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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(20)

2018年06月18日 | ラテン・アメリカ文学

 そのような自伝的記述もおそらくは虚構ではない。時に『夜のみだらな鳥』の中に現れるそうした部分は、この小説全体が持っているある性質をかいま見せるものとなっているように思う。
 この小説全体を貫く幽閉のイメージ、より詳しく言えば、自分自身の内部に閉じこめられていくイメージは、決して虚構ではありえない。この小説は最後に、老婆たちによって包みの中に縫い込められていく《ムディート》の場面で終わっているが、その執拗さと衝迫力はそれがホセ・ドノソ自身が自分自身に対して抱くイメージに還元されることを示している。
 近いうちに取り壊しになるであろう修道院の喧噪の中で、《ムディート》は包みにされていながらも、ひとたびは平静を回復し、安心を得る。

「もはや誰もいない。おれは無傷のままの明晰さを回復した。おれの思考はふたたび秩序だったものになり、透明な意識の底へと下降して、その光によって究極的な不安を隠蔽された曖昧なものをあばき出す。」

「このなかにいれば、おれは安全なのだ」と《ムディート》は考え、自分には外部などは存在しないと思うのだが、と近くで咳の音や息遣いが聞こえてくる。《ムディート》は好奇心に駆られてあがき始める。

「なんとしても見たい。ぜひ、ぜひ見てみたい。だが、この欲求と一緒に恐怖も生まれる。すぐ横で呼吸をし咳をしているその影の顔を見たいという欲求。視覚と外部とを回復したいという欲求。おれは歯を立てる。口をふさいでいる袋を噛む。外部にいるその影の表情を見るためにかじる。かじり続ける、太い糸を、結び目を、当て布を。ロープに歯を立てる。おれは引き裂く。だが、それで終わりということはない。さらに別の袋がある。征服するのに百年、貫通するのに千年はかかりそうな層がある。」

 自己閉塞のさなかにあっても外部への好奇心は消え去ることはない。それがドノソ自身の歴史への認識であるかのように。あるいはまた、人間にとっての自己意識はそれぞれ外部というものを持たず、孤独の中に閉じこめられているにも拘わらず、外の誰かを求めて閉塞の袋を食い破ろうとするのだという、ドノソの世界認識のように。
 しかし、ようやく出口を求め、袋から抜け出すことができると思われたその時、別の手が……。

「もう一度、穴を開けるのだ。おれの爪は出口を求めて、袋の地層を掻きまわす。爪が割れる。指から血が流れる。指先が裂け、節が赤く染まる。もう一枚、もう一枚、そしてもう一枚、やっと穴が開く。ところが外の手が、おれという包みをひっくり返し、ひとことも口をきかずに、再び口を縫いふさぐ。」

 再び《ムディート》を袋に閉じこめようとする〝外の手〟とはいったい誰のものなのだろうか。ここで〝外の手〟は象徴性を帯びてくるが、もともと老婆たちによって包みに縫い込まれる《ムディート》の存在自体が象徴的なものであった。
『夜のみだらな鳥』全体は、それを事件の連鎖としてではなく、そのような象徴性のもとで読まれなければならない。それはホセ・ドノソ自身の自己意識と抜き差しならぬ形で絡み合っていて、この小説を異常に内向的で内面的なものにしている。
 小説全編は悪夢のような閉塞状態に置かれた自己意識が、妄想の中で外部をデフォルメし、内部をデフォルメし、人間をデフォルメする、グロテスクな世界と化す。バルガス=リョサが言うようにホセ・ドノソは、ラテンアメリカ文学ブームの中にあって、もっとも〝文学的な〟作家であった。〝文学的〟ということの意味はそこに求められる。

 

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