玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

諏訪哲史『偏愛蔵書室』(5)

2023年01月20日 | 読書ノート

 諏訪はあとがきで、次のように語っている。

「本書では、新刊販促の意味も持つ通常の「書評」のように、おおまかな「あらすじ」を概観するなど、読者への「商品」案内の利便にはいっさい頓着していない。まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで、いきなり「文章」をフォーカスし、引用している。読書にとってはほんらい、全体は不要というか、あくまでも参考にすぎず、ひとつの極まった文章さえあれば、それだけで文学的トリップは可能だ。」

 確かに「あらすじ」など、ほとんどどこにも紹介されていない。このような書き方は、私には馴染みのもので、私自身このブログで小説を批評するときに、あらすじを書くことを極力避けてきたからだ。「全体は不要」というよりも、諏訪はやはり物語への評価を低くしているからであって、小説全体というものは把握されていなければならないと、私は思うが。
 あらすじを組み立てることはそれほど批評的な行為で時はない。ある意味でそれは祖述としての意味しか持たないし、作者の思惑に忠実に沿った行為であって、むしろ批評的なのは〝引用〟という行為なのである。諏訪は「まるで無作為にぱっと本を開くかのような唐突さで」と書いているが、膨大なテクストの海の中から、他の大部分を度外視して、わずか一滴の水を掬い上げる行為が、用意周到で、戦略的な批評行為でないはずがない。
 そしてさらに、あらすじ紹介は必ずしも読者をその作品に誘い込む手段としてはレベルの低いものであって、必ずしも読者はそんな誘導に引っ掛かりはしないのである。しかし、吟味されて選択された引用文は、読者を誘惑する手段として第一級のものだ。読者は批評によって選択された、その作品の中で飛び切り重要な部分にじかに触れることができるのであり、引用文と批評者のコメントによって、倒錯的な〝読む〟という行為に誘い込まれずにはいないからだ。
『偏愛蔵書室』には何本か漫画について書かれた書評があるが、漫画を論ずるときに以上のような経緯は露骨に示される。私もかつて偏愛した林静一の『赤色エレジー』からの引用は鮮烈を極めている。『赤色エレジー』を表面的に読めば、昭和の時代の若い男女の同棲生活を描いたものだ。だからよく、南こうせつの「神田川」を引き合いに出して語られることもあるこの作品だが、諏訪はそのことに真っ向から否定的である。
 林の『赤色エレジー』は、青春時代へのノスタルジーによって描かれたものなどでは断じてないし、この漫画を唄にしたあがた森魚の「赤色エレジー」などは、林の原作に泥を塗る冒?的なものでしかない。そのことは本書22頁・23頁に引用された林の絵を見れば一目瞭然である。


 この時代ならば「ねじ式」のつげ義春だけが可能にした、実験的描法に近い頁が、諏訪によって引用されていることを見なければならない。誰もこんな風には漫画を描かなかった、そのことの重要性を諏訪は引用によって、批評的に提起しているのである。引用とはこのように批評の極意であり得るのだ。
 さて、3月まで『アサッテの人』を我慢して読まずにいることができるだろうか。
(この項おわり)

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諏訪哲史『偏愛蔵書室』(4)

2023年01月19日 | 読書ノート

 ナボコフの項は本書の巻末に置かれていて、特別の意味を与えられている。だからナボコフの項の最後は『偏愛蔵書室』全体を締めくくる、次のような一節で終わっている。

「なべての人の愛は「偏愛」である。それは純真であればあるほどむしろ背き、屈折し、狂気へ振れ、局所へ収斂される。人は愛ゆえ逸し、愛ゆえ違う。慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々。それこそが、僕の狭い蔵書室から無限を夢みて開く、これら偏愛すべき本たちである。」

 ここでは倒錯が本を愛し、本を読むことと結び付けられている。ひとに隠れ、秘かな悦びを求めて〝読む〟こと、これほどに倒錯的な行為があるだろうか。「慎ましく花弁を閉じる倒錯の花々」を、人知れぬ隠微な悦びをもって、ひとつひとつ開いていく行為を倒錯と呼ばないわけにはいかない。花々が倒錯しているのではない。花々を開いていく行為が倒錯そのものなのである。そして、すべては〝読む〟ことによってしか始まらない。
 諏訪は本書のあとがきで、読むことへの執着を次のように語っている。

「不謹慎を承知でいうなら、本当は、僕は、ただ書きつづけるという生き方より自分で買った本をひたすら「読み続ける」人生をこそ送りたい。もとより、作家になっていなければそうするつもりだった。」

 書くことよりも読むことに重点を置くこのような姿勢もまた、小説家よりも批評家的なあり方だと言えるだろう。小説はなにも読まずに書くことができるが(読んだ方がいいに決まっているが、私はかつてほとんど小説を読まない〝小説書き〟に出会ったことがある)、批評は作品を読まずに書くことが決してできないからである。批評が作品との出会いによってしか発動されないことは、言うまでもないことだろう。
 諏訪が次のように書くとき、彼は読むことの重要性をあくまでも強調しているのである。その一節は石川淳の項末尾に置かれている。

「遠くセルバンテスの世から小説とは世界を綜合し書くことではなく、分解し読むことだった。拾得の錯乱する箒(石川淳の「普賢」参照)こそは文学に病んだ現代人の好個の筆、僕らが世界を読むための筆だ。さても事の本質は読むことなのであった。」(カッコ内引用者)

 書くことの前に読むことがあるというのではなく、書くことの本質の中に読むことがあるという主張は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』によって、諏訪が?んだ真実だったであろう。『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテは、あまりに多くの騎士道物語を読んだために気がふれてしまい、自分が遍歴の騎士になったつもりになって、愚行を重ねるのである。
 主人公の〝読み〟だけでなく、作者セルバンテスの世界に対する〝読み〟もまた、主人公の存在を通して、書くことの中に胚胎しているのであった。『ドン・キホーテ』では、読むことはいささか道化に似ているが、批評とは道化のようでありつつ、読むことの倒錯を実行するものであるとも言えるのではないか。
(つづく)

 

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諏訪哲史『偏愛蔵書室』(3)

2023年01月16日 | 読書ノート

 以上、諏訪哲史の小説における「物語」「批評」「詩」の要素についての議論を、批判的に検証してきたが、私は諏訪の考え方を完全否定しているわけではない。彼がレーモン・ルーセルの項で言っていることは、あくまでも正しいと私は思う。

「物語は普通、我々の物語元型への既知を巧みに利用し、それを模倣・再生する。つまるところ、すべての物語とは、既知の物語なのだ。」

 物語が既成の文学を補完するものでしかなく、制度としての文学を延命させるものでしかない、という考え方がここでは示されている。その意味で諏訪の言葉は正しい。しかし、〝未知の物語〟というものは存在し得ないのだろうか。想像力を全開にした驚異の物語は、未知の物語であり得るのであり、否定すべき物語の範疇を超え出ていくものとして評価できるのではないだろうか。それを物語と呼ばず、批評と呼ぶのだとすれば話は違ってくるが。ただ、既知の物語を超えていく営為がそのまま批評であると、私には言うことができない。
 諏訪哲史は芥川賞作家であり、小説家としてデビューした人だが、根っからの小説家は彼のようには考えない。虚構と物語はイコールではないかもしれないが、もっと虚構の可能性に賭けようとする姿勢を見せるのが普通の小説家である。ノーベル賞作家バルガス=リョサならば、小説における虚構というものを現実の世界に対する〝もう一つの現実〟として提起し、虚構が現実を乗り越えていく可能性に賭けるに違いない。
 そういう意味で諏訪の位置は、小説家よりも批評家に近いと言うことができる。ウラジーミル・ナボコフの項の冒頭にある次のような一節は、小説家の文章とはかなり異質なものがある。

「文学とは言語の病、倒錯である。優れた創作は優れた倒錯、優れた作者は優れた倒錯者、」芸術は闇に咲く、目映い倒錯の徒花である。」

 私はかつて、「批評と逡巡あるいは「批評」と「倒錯」」という文章を書いたことがあり、批評という行為を性的倒錯をも含んだ倒錯と同一視しようとしたことがある。というよりもむしろ、性的倒錯と表現論的倒錯とを意識的に同一化させて、批評という行為と対峙させたのであった。
 性的倒錯が人間の「内部」と呼ばれるものの空間的・時間的肥大とともに発生するのであるならば(このことについて詳述することはこの場ではできない。拙文を読んでいただくしかない)、表現論的倒錯と同じ発生源を持っていると思われたからである。私は別の「離反の融合」という文章で、次のように書いた。

「だから、「性的倒錯」なるものが独立に存在することはないし、「表現論的倒錯」なるものもまた、自律的に存在できるものではない。存在するのは、性的理解に限定されない、精神の運動としての「倒錯」そのものだけである。」

 私はその時、倒錯というものと批評というものを結び付けて考えたのだったが、諏訪はナボコフの項で、倒錯を文学一般あるいは小説そのものと結び付けて考えているのである。私にとっての批評は、倒錯の後ろめたさと強く結び付いたものであったし、諏訪にとってもそうであったであろうことは、「言葉の病」という後ろ向きの言葉や「倒錯の徒花」という否定的な言葉によって明らかである。
 しかし、そのような後ろめたさは克服されなければならない。諏訪の文章は倒錯を前向きに肯定する方向へと進んでいく。「ロリータ・コンプレックス(ロリコン)」の語源となった『ロリータ』を書いたナボコフは、「優れた倒錯者」であり、「優れた作者」でなければならないのである。ここにも性的倒錯と表現論的倒錯を、戦略的に同一化しようという姿勢が窺える。
 私もまた「倒錯とは倒錯からの快癒の運動である」というテーゼを立てて、開き直ることで後ろめたさを払拭することができたのだったし、諏訪もそうであったに違いない。
(つづく)

 

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諏訪哲史『偏愛蔵書室』(2)

2023年01月15日 | 読書ノート

 ただし、こうした考え方は、物語や批評、詩がそれぞれ独立して存在しているか、あるいは存在できるという固定的な考え方に結び付く恐れがある。たとえば、批評には物語がないかといえば、そんなことはないのであって、ミシェル・フーコーが自著『性の歴史』について「それもまた虚構である」と言ったように、哲学的論考でさえ虚構の一種として捉えることができるのである。
 私はこれまで批評だけを書き継いできたが、それが虚構であることを意識しないで書いたことはない。私は論理の筋道を〝物語〟のように構成してきたし、おそらく批評でさえそのように書かれざるを得ないのである。それが〝俗情との結託〟に陥るかどうかはまた別の問題である。
 また、批評が詩を孕む一瞬ということもあり得る。批評の文章を書いていく過程で、ある一文が啓示のようにしてもたらされることがある。諏訪は林静一の項で「何度でも言うが、使途は情念である以上に技法(テクネー)であり、ゆえにそれだけが技術(アート)となる」と書いていて、詩の技術的側面を強調しようとするが、それだけでは測れない部分がある。批評から見てもそのことは言えるが、詩それ自体から見るとすれば、〝詩=技術〟という議論は十分なものとは言えない。
 諏訪は横光利一の項で次のように書いている。

「内容だけを右から左へ伝達するもの、それが物語。これに飽き足らず、物語に変形・加工を施そうとする不断の革命精神が批評。批評の要請に応じて言葉を歪曲し、伝達にあえて迂路(うろ)を創り出す技術が詩だ。」

 このようなことを言われたら、多くの作家は腹を立てるに違いない。物語が「内容だけを右から左へ伝達するもの」でしかないとするならば、人間の想像力・創造力が否定されてしまうことになるからだ。我々は多くの超自然的な物語を知っているが、それらが読者に与える驚異の感覚について、それを単に「内容だけを右から左へ伝達するもの」と呼ぶことができるだろうか。
 また多くの詩人も腹を立てるに違いない。詩が批評を孕んでいるということは、ボードレールの時代から言われてきたことであり、小説だけが批評を要請するのでもなければ、批評が詩を要請するのでもない。ボードレールの詩が、彼の批評的営為によって支えられていたように、現代の詩人もまた世界に対する不断の批評的営為によって、初めて詩人たり得るのであって、彼が批評によって呼び出され、技術的要請によって存在意義を与えられると考えることは間違っている。
 ということは、「詩」が独立して「技法」や「技術」に還元される行為なのではないということを意味している。諏訪は「物語」と「批評」と「詩」が分業体制を受け持っているかのような言い方をしているが、そうした考え方はおかしいのではないか。「詩」と言わず、「ポエジー」(詩性)と言わなければならない。ポエジーとはひとが世界に対峙する中で、ある一瞬啓示のようにもたらされるものであり、それを簡単に技術に還元してはいけない。
 私の議論が不可知論的で、神秘主義的だと言うならば、ヴァルター・ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」を読んでみるとよい。そこには言語の本質が見事に捉えられていて、啓示ということが言語の本質的な在り方そのものによってもたらされるものであることが、示されているはずだ。ポエジーの発生する地点は恐らくそこにしかない。
(つづく)
 

 

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諏訪哲史『偏愛蔵書室』(1)

2023年01月14日 | 読書ノート

 三月までに諏訪哲史の『アサッテの人』を読むことになっていて、同じ著者による『偏愛蔵書室』という書評集を発見したので、さっそく読んでみることにした。古典的名作からマイナーな作品、初めて聞くような埋もれた作家の作品まで、百冊が取り上げられていて、私の読書傾向と近い部分もあり、面白そうだったので飛びついたのだった。
 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の項は、次のように書き始められている。

「世界文学史上最高の小説である。誰がどんなに頭から湯気を出して反論しようが、この事実だけは動かし得ない。」

 いきなりこんな風に言われると、私のように大学でフランス文学を学びながら、この大長編を読んだことがないという破廉恥漢には、言うべきことがなくなってしまう。しかも諏訪はこの書評のたかだか本書で三頁の文章を書くために、『失われた時を求めて』を三度目に読み返したというのだから恐ろしい。偏執狂である。私も結構書評を書いたことがあるが、その都度必ず読み返すということはしない。記憶に頼って読み返さずに書くことの方が多いし、そうでなければあまりにも労力が大きすぎて、言ってみれば費用対効果に疑問が発生する。
 しかし、諏訪が次のように続ける時、何とか発言していく手掛かりは与えられる。

「本作には要約困難な膨大な「物語」があり、物語よりも多く「詩」が、詩よりも多く「批評」がある。僕の知る限り、三要素をこれほど完璧な黄金比で体現した小説は存在しない。」

 これが本書における諏訪の小説観として、真っすぐに貫かれている考え方である。ここで大切なのは、20世紀後半に澎湃として巻き起こった物語否定論がさりげなく批判されていることである。プルーストの小説に「批評」が「詩」よりも多く、「詩」が「物語」より多くあり、それが黄金比で体現されているというからには、「物語」の比重が少ないということであるし、「物語」を諏訪が最重要視してはいないことを示しているとしても、「物語」が否定されているわけではないからである。
 フランスのヌーボー・ロマンの作者たちのやったことは、物語を全否定し、物語を解体して墓場に葬り去ることであったが、彼らは結局小説そのものを埋葬してしまった感がある。そのことがヨーロッパの小説の衰退・没落をもたらしてしまったことは、反省するに足ることであっただろう。
 一方で、ラテンアメリカ文学の隆盛は、それが物語を否定することなく、小説の屋台骨として物語を維持することによってもたらされたようにも見える。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』をその代表とみなすことができるが、では〝物語の復権〟ということを主張すればそれでよいのかというと、そんなこともないのである。
 21世紀に生きる我々は、物語ということに対して微妙な位置にある。物語という枠組みが、娯楽を求める俗情へのおもねりであったり、あるいは制度としての文学への保守的な姿勢によって保持されているのであるならば、それは否定的にみられても当然であろう。しかし一方、ラテンアメリカ文学に見られるように、物語が小説世界を活性化させる力を持っているのであれば、物語は小説にとって欠くことのできない要件だということもできる。
 つまりは、諏訪哲史のような考え方、小説はもともと物語・批評・詩という三つの構成要素を持ち、そのバランスの上に成り立っているという考え方を持ってすれば、我々のジレンマは解消されることになる。

諏訪哲史『偏愛蔵書室』(2014、国書刊行会)

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(14)

2022年04月01日 | 読書ノート

 寓意するものと寓意されるものとの対応関係が一義的なものであれば、寓意されるものは寓意するものをすぐにでも駆逐してしまうであろうから、そこに幻想が生まれてくることはない。トドロフは第一の意味がすぐに姿を消すような作品の価値を低く見ていて、あからさまに寓意を目的とするような作品は幻想文学ではあり得ないといっているのである。
 また意味の二重性が併存するような作品においてもまた、結局は幻想性が失われてしまうとトドロフは言う。二重の意味が併存するのは、寓意するものとされるものとの関係が多義的であるためであり、寓意されるものがすぐには寓意するものを駆逐できないからなのである。ここで私の議論はトドロフの議論に交差することができる。
 ならば幻想性を保持するためには、一義的であれ多義的であれ、寓意そのものを放棄するしかない。トドロフに倣って言えば、二重の意味を作品内において明示しないという方針が必要になってくるだろう。『裏面』がいかに寓意的な要素を持っているように見えても、クビーンは明白にそのような方針を貫いているし、そうである以上『裏面』を寓意小説と見なすことはできない。
 クビーンは第四章の最後で、「パテラという現象は解明されずに終った」と書いている。つまりクビーンは最初から「パテラという現象」を解明しようというような意図は持っていなかったのだ。パテラが意味するものが、単に寓意的なものではあり得ないものだからである。
 エピローグの最後の一節は、そういう意味で、寓意というものが到底到達できない深みに達している。前半を引用する。

「やがてふたたび生きてゆこうとするようになった時、私は自分の神が半分の支配権しか持っていないということを、発見した。大なり小なり、彼は生命をねらっている敵対者とすべてを分けあっていたのだ。突き離したり引きつけたりする力、それぞれの流れを持っている地球上の極、四季の移り変り、昼と夜、黒と白――それらはいずれも闘争なのだ。」

 この謎めいた文章は、色々な意味で示唆的である。「自分の神」とは直接的にはパテラのことを指しているが、それが「半分の支配権しか持って」おらず、敵対者と権力を分け合っていたのだということは、パテラもアメリカ人も「半分の支配権しか持って」いなかったことを意味しているし、そもそもこの二つの存在は互いに陰と陽として闘争を繰り返す、元々一体のものだと考えることができる。
 これがクビーンの世界観であり、これに続く以下の言葉は、それが同時に彼の人間観であり、神に対する認識でもあったことを示している。

「真実の地獄は、この矛盾した一人二役がわれわれの内心において継続されていくところにある。愛自体がその重心を「排泄孔と糞溜のあいだ」に持っているのだ。崇高な状況も、どうかすればおかしなものの、嘲笑の、皮肉の、手のなかに落ちこんでいきかねないのだ。

   造物主は半陰陽(Zwitter) なのである。」

 陰と陽との対立は「われわれの内心において継続されていく」のであり、それは「真実の地獄」を意味している。神にとってだけでなく我々自身の問題として。また陰と陽とが和合する「愛」の重心が「排泄孔と糞溜のあいだ」にあるのだとすれば、それは少しも崇高なものではあり得ない。陰と陽という東洋的な世界観は、ここで愛を司る器官への類推によって、半陰陽(ふたなり)としての神へと結論づけられる。
 すべては隠喩的であり、ここでのクビーンの言葉に寓意的な要素などまったくないのである。

(この項おわり)

 

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(13)

2022年03月31日 | 読書ノート

 以上のようにパテラは、神の似姿として造形されているが、それは遍在すると言いながら不在であり、約束を守ろうとせず、疲労に打ちひしがれた神としてなのである。ここには極めて現代的な神のイメージが示されているし、それはヨーロッパに関しての文明論的な探究の結果という意味さえ担っているように見える。だからパテラもまた多義的な存在であり、それを単に神の寓意として捉えることはできないのである。
 ところで、ツヴェタン・トドロフはその『幻想文学論序説』の中で、幻想文学と寓意との関係について、詳しく分析を行っている。寓意とはトドロフによれば、次のようなものである。

「第一に、寓意は同一の語群に少なくとも二つの意味が存在することを前提とする。ただし、第一の意味は姿を消すべきだとされることもあり、二つの意味が併存していなければならぬとされることもある。第二に、この二重の意味は、作品内に明瞭な方法で示されるのであって、特定の読者の解釈(恣意的であるとないとを問わず)に依存するものではない。」

 つまり寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)があって、それらが二重の意味を形成しながらも、寓意するもの(言葉)はすぐに姿を消してしまい、寓意されるもの(言葉)の支配権が確立される場合もあれば、二重の意味がさまざまなバランスの中で併存し続ける場合もある。また寓意の意味は読者の解釈にゆだねられるのではなく、作者によって明瞭に示されていなければならないということである。
 寓意するもの(言葉)が消滅してしまうような作品には「そこにはもう幻想のための場などはありはしない」(トドロフ)のであり、いかに超自然的な現象が描かれていようとも、それを幻想文学と呼ぶことはできないのである。一方二重の意味が保持され、寓意するもの(言葉)が消えてしまわないような作品の場合、寓意の構造はより複雑で精妙なものとなる。トドロフはそのような例として、バルザックの『あら皮』を挙げている。
 私はトドロフの定義にもう一つ、寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)との対応の一義性と多義性ということを付け加えてもいいのではないかと思う。寓意するものとされるものとの対応が一義的な場合には、そこに幻想性が保持される余地はまったくないが、その対応が多義的である場合には、そこに幻想性が保持される余地が残される。
 しかし、寓意の意味の解釈が読者にゆだねられることなく、作者によって明示されることが寓意の本質だとすれば、寓意するものとされるものとの対応が一義的であれ、多義的であれ、幻想性がいつまでも保持されることはないであろう。トドロフはバルザックの『あら皮』についても、「この作品の幻想は、寓意、それも間接的に指示された寓意の存在によって、殺されているのである」と書いている。
 クビーンの『裏面』は、一面では寓意的な物語とみなされることもあるかも知れないが、まず第一に、寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)との対応が一義的であることはない。『裏面』でのそれは極度に多義的であって、寓意されるもの(言葉)の一元的な支配は許されていないのである。

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アルフレート・クビーン『裏面』(12)

2022年03月27日 | 読書ノート

 アメリカ人ハーキュリーズ・ベルについて、彼が意味しているものについて寓意的に読み取ろうとしても、そう簡単にはいかない。時には経済至上主義的な勢力とも読めるし、彼が決起呼びかけの声明文に「呪術はたち切られねばならない!」と書いていることから、自由主義的な革命勢力を表象しているようにも読める。
 さらに声明文の最後で「すべての若者はルーチファー党員になれ!」と呼び掛けていることから、神と対立するものとして位置づけられているようにも見える。ルーチファーはルシファー、つまりは堕天使であり、悪魔と同一視されることもあるから、神の反対概念でさえある。しかし、アメリカ人はパテラを「サタン」と呼んで批判しているのであるから、本来の「光をもたらす者」として「サタン」に対立する存在とみなすこともできる。
 もともと「ハーキュリーズ」はギリシャ神話のヘラクレスのことであり、キリスト教にとっては異教の権力神であり、大きな暴力性を象徴している存在でもあるだろう。アメリカ人の表象するものがこれほど多義的である以上、それを単に寓意的に読もうとする試みは失敗するだろう。一方パテラの方はどうかと言えば、こちらは明らかにキリスト教の神のイメージをまとわされており、アメリカ人ほどの多義性はないかもしれないが、その代わりにヨーロッパがそれまで信仰してきた神とは、驚くほど異なった神の諸相を示している。だからパテラについても単純に神を寓意するものとして捉えることはできない。
 私が言う神の諸相は、「私」とパテラとの対決の場面に表現されているのである。最初の対決の場面で、まずパテラは「私」に次のように言う。

「君はいちども私のところへ来ることができないといって、苦情をいっているが、しかし私はいつでも君のそばにいたのだ。君が私を非難したり、私に絶望したりしている姿を、私はいくども見かけた。なにを君のためにしてあげればいいというのだ? 君の願いを言うがいい!」

 これが神の遍在の主張であることは明らかである。神は不在のように思われても、見えざる者として、いつでも人間のそばに寄り添っているということである。しかし、パテラの言葉は神の日常的な不在に対する言い訳のようにしか聞こえない。
 また願いを問われた「私」はパテラに対して、健康を害した妻を救ってくれと懇願し、パテラは「助けてあげよう」と答えるが、結局この約束が果たされることはなく、妻は死んでしまうのである。ここには救いの約束をしながらそれを果たさない〝神の約束不履行〟の姿が示されている。神は自らの責任を遂行することができないのである。
 二度目の対決で「私」はペルレの国の没落に際して、何もしようとしないパテラを難詰する。

「――私は最後の力をふりしぼって問いかけた。「パテラよ、きみはなぜ万事をなるがままにまかせているのだ?」」

「私」の問いにパテラは動揺したのか、しばらく返事を返さないでいるが、やがて返ってくる返事は次のようなものである。

「突然彼は金属的に響く低音で、「ぼくは疲れている!」と叫んだ。」

 約束を履行することもなく、責任を遂行することもない神は、今度は自らの疲労をその理由とするのである。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(11)

2022年03月22日 | 読書ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(11)

 一方、巨大化したアメリカ人ハーキュリーズ・ベルの変身の方は、グロテスクの極致ともいうべき相貌を見せていく。以下のような幻想場面を生理的な嫌悪感なしに読むことは難しい。

「今度は私は、遙か向こうの方に、いまやパテラの恐ろしい大きさを自分のものにしたアメリカ人の姿をみとめた。ローマ皇帝を思わせるその頭は、ダィヤモンドの閃光をはなつ両眼を見ひらいていたが、彼は悪鬼につかれたような痙攣を起こしながら、自分自身と闘っており、途方もなく彎曲しふくれあがった血管が、首筋のあたりでうねうねと青味をおびた網目をえがきだしていた。彼はわれとわが首を絞めようとしていたのだ、――だが無駄だった! あらんかぎりの力で、彼は自分の胸を打ちたたいた。まるで鋼鉄のシンバルのような音響がして、その轟音は私の耳を聾するばかりだった。やがて、この怪物は急速に溶けてなくなっていったが、そのセックスだけは一向に小さくなろうとせず、結局は彼の方がみすぼらしい寄生動物よろしく、この途轍もなく大きな男根にへばりついているような形になった。――それから、この寄生動物が干からびた乳首のように離れ落ちると、恐るべき男根はまるで大蛇のように地面を這っていき、毛虫かなにかのようにまるまったと見る間に、だんだん小さくなって、夢の国の地下の通路の一つに消えうせてしまった。」

 この後もまだまだグロテスクな場面が続くのだが、あまりに引用が長くなりそうなので、この辺で切り上げておく。グロテスクな幻想描写もホフマンが得意としたものであったが、ここまでおぞましい描写はさすがのホフマンにもない。こうしてクビーンの幻想描写はその現前性を最大限に増大させていくのである。
 しかし、このような描写の中に物語の意味を読み取ろうとすると、私の思考回路はすっかり錯綜してしまって、解読への道を閉ざされてしまう。なぜアメリカ人はパテラと同じように巨大化するのか? なぜ巨大化したアメリカ人は我とわが身を罰しようとするのだろうか? なぜアメリカ人の体は男根の付属物のようになって溶けていくのか? なぜ小さくなった男根は地下に潜むのだろうか?
 先の引用に続く部分で、それが地下に入って浸透し、触手を伸ばして街の至るところの住居に忍び込んでいくことから、最後の疑問に対してなら答えることができるかも知れない。それは戦争に対する不安の蔓延のようなものを、隠喩として指し示していると言うことができるだろう。他の疑問に対しては簡単には答えを導き出せそうにもない。
『裏面』という小説全体を壮大な寓話として読むこともできないことではない。ならば、パテラとアメリカ人が巨大化して戦う、その戦いも当時のヨーロッパにおける二つの勢力の衝突を寓意しているのだろうか。アメリカ人とはアメリカ合衆国そのものを寓意しているのだろうか。
 そうであれば、パテラは古き良きヨーロッパを寓意していることになるが、そう考えるべき根拠がないわけではない。最終的にアメリカ人は生き残るのに、パテラは死んでしまうのだからである。『裏面』が寓意によって成り立っている小説であると見なすならば、そういうことになるが、事はそんなに単純ではない。
 巨大化したアメリカ人が溶けていき、実体がなくなっていく時に、その巨大な男根だけは残るということは、アメリカ的なものの男性的欲望を寓意していることになる。それに対して死んでいくパテラは、ひたすら美化されて提示されていることに気づくのは、以下の描写を読めばたやすいことである。

「――この大きな両眼は今はうるんだ濃い青色 の光をはなち――われわれすべてを底しれぬ善意の眼差で包みこんだ。それから私はもう一度、考えうる最も美しい清純さをたたえた横顔が、光輝を発しながら背景から明るく浮きだしているのを見た。」

 さらに次のような一節もある。

「その体はある名状しがたい美しさをただよわせていた。私は形体の優美さと清純さにじっと見いっていたが、どうしてこのようなものがわれわれの地上へ現われて来ることが出来たのか、私には理解できなかった。」

 パテラの死体はこのように女性的とも言えるような美しさを纏っているのであり、ヨーロッパの女性的なイメージを示しているように見えるのである。
 この小説の最後の最後に記された「造物主は半陰陽(Zwitter)なのである」という言葉はしかし、別の見方を要求しているように思われる。アメリカ人とパテラは、衝突する二つの勢力というのではなく、神の二つの側面を代表しているのではないか。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(10)

2022年03月16日 | 読書ノート

「第4章 幻影――パテラの死」は、この小説の大きな山場となっていて、おそらくE・T・A・ホフマン以外の作家には到底書けないような幻想場面のオンパレードとなっている。ペルレの町の破壊の後に残された「私」は、なぜか不思議な爽快感に浸っている。この章は次のように始まる。

「かつて感じたことのない軽やかな気持が私の身内にやどっており、甘味のある淡い香りが私の内側からこみあげてきた。私の感情は根底から変化をとげていたし、私の生命は目覚めた小さな?以外のなにものでもなかった。」

 この破壊の後の生命の高揚感はいったいどこから来るのであろうか。また何を意味しているのだろうか。すべてが無へと潰え去った後の爽快感は、破滅を前にした一種の開放感に似ているのかも知れない。あるいは、これから展開されていくパテラの断末魔の闘いに備えて、清澄な意識を用意しようとしているのかも知れない。
 この直後にパテラの最後の大変身が始まるのであり、そしてその変身は前に取り上げた相貌の変化に留まることなく、最大限の巨大化と、最大限の凶暴化を伴う。恐るべきメタモルフォーゼがこれから繰り広げられていくのだ。

「――巨大な足でもって彼は街路をおし分けると、停車場のうえに屈みこんで、一台の機関車を手に?んだ。彼はそれを、まるでハーモニヵを吹くような具合に吹いたのだが、彼の姿は見る見る四方八方へ向けてどんどん大きくなっていったので、彼にはじきに、この玩具が小さすぎるようになってしまった。そこで彼は例の大きな塔をへし折って、それを喇叭のように口にあてると、ものすごい音を響かせて、大空へ向けて吹き鳴らした。体をはだけた彼の姿は見るも恐ろしい光景だった。今度は果てしなく伸びあがっていって、火山を一つ掘じくりだしたが、その火山の尻には、花崗岩が蝸牛のように巻きついた大地の腸がぶらさがっていた。この巨大な楽器を彼は唇にあてた??宇宙もふるえるかと思われる音が鳴りとどろいた。

 引用が長くなることを許してほしい。この場面は『裏面』という作品の幻想的場面の白眉ともいうべき部分であり、私が真に驚いたのはこの場面だったからである。クビーンの恐るべき想像力の破天荒を理解してもらうには、どうしても長い引用が必要になる。
 ここにはホフマンでさえ及びもつかないほどのスケールの拡大がある。その想像力の拡張はたぶん、空間認識の拡大によっている。それは近代物理学の空間認識が、宇宙の大きさにまで拡がっていったことに対応しているだろう。だから、クビーンの描く幻想場面は、ほとんどSF的なスケールにまで達していく。

「パテラとアメリカ人は一つの不格好な塊となって互につかみ合っており、アメリカ人はパテラの体のなかへめりこんだようになっていた。無様でなんとも見極めのつかない一つの物体が四方八方に転げまわっているのだった。形体を失ったこの存在はプロテゥスの天性をそなえていて、小さな変化する何百万もの顔がその表面に形づくられ、それが互に入り乱れて喋ったり歌ったり叫んだりしては、またどこかへ引きあげていった。しかし突然、この怪物に休息がおとずれて来たと見る間に、それは廻転しながら巨大な球体となり、パテラの頭蓋になった。地球の大陸ほどの大きさをした眼は、千里眼をそなえた鷲のような目付きをしていた。やがて、それは運命の女神の顔つきになり、私の眼の前で数百万年も年とっていった。にわかに、その頭が飛散したかとおもうと、私はぎらぎらした不確かな無のなかを凝視していた……」

 私が引用した二つの場面には、ある種の滑稽さが伴っていることを再び付け加えておかなければならない。パテラが巨大化していって機関車を鷲づかみにするところや、巨大化したパテラが同じように巨大化したアメリカ人ハーキュリーズ・ベルと闘う場面などは、まるで怪獣映画のようではないか。この恐怖の中のユーモアは、ホフマンの幻想小説以外ではめったに見ることのできないものである。

 

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