気が付いたら午後十一時近くになっていたので、見過ごしてしまったのだった。
 十五日のレイテ戦の特集は、居ずまいを正して見た。日本兵の消耗率九七%、死者八万人などという悲惨な戦場は、他にはなかった。NHKスペシャルは、それが日本軍の見通しの甘さに原因があったように言うが、そうではなかろう。ここがどうしても引けない最後の決戦の場であることを、旧日本軍は認識していたのだったと思う。
 日本兵の悲惨を極めた敗走については、大岡昇平が『レイテ戦記』でつぶさに記録している。米軍による艦砲射撃のすさまじい破壊力、“タコ壺”に入ったまま米兵の火焔放射機で焼き殺される日本兵、幽鬼のようにさまよい死んでいく敗残兵の姿を描いて、『レイテ戦記』は戦争文学の最高峰に位置している。
 一方、大西巨人の小説『神聖喜劇』は対馬の守備隊、いわゆる内務班における日本軍の理不尽なあり方を描いて、これも戦争文学の最高の達成と言える。一昨年劇画化されて注目をあびたが、こちらはただ単に原作に忠実なだけで全然面白くない。絶対に原作を読むべきである。
 『神聖喜劇』は内側から軍隊の矛盾を描く。『レイテ戦記』は太平洋戦争の全体像をレイテ戦に象徴させる。大岡昇平と大西巨人の二著は、先の大戦がどのようなものであったかということを知る上で、どうしても欠かすことのできない著作である。この二著が読み継がれるならば、“戦争の記憶”が失われることはないと思っている。

越後タイムス8月22日「週末点描」より)


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神林勇さんの『キナバルの友』

2008年08月11日 | 日記
 毎年八月には、戦争体験記を読むことにしている。義務としているわけではないのだが、不思議とそうなる。今年も元日石加工工場長の森敏明さんから、先月ソフィアセンターで航空写真展を開いた神林純夫さんの養父である神林勇さんが、ボルネオでの体験記を残していることを知らされ、お借りして読んだ。
 『キナバルの友││一石油技術徴員の追憶││』という題で、この本は先の戦争に兵士として参加した立場からではなく、一技術者として徴用された、いわゆる“軍属”の立場から書かれた本である。今までそうした視点で書かれた体験記を読んだことがなかった。考えてみれば、戦争は兵卒だけでなく技術者をも大量に必要としたのだった。
 神林さんは市内藤橋生まれ。日石柏崎製油所に就職し、昭和十六年にボルネオに徴用される。イギリス軍が撤退時に破壊したルトン製油所を修復し、日本軍のために使えるようにするのが仕事であった。日本の技術者の高い技術力に驚かされる。神林さんはイギリス軍が残した車を次々と修理し、製油所を復旧させ、航空機用ガソリンの製造に成功する。
 ある意味では兵士よりも有能で有用であった神林さんであったが、アメリカ軍の空襲で負傷すると、日本軍には完全に見捨てられ、たった一人で松葉杖でのジャングル逃避行を強いられる。逃避行は三カ月に及ぶが、神林さんを助けてくれたのは現地の部族であり、その家族であり、日本から来たパン屋の娘だった。
 ジャングルでの食糧調達の様子が、冷静かつ合理的で圧巻である。一人で生き抜いた神林さんの日本軍に対する怒りにも説得力がある。神林さんは昭和五十六年と五十九年に現地を訪れている。死んだ同僚への慰霊と、自分を助けてくれた現地人に感謝の気持ちを伝えるためだった。
 “キナバル”はボルネオの最高峰、キナバル山。

越後タイムス8月8日「週末点描」より)


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22万人の限界を超えるには

2008年08月02日 | 日記
 ぎおん柏崎まつり、海の大花火大会を、有料桟敷席のすぐ隣りの無料特等席で見ることができた。西港町に住む親戚に頼んで、席を確保してもらったのだが、朝六時から並んでくれたそうで、申し訳ないことをしたと思っている。
 今年は柏崎商工会議所が一千万円の花火を打ち上げるというので、その花火を撮影するのが目的だった。自分では花火の撮影などできないので、友人のカメラマンを頼んでの花火鑑賞だった。いつも思うのだが、海中スターマインが最初に登場すると、一斉に大きな歓声が上がる。
 地元の人間は見慣れているので、それほど驚かないのだが、日本観光協会の丹羽副会長は、初めて見て「最初は打ち上げに失敗して、ミサイルのように横に発射されてしまったのかと思った」と言っておられた。初めて見る人はそれほどにびっくりするのだ。
 千葉から来た“花火鑑賞士”の後藤金作さんは、「海中花火は和歌山でもあるが、船で海上に花火を落として、炸裂する前に逃げるやり方をとっている」と言っていた。それでは迫力十分とはならないだろう。港があり、突堤を発射台として使える利点を、柏崎の花火は最大限に活かしているのである。
 ところで、二十六日の人出はものすごかった。浜辺は立錐の余地もなく、帰りは人混みで酔ってしまうほどだった。公式発表は二十一万五千人というが、まさか一人ひとり数えることもできまい。駐車場の利用状況等から推測するのだと思うが、確か過去に二十二万人という記録があった。
 それよりも、はるかに多かったと思うのだが、今年は“二十一万五千人”という発表に止めたところに、来年以降への期待があるように思われる。陸上では二十二万人が限度だといわれる。今年も佐渡から船で花火見物にやって来た人もいたという話も聴くが、海上からの見物客を増やす工夫をすれば、二十二万人の限界を突破することも夢ではあるまい。

越後タイムス8月1日「週末点描」より)


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