玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

風化?

2010年07月29日 | 日記
 また“あの日”がやって来る。新潟県中越沖地震発生の七月十六日午前十時十三分のことを忘れることはできない。一人で自宅に居て、恐怖のあまり必死で外へ出たが、立っていることができずに地面にたたきつけられ、呆然と激しく揺れる電線を見上げていたことを思い出す。
 その後は、疲れも知らずに取材に明け暮れたこと、そして全壊した二人の友人の家から膨大な蔵書を救出したことを忘れることができない。当時はアドレナリン全開で極めて活動的だった。地震は私にとって“破壊”であるだけでなく“再生”への一歩でもあったからだ。
 ところで、あの地震の体験を“風化させてはならない”と主張する人がいるが、あんな体験を忘れることができる人がいるのだろうか。“風化”させないために、今年もまたさまざまなイベントが実施され、計画されている。
 十日には、仮設住宅跡地を巡る百キロマラソンが行われ、十一日には福厳院で復興祈念のイベントも行われた。十六日は大変忙しい。朝から合同追悼式、「ありがとうの碑」の除幕、自衛隊輸送艦「しもきた」の入港、「復興シンポジウム」、「復興コンサート」、「光のイルミネーション」と続く。とても全部取材できそうもない。
 ところで「忘れるな! 忘れるな!」とばかりのイベントの連続に、三年前自宅を失ったある人が「本当にひどい目に遭った人は、“復興イベント”になんか参加しないよ」と寂しそうに語っていたことを思い出す。取材は別として、当日の夜くらいは、一人で静かに三年前のことを反芻してみることにしたいと思っている。

越後タイムス7月16日「週末点描」より)

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車を探して

2010年07月29日 | 日記
 老化現象だろうか、最近ものの置き忘れが激しい。先日も車の修理が終わって車屋さんが代車を引き取りに来たとき、代車のキーが見当たらない。居間、玄関、事務所、台所と捜し回ったが、見つからない。5分間捜し回ってようやくキーのあるべき場所、家の鍵置場にあるのを発見した。
 またこの間は、夜暑くてパジャマの上を脱いでいたら、急に涼しくなってきたので、パジャマの上を捜したが見つからない。居間、寝室、事務所、台所、風呂場と捜し回ったがない。3分ほど捜し回ってひらめいた。案の定、パジャマがあるべき場所、タンスの中にそれはあった。
 置くべき場所に無意識に置いているのだ。だからそれを思い出せない。車のキーを鍵置き場に置いたことも、パジャマをタンスにしまったことも覚えていない。“無意識”の行動は恐ろしい。
 ところで、8日にコモタウン柏崎のウオロク柏崎店がオープンした。怖れていることがある。1,061台の収容能力がある巨大駐車場のことだ。オープニングセレモニーの取材を終えて帰る時、早速自分の車を探し回るはめになった。到着した時に駐車場はガラガラだったのに、帰る時には満車状態になっていたからだ。
 車を停める時は、周囲を見渡して、だいたいこの辺りと意識に止めておかないといけない。そうしないと、約4万平方メートルもある駐車場内を不安に駆られながら、探し続けることになる。あまり特徴のない車に乗っている人は、特に気を付ける必要がある。
 見つからない場合には、買い物袋をかかえて歩いて家に帰り、駐車場が空いた頃を見計らって、もう一度車を探しに来なければならなくなる。どこにでもある車に乗っているし、置いた場所を意識しておく自信もないので、しばらくはコモタウンに近づかないことにしよう。

越後タイムス7月9日「週末点描」より)

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千年もつか?

2010年07月03日 | 日記
 市内高柳町門出の「高志の生紙工房ギャラリー」で開かれていた「野中光正木版画展」を会期末になってようやく観ることができた。二カ月前に案内をいただいた時、木版による抽象表現というめったにない世界に興味を持ち、インターネットで野中さんの作品を観てから、ずっと気に掛かっていたのだった。
 ちょうど本人がいらしたので、いろいろお話することができた。野中さんは門出和紙を使うが、和紙を使うと、絵の具が紙の繊維に深く浸透して、色が落ち着くという。だから、モンドリアンを思わせるような幾何学的な抽象画でも、挑発的な感じはなく、温かい色の世界が拡がっていく。
 しかし、時に真っ黒い矩形の紙を画面に貼り付けた作品があって、そんな作品は十分に挑発的で、切れ味が鋭い。そんな作品に惹かれる自分を発見することができた。
 東京浅草生まれの野中さんは平成元年から三年まで、高柳町に移住し、小林康生さんのもとで紙漉きを学んだ。本当は高柳町に永住するつもりだったというが、紙漉きをやっていると絵を描く時間がとれず、東京に戻ることになった。
 それから苦節二十年、ようやくいろんなギャラリーから声が掛かるようになり、野中さんの作品は世に知られるようになってきた。抽象画に抵抗のある人もいるかも知れないが、野中さんの繰り出す“色”と“形”と直接対話することを心がければ、その素晴らしさが伝わってくる。
 最後に、小林康生さんがこだわる“生紙”についての話になった。「千年もつ」という生紙だが、私が「紙はもっても人類がもたないかも」と言うと、野中さんは頷くのだった。純粋な和紙が人類より長く生き延びる姿を想像するのは辛い。

越後タイムス7月2日「週末点描」より)

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まさかの26

2010年07月03日 | 日記
 直前まで二十四で決着するものと思っていたのに、裏ワザで二十六に決まった。市議会議員定数のことである。削減派は二十四人案で十五人をまとめ、過半数を抑えたつもりでいたのに、“まさか”の気持ちだっただろう。
 現状維持派だった議員らは、二十四人案が可決の見通しとなったために急遽、二十六人案を修正案として提案することになった。“現状維持”が維持できず、四人削減まで撤退して防衛線を張ったのだ。
 「みらい」と「市民クラブ」「蒼生会」は二十四人案と二十六人案で割れていた。いずれも会田市長派と目される会派で、会派の分裂やしこりを考慮に入れての戦術だったのかも知れない。採決の段階になって、二十四人派の「市民クラブ」と「蒼生会」各一人が議場に居なかった。修正案を可決させるための戦術だったのだ。
 二十六人案は、平成二十年の九月議会に「整風会」を中心とする削減派が提案したもので、「整風会」の議員は“なぜあの時反対していながら、今になって二十六人案を出すのか”と反発した。ある意味、無駄な時間を費やしてきたとも言える。
 全国の人口十万人以下の都市のうちの五○%が六人~八人の定数削減を行っている。地方財政の逼迫から、議員に対する市民の風当たりは強く、定数削減への圧力は強まる一方である。県内でも柏崎市より人口も多く面積も広い三条市議会は、定数を二十六としている。
 柏崎市議会にとっても、統一地方選挙が近づく中で、定数削減は避けられない流れだったと思う。二十四がいいのか、二十六がいいのかは分からないが、質の高い議員がそろっていれば、二十六でも十分なような気もする。今回の攻防は、たった二人の違いの争いだった。そんなことでなく、議員の質の向上を望みたい。

越後タイムス6月25日「週末点描」より)

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