玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(11)

2024年02月13日 | ラテン・アメリカ文学

 一方私が常に比較対象にしてきたイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』における衒学的要素はどの様なものなのか。デュカスには当然、レサマ=リマのような歴史や哲学、文学、美術、音楽などの広範な領域におけるペダンティスムは存在しない。それはデュカスが『マルドロールの歌』を書いたのが20歳そこそこだったのに対して、レサマ=リマの『パラディーソ』は十数年かけて書かれ、1966年に出版されたもので、その時彼はすでに56歳になっていたのだから、それまでに蓄積した膨大な知識を惜しげもなく投入できたのである。
 しかしデュカスには、博物学的な知識があり、特に動物についての博識ぶりには目を瞠るものがある。そして、そうした知識は『マルドロールの歌』において、鮮烈な直喩表現に活かされている。第5歌からいくつか引用する。

「いつも飢えているかのように落ち着きのない鳥であるトウゾクカモメが、南北両極を浸す海洋地帯を好み、温帯には偶然やってくるにすぎないのと同じく、私もやはり平静ではいられず、ひどくゆっくりと脚を進めていたからだ。だが、私の行く手にあるあの人体のような物質は、いったい何なのか? ペリカン科の仲間には相異なる四つの種族が含まれることを、私は知っていた。カツオドリ、ペリカン、鵜、それに軍艦鳥だ。姿を現した灰色っぽい形状は、カツオドリではなかつた。垣間見える変形自在の塊は、軍艦鳥ではなかつた。私が 見つめている結晶化した肉は、鵜ではなかつた。」

「成長への傾向が組織体の取りこむ分子量には比列していない成人における胸部の発育停止の法則のように美しい子羊禿鷹は、大気の高層部へと消えてしまった。ペリカンはといえば、その寛大な赦しは当然のものとは思えなかったので大いに私を感動させたのだったが、まるで人類という航海者たちに、自分という実例に注意を払い、陰鬱な魔女たちの愛からおのれの運命を守りたまえと警告するかのように、丘の上で灯台のようにおごそかな冷静さを取り戻し、相変わらず前方を見つめていた。」

 実はレサマ=リマの博物学的ペダンティスムもまた、いくつかの例によって実証されるのである。それはあのアルベルト伯父の手紙の文章において露骨に示されている。たとえば、

「癒顎目(ゆがくもく)という戦士の部族は、顎に兜が打ちつけてあり、卜ールの槌をもって戦闘に向かう。〈盗賊魚〉(ガラファテ)は海のティレシアス、おどけ者、釣り針の悲劇的な意味を愚弄して、いたずら者、針だけを王様たちのために残して、自らの零の中で燐をめらめらと燃やしながら深みの底へと眠りにもどっていく。 盗賊魚の近くには針千本、棘のかたまりだが、棍棒の扱いは下手、ずる賢い神学者で、生まれながら抜け目がない。一方は針に食いつかず、他方は舳先に詐術で対抗する。」

 博物学の知識に歴史の知識が混入して、複雑なペダンティスムの味を感じさせる部分もある。

「栄光に満ちた硬鱗類は苦痛の王。ピナ?ル・デル・リオの黄昏には緑色の糸くず。シエナの地には原始の魚マンフアリー〔硬鱗類に属するキューバの淡水魚、尖った嘴がある〕、その脊椎はバウハウスの工房で研究された。尻鰭の使用に断固反対する男根魚。彼は陸に横たわり、最期の苦しみのうちに身を伸ばし、身を伸ばすことで死を勝ち取る、まるでイッポリト・デ・エステ〔十五世紀のイタリアの貴族、幼少時から教会の要職を歴任した〕の階梯を昇るかのように。信念は死して地下の出口へ、竜巻は死して始原の渾沌へ。」(〔〕内は訳者注)

 博物学単体での知識のイメージへの転用の面では、デュカスの方が刺激的かもしれないが、博物学に他の領域が混入した知識のイメージへの転用という点では、レサマ=リマの方が(アルベルト伯父の方が)鮮烈さの点で優っているように思う。
 奇態な、名前も聞いたこともないような動物たちがもたらすイメージ喚起力は、彼らのペダンティスムと不即不離の関係にあり、それを必ずしも否定的に捉えて指弾することはできないだろう。イジドール・デュカスがもっと長生きしていたら、レサマ=リマのように様々な領域に衒学の幅を広げていたかもしれないのである。

 


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