玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(17)

2018年06月15日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』の中で幻想文学的と呼べるのは、最初のアスコイティア一族の物語のみである。この物語は典型的な恐怖譚であり、トドロフの言う「幻想文学」の枠組みを堅持している。それは魔女のもたらす災禍の物語であり、アスコイティア一族の父親もその九人の息子たちも「娘も魔女、乳母も魔女」という噂話を決して信じようとしない。彼らは超自然的な現象を信じるほど蒙昧ではないからである。
 しかし、ひとりの作男の讒言によって「黄色い犬と化け物」を探しに出掛け、農園に帰ろうとする黄色い犬を発見し、娘の部屋で父親は何かを目にするのである。しかし、ここで父親が見たものについて語られることはついにない。なぜそれが語られないのかと言えば、それが「怪奇」でもなく、「驚異」でもなく、その境界域にある「とまどい」をもたらすものであることを、読者に納得させるためである。
 アスコイティア一族は黄色い犬(魔女の身体である)を捕まえ、木に縛り付けて川に流し、海へと放擲するのだが、その途上で魔女にまつわる「現在の、過去の、そして永遠の恐怖すべきものについて」語り合う。そこに出てくるのがインブンチェの話である。

「魔女たちの狙いは、娘をさらって、そのからだの九つの穴を縫いふさぎ、インブンチェ(アラウコ族の俗信で生後半年の赤児をさらい、洞窟の中で怪物に変えるという妖怪)という化け物にしてしまうことだった。」

 とあるが、これも伝聞であって、真偽の定かならぬ物語である。この真偽が定かでないということもまた恐怖譚の重要な要素であって、幻想文学はそのようなものをこそ素材として成立する。
 またアスコイティア一族の物語には後日談があって、兄弟の数が九人ではなく七人、いや三人だったという話や、本物の黄色い犬は逃げ延びたはずだという話、あるいは父親が娘を隠すことによって、罪を乳母の一身に負わせようとしたのだという話が追加されてくる。こうした説話の曖昧性もまた、出来事の自然的現象への還元としての「怪奇」と超自然的理解としての「驚異」とのどちらにも付くことのできない、「とまどい」として、「幻想」の要素を強化していく。
 しかし、幻想文学と言えるのはそこまでであり、自余はこの幻想譚をめぐる《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサの妄想に他ならない。しかもその妄想は膨大かつ執拗きわまりないものであり、壮大な実験と言いたくなるほどの性質を持っている。
 幻想の論理とは違う妄想の論理とは何か。しかしそれは言葉の矛盾であろう。我々は『夜のみだらな鳥』の中に妄想の非論理をこそ、探さなければならない。いや、探す必要などない。それらはすべてそこに顕わにさせられている。幻想の論理がいつでも隠されてある(恐怖譚の中ではプロットの論理的構造はいつでも隠されている。そうでなければ恐怖は発生しない。)のとは逆に、すべてはそこに露見している。
・執拗な繰り返し……閉鎖する、閉じこめるということへの執拗な言及。ドン・ヘロニモが誕生した《ボーイ》に初めて合う場面はほとんど同じ文章で、少なくとも三回繰り返される。イネス夫人と《ムディート》の性行為にまつわる回顧的言及は十回以上繰り返される。インブンチェのイメージもまた、包みに縫い込まれるイメージを含めて、最初から最後までオブセッションのようについて回る。黄色い犬もイネス夫人のゲーム、ドッグ・レースにまで絡んで数回登場する。
・取り替え可能性=互換性……イネス夫人と最初の物語の娘イネスとの。イネス夫人の乳母ペータ・ポンセと娘イネスの乳母との。イリス・マテルーナと聖女イネス(最初の物語の娘イネスを聖女とみなすのはイネス夫人)との。《ムディート》とドン・ヘロニモとの。《ムディート》の能力とドン・ヘロニモの不能との、あるいは逆に《ムディート》の不能とドン・ヘロニモの能力との。娘イネスのふしだらと聖性との。イリス・マテルーナのふしだらと聖性との。《ムディート》と《ボーイ》との。エンカルナシオン修道院とリンコナーダの屋敷との。


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホセ・ドノソ『夜のみだらな... | トップ | ホセ・ドノソ『夜のみだらな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ラテン・アメリカ文学」カテゴリの最新記事