玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(10)

2024年02月12日 | ラテン・アメリカ文学

 うっかりしていたが、隠喩について考える前に、もう少し直喩のあり方について触れておくべきことがあった。たとえば、主人公ホセの父ホセ・エウヘニオが若い時に祖母のムンダから、彼の進むべき進路についてアドヴァイスを受ける場面で、レサマ=リマはムンダばあさんの尊大さを次のような直喩で表現している。

「老母は反駁しようのない尊大な様子で頭をもち上げたが、それはまるで、ロシアの女帝エ カテリーナが重農主義者の陳情団を迎えて、最初は儀式ばった峻厳さの中に思いやりをにじませておきながら、じきに情け容赦なく、侮蔑的に、冷酷になって、その日の晩のうちにもう帰るようにと、代表団の笑劇的な退散のための橇を用意しようとしているみたいな感じだった。」

 このような歴史に関する蘊蓄を感じさせる直喩、しかもなかなか着地することなく、歴史上の出来事についての知識を開陳しながら、長い放物線を描いていく直喩表現は『パラディーソ』の中にはいたるところに出てくる。歴史上の人物や出来事だけでなく、ギリシャ神話の神々の業績やギリシャの哲人たちの発言、あるいは文学、美術、音楽などあらゆる分野のテクストを踏まえた直喩表現は、時に〝衒学的〟と言いたくなるほどの執拗さで繰り返される。
 このようなレサマ=リマの衒学趣味は、第8章以降にセミーの友人として登場する、フロネーシスとフォシオンの二人が繰り広げるぺダンティックな果てしない議論で頂点に達する。フロネーシスは大学生活で出逢ったばかりのセミーにいきなり、次のようなフォシオンとの議論を聴かせるのである。フロネーシスとフォシオンの議論は限りなく長く、無作為に引用してもそのサンプルとすることができるだろう。

「すでに性的器官の話はした。また、フロイトが通常の性的表現の媒体に、口と肛門??ラブレーの同時代人たちがあの黒い穴ぼこと呼んでいたものだ??をつけくわえることで、その数をふやしたことも話した。一部の人がフロイトによる拡大として評価しているこれも、キリストの七千年前のものと目されるマヌ法典と比べてみれば、根底においてはむしろ制限なのだ。」

 ここは直接に直喩に関わる部分ではないが、二人の友人、そしてセミーも含めた三人のあいだで闘わされる議論ではない場面でも、レサマ=リマのペダンティスムは旺盛であり、それは直喩表現だけではなく隠喩表現としても展開される。
 ここで我々は、アルベルト伯父の手紙に美質について、デメトリオがセミーに語って聞かせる言葉を思い出しておかなければならない。「馬鹿にしたような、衒学的な外見の下に心の優しさが隠れていて」という部分がそれである。デメトリオはこの部分で「君の伯父さんと一緒に勉強していたころのことを」思い出して「泣かされた」と言うのであり、青年時代の学問に対する熾烈な欲求と、それが果たされた時の悦びについてデメトリオは語っているのだ。
 それがアルベルト伯父の文章の美質だと、デメトリオが言っているのだとすれば、彼はここで『パラディーソ』全体のペダンティスムに対して、先回りして免責を与えているのであり、それはレサマ=リマが自らのペダンティスムに対して前もって免責を与えていることに等しいのである。

 


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