玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(18)

2018年06月16日 | ラテン・アメリカ文学

 さらに、妄想の非論理とは何か? 
・意図的あるいは意図せざる矛盾……前に触れた《ムディート》のペニスとドン・ヘロニモのペニスとの解きがたい矛盾。聾唖になったりそうでなかったりする《ムディート》の矛盾。《ヒガンテ》の仮面をかぶったヘロニモがイリスに対して不能に陥るのを《ムディート》が見ることができるかという矛盾。第10、第11章のヘロニモの視点から語られる取って付けたようなリアリズム的叙述の矛盾。ドン・ヘロニモの畸形の館構想の矛盾。60歳を過ぎてなお月経のあるイネス夫人の事実としての矛盾。《ボーイ》を産んだはずのイネス夫人が、その後気配を消してしまうことの矛盾。聖なる子を産むはずのイリス・マテルーナがいつまでも子供を産まず、いつの間にかインブンチェにされた《ムディート》が置き換わっていることの矛盾。5日間外へ出ていただけの《ボーイ》が、何もかもを知り、あろう事かヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』まで読んでしまうことの矛盾。
 以上のように、妄想の非論理性はいくらでもあげることができるが、非論理的妄想の典型的な場面がこの小説にはあって、その部分を読むと私などは「ああ、これだったんだ」と思わず膝を打ってしまうのである。それは修道院に帰ってきたイネス夫人が老婆たちとドッグ・レースのゲームをやっているとき、彼女の常勝の黄色い犬が、突然荒野を走り出す場面である。

「黄色い牝犬は、ほかの犬に追われながら逃げる。銀色に輝く月夜に土煙だけを残して駆け抜ける。復讐の念に燃えた騎手たちに追われて逃げる。毛の脱けた皮膚をひっ掻く茂みのなかに身を隠す。水たまりや湖を、何百年もの歳月や川を渡る。しかし、胃が痛くなるような飢えを満たすことはできない。口にする残飯や、かじる骨が十分ではないのだ。苦労して盗んだ餌をくわえて、しょっちゅうそんな目に遭っているが、どやされないうちに逃げ出す。共犯者の星が指さす方角に向かって逃げる。山を駆けのぼり、谷に駆けおりる。」

 こんな調子で一頁半続くのである。ゲームの犬が本当に動き出す。それは詩的想像力の論理によっているのであって、妄想の非論理性とは、すべて詩的想像力の論理を意味していることがここで理解されるのである。
 この黄色い犬は最初のアスコイティア一族の乳母の身体である、黄色い牝犬のイメージ、イネス夫人と《ムディート》が交わる夜に出現する黄色い犬のイメージを孕んで、想像力の荒野を走り抜けるのである。
 私がたくさんあげた執拗な繰り返しも、詩に特有の表現形態であり、イメージの増殖もそうだ。取り替え可能性とは、観念連合の中にあるものを隙あらば結びつけようとする、詩的論理を意味しているし、ふしだらと聖性のようなまったく逆の観念を逆転させるのも、詩的表現でしか可能にならないものだ。
 そして多くの矛盾。小説はそれを許容しないかも知れないが、詩はそうしたものを創造の領野において乗り越える。そんなことはイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』を読んでみればすぐに分かることだ。近代詩やシュールレアリスム詩では当たり前であった、隠喩の飛躍がここでは小説の言語として導入されているのである。
 つまり『夜のみだらな鳥』の説話の構造は、詩の領域のそれを利用しているとも言えるし、詩における説話の構造を小説として成立させようとしているとも言える。『夜のみだらな鳥』は幻想小説ではなく、詩の説話構造を借りた妄想小説なのである。
 そしてツヴェタン・トドロフは詩を幻想文学の世界から除外する。なぜなら「幻想は虚構の中でしか存続しえない。つまり、詩は幻想的ではありえないのだ」から。『夜のみだらな鳥』は虚構ですらない。それはホセ・ドノソ自身の内実を詩的妄想として構築したものに他ならないからだ。

 

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