諏訪はあとがきで、次のように語っている。
「本書では、新刊販促の意味も持つ通常の「書評」のように、おおまかな「あらすじ」を概観するなど、読者への「商品」案内の利便にはいっさい頓着していない。まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで、いきなり「文章」をフォーカスし、引用している。読書にとってはほんらい、全体は不要というか、あくまでも参考にすぎず、ひとつの極まった文章さえあれば、それだけで文学的トリップは可能だ。」
確かに「あらすじ」など、ほとんどどこにも紹介されていない。このような書き方は、私には馴染みのもので、私自身このブログで小説を批評するときに、あらすじを書くことを極力避けてきたからだ。「全体は不要」というよりも、諏訪はやはり物語への評価を低くしているからであって、小説全体というものは把握されていなければならないと、私は思うが。
あらすじを組み立てることはそれほど批評的な行為で時はない。ある意味でそれは祖述としての意味しか持たないし、作者の思惑に忠実に沿った行為であって、むしろ批評的なのは〝引用〟という行為なのである。諏訪は「まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで」と書いているが、膨大なテクストの海の中から、他の大部分を度外視して、わずか一滴の水を掬い上げる行為が、用意周到で、戦略的な批評行為でないはずがない。
そしてさらに、あらすじ紹介は必ずしも読者をその作品に誘い込む手段としてはレベルの低いものであって、必ずしも読者はそんな誘導に引っ掛かりはしないのである。しかし、吟味されて選択された引用文は、読者を誘惑する手段として第一級のものだ。読者は批評によって選択された、その作品の中で飛び切り重要な部分にじかに触れることができるのであり、引用文と批評者のコメントによって、倒錯的な〝読む〟という行為に誘い込まれずにはいないからだ。
『偏愛蔵書室』には何本か漫画について書かれた書評があるが、漫画を論ずるときに以上のような経緯は露骨に示される。私もかつて偏愛した林静一の『赤色エレジー』からの引用は鮮烈を極めている。『赤色エレジー』を表面的に読めば、昭和の時代の若い男女の同棲生活を描いたものだ。だからよく、南こうせつの「神田川」を引き合いに出して語られることもあるこの作品だが、諏訪はそのことに真っ向から否定的である。
林の『赤色エレジー』は、青春時代へのノスタルジーによって描かれたものなどでは断じてないし、この漫画を唄にしたあがた森魚の「赤色エレジー」などは、林の原作に泥を塗る冒?的なものでしかない。そのことは本書22頁・23頁に引用された林の絵を見れば一目瞭然である。
この時代ならば「ねじ式」のつげ義春だけが可能にした、実験的描法に近い頁が、諏訪によって引用されていることを見なければならない。誰もこんな風には漫画を描かなかった、そのことの重要性を諏訪は引用によって、批評的に提起しているのである。引用とはこのように批評の極意であり得るのだ。
さて、3月まで『アサッテの人』を我慢して読まずにいることができるだろうか。
(この項おわり)