玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

初めての体験

2009年02月21日 | 日記
 十五日に新潟産業大学で開かれた「社会人の学び直し教育プログラム」シンポジウムというものに、柄でもないのにパネリストとして登壇することになってしまった。シンポジウムを取材することはあっても、パネリストをつとめるなどということは初めてのことで、うまくできるかどうか不安があった。
 しかし、広川学長に頼まれて断り切れず、“学び直し”というところに自分の体験も含めて興味がないわけではなかったので、何か話ができるかなと思い、引き受けることにしたのだった。基調講演はNPOにいがたキャリアサポーターの岡田美栄さん。もうひとりのパネリストはアイビーリサーチの藤澤正人社長、司会は産大人文学部の梅澤精教授だった。
 午後一時半開始なのに打ち合わせは午前十一時半から。事前準備もなかなか大変なんだ。岡田美栄さんはとても美しく聡明な方で、藤澤社長はバリバリの実業家だし、えらい場違いなところに来てしまったと正直思った。
 当日は初夏のような陽気で、「どっかへ遊びに行って誰も来ないだろう」と皆で予想していた。岡田さんと窓ごしに会場の方を見てみると、まったくひと気がない。「誰も来なかったら写真だけ撮って解散しよう」などと不謹慎な会話が続いた。
 しかし、会場には予想を超える四十人ほどの聴衆が集まっていた。岡田さんの基調講演は、立て板に水のような流暢なしゃべりで、「慣れている人は違うな」と思った。岡田さんは「地域力アップの一番の元は“個人”で、一人ひとりの生き方が大事なんだ」と話した。その考え方に共感を覚えた。
 “社会人の学び直し”について、人に教えてもらうのではなく、自分の力で学ぶことが大切だということを話したつもりだが、大学の機能を否定するような発言であり、新潟産業大学さんに迷惑をかけたかも知れない。

越後タイムス2月20日「週末点描」より)


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赤色エレジーの話

2009年02月21日 | 日記
 金泉寺の節分会を取材に行って、突然あがた森魚さんが登場したのにびっくりした。小林副住職の弟で俳優の小林三四郎さんが、同じ事務所に所属するあがたさんを連れて来たのだそうだ。
 昭和四十七年に「赤色エレジー」でデビューしたあがたさんも、今では六十歳。「還暦ツアー」で日本全国を廻っているという。デビュー当時は髪を長くしていたはずだが、今はハンチングをかぶっている。いわゆる“はげぼうし”かも知れない。今でも活躍していて、NHKの人形劇「バケルノ小学校ヒュードロ組」という番組の主題歌も歌っているのだそうだ。
 「赤色エレジー」には原作(歌に原作があるとすれば)があって、林静一の「赤色エレジー」という漫画がそれである。当時漫画月刊誌「ガロ」に連載されていたもので、愛読者の一人であった。だからあがたさんの「赤色エレジー」にも思い出がある。
 在籍していた大学の構内で殺人事件があった。いわゆる過激派による“内ゲバ”事件で、それをきっかけに、事件を起こしたあるセクトを排斥しようという運動が一般学生を中心に巻き起こった。それまでセクトの支配で警察国家のような息苦しさが蔓延していた学部には、次第に自由な空気が生まれてきた。
 そんな中で、講堂をつかってあがたさんのコンサートが開かれたのだった。そのコンサートのことをよく覚えている。あがたさんは女性の長襦袢をしどけなく着て「赤色エレジー」を歌った。当時演劇の世界を支配していたアンダーグラウンドの雰囲気を濃密に漂わせていた。
 「赤色エレジー」は、戦後生まれの人間にも戦前を感じさせるような、あり得ない“ノスタルジー”を掻き立てる不思議な曲で、三十六年経った今でもファンは多い。ある人にとっては学生時代を思い出させる懐かしい曲だろう。しかし、学生時代を思い出したくもない者にとっては、辛い曲である。早く忘れよう。

越後タイムス2月6日「週末点描」より)


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工作機械メーカーの悲鳴

2009年02月20日 | 日記
 新年早々大不況の嵐で、新年会に出席しても、元気の出る話はちっとも出ない。不況はまず自動車産業を直撃していて、部品メーカーの操業短縮や派遣社員の解雇等が連日のように伝えられている。
 柏崎の製造業も、自動車産業の下請け企業を中心としているから、大変深刻な事態となっている。しかし、さらにもっと厳しい業種もある。工作機械メーカーがそれだ。ある工作機械メーカーの社長は「部品メーカーはまだいい。受注がゼロになることはない」と話す。
 不況時にまず売れなくなるのは高額の耐久消費財である。だからまず自動車が売れなくなって、メーカーを直撃する。車よりも高額な耐久消費財は、車の部品をつくる機械である。工作機械は窮極の耐久消費財であるとも言える。今最も厳しいのは機械メーカーなのだ。
 「部品メーカーはまだいい」という社長は、「機械メーカーにとって、受注は“ゼロ”か“全部”かのどちらかだ」とも話す。操業短縮の嵐の中で、増産のために工作機械を購入する企業はあり得ない。今まで合理化のために機械を更新してきた企業にとって、“便利な機械”は雇用確保のためにはかえってマイナスになる。
 「一人で何台動かせるか」と効率を求められていた機械も、「何人で一台動かすか」という話に変わってきているという。確かにこんな状況の下では、昔の効率の悪い機械に戻した方が、雇用の安定のためにはプラスになるのだろうが、タイムマシンで呼び戻すこともできない。
 産業革命下のイギリスで、“機械に仕事をうばわれてはならない”と、機械をぶち壊す「ラッダイト運動」があったことを教科書で習ったことを思い出した。

越後タイムス2月13日「週末点描」より)


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神様・長谷川龍生

2009年02月04日 | 日記
 昨年十二月十四日に、画家の木下晋さんが柏崎を訪ねてくださった時、越後タイムス同人で運営する文学と美術のライブラリー「游文舎」で仲間を集めて歓迎することにした。いつものようにバカ話ともシリアスな話ともつかない歓談を続けているうちに、木下さんは突然「長谷川龍生に電話しよう。柏崎に講演に来てもらおう」と言いだしたのだった。
 私の携帯電話をつかって長谷川氏に電話し、いきなり「今、柏崎にいるんだ。講演に来てほしい」と単刀直入の早業だった。木下さんは例のひとなつこい笑顔で「オレはこんなサプライズが好きなんだ」と得意そうだった。
 長谷川龍生氏といえば、戦後の現代詩をリードしてきた巨人で、現在六十歳、七十歳代で詩に関わっている人々にとっては“神様”のような存在である。そんな“神様”のような人と電話で口を利いてしまった。直接講演のお願いをすると一発でOKだった。
 長谷川氏は昭和三年大阪市生まれ。小学校を卒業する頃には夏目漱石全集を読破していたというから、“神童”の呼び名がふさわしい。そんな幼少の頃からの言語感覚の錬磨が戦後詩を代表する作品を生んでいっただけでなく、コピーライターとしての才能も開花させた。
 東急エージェンシーの広告企画部長をつとめたこともあり、その時の部下が現在のタイムスの相棒である。彼によると当時はコピーライターとしても“神様”のような存在だったという。交友関係もすごい。堤清二は友人だというし、田辺聖子は教え子、開高健、安部公房も友人だったという。
 そんな“神様”の講演会を七月十八日に柏崎で実現できることになった。新宿のダンボールハウスの住人達の間にもファンがいるという“神様”のお話が楽しみである。しかし残念ながら、長谷川氏の詩集は現在一冊も新刊で発行されていない。古本で手に入れるしか方法はない。

越後タイムス1月30日「週末点描」より)


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