玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

市展のありかた

2006年10月16日 | 日記
 第五十回市展が六日から十一日まで盛大に開かれたが、そのあり方について疑問を投げ掛ける声も結構多い。五十回を記念して発刊された記念誌「柏崎市美術展覧会五十年の歩み」に市展運営委員の一人、柳重栄氏が書いている。
 「市展は、市の美術の祭典であるが、その後出品すれば殆ど入選するという形が長い間続いてマンネリ化している。しかし、現在に至っては、もっと作品の芸術性を高めることが望まれるのではないだろうか」。
 各部門とも一人二点まで応募できるから、審査員が二点のうち必ず一点を残す慣例が出来上がり、出品者のほとんどが入選する仕組みとなっている。“市民の美術展なんだから落とすことはないだろう。みんな仲良くやればいい”という考え方もあろう。
 しかし、市展の前身である旧柏崎美術会の「柏崎美術会総合展覧会」は、錚々たるメンバーの作品を揃え、「その規模内容の充実で県下まれにみる存在として知られ」ていたという。十年の活動の中で「この間本会員中より日展その他中央一流展に入選する者相つぎ柏崎美術会の黄金時代を現出」と、当時の代表・原直樹は記す。
 十年間に十三回の会員展、公募展を開いたというが、公募展の審査も厳正を極めたものだったのだろう。切磋琢磨のないところに、技術や芸術性の向上はあり得ない。戦後の混乱期に、これだけ充実した活動を続けたことは特筆に値する。
 毎年思うことだが、洋画部門に抽象作品の出品がなく、全体的に実験的で先駆的な挑戦がほとんど見られない。“そういう作品には別の場所がある”と言われればそれまでだが、だとすれば市展は今後もマンネリを繰り返していくのだろうか。

越後タイムス10月13日「週末点描」より)


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一匹残らず

2006年10月07日 | 日記
 市内堀の「古土の溜池」は、農業用水用の溜池で、かつては集落の人達が、ここでコイやフナ、タナゴやナマズを捕まえて、自分たちの食糧としていたという。農家の人達の貴重なタンパク源であり、大きな恵みを与える溜池だったわけだ。
 しかし、何者かがここにブラックバスを放流したため、生態系に大きな変化が起きた。春川町内会長によれば、「メダカやタナゴ、ナマズなどがいなくなった。もう大きなコイしか生息できない」という。また「ブラックバスは昆虫の幼虫も食べるから、昆虫も少なくなってしまった」と嘆く。本当にトンボの一匹も飛んでいる姿を見なかった。
 「古土の溜池」は近年、ブラックバス釣りの隠れた穴場になっていた。釣り人のマナーはよろしくないようで、ルアーやテグスも落ちていて、草刈りの時大変危険な思いをするという。地元の人は、ブラックバスを放したのは業者ではないかとさえ言う。人気のブラックバス釣りのポイントが増えれば、ルアーや釣具が売れるからだ。また、釣り人は釣ったブラックバスのほとんどを再び放す。三十センチ以上のものは食べてもうまくないのだそうだ。
 それにしても捕獲作戦は困難を極めた。池の水を落としたら、水中の藻が表面に現れ、ブラックバスの格好の隠れ家となってしまったからだ。捕獲されたブラックバスは体長四~五センチの幼魚も多く、これらを完全に駆除するのは至難の技である。
 春川町内会長の「一匹残らず」の掛け声もむなしく、絶滅作戦が成功したとは言えなかった。会長は「作戦を練り直して来年もやらなければならんかなあ」と話した。
 「古土の溜池」は面積も大きく、中央に弁天島もあって、なかなかのロケーションである。ここにメダカやタナゴが復活し、遊歩道が整備され、植樹された桜の花を楽しむ日がくることを期待したい。
P align="right">(越後タイムス10月6日「週末点描」より)


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飲酒運転のこと

2006年10月07日 | 日記
 悲惨な交通事故が続いている。特に飲酒運転による人身事故はむごたらしい結果を生むが、あれだけ連日のように報道されても後を絶つことがない。飲酒運転に関してはとても忌まわしい思い出がある。一人の友人を死なせているのだ。しかも一緒に酒を飲んだ直後に……と書くと、運転するのを分かっていて飲ませた罪に問われそうだが、そうではない。
 二十五年以上前のことになるが、しょっちゅう一緒に飲み歩く友人がいた。ある晩、彼の住居近くの飲み屋で二人で酒を酌み交わした。彼は新花町界隈に住んでいたから、車をつかう必要もなく、いつも歩いて待ち合わせ、いつも歩いて別れるという習慣だった。その日も、異常に速いピッチで飲む彼とアンバランスな飲み方をし、ハシゴもしないで別れた。
 翌朝の八時頃、彼の勤める会社からの「昨晩、交通事故で死んだ」という知らせに、我が耳を疑った。しかも飲酒運転で橋の親柱に激突して死亡したというのである。飲み屋で別れ、いったん家に帰ってから、どこへ行くつもりだったのだろう、酒酔い状態で車を運転し、悲劇は起きた。
 彼の場合、車で出掛けて飲み、タクシーで帰るのが面倒で飲酒運転をしたというのではない。どうも、酒を飲むと車でふらっと出掛けたくなる習性があったらしい。友人達の誰も、その夜彼がどこへ行こうとしたのか知る者はいなかった。未だに彼がどこへ行こうとしたのかは謎のままだ。
 その時は、“きのうの夜まで話していた友人が突然いなくなった”という事実に気が動転し、何も考える余裕はなかったが、今となってみれば、“道連れをつくらなくてよかった”と思うほかはない。
 優しくて親切でおとなしい男だったが、もし誰かを巻き添えにしていたらと思うとぞっとする。自損事故で一人で死んでくれたおかげで、彼の善良なイメージは今も保たれている。
P align="right">(越後タイムス9月29日「週末点描」より)


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