玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(15)

2018年06月12日 | ラテン・アメリカ文学

 生きることへの興味を失った《ボーイ》は、アスーラ博士の手術を受けてリンコナーダの屋敷の外にいた五日間の記憶と、父親の記憶を消去され、再び冥府へと帰っていくだろう。「いまでは、ぼくは何でも知っているんだ」と言った《ボーイ》は再び無知の暗闇の中に戻っていく。
 リラダンの戯曲『アクセル』の主人公アクセルの言葉が、生への拒絶と現実世界の否定を意味しているならば、それは生と死の価値の転倒でもあって、リンコナーダの物語全体は退嬰と転倒の物語としての姿を現すのである。
 しかしそれは本当にドン・ヘロニモによって計画され、転倒の美学と教育方針によって実践され、失敗に終わるという物語なのだろうか。エンペラトリスによれば、それはヘロニモの考えではなく、ウンベルト・ペニャローサの考えによっていたというのである。

「私は欺されません。ここを作ったのはヘロニモの考えじゃないわ。間違いなく、あのウンベルトの思いつきよ。ウンベルトは自分だけのサーカスを持って、わたしたちをおもちゃにしたくなったのよ。このイカサマにヘロニモは気づかなかったらしいけど、ウンベルトはそのサーカスの人間のひとりに彼を、ヘロニモをちゃんと入れていたのよ。そう言えばヘロニモは、みんなの中でもいちばん化け物みたいですものね。でも、あれね。種類のちがった残酷な人間たちの世界が外にあることを《ボーイ》に知らさないという、いちばんの目的はいまも果たされているわ。あとはどうでもいいことよ。みんな、あの大嘘つきのウンベルトが思いついたことよ。」

 エンペラトリスのように考えればつじつまが合う。ドン・ヘロニモは「調和の美の模範」とさえ言われた存在であり、前から言っているように彼が怪異の美学を打ち立て、それに則ってリンコナーダの屋敷を設計したと考えることには無理がある。ウンベルトが、小説家であるウンベルトが、畸形たちの集団を妄想し、ヘロニモの力を借りてそれを現実のものにしたのだと考えてもよい。
 しかもヘロニモを「いちばん化け物みたい」だとすることは、《ボーイ》によって化け物のように見られるヘロニモの姿を予兆している。畸形たちにとっては「調和の美の模範」ほどに自分たちと違う化け物はないからだ。
 またヘロニモを畸形たちの仲間のひとりとすることは、ヘロニモの詩を予見することにもつながる。ヘロニモを事故死に至らしめたのは直接的には《ボーイ》だが、間接的にはウンベルトであったとも言えるからだ。
 リンコナーダの物語も、エンカルナシオン修道院の物語も、すべてはウンベルト・ペニャローサの妄想の中で生起する。なぜならリンコナーダではウンベルトと呼ばれ、修道院では《ムディート》と呼ばれる彼こそは〝小説家〟なのであるから。
 そして〝小説家〟こそは〝大嘘つき〟と呼ばれるべき存在に他ならない。ウンベルトも《ムディート》も小説家であるホセ・ドノソ自身の退嬰的で、転倒した妄想から産まれた存在であるのだから。
 ウンベルトはドン・ヘロニモの秘書として、リンコナーダの記録を書き残す役目を負わされていた。しかし一字も書くことはなかった。書きたいことは頭の中に入っていたらしい。エンペラトリスはそれについて直接に分析する。

「そうなのよ。いつもそこから話を始めたわ。でも、すぐにすべてがデフォルメされちゃうの。彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏み込んでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗り込められたその迷路の方が、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ。いつも変装か、役者か、くずれたメーキャップとかいった……そうなのよ、現実よりも彼自身の妄想や憎悪のほうが大切で、現実は、彼にとっては否定すべきものだったと……」

これはもうホセ・ドノソによる自作解説以外のものではない。