玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(31)

2019年02月15日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』⑦
 エドマンド・バークが挙げている「崇高」の観念を構成する要素は、他にも「建物の大いさ」「壮麗さ」「建物の中の光」「唐突さ」などさまざまあるが、どれもがごゴシック大聖堂が持っている性質に当てはまるもので、ゴシック・リヴァイヴァルの先導役として『崇高と美の観念の起原』が果たした役割の大きさを示していると、私は思う。
 一方、「美」の観念を構成する要素としてバークが挙げているのは、「小さい」こと、「滑らかさ」「漸進的変化」「繊細さ」などであり、それらは「崇高」の要素として掲げられたいくつかのものの反対概念に過ぎないケースが多く、それほど独創的なものではない。
 ただしここで、「美」の観念を構成する要素として挙げられているものが、ほとんどすべて女性的な要素であることを見逃すことはできない。特に「漸進的変化」としてバークが例示しているのは「女性の肩から乳房への部分」の滑らかな曲線であり、女性の肉体の美そのものである。
 つまりバークは「美」の観念の起原を、肉体的なもの、精神的なものを含めた女性的原理に求めていることになる。そして「美」の反対概念である「崇高」の起源は男性的原理に求められることになるだろうし、事実そうなのである。
 ようやくここで、ユイスマンスとシャルトル大聖堂に関する話に戻ることができる。建築物としてのゴシック大聖堂に見られるのは、男性的原理を起源とする「崇高」の観念であり、ゴシック大聖堂の信仰の形態としてのマリア信仰に見られるのは、女性的原理を起源とする「美」の観念であるという結論を導き出すことができる。
 私にとって理解しがたいのは、ユイスマンスがどのようにしてこの二つの両極端の原理を乗り越えて、回心に至ったのかという過程である。一方では建築物としての男性的原理の表れを見て心酔し、一方では、聖母マリア像に女性的原理の表れを見て、そこに回帰していくという姿は私の理解を超えている。
 それよりもむしろ、ヨーロッパ中世において男性的原理に支配されたゴシック大聖堂が、何故に女性的原理の象徴である聖母マリアに捧げられたのかという問題の方が大きいのではないかと言われるかも知れない。
 しかしそれは、歴史の問題であって、ゴシック大聖堂が民衆へのキリスト教布教のために建てられ、本来はキリスト教の要素にはなかった聖母信仰を、民衆教化のために取り入れざるを得なかったというふうに、その問題は解かれ得るであろう。そこには妥協と、折衷、異なる原理の併存があるが、「崇高」と「美」の観念が未分化であった時代を想定するならば、ことさらそのことは異とするに足りないことのように思う。
 しかし、一人の近代人としてのユイスマンスの回心の場合にはそうはいかない。もし男性的原理が優先するならば、彼はゴシック大聖堂を愛するディレッタントに留まることができたであろうし、女性的原理が優先するならば、無骨なゴシック建築よりもより優美な建築様式を好んだのではないかと思う。
 パリのノートル=ダム大聖堂はユゴーの言うように、ロマネスク様式からゴシック様式への過渡期の建築であって、ゴシック大聖堂としては例外的に、女性的な美しさを誇っているが、ユイスマンスはパリ大聖堂を〝二流〟と断じて、シャルトル大聖堂のゴシック建築としての純粋性をこそ好んだのである。
 エドマンド・バークの崇高の美学は極めて近代的な意識に貫かれている。それは近代が生んだ産物であって、中世人のよく意識し得ぬところのものであった。ユイスマンスの高踏的美学もまた極めて近代的なものであって、男性的原理と女性的原理の混交など許されるものではなかったはずである。
 ユイスマンスはカトリックへの回心にあたって、ある一線を越える。近代という境界線を越えるのである。それは幽冥の中世への自己放棄のようなものであって、何を言ったことにもならないかも知れないが、私にはそのような理解しかできないのである。
(この項おわり)

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建築としてのゴシック(30)

2019年02月14日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』⑥
 エドマンド・バークは崇高の観念を構成する要素をたくさん挙げているが、その中でもゴシック建築が喚起する情感に関わるものをいくつか拾ってみよう。まずは「驚愕」である。バークは「驚愕」を定義して次のように言う。

「「驚愕」とは或る程度の戦慄を混えつつ魂のすべての動きが停止するような状態を言う。」

 それは同時に「崇高の最高度の効果」であり、それの弱い効果が「嘆賞、尊敬、敬意」などだという。ゴシック建築のあの極度の昇高性を前にして「驚愕」を感じない者があろうか。そしてそれは、聖母マリア像を眼にした時には感じ得ないものであることを確認しておかなければならない。
 そして何よりも「恐怖」である。「恐怖」は崇高の観念にとって最も重要な要素であり、これから挙げていくものの中には「恐怖」に還元される性質のものが多く含まれる。バークはだから次のように言うのである。

「疑いもなく恐怖は公然と隠然との違いはあろうが、必ずすべての事例において崇高の支配的原理なのである。」

「恐怖」はシャトーブリアンも感じていたものであったし、おそらく暁闇の中に浮かび上がるシャルトル大聖堂の「刀身」もまた、ユイスマンスがそこに「恐怖」を感じ取ったゴシック建築の大きな特徴であったに違いない。。
 興味深いのは次の「曖昧さ」である。原語はambiguity、バークがここで暗闇の中での危険に言及していることから、それはむしろ〝不分明〟と訳すべきと思われる。それは「恐怖」に由来するものであり、我々に恐怖をもたらす幽霊のような存在は、闇の不分明の中に出現するのだからである。
 ここでバークはより興味深いことを言っている。たいていの宗教において、寺院は小暗いところに建てられるし、偶像はそんな寺院の奥所に置かれるというのである。バークはここで未開人の宗教や異教のケースを想定しているのだが、日本の仏教でも同じことが言えるし、ゴシック大聖堂内部の暗さもまた同じ目的を持っていると言える。その目的とは不分明な空間に聖なるものを安置することで、民衆に対して畏怖や威圧感を感じさせることである。
 しかしユイスマンスがシャルトル大聖堂に見る聖母像は、そのようなケースに当てはまらない。それはステンド・グラスをはじめ至るところに存在しているし、決して不分明の中に隠されてはいない。第一にそれは「恐怖」の対象ですらない。キリスト磔刑図画が恐怖を喚起するのとは対照的である。
 さらに「広大さ」について。「広大さ」の三つの要素、「長さ」「高さ」「深さ」の中で、もっとも崇高に結びつくのは「深さ」であろうが、それは上から見下ろした時の「高さ」に還元される観念である。それも「斜面の面よりも垂直な面の方が崇高を形成する上で一層強い働きを演ずる」のである。その場合にはゴシック建築の垂直的な昇高性がそれに該当する。
 次の「継起と斉一性」は「人為的無限を作り出すもの」と説明されている。「継起」と「斉一性」も人工的なものであって、つまりそれらは建築物を前提とされて、そこに登場してくるのだ。
「継起」とは建築においては列柱のようなものだと考えればよい。列柱のように同じ形のものが連続して続いていくこと、その連続性が感覚にとっては境界を越えて続くように思われることが条件となる。さらに「斉一性」とは列柱の一本一本に変化があってはならないということを意味している。変化は想像力の働きを妨害するからである。
ゴシック大聖堂にとっては同じ構成要素の繰り返しは、外観にも内観にもよく見られるスタイルである。私がパリのノートル=ダムに見た、北側側面から後陣を廻って左右対称的に南側まで続いていく「継起と斉一性」がそれである。もちろんそれは内部の構造、身廊と側廊とを分かつ列柱や、内壁の柱-ステンド・グラス-柱-ステンド・グラスという繰り返しの構造に規定されているわけだ。

 ノートル=ダムにおける「継起と斉一性」

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建築としてのゴシック(29)

2019年02月12日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』⑤
 プロン神父との会話の中でデュルタルは「伽藍の魂」というものに思いをめぐらす。今度は大伽藍の建築物としての側面ではなく、マリア信仰の側面について、現状はどうなっているかについての議論である。「神の加護の下に人間が伽藍を建立した時の、まさにその時の伽藍の魂」は、今どうなっているのか。
 このことについてデュルタルは、パリの大聖堂を初めとして次々と、シャルトル以外の大聖堂の現状を批判していく。デュルタルはその原因を明確に示しているわけではないが、パリ大聖堂におけるミサや聖体拝領、礼拝式や聖歌などの宗教的日課の堕落ぶりを指摘し、「伽藍の魂」が失われてしまっていることを嘆いてみせる。
 パリの場合には「図々しい観光客をやたらと出入りさせている」こともその一因とされているが、本当の原因は何なのだろうか。パリだけでなく、アミアンやランの大聖堂についても、デュルタルは魂の喪失を言うのである。しかしシャルトルだけは例外である。

「でも、シャルトルほどの聖堂はどこにもありはしないのです。シャルトルの御堂でほど充実した祈りのできる伽藍はどこにも絶対にありはしないのです。」

 一体なぜなのか。実はその理由もまた、前にデュルタルが言っていた聖母マリアの偏在にこそある。デュルタルは具体的に言う。

「シャルトル以外の御堂では、マリアさまのお顔を拝むのに次の間でさんざん待たせられるありさまなのですからね。しかも待たされたあげくが、今日はこれまで、ということさえ稀ではありません。ところがシャルトルの御堂では、マリアさまはそのままのお姿ですぐにもお顔を見せて下さいます。」

デュルタルは続いて、シャルトル大聖堂にある二つの黒い聖母像を、奇跡のようなマリア像と褒め称えるが、「伽藍の魂」とは町のブルジョア女や教区の財産管理委員どもの「魂」ではないと言い、次のように結論づける。

「シャルトルの魂は、修道女たちや近在の農婦たち、修道院寄宿学校や神学校の生徒たち、わけても、聖母の柱に接吻して黒いマリアの前に跪く、あの聖歌隊の少年たちにこそ、命を吹き込まれているのです。」

 こうした庶民によるマリア信仰は、中世ゴシック大聖堂の原点にあったものだということを、私は酒井健に教えられたが、そのような信仰の主体が生き残っているのは、シャルトル大聖堂だけだというのである。ユイスマンスの高踏的デカダン趣味から、一種のポピュリズムへの回帰の姿をここにはっきりと見ることができる。
 しかし私にとって理解できないのは、ユイスマンスのこのような信仰のありかたである。崇高美の極致とも言うべき建築物としてのゴシック大聖堂への偏愛と、母性原理への回帰と言うべき聖母マリアへの帰依とは、矛盾するものではないのだろうか。
 だからその疑問はユイスマンスの信仰の姿に対してだけではなく、聖母マリアを戴くほとんどのゴシック大聖堂のあり方にも向けられる性質のものである。あの荘厳で、厳めしく、無骨とも言えるゴシック大聖堂が、聖母マリアに捧げられるということに矛盾はないのであろうか。
 私はエドマンド・バークの議論を思い出すのである。崇高と美の観念のよって来たるところの二つの正反対の要素、男性的原理と女性的原理に関しての議論である。
 言うまでもなく、崇高は男性的原理を背景としているのに対して、美は女性的原理を背景としているのである。もう少し詳しく思い出してみよう。

 

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建築としてのゴシック(28)

2019年02月11日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』④
 翻訳されたものについて、他の部分は以上の内容の変奏のようなものだ。シャルトル大聖堂が数あるゴシック大聖堂の中で、建築としていかに純粋であるか、そしていかにマリア信仰において純粋であるかということを、デュルタルの独白と、もうひとりの主要な登場人物でシャルトル大聖堂について知り尽くしているプロン神父との会話の中で、ユイスマンスは語っていく。
 それは他の大聖堂、とりわけパリのノートル=ダムとの比較の中で強調されていく。一つはその建築としての側面において、もう一つにはその信仰のあり方において。デュルタルはノートル=ダム・ド・パリについて次のように話すのである。

「この聖堂は上から下まで修繕され、手を入れられています。彫像が申し分なく現代的に見えない場合には、継ぎが当てられるのです。ユゴーはこの教会に熱狂しましたが、実はこれは二流品でしかありません。」

 ユゴーはノートル=ダム・ド・パリに、各時代のさまざまな様式の痕跡を見て、その歴史的建造物としての価値を高く評価したのだったが、ユイスマンスはそのような見方をしない。もちろんユゴーも、パリ大聖堂の破壊の後の改竄に対しては厳しい眼を向けてはいるのだったが、ユイスマンスはあの二つの塔、いささかゴシック建築らしくない、パリ大聖堂の二つの塔についてもそれを認めることはないのである。彼の評価は身も蓋もないものである。

「パリの聖母堂の塔を検討してみるがよい。鈍重で、陰気で、ほとんど象みたいに肥えている。ほぼ上から下まで苦しげな開口部を穿たれたこれらの塔は、ようやくのことで立ち上がりながら、重い体躯がすぐ背伸びをやめてしまう。」

 つまりパリ大聖堂には昇高性が不足しているのだ。一方シャルトル大聖堂の二つの塔は、申し分のない昇高性を誇示している。南側(向かって右側)の塔は幾何学的な二等辺三角形の鋭い切っ先を天空に突き刺しているし、北側(向かって左側)の塔はよりゴシック的な彫刻を施された優美な姿で、蒼天に屹立している。


パリ大聖堂正面

シャルトル大聖堂正面

 この昇高性はゴシック建築の基本的な構造である尖頭アーチによってもたらされるものだが、ユイスマンスはそれを安定性と耐久性の見地から見る技術論的な学説を批判している。それは半月形アーチよりもはるかに堅牢であったがために採用されたのでは決してない。ユイスマンスはシャトーブリアンに倣って次のように言う。

「私から見てほぼ確実だと思えるのは、人間があれこれと異論の多いあの尖頭アーチ式身廊の外観を見つけたのは、たぶん森の中だ、ということだ。」

と。つまりゴシック建築の昇高性は、無数の梢を天に向かって伸ばしている森のイメージ、そして単体としての塔を見るならば、太い幹と根によって支えられた大樹が、次第に先を細らせて天に昇っていくイメージによってもたらされるものなのだ。
 ユイスマンスは正しく「どんな塔にせよ、先細の鐘楼を持たぬ塔は天空に翔け上がることはできない」と書いている。パリ大聖堂の塔は上から下まで同じような幅を持ち、尖頭形の構造を持っていない。だからユイスマンスにとってそれは「天空に翔け上がること」のできない塔でしかないのである。
 当然「天空に翔け上がること」はユイスマンスにとって、神の導きによって天国に至ろうとする信仰心の表れでなければならない。私に信仰心はないが、ノートル=ダム・ド・パリの正面に立った時に、それほどの感慨を抱くに至らなかったのはそのせいであった。それは私のイメージしていたゴシック大聖堂の塔のそれとも違っていたのである。

 

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建築としてのゴシック(27)

2019年02月10日 | ゴシック論

 ●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』③
 シャトーブリアンは「恐ろしさ」「神秘」「神々しさ」を、森林と大聖堂に共通するものとしているが、酒井も言うようにこれは明らかにエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』の影響と思われる。もしそうでないとしても、二人の共通する美学がそこにはある。
 バークの崇高の美学のリストには「闇」や「曖昧さ」も含まれていたことを思い出すと、そのことはユイスマンスとの共通点にも関わってくるのである。ユイスマンスは明らかにシャトーブリアンの美学を踏襲しているが、同時にバークの崇高の美学をも踏襲しているとも言える。
 森林の闇や曖昧さ(不分明)、恐ろしさや神秘のなかに、ゴシック大聖堂の崇高を感じ取っているのであって、それは内観に止まらず、外観にも感じられることなのだ。そしてこのような感性は、エドマンド・バークによって発見されたものであって、それもまた極めて近代的な感性なのである。
 主人公デュルタルの(ユイスマンスのと言っても同じことだが)視線は、しばらく巨大な刀身のような尖塔のに切っ先や、壁面の彫刻の上をさまよっているが、彼はやがて大聖堂の内部へと入っていく。
 デュルタルがそこに見出すのは聖母マリアの偏在である。ステンド・グラスに現れた巨大な聖母だけでなく、いたるところに聖母がいる。「アフリカの女のように黒い聖母、蒙古の女のように黄色い聖母、黒白混血の女のようにミルク入りコーヒーの色をした聖母、それにヨーロッパの女の白い顔をした聖母」がそこにはいる。ユイスマンスは書いている。

「聖母はあたかも全世界から、中世人に知られていた限りでのありとあらゆる人種の外貌を借りて、この伽藍に馳せ寄ってきたように思われる。」

 そしてユイスマンスはそこに、全人類の「仲裁者」としての聖母を読み取るだろう。中世人が聖母マリアを庶民と神とを媒介する「仲裁者」と見なし、そのことによってキリスト教の普及を促進させていった歴史が、そこに刻まれているのである。いずれにせよゴシック大聖堂のほとんどが、聖母マリアに捧げられたノートル=ダムであったことを忘れてはならない。
 ユイスマンスはゴシック大聖堂に対し、美学的には森林の崇高を感じ取ったにせよ、宗教的には聖母マリアへの帰依によって、カトリックへと回心したに違いないのだから。そうでなかったら次のように書く必要はなかっただろう。

「聖母を親しく見て、聖母に直に話しかけることができた以上、彼は他の信者たちに席を譲って帰ってよいのである。」

と、実際にデュルタルは本当に帰ってしまうのである。ユイスマンスの回心の中心に聖母信仰があったことは明白で、すぐに帰る理由は、

「あのように遠くまで、あのように長いこと罪の諸国を遍歴したのち、デュルタルはようやく聖母の傍らに帰り着くことができたのだから。」

と期されている。『さかしま』と『彼方』を思い出さないわけにはいかないではないか。再びユイスマンスは森林の喩に戻っていく。

「生温かい大樹林は、闇とともに消え去った。大樹の幹はむろんそのままに根を下ろしているが、今度は地表から翔け上がって一気にめくるめく天空に冲し、途方もなく高い内陣の穹窿の下でひとつに結集している。森は今や一箇の広大なバシリカ教会堂となったのである。円花窓の全面火となって咲き乱れる聖堂、灼熱するステンドグラスの窓を穿たれ、夥しい数の聖母と使徒と族長と聖者とを持つ大伽藍となったのである。」

 朝の明るさとともに、不分明で曖昧だった大聖堂は、森林の様相を弱めていき、やがて大聖堂そのものとなる。しかし喩としての森林が捨て去られたわけではまったくない。

 

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建築としてのゴシック(26)

2019年02月09日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』②
 以上のような翻訳の事情から、ユイスマンスの『大伽藍』について多く書くことはできないかも知れない。小説としての『大伽藍』をそのストーリー展開において楽しむことはけっしてできないし、ユイスマンスが小説としての結構を無視して、ひたすら積み上げていく蘊蓄に関しても、彼が深みに入れば入るほどそれは私にはさっぱり分からないものになってしまうからである。
 第1章は早暁の闇の中から主人公デュルタルの眼前に、シャルトル大聖堂が姿を現してくる場面である。この場面は必ず暁闇の中に始まらなければならない。大聖堂の全貌がいきなり主人公の目の中に飛び込んできたのでは、この神秘な感覚が表現されないからである。

「ようやく萌しはじめた暁の光の中で、石の大樹林は徐々に森としての統一を失いつつあった。闇は消え去る気配を示しつつも、なお物の輪郭をおぼろに溶かしていて、物の形は、ようやく眼に著くなりながら、すべて微妙に歪んでいる。森の下の方には、吹き払われてゆく暁闇の中に、樹齢数百年の白い寓話の大樹の幹が、井戸にでも植えられたように、緊密な縁石で締めつけられながら高みへと翔け上がっている。樹の根元ではもうほとんど半透明にまでなった夜は、高みへ昇るにつれてその厚みを増し、大樹から枝々が分かれるあたりは、まだ闇に包まれて定かには見えない。」

 大聖堂の顕現である。まさにそれは〝顕現〟と言うべきで、闇が支配しその輪郭しか明らかでなかったその姿が、暁闇の上昇(逆に言えば足元から明るくなっていく過程、でもここは上昇でなければならない)とともに、少しずつ見えてくるのである。
「大樹林」であるとか、「森」であるとか、あるいは「樹齢数百年」であるとか言っているが、それを本物の樹林と取り違えてはならない。これらはすべて建築物としての大聖堂の喩として使われている言葉であって、それは最初の「石の大樹林」という言葉によって明らかである。
 しかもこの大聖堂は森の木立の中にあるのではむろんない。それはシャルトルの街のど真ん中にある広場に立っているのである。むしろ大聖堂自体が森林であり、樹林であり、巨大な大樹なのだ。
 この見事なオープニングはゴシック建築を眼前にした者の感ずる、驚異に満ちた美的体験を余すところなく伝えている。残念ながら私の見たパリのノートル=ダム(シャルトル大聖堂もノートル=ダムなのだが)は、真昼の陽光にさらされていて、このような幽冥の感覚を私に与えることはなかった。
 森林をゴシック大聖堂の喩として捉えたのは、酒井健によればゴシック・リヴァイヴァル期のシャトーブリアンの『キリスト教精髄』であった。

「ガリアの森が我々の父祖の寺院のなかへ導入されたのだ。我々のナラの森林はかくしてその聖なる起源を保ったのだ。樹葉の繁茂を彫り込んだ石造り天井、壁を支え、切断された幹のように突如終わる柱、石造り天井の冷気、内陣一帯の闇、薄暗い翼廊、隠れた通路、低く作られた扉、これらすべてがゴシック教会堂のなかで森林の迷宮を再現させている。これらすべてが森林の宗教的な恐ろしさを、神秘を、神々しさを感じさせるのだ。」(酒井健『ゴシックとは何か』より孫引き)

 シャトーブリアンは大聖堂の内部を太古の森の再現になぞらえてるのだが、それは森林というものがその内部においてこそ体験されるものだからだ。森林の外部を展望することはできても、それを体験することはできない。
 しかしユイスマンスは、シャルトル大聖堂の外観をも森林に譬えている。実は私の実感もそのようなものであって、パリのノートル=ダムを訪れた時に、内部をよく見なかったせいもあるが、そこに森林をイメージしたのは北側の側面に廻った時だった。パリのノートル=ダムに大きな尖塔は一つあるだけだが、側面には小さな尖塔がいくつもあって、小規模ながら樹林を思わせるのであった。

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建築としてのゴシック(25)

2019年02月07日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』①
 私はこのユイスマンスの『大伽藍』を、高校生の時に地元の図書館で借りて読もうとしたことがある。それは桃源社「世界異端の文学」の一冊で、当時私はフランス文学にかぶれ始めていて、特に〝異端〟とか〝悪〟とかいう言葉に敏感に反応したからだ。
 ユイスマンスがどういう作家か知りもせずに、『大伽藍』を読もうとしたのだが、まったく興味が持続せず、その退屈さに辟易してすぐに投げ出してしまった。『さかしま』や『彼方』の作家を高校生が読もうとしたってそれは無理というものだろう。
 しかし今回、平凡社ライブラリー版で初めて読んでみて、この小説を〝異端〟というのはやはりおかしいのではないかと思わざるを得なかった。これはユイスマンスが晩年に無神論的デカダンスからカトリックへ回心する過程で生まれた作品であるからだ。カトリックのどこが〝異端〟だというのだろう。それこそユイスマンスの〝正統〟への回心の書ではないのか。
 しかし完全に〝正統〟として位置づけられるかというと、そんなことはない。ユイスマンスのカトリック信仰への傾斜は、ゴシック建築を代表するシャルトル大聖堂への美的な興味、あるいはもっと進んでシャルトル大聖堂の美しさへの陶酔にはじまっていることが明らかだからだ。
 完全に回心した後のユイスマンスがどうであったかは知らないが、回心への過程にあっては審美的なものがすべてに優先していて、そのことは純粋に〝異端〟の文学と呼びうる、『さかしま』や『彼方』と共通しているのである。カトリックの正統からすれば美学的なこだわりや偏愛は〝異端〟と呼ばれてもおかしくない。
 ところでこの出口裕弘の翻訳は完約であるどころか、原著の半分にしかならない抄訳であって、何でこんな翻訳がまかりとっているかと言えば、それは1966年の桃源社版を踏襲しているからでる。
「世界異端の文学」はシリーズ物で、一冊のボリュームに制限があったから完約がむずかしかった事情は分かる。しかし、ユイスマンスの作家としての評価が定まってきた今日の日本で、この重要な作品が抄訳のまま再版されるということが納得できない。できることなら出口に完訳して欲しかったが、今となっては無理であろう。
 また抄訳の方針として、宗教文学的な部分を出口の趣味の問題もあって、ほとんど省いたということだから、この翻訳ではこの作品を完全に理解することは不可能なのだ。だから美学的な偏向としての回心という見方も、本当にそうなのかという疑問に付されてしまう。
 だがこの作品によって、ユイスマンスのシャルトル大聖堂に対する強い愛着といったものは読み取れるわけだから、今のところはそれに甘んじておく他はないし、そのような見方が間違っているという確たる証拠もない。
 ユイスマンスという作家は高踏的で、取っつきにくく、難解な作品を書いた作家と思われがちだが、実はそんなことはまったくない。『さかしま』や『彼方』を読んで、その読みやすさにびっくりして、先入観を改めたことを思い出す。
『さかしま』にしても『彼方』にしても、小説というよりはユイスマンスの蘊蓄を傾けたエッセイのようなもので、ペダンティックな面は多分にあるが、その議論を追っていくことはそれほどむずかしいことではない。
 それは『大伽藍』にも当てはまることで、高校生の時に読めなかったのはやはり、ゴシック大聖堂のことなどまったく知りもしないし、興味もなかったからで、必ずしも難解であったからではない。
 それにしてもユイスマンスの作品は、小説としてのストーリー展開などなきに等しく、どこを切り取って読んでも読めるようにできている。それが無惨な抄訳を生むことになったのだとしたら、それもまったユイスマンスの責任に帰せられるのかも知れない。

J=K・ユイスマンス『大伽藍』(1998、平凡社ライブラリー)出口裕弘訳

 


 

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建築としてのゴシック(24)

2019年02月06日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」②
 しかしユイスマンスの「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」は、キリスト教に縁のない者にとってはまったく分からないことだらけで、彼が象徴を読み解いていく手続きに興味を喚起されても、私には〝象徴するもの〟も分からなければ、〝象徴されるもの〟も理解の範囲を超えている。
 たとえば、ユイスマンスが次のように言う時、私にはそうした事実すら把握することができなかったことを白状する。ノートル=ダムの内部にいる時間が短かったことなど言い訳にならない、きっと一日中そこにいてもユイスマンスが指摘していることに気づくことはなかったであろう。

「ノートル=ダムの身廊内に身をおいて気づくことがある。内陣の軸がかるく左方にぶれていることである。」

 ユイスマンスによればこのようなぶれは、中世のほとんどすべての大型聖堂において認められることで、であるならば、「このぶれは意図的であって、存在理由があった」ということになる。ユイスマンスはすぐにその謎を解いてみせる。それはイエスの十字架上の死に関係している。

「それは、ヨハネによる福音書の一節「そして、頭を傾けて、息を引きとられた」のいわば、建築学用語による翻訳であった。」

 このように聖書の中の多くの言葉は、建築物の中に象徴として置かれているのである。「頭を傾けて」というところが、内陣のぶれとして表現されているわけだ。それは十字架上でのキリストの苦悶の象徴なのだ。
 しかし、ユイスマンスの時代にこのような解釈が一般的であったわけではない。物質主義的考古学の徒は、それを中世偉人の技術的未熟が原因だと言ってはばからず、そこには何の意味もないと言っていたらしい。ユイスマンスは、このような技術論的見解を激しく批判している。
 このようにユイスマンスは、ノートル=ダム大聖堂の、外部、内部、彫像から扉口の彫刻まで、あらゆるところに象徴を読み取っていくが、我々にとって分かりやすい部分だけを紹介しておこう。
 たとえば「屋根は「愛」の象徴である」と言う。屋根は「聖堂を雨から守る役目を果たす、瓦の一枚一枚は、異教徒の侵害から教会を守る兵士たちである。」といった具合である。
 また「窓」は「この世の空しさに対しては閉ざされ、天の賜物に対しては開かれていなくてはならぬ、われら人間の感覚の象徴である」と言う。窓はステンド・グラスを通して、太陽の光=神の光を通すが、風、雪、雨など=もろもろの異端邪説は退けるのだからである。
 内部はどうか。扉口から入り、身廊を経て内陣に進む過程は、修行の生の三段階を象徴しているという。つまり、入り口の闇が表している「浄罪の生」、次に内陣の方へ進むにしたがって照らし出されてくる「観想の生」、最後の祭壇は「神秘的合一の生」を象徴しているのである。
 ユイスマンスにとってノートル=ダム・ド・パリは、ユゴーの言う「石の書物」に他ならない。彼はそれを解読することによって、大聖堂の宗教的意味を明らかにする。ユイスマンスはそのような象徴の意味するものを当時の民衆も理解していたというが、果たしてどうか。
 最後にユイスマンスはそれとは別に、一部の専門家にしか理解できない、秘密の象徴表現がノートル=ダムには存在するという。それは占星術や錬金術に関する象徴表現であって、それらに通じた一部の司祭が持ち込んだものではないかというが、はっきりしたことは分からない。
 詳しいことは書いても理解できないので省略するが、ユイスマンスは宗教的な主題の中に本来あってはならぬ意図が隠されているという。そして、そんな要素を持った大聖堂は他にはないと言い、「ノートル=ダム・ド・パリは、同類の大聖堂よりも、ずっと神秘的であり、おそらくはずっと豊かな内容を持つが、純粋さにおいて劣る」と結論づけている。より純粋なシャルトル大聖堂を彼が愛した理由である。
 ところでユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』には、クロード・フロロが医学や占星学を全否定し、錬金術こそがもっとも偉大な学問であると力説する場面があり、実際にフロロは大聖堂の自室に実験道具を揃えて、錬金術の研究に地道をあげていたのだった。なぜこんな場面があるのかと思っていたが、ユゴーはノートル=ダムの秘密の象徴表現について知っていたのである。
(この項終わり)

 

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建築としてのゴシック(23)

2019年02月06日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」①
 これから取り上げるユイスマンスのエッセイは、彼の死後発刊された『三つの教会と三人のプリミティフ画家』の中の一編であり、大変短いものである。短いがそこにはユイスマンスのゴシック大聖堂に対する、基本的な考え方が確固として示されていて、今日でも読むに値する一編である。
 ユイスマンスはまず、フランス19世紀ロマン主義によるゴシック・リヴァイヴァルによって、ノートル=ダム・ド・パリへの評価が復活し、「称賛の声が澎湃として起るまでになった」ことを歓迎している。それに貢献した人物としてユイスマンスが名を挙げているのは、ヴィクトル・ユゴー、モンタランベール、ヴィオレ=ル=デュック、ディドロンの四人である(ユゴーとデュック以外の二人は未詳)。
 ユイスマンスはユゴーが言ったことと同じようなことを言っているが、それはユゴーの直接的な影響なしには考えられない。

「あの時代の芸術にあっては、ガラスや石といった物質の形において、もろもろの感情や思考を表現しようとする目的を自己に課したのである。いわば、自分たち用の文字体系を創造したのだった。一基の彫像、一枚の絵画が、単語に相当するものとなり、その集まりが、パラグラフ、文章に当たるものとされたのだった。」

 このエッセイの最後にもユイスマンスはユゴーに対して賛辞を送っている。

「ヴクトル・ユゴーのような小説家は、この構造をもとにして、多少とも真実めいた飾りつけを創造し、全部が全部まったく想像に成る人物をそこに住まわせた。それにしても、当時、中世の象徴表現についてなにがしかの感受力を持っていた詩人は、かれひとりだった。」

 ユゴーはしかし、そうした象徴表現について深く探究しようとする姿勢は見せていないが、ユイスマンスは象徴表現の解読を試みる。それはユゴーの努力にも拘わらず、当時の建築家、考古学者が陥っていた「歴史的建造物の物質的研究」に対して飽き足りないものを感じ、そのような研究に対して批判の眼を向けていたからである。
 象徴表現とは「一つの彫像や図像を、何か他のものを示すしるしとして用いる技術であって、中世の偉大な着想の一つであった」と、ユイスマンスは言っている。そうした中世の表現手法を研究することなしに、物質としての大聖堂を研究するだけでは、何も理解できないということを言いたいのだ。
 しかもそれは単なる技術や手法に止まるものではない。ユイスマンスによればそれは「紙という源泉から出てきた事実、神ご自身の語られた言語であるという事実」でもあるのだ。ユゴーが思想表現としての石の建築ということを言ったのからさらに進んで、ユイスマンスはそこに神自身の言語を読み取ろうとしているのである。
 さらにユイスマンスは「象徴表現は、聖書という大地に生えた鬱蒼とした大樹」であり、それは聖書ばかりでなく伝説集や聖書外典をも、文章の替わりに彫刻や絵画を用いて表現し、「堂内にキリスト教教義の諸真理」とともに封じ込めたのだという。ユイスマンスはそのような基本的認識を以下のように書き付けている。

「要するに、カテドラルは、一つの全体、総合なのであった。いっさいを含むものであった。聖書であり、教理問答であり、道徳の教室であり、歴史の講義であった。知識の乏しい人たちのため、目に見える像を文章の代用にしたのだった。」

 これがユイスマンスの象徴表現解読の基本的考え方であり、このエッセイより10年前に書かれた、シャルトル大聖堂への賛美に貫かれた『大伽藍』を書く基本的スタンスでもあった。
 ここでユイスマンスが「知識の乏しい人たちのため」と書いているのは必ずしも正確ではない。本来は〝文字の読めない人たちのため〟としなければならない。あれほどに彫像や図像にこだわり、文字なしでいっさいを語り尽くそうとした理由は、その対象が文盲の人々であったからだし、それほどに当時の識字率は低かったのである。

 J=K・ユイスマンス『三つの教会と三人のプリミティフ派画家』(2005、国書刊行会)田辺保訳

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建築としてのゴシック(22)

2019年02月03日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』⑦
 ユゴーが『ノートル=ダム・ド・パリ』の舞台にした15世紀は、ゴシック建築の完成期であると同時にその凋落の始まりの時期でもあった。グーテンベルクの発明した印刷術が思想表現のあり方を決定的に変えてしまうからだ。ユゴーはそのことについて次のように言っている。

「印刷術の発明は歴史上の一大事件である。あらゆる革命の母となる革命である。これによって、人間の表現形式はすっかり変わってしまった。人類の思想は、それまでの表現形式を捨てて新しい形式をとるようになったのだ。(中略)建築が人知を代表していた時代には、思想は山のような建物に表現されて、ある時代と、ある場所を力強く占領していた。だが、思想は、今や鳥の群れと化して風のまにまに四方へと飛び散り、世界中のあらゆる場所をいっぺんに占めてしまうようになった。」

「さらにいっそうじょうぶで持ちのよい紙の書物」とユゴーが言っていたことを思い出そう。紙は建築素材としての石より丈夫なものではもちろんないが、その複製可能性によって丈夫で持ちのよいものとなる。そして石と決定的に違うところは、石が限定された場所しか占有できないのに対して、紙の書物は世界を覆い尽くすことさえ可能だというところにある。
 だから「印刷術の発明は歴史上の一大事件」と見なし得るのである。思想表現が書物へと移行していくならば、建築は衰退の一途をたどるしかあるまい。ルネサンス様式は〝建築の新たなる夜明け〟と捉えられたかも知れないが、そのような認識は間違っている。ユゴーによればルネサンス様式はミケランジェロのサン・ピエトロ大聖堂を最後の光芒として、以後の建築は夕陽のように沈んでいくのである。
 建築の衰退はそれに縛られていた芸術家達に新たな道を切り拓くものでもあった。ユゴーは「教会彫刻は彫像術に、宗教画は絵画に、典文(ミサ中の聖体への祈り)は音楽に進化した」と書いている。印刷術はそれほどに革命的な変化をもたらしたのである。
 ユゴーはそこで「建築術と印刷術のどちらが、この三世紀以来、人間の思想を実際に表現してきただろうか?」という問いを立てる。「この三世紀」とは16・17・18世紀を意味しているが、15世紀までの建築の歴史が2000年ほどの(あるいはもっとそれ以上の)時間を費やしているのに対して、書物の歴史がわずか3世紀の時間しか経ていないことの違いを認識しておこう。
 時間のスケールの大きな違いにも拘わらず、ユゴーは印刷術の方に軍配を上げる。お金をかけずに手軽に作ることのできる書物が、ただの3世紀で物量的にも建築を凌駕するのみならず、「人間の精神の文学的、また学問的な熱狂ばかりでなく、その広く、深く、世界的な動きを」真に表現してきたのは書物なのである。
 最後にユゴーは次のように言っているが、この一文に建築術と印刷術に対する彼の考えは言い尽くされているように思う。

「こうした大理石のページを読み直して過去をかえりみることは必要である。建築術の記したあの書物を賛美し、絶えずそのページを繰ることは必要である。だが、次に登場した印刷術が築きあげた建造物の偉大さを否定してはならない。」

 つまり、ノートル=ダム大聖堂はいつも読み直して過去を顧みることのできる「建築術が記したあの建物」の1冊なのであって、そこに過去の人々の思想を読み取り、過去に学ぶことが優先されている。ユゴーのノートル=ダム修復・保存への熱意はそのようなものであった。
 私には以上のようなユゴーの非宗教的なバランス感覚を否定することができない。過去の遺物をありがたがって、新時代の技術を全否定するような反動的な精神をユゴーは持っていない。小説としての『ノートル=ダム・ド・パリ』もそのようなものであった。
 ところで我々もまた21世紀という時代に、書物の死とインターネットに代表されるコンピュータ技術の勃興という事実に直面しているのではなかったか。
(この項おわり)


 

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