玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

冷夏とマクワウリ

2009年08月16日 | 日記
 いつまでも梅雨が明けないなと思っているうちに、雨と低温が続き、これはただごとではないと思い始めたら、案の定、記録的な日照不足になりそうな気配である。浜茶屋も大変だが、農家も大変だ。地震に次いで大不況、そして凶作となれば、柏崎は三連発の打撃を受けることになる。
 夏の果物といえば、スイカ(正式には野菜)だが、スイカは梅雨が明けて猛暑にならなければ、あまり食べたいとは思わない。桃は嫌いではないが値段が高いので買わない。夏の果物で一番好きなのはマクワウリ(これも野菜のはず)の仲間で、高級メロンよりはるかにおいしいと思う。
 昔母方の祖母が畑でいっぱい作っていて、遊びにいくと、いつも洗った鎌で切って食べさせてくれた。マクワウリといってもいろいろあり、緑色で細長い古典的な形のものを思い出すが、畑にはいろんな品種が交雑したおかしなマクワウリがあって、それがまたおいしかった。“ハイブリッド”は自動車に限らず強靱で、優秀なのである。
 近頃では、黄色で果肉が白いマクワウリと、プリンスメロンの原型のような果肉が緑色のマクワウリしか手に入らない。どちらも好きだが、今年は黄色のマクワウリが異常に高い。例年、一個百円~百五十円くらいのものが、三百円~四百円もする。とても高くて買えない。
 マクワウリ愛好家としての経験則から、暑い日の翌日に店頭に並んでいるものが甘くておいしいということを知っている。ところが、暑い日がやってこない。だから大好きなマクワウリも食べられない。食べてもまったく甘くなくて、おいしくないのだ。先日桃を買って食べた友人が、「まったく甘味がなくてまずかったので、口直しにアイスキャンディーを食べた」と言っていたが、さもあろうかと思う。
 盆も間近である。夏も終わろうとしている。異常に多いアカトンボが市街地にまで飛び交っている。里山では、ヒグラシの“カナカナ”という鳴き声を聞いた。台所にキリギリスが侵入してきた。まるで晩夏のようなあり様である。
 ようやく四日、梅雨明け宣言があったが、夏らしい猛暑はまだやってこない。

越後タイムス8月7日「週末点描」より)



団塊の世代のノスタルジー

2009年08月03日 | 日記
 作家でフラメンコダンサーの板坂剛氏から、分厚い本が送られてきた。佐々木美智子写真集『あの時代に恋した私の記録・日大全共闘』(鹿砦社)である。学生運動が最も激しく展開された一九六八年の日大全共闘の運動をカメラで捉えた一冊で、A4判三百三十頁もある。
 当時学生だった人達は、すでに還暦を超えてしまっている。四十年前の学生運動について振り返るには、節目の年齢でもあるのだろう。一九六八年のことについて思想的に総括し直すという意図で出されている本もあるから、これから団塊の世代の歴史的回顧が本格的に開始されるのだと思うし、それはそれで必要なことだと思う。
 しかし、素直に喜ぶことはできない。一九六八年に高校生であった世代が、大学に入学した時には、学生運動はほぼ終結していた。その後、連合赤軍事件をはじめとする凄惨なリンチ殺人事件や内ゲバが続いていく。だから、学生運動の否定的側面しか見ていないし、「連帯を求めて孤立を恐れず」などといった高揚感を体験したこともない。私らは学生運動の“とばっちり”を受けた世代にすぎないのだ。
 板坂氏は日大全共闘芸闘委(芸術学部闘争委員会)のメンバーとして、活動した一人であった。この写真集の中には、板坂氏の四十年前の姿が捉えられている。しかし、どういうわけか、板坂氏の表情は、いつも陰鬱で暗い。それがなぜなのかは分からない。
 それにしても、このような写真集を四十年の歳月を隔てて世に問うことの意味はあるのだろうか。ゲバ棒を振り立てて、機動隊に向かって投石を行う学生達の姿は、単にノスタルジーを喚起するに過ぎない。日大全共闘のカリスマだった秋田明大氏の像もノスタルジーの対象でしかない。
 本当に必要なのは思想的総括であって、それができなければ、一九六八年の学生運動は何の意味もなかったことになる。四十年を経て、そのことが問われているのだ。団塊の世代の奮起を願う。

越後タイムス7月31日「週末点描」より)