玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

熱中症か?

2011年07月29日 | 日記
 二十日は台風6号の影響で、新潟県はフェーン現象に見舞われ、柏崎市でも三十七度近い気温を記録したという。雨が降ると思っていたのに、台風は九十度進路を変えて、新潟に耐え難い暑さだけを残していった。
 午前中は工業高校の実習室で取材。冷房なし。扇風機はあるが、密着しなければ何の効き目もない。窓のそばにいると耐えられない。首に巻いたタオルで顔を拭くが、すぐに汗だらけになる。二時間耐えた。一日中冷房なしで授業を受ける高校生達は立派だと思った。
 家に帰って、かまどのような熱気のこもった台所で昼食をとり、その後ギャラリー「十三代目長兵衛」の前山忠展へ。ここで中庭に出てインスタレーションを鑑賞したのがまずかった。帽子もかぶらず、炎天下直射日光にさらされた。
 その後、人と会ってしゃべろうとするが、酔ったときのように、うまくろれつが廻らないことに気づいた。やばい。危ない。どうも熱中症になりかかっていたようだ。水分をとって冷房で体を冷やすが、なかなか体調が戻らない。結局夕方に予定していた取材をやめにすることにした。
 夕食の時もほとんど食欲がなかった。普段は熱くなればなるほど食欲が増す方なのだが、尋常ではなかった。やっぱり齢なのかな。

越後タイムス7月22日「週末点描」より)


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吉増剛造さんから

2011年07月29日 | 日記
 詩人の吉増剛造さんから「PUNCTUM TIMESNo.15」というものが送られてきた。三十二頁のタブロイド判の新聞で、吉増さんの写真とメモで構成されている。二○一一年三月二一日から三月三十日までの日付を持つこのメモは、吉増さんが大震災後から綴っておられたものだという。
 自筆のそれは判読できないほどの細かい文字がびっしり書き込まれたもので、まるで洪水のような、あるいは津波のような文字の氾濫であり、吉増さんはそこで、幾度も幾度も内省の中に立ち止まって、大震災と大津波、そして原発事故のことに思いを巡らせている。
 時に、ギクッとするような文が目に飛び込んでくる。たとえば「人殺しの海よ、……。最早、わたくしたちは、全能不滅ノ自然(神)への畏敬をこうして喪い、……いいか、憎悪のときをむかえたのかも知れなかった」。
 タイトルは「REQUIEM 深い水の惑星の亀の島(ハヤ、竜宮ヘノ、……)巡礼の旅、……」。メモと言うべきか、詩と言うべきか、大震災と原発事故にこだわって、これほどの文字を書き連ねてきた人を他に知らない。
 先に刊行した「北方文学・現代詩特集」に寄せられた「静かな虚空」もそうだった。こちらもまた二○一一年三月二十一日から四月十一日までの日付を持っていた。二つの作品は相補的な関係にあって、両方を読むことでお互いの内容が分かってくる。
 吉増さんは九月に新詩集を刊行する。二つの作品も当然収載されるだろう。大震災後に書かれた詩の中で最も重要な作品のひとつに間違いなく数えられることになろう。
 ちなみにPUNCTUMとは、ラテン語で刺し傷、小さな穴のことで、ロラン・バルトが写真論でつかった概念だという。
 明日で、ちょうど中越沖地震から四年目を迎える。例年のように、合同慰霊祭やシンポジウム、各種イベントが行われる。四年目の七月十六日は、なににも増して、東日本大震災の犠牲者や被災者、原発事故の被災者に思いを馳せる日でなければならない。

越後タイムス7月15日「週末点描」より)


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扇風機にリモコン?

2011年07月29日 | 日記
 節電の夏がやってきた。今のところ仕事場でも家でも冷房は使用していない。これまで節電に対して意識的ではなかったけれど、原発事故以降は意識的にならざるを得なくなった。
 タイムスの事務所は冷房が壊れているので、使いたくても使えない。家で寝る部屋にはもともと冷房がないので、使ってみようがない。夏場の節電に意識的でなかったのは、そのような理由による。もともとそんなに電気を使って生きてきたわけではないのだから。
 家の二階は、窓を開けておけば風が通る。古い家だから密閉性に欠ける。冬は寒いが夏は冷房なしでもしのげる。冷房なんかない時代にも、我々は生きてきた。扇風機があるじゃないか。団扇だってあるじゃないか。
 ところで、最近は扇風機にまでリモコンがつくようになった。昨年の夏、扇風機を出してきて使おうと思ったら、リモコンの電池が切れていた。「電池がなければ扇風機も使えないのか。ひとをバカにするな」と怒りのあまり、電池の入れ替えもせず放っておいた。別の古い扇風機を出してきて使った。
 今年になってよく見たら、リモコンをはずせば、その下に手動のスイッチがあって、リモコンなしでも動くことが分かった。「応急運転」とそこに書いてある。「何が“応急”だ。扇風機にリモコンなんかつけるな」と、また怒ってしまった。
 手動のスイッチだが、手で押すことはない。リモコンのかわりに長い脚があるので、スイッチはその先についている足の指で操作することにしている。脚と足に電池はいらない。

越後タイムス7月8日「週末点描」より)


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ピンコロのこと

2011年07月14日 | 日記
 岩下鼎夫人の和子さんから、「ピンコロがリニューアルしたので、見に来てほしい」との電話があり、さっそく出かけていった。その前から玄関脇に「喜多川歌麿」や「竹久夢二」の表示があったので、「あ、遂にあれを出したんだな」などと思っていたが、行ってみてびっくり。
 部分的な展示替えを想定していたのに、かなり大幅な展示替えで、しかも岩下コレクションの秘蔵品ともいえるお宝が無造作に展示してある。思わず「記事にしてもいいけど、ドロボーが入りますよ」と鼎さんに言うと、「それでも構わない」と太っ腹である。だから「砂上録」で紹介させていただいた。
 中に、「為祥児兄 痴娯の家 小波題」と書かれた書が一点。巖谷小波が岩下庄司コレクションを「痴娯の家」と名付けた証である。五月八日に、小波の孫である巖谷國士先生をお連れした時にはなかったものである。これをお見せしたかったのに……。
 巖谷先生は、当日、ピンコロのコレクションに圧倒された様子で、「国宝級だね」としきりに感嘆されていた。先生と一緒に倉庫の中にまで入って、いわゆる「千社札」の膨大なコレクションを拝見したが、それはもう、開いた口がふさがらなくなるほどのものであった。まだまだ陽の目を見ていない貴重なコレクションがいくらでもある。
 今回展示の中で注目したのは、泉鏡花の小説の挿画を描いた鰭崎英朋と鏑木清方の美人画である。英朋の描いた鏡花作「続風流線」の口絵は、彼の最高傑作と言われる。清方もまた鏡花作品の挿画を数多く描いた人で、その作品は鏡花を耽読した者にとっては垂涎の的なのだ。
「ピンコロ」には、随筆も達者だった清方の自筆原稿もある。今回展示は版画だが、肉筆の挿画もあるはずだ。岩下さん、またこっそり見せてくださいよ。

越後タイムス7月1日「週末点描」より)


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戦争×文学

2011年07月14日 | 日記
 沖縄戦終結の日を前に、集英社から今月「戦争×文学」全二十一巻の刊行が始まった。迷わず全巻予約した。これまでも、戦争文学はよく読んできたが、そのほとんどは第二次大戦に関わるものであり、それ以前の戦争あるいはそれ以降の戦争の体験から書かれたものは、あまり読んではいない。
「戦争×文学」は現代編、近代編、テーマ編、地域編各五巻と、別巻「戦争文学年表・資料」から構成され、第一回配本は近代編「アジア太平洋戦争」と地域編「ヒロシマ・ナガサキ」である。
 一巻約八百頁もある。発刊記念特別定価は三千五百七十円。安い。一巻読むのに、最低でも一週間はかかる。飲みに出れば下手をすると一晩で一万円は吹っ飛ぶし、パチンコならもっとということもあり得る。読書ほど安上がりな楽しみは、そうはないのである。
「アジア太平洋戦争」を読んだ限りで、この巻だけでも、ハワイ・真珠湾、ジャワ島、オーストラリアからミャンマー、テニヤン、フィリピン、カラフトなど、広範囲にわたる戦場が登場する。つまり旧日本軍は、アジア太平洋のあらゆる地域に前線を拡大したのであり、それが広範な地域での戦争体験を生み、多彩な戦争文学を生んだ。
 しかし、だからこそ勝てるわけもなかった。長大な補給線を維持できるはずはないからだ。物資の補給もなく、治療もほどこされずに死んでゆく兵士達、飢えや乾きに苦しめながら戦いを強いられる兵士達の姿が、戦争文学でどれほど描かれたことか。
 この巻に三島由紀夫の「英霊の声」が収められていて、異質な一編となっている。二・二六事件の将校達と神風特攻隊の兵士達の霊が天皇を問いつめ、戦後日本の虚妄を撃つのである。自決に至る三島の歴史観がよく分かる作品であった。

越後タイムス6月24日「週末点描」より)


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堆積するファックス

2011年07月14日 | 日記
 東日本大震災と福島第一原発事故の発生から三カ月以上が経過した。三カ月前とそれ以降で、越後タイムス社にとって最も変わったことと言えば、ファックスの受信量が桁違いに増えたことだ。
 原子力安全・保安院からのファックスが最も多く、「東北地方太平洋沖地震被害情報(被害地域以外へのお知らせ)」と題する文書は十六日現在で第百三十九報に達している。一日あたり一・五報の勘定で、それぞれが二十頁くらいあるから、今までに送られてきた総枚数は二千六百枚にもなる。
 内容は福島第一原発事故の時系列的な報告や、保安院の対応、住民避難の状況などで、特に初期のものは緊迫感に溢れている。どういう訳か第一報から第三報までが欠落しているが、第四報は三月十四日午後四時三十分に発せられている。
 ところで、毎日二十枚も三十枚も送られてくるファックスに目を通している時間もなく、記述も専門的で分かりづらいので、ファックスはどんどん“堆積”していくことになった。東京電力からのファックスも含めて、その堆積物の高さは十六日現在で、三十センチにも達した。
 多分、ファックスは原発事故収束まで続くのだろう。三カ月で三十センチだから、年末までには九十センチに達する計算になる。紙代はたかが知れているが、トナー代がばかにならない。一本二千円もするトナーを月に二~三本使用する。
 貧乏新聞社にとっては大きな出費である。越後タイムス社としても原発事故の一日も早い収束を願うばかりである。

越後タイムス6月17日「週末点描」より)


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悪夢のような3ヶ月

2011年07月14日 | 日記
 まもなく東日本大震災から三カ月が経とうとしている。復興への道のりは遠く、福島第一原発事故の収束のめどもたっていない。激震は被災地の人達にとってだけでなく、我々にとっても未だに続いている。
 それにしても悪夢のような三カ月だった。震災から九日後の三月二十日には越後タイムス前主幹の吉田昭一さんが亡くなった。それから一月と十一日後の五月三十一日には「北方文学」の創始者の吉岡又司さんが亡くなった。
 大震災の混乱の中で、二人の先代を失ってしまった。今年は越後タイムス創刊百年の年であり、記念すべき良い年にしたいという目論見は見事にはずれた。それどころか、これまでの人生で最悪の年となってしまった。
 創刊百年にあたっては、記念講演会とパーティーをと考えていたが、とても祝宴を開く気持ちになれない。記念事業としては二月の「鬼灯」公演と、五月の「巖谷國士氏講演会」を実現できたので、それでお許しをいただきたい。
「越後タイムス」には、まだ十年携わってきただけだが、文学同人誌「北方文学」にはすでに三十五年以上関わってきたし、吉岡さんから編集を引き継いでからも十年以上が経っている。「北方文学」もまた、私にとって非常に重要な存在だ。
 今年は「北方文学」も昭和三十六年の創刊から、五十年目の年であり、平成二十三年は二重の意味で記念の年で、良い年にしなければならなかったのに残念でならない。しかし、「北方文学」六十五号・現代詩特集を中央の詩誌に優るとも劣らない、充実したものにできたことを、亡き吉岡又司さんとともに喜びたいと思う。

越後タイムス6月10日「週末点描」より)


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