玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(10)

2018年03月26日 | 読書ノート

 グッドウッドは少なくとも3回はイザベルの前に現れて、執拗に求婚するのだが、最後の場面は極めて印象的であって、そこでいざイザベルの心理も、グッドウッドの心理も顕わになるのだと言ってもよい。
 イザベルはこのときラルフ・タチェットの死をみとったばかりであり、彼との真の愛情を確認したばかりである。そんなタイミングでグッドウッドが現れて求婚すること自体に無理があるが、それがイザベルにとって苦痛であることはあまりにも明白である。また作者は承知でこのような無粋なことをさせているのである。
 だからギルバートのもとへ帰ることを指弾されて、「あなたから逃げるためよ」という最後通牒が発せられる。しかもそれはイザベルが「けっして愛されていなかった」ことの自認の意識を随伴していた。
 イザベルは、グッドウッドだけでなく、誰にも愛されていなかったということを、ヘンリー・ジェイムズは言いたいのだろう。おそらくラルフ・タチェットを除いては。
 しかし、グッドウッドの最後の求愛は、決定的にイザベルをギルバートのところへ帰らせるきっかけとなるだろう。考えてみれば、とてもうっとおしいグッドウッドという人物を、なぜヘンリー・ジェイムズは登場させるのかと言えば、おそらくこの最後の場面のためなのである。
 ところでヘンリー・ジェイムズは20本以上の長編小説を書いていて、私が翻訳で読んだのは10編そこそこであるにしても、徹底的にハッピーエンドを嫌った作家であることはよく分かる。最後に主人公が幸せになる作品など1編もない。
 前言を修正するようなことになるが、やはりここには作者のサディスム的心性が潜んでいると言わざるを得ない。登場人物をひどい目に遭わせ、不幸の底に追い込むのは、マルキ・ド・サドの『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』以来のサディスムの伝統ではないか。
 あるいは心理小説というものが、もともとサディスム的心性によってのみ可能だということは、コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』を読めばすぐに分かる。
 ラクロの『危険な関係』は清純な乙女を道徳的に堕落せしめ、籠絡する過程を微に入り細を穿って描いた作品である。この作品もまたフランスの心理小説を代表する作品であり、作者のサディスムによってこそ書かれ得た作品なのだ。
 一方、ではなぜヘンリー・ジェイムズはギルバート・オズモンドがマダム・マールと共謀して、イザベル・アーチャーを籠絡する過程を描かなかったのであろうか。そこにはヘンリー・ジェイムズのサディスムの不徹底が指摘されるのであろうか。
『ある婦人の肖像』に欠点があるとすれば、それはイザベルがギルバートに惹かれていく過程がほとんど書かれていないところにある。ウォーバトン卿とグッドウッドの求婚をあれほどに峻拒したイザベルがなぜこうもやすやすと、ギルバートとの結婚を受け入れてしまうにかが分からないのである。
 知らぬ間に二人は結婚し、知らぬ間に夫婦の危機を迎えている。あれほど知性的であったイザベルがギルバートのどこに惹かれて結婚し、どのようにして危機に向かっていくのかが書かれていないのだ。
 やはり私はそこに、ジェイムズのサディスムの不徹底を見ないわけにはいかない。後期の作品たとえば『鳩の翼』ではマートンがケイトとの結婚資金調達のために、ミリーの遺産を手に入れることを目的に、彼女に取り入ろうとする過程が克明に描かれているし、『金色の盃』ではアメリーゴとマギーの夫婦生活が破綻に至る経緯もきちんと書かれている。
 心理小説はサディスムが要求する形式である。これが私の結論なのであるが、しかしこの問題は『ある婦人の肖像』からは見えてこない命題である。
(この項おわり)


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(9)

2018年03月25日 | 読書ノート

 私は『ワシントン・スクエア』や『メイジーの知ったこと』を取り上げたときに、ヘンリー・ジェイムズのサディスムということを言った。それはつまり、登場人物に対する作者の酷薄さをまずは意味していた。
  必ずしもそれは登場人物たちを悲惨な境遇に追いやるということだけを意味しない。それは例えば、『ワシントン・スクエア』では父が娘について、「キャサリンに恋をする青年がいるはずはない」とまで惨い評価をするところに現れてくるような酷薄さである。
  あるいは『メイジーの知ったこと』では、メイジーの父と母との人を人とも思わぬののしりの言葉として表現されているものであった。つまりそれは登場人物同士の評価の問題に還元されるたぐいのものである。
『ある婦人の肖像』ではそのようなジェイムズの酷薄さは発揮されていない。イザベルは不幸な境遇に置かれてしまうではないかと言われるかもしれないが、それよりも登場人物同士が酷薄な対立関係に置かれることが、最後のギルバートとイザベルの場面を除いては存在しないことのほうが重要である。
 それまではイザベルとマダム・マールの関係も、イザベルとギルバートの関係もいたって良好なものであり、小説の最初から対立関係にあるわけではない。
 後期三部作では特に、登場人物たちはお互いがお互いを厳しく評価し合うという関係に置かれる。だから絶え間のない対立関係がそこでは生起してくる。
 それがなぜなのかということを考えたときに、心理小説というものの本質が見えてくる。つまり、人間と人間との関係性を心理のレベルにおいて捉えるということは、登場人物たちを日常性の安全地帯には決して置かないということを意味しているからだ。
 人間を心理のレベルに還元するとすれば、すべてが露呈されずにすまされることはあり得ない。なぜなら作者は、登場人物の発言の背後に隠されたものを、あるいは登場人物の表情やしぐさの裏側にあるものをこそ描こうとするのだからである。
 隠されたものを露呈すること、それが心理小説にとっての大きな仕事であって、人間同士の関係も互いの裸の評価のなかに置かれざるを得ない。
 それは日常性のレベルを超えた領域にまで達するのであって、裸にされた〝心理たち〟は互いに宥和することもできなければ、お互いの存在を許し合うことすらできない。だから〝心理たち〟は絶えざる緊張関係のなかにあって、いつでも対決の火花を散らす用意を調えている。
 以上のような心理小説のレベルは『ある婦人の肖像』では、実現されてはいないというのが私の意見である。
 ただし、この小説のなかに何回かイザベルへの求婚者として登場する、ウォーバトン卿とは違うもう一人の人物、キャスパー・グッドウッドがイザベルの前に現れる場面は、相当に酷薄なものと言わざるを得ない。
 グッドウッドの求婚はイザベルによって、ウォーバトン卿の場合よりもさらに厳しく拒絶されるのだが、そこでイザベルの心理が露呈する場面がある。最後にグッドウッドが現れて、既婚者であるイザベルになおも求愛するところ。

「なぜ戻らなければならないのです――」なぜあの恐ろしい絆に苦しまなければならないのです?」
「あなたから逃げるためよ」と、彼女は答えた。しかしこの言葉は彼女の感じたことのほんの一部しか現していなかった。他に彼女の感じたことは、自分はこれまでけっして愛されていなかった、ということであった。

「あなたから逃げるためよ」という言葉はあまりにも残酷である。グッドウッドに対する最後通牒であるにしてもあまりにも惨い。

 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(8)

2018年03月23日 | 読書ノート

 前に心理小説の特徴として、登場人物を一対一で対決させる場面の多用ということを言った。特にヘンリー・ジェイムズの場合それは『金色の盃』において顕著であり、図式化さえしていたことを思い出してもよい。
『ある婦人の肖像』にも一対一の対決の場面はあるが、それほど多くはない。一対一で登場する場面でもそれがすべて対決の場面というわけではない。ほとんどの場面を一対一の対決として描いた『金色の盃』とは違うのである。
 この小説で一番対決としての緊張感を発揮しているのは、第51章のギルバートとイザベルとの二人だけの場面だろう。ラルフ・タチェットの危篤のためにイギリスへ行くことをめぐってギルバートとイザベルは決定的な対決をする。
 後期三部作でこのような場面は、短めの会話と長大な分析的記述によって特徴づけられていたが、ここにはそうしたものは見当たらない。一般の小説におけるように、地の文と会話文との均衡はほぼ保たれている。
 地の文に分析的記述が入ってくるのは、若いときからのジェイムズの作品の特徴であるが、それがむやみやたらと引き延ばされることはない。だから読みやすいのだが、後期三部作のあの執拗さに馴致された者にはかえって物足りなさが感じられるのである。
 その物足りなさはどこから来るのだろうか。ヘンリー・ジェイムズの執拗な分析的記述には、それが会話と会話の間に侵入してきて会話文の間に、複雑きわまりない緊張感を生み出すという効果がある。
 読者はある会話の表面だけではなく、そこに隠されていること、あるいはそこにほのめかされていること、さらにはその会話が次の会話内容の先回りをして、それを待ちかまえていたり、次の会話のもたらす攻撃に対する防御の役割を担ったりということを、読んでいくのである。
 そこには会話と会話の間をつなぐタイトロープが張られていて、読者はその上をわたっていく。緊張感に満ちた危うい体験を読者は強いられる。
『ある婦人の肖像』ではそのようなことは起こらない。それはある意味で、ギルバートとイザベルが本音で語りすぎてしまっていることに起因している。彼らは後期三部作の登場人物のように、お互いに自分自身を隠しながら相手の腹を探っていくというようなやり方を知らないのである。
 だから第51章のギルバートとイザベルの対決は、全面的衝突を描くだけで、もの足りないということになる。例えば次のような二人のやりとりは、直接的すぎて面白くない。

「しっかりと結びあっているとか、あなたが満足していらっしゃるとか、なぜそんなことが言えるのでしょう? 私の裏切りを非難なさっていて、どうして結びあっているのでしょう? 心のなかにおそろしい疑いしか持っていらっしゃらないのに、どうして満足していらっしゃるのでしょう?」
「そういった欠点はあっても、われわれがちゃんといっしょに暮らしているからさ」
「私たちはちゃんといっしょに暮らしてはおりませんわ」

後期のヘンリー・ジェイムズならためらうことなく、この三つの会話文の間に長大な地の文を挿入するだろう。この部分だけで2から3頁を必要とするだろうし、そのことによって二人の対決の緊張感ははるかに高められるだろう。
私は『ある婦人の肖像』を傑作と認めはするが、やはりまだヘンリー・ジェイムズの特有の手法は現れてはいないという印象を持たざるを得ないのである。

 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(7)

2018年03月22日 | 読書ノート

 私は『金色の盃』の項で「了解の瞬間」ということと、それが心理小説の絶え間ない緊張感にあるカタルシスを与えるということを書いた。
 イザベルのもの思いのこの場面も、「了解の瞬間」としての要素を持っているだろう。彼女のまわりの錯綜した現実を「批判的に考え直す」ことによって、彼女は何かを察知するのであり、そこに「了解の瞬間」が訪れるのであるから。
 そしてそのような場面が『ある婦人の肖像』の中にはいくつかあって、いずれも読者にとってある種の快感を呼び起こすものとなっている。これもヘンリー・ジェイムズの小説の特徴の一つと言える。
 中でも記憶に残るのは、イザベルへの求婚者であったウォーバトン卿が、今度はイザベルの継子であるパンジーへの求婚者として現れる場面である。イザベルは最初その結婚に賛意を示すのだが、しかし一抹の不安を感じている。
 イザベルはウォーバトン卿との一対一の場面で、彼の目の中に彼の本当の気持ちを読み取るのである。その場面は次のように描かれる。

「彼女の眼が彼の眼と合い、二人はしばらくじっと見つめあっていた。もし彼女が確かめたいと思っていたならば、そういう気持ちを満足させるものを認めたのだ。彼女は彼の眼に、彼女が自分のことで不安を覚えていたこと――おそらくは恐怖さえ感じていたことが、ひらめくのを見たのだ。希望ではなく、疑念が現れていたのだが、ともかく、彼女が知りたいと思っていることがわかった。彼がパンジーと結婚したいということには、彼女自身にもっと近づくという意味合いが含まれているのを彼女が見抜いたこと、あるいは、見抜いた場合、彼女がそれに不安を覚え、自分の体面を危うくすると考えていること、これは少しでも彼に気づかせてはならなかったのだ。」

回りくどい表現はいつものことだが、これは少しでも真実に近づこうというイザベルの、あるいは作者の意図を示している。人間と人間との関係の複雑さの一端に取りつこうとする熱意が、表現の回りくどさを生じさせる要因なのである。
 しかしここでのイザベルの〝了解〟は決定的であって、以降彼女はウォーバトン卿とパンジーの結婚に賛成できなくなる。それはまた夫ギルバートとの対立を激化させる要因ともなっていく。
 もう一カ所挙げておくとすれば、第49章でイザベルがマダム・マールと一対一で対決し、本当に騙されていたことを確信する場面となるだろう。イザベルはマダム・マールの顔だけから突然のように確信を得るのである。

「イザベルは座ったまま、彼女の顔を見上げていて、立たなかったが、その顔には真相を知りたいというはげしい願いが現れていた。しかし客の眼の光からは何もわからず暗闇同然に思われた。
まあ、たまらないわ」と、彼女はやっとつぶやくように言ったかと思うと、椅子の背によりかかり、両手で顔をおおった。タチェット夫人の言ったとおりであったという思いが、高波のように彼女を襲ったのであった。マダム・マールによって結婚させられたのだ。彼女が手を顔から離す前に、この夫人は部屋を出て行った。」

 いずれもイザベルにとっては酷薄な事実を了解する場面であり、言うまでもなくカタルシスが与えられるのはイザベルにではなく、読者に対してである。

 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(6)

2018年03月21日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズはこのイザベルの〝夜を徹してのもの思い〟の場面について、『ニューヨーク版序文集』の中で次のように書いている。長くなるがとても重要なところなので引用したい。

「そしてこの経験はやがて彼女にとっても画期的な出来事となる。本質に還元すれば、それはすべてを振り返って批判的に考え直すことに過ごした一夜以外の何物でもない。しかしそれは二十の〝出来事〟よりもさらに彼女を前進させる行為なのである。それは出来事に見られるあらゆる活気と絵画に秘められたあらゆる経済性とを兼ね備えるべく意図されたものであった。彼女は、消えゆく暖炉の傍らで、夜の深更に及ぶまで、認識の魔力に魅せられて、まんじりともせずに起きているが、やがてその認識にこの上もなく鋭く閃くものが続くことを彼女は悟る。それはただ彼女がまんじりともせず〝見る〟のを描写したものだが、それによって彼女の唯じっと認識を深める行為を、隊商に出食わした驚き、あるいは海賊であることが発見されたことにも匹敵するほどに、〝興味深い〟事件にしようという試みであった。」

 ここに書かれていることはヘンリー・ジェイムズの心理小説といわれる作品の要諦をあますところなく指し示している。つまり心理小説は〝出来事〟の代わりに〝見ること〟〝知ること〟を差し出すのである。
 普通の小説が登場人物の行為や、その結果として生起するものを作品の中核に据えるのに対して、ヘンリー・ジェイムズの小説は登場人物が〝見ること〟によって、〝知ったこと〟を中核に据える。
 ジェイムズが隊商との遭遇や海賊の発見を例として挙げているのは、冒険小説における〝興味深い事件〟だけを言っているのではない。そうではなく、より一般的な小説における〝興味深い事件〟もまた、隊商との遭遇や海賊の発見のようなものとして捉えられている。
 ここにはある転倒がある。行為の代わりに思考が、行動の代わりに知ることが、小説において事件を構成するという転倒である。これはヘンリー・ジェイムズの既存の小説に対する挑発的転倒と言ってもよいものであり、彼の心理小説といわれる作品のすべてに該当する構造である。
 ヘンリー・ジェイムズはそれを「出来事に見られるあらゆる活気と絵画に秘められたあらゆる経済性とを兼ね備えるべく意図され」なければならないと言っている。それはいわゆる出来事のドラマ性と絵画が一瞬のうちに再現してみせるドラマ性(だから〝経済性〟という言葉が使われている)の代替物とならなければならない。
『ニューヨーク版序文集』というのは、1907年から1917年にかけて刊行された「ヘンリー・ジェイムズ全集」全26巻に収められた作品のすべてにつけられた序文を一冊にしたもので、そんためにジェイムズは過去の作品すべてを読み直して、全面的補筆を加えるという途方もない作業を行ったのである。
『ある婦人の肖像』を書いてから25年後の作業であり、すでに心理小説の極北とも言うべき後期三部作を書き終えた後に書かれたものだから、あと知恵的な部分もあるかもしれない。
 しかしそのような方法意識の萌芽をジェイムズが持っていたことは確かなことであり、『ある婦人の肖像』の完成度の高さがそのことを証明している。
 ヘンリー・ジェイムズが言うように、イザベルの徹夜の批判的思考(分析的思考と言ってもよい)が、一つの事件となって彼女を前へと進めていく。第42章は彼女の転換点であり、その後の騙されていたのだという認識や、夫オズモンドとの対決、さらにはマダム・マールとの対決に直接につながっていく。
 この部分なくして『ある婦人の肖像』は成り立たないのである。しかし大事なことは、それがイザベルの思考であるだけではなく、作者であるジェイムズの分析的思考でもあるという二重性を持っていることなのである。

ヘンリー・ジェイムズ『ニューヨーク版序文集』(1990、関西大学出版部)多田敏男訳


 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(5)

2018年03月20日 | 読書ノート

 映画の話はここまでにしよう。私は「ある貴婦人の肖像」を観ていないのだから、勝手に『ある婦人の肖像』を映画にするときに、私ならどうするかということについて駄弁を弄してきただけだ。
 ただし、『ある婦人の肖像』が映画化にふさわしい作品であることを、私は認めざるを得ない。多分私は近いうちに「ある貴婦人の肖像」を観ることになるだろう。
 しかし、いわゆる文芸ものの映画が原作を超えることは不可能に近いことであって、もしそんなことが可能だとすれば、原作の質が相当に低いか、あるいは映画が原作の意図することを超え出るほどの製作意図を持っているというケースしか考えられない。
『ある婦人の肖像』は私が予想した以上に、ヘンリー・ジェイムズにとっての大傑作であり、それは心理小説的ではあるが、後期三部作のような異常な徹底性は持っていない。だから分かりやすいし、言ってみれば登場人物たちの行動がその心理のあり方とかけ離れてはいないのであって、この小説を19世紀後半の〝普通の小説〟として読むことは十分に可能なのだ。
 だから『ある婦人の肖像』は映画にすることが可能だったのである。しかし、決して映画化できない部分が原作には存在しているし、それがなければ『ある婦人の肖像』はその価値を、映画にすべて吸収されてしまう程度の作品だということになる。
 ヘンリー・ジェイムズは自分自身、この作品に後期三部作の中間に位置する『使者たち』に次ぐ評価を与えている。彼の評価は、この作品が『使者たち』のように大勢の人物を登場させながらも、極めて緊密な構成を保っている点にある。後期三部作の残り二作『鳩の翼』と『金色の盃』は登場人物が少なくて、ストーリーもそれほど複雑なものではなく、心理小説的実験を最大限行うにはよい条件を持っているが、その分長編としての重量感に欠ける。ヘンリー・ジェイムズの自己評価はかなり納得できる部分がある。
 そして、ジェイムズが『ある婦人の肖像』の中でも最もよくできていると思っていたのは、第42章である。イザベルがある日の午後、ギルバートとマダム・マールが親密に話し合っている様子を思い出して恐怖の感覚を覚え、一晩寝ずに考えにふける場面である。
 この章には会話がなく、イザベルはギルバートとの結婚生活を最初から振り返って思いをめぐらせながら、恐怖とともに何かを覚る。何かに気づくのである。地の文だけが延々と続いていく。そして分析的記述に終始するこの章を普通の読者は敬遠するだろう。
 この章を最上の部分とするのは、いかにもヘンリー・ジェイムズらしいところであって、この部分は後期三部作で顕著になる心理分析的記述の前兆とも言えるのである。
 しかもヘンリー・ジェイムズはこういう部分を、登場人物の独白として描くことは決してない。彼はその人物の〝視点〟に立って、作者として分析を続けていく。そして作者はイザベルと共にある了解に至る。イザベルは作者と共に〝知る〟のである。
 このような二重性、後に『メイジーの知ったこと』で確立された二重性を、映画は決して描くことができない。映画では分析する主体としての作者を顕在化させることができないからである。
 多分、映画にもこの場面は出てくるだろう。しかしそれはイザベルの独白としてしか描かれようがないし、フラッシュバックのように過去の場面が、もの思うイザベルの姿に挿入されてくるという、いかにも映画的な方法によってしか描きようがないのである。

 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(4)

2018年03月19日 | 読書ノート

 最後の大団円はかくも感動的なものであって、ヘンリー・ジェイムズの後期の作品にはこれほどに感動的な場面はないと断言してもよい。
 ジェイムズは晩年には、多分〝感動的な愛の姿〟などといったものには興味を失っていたのであって、より技巧的に人間の心理の戦いを描こうとしていた。
『ある婦人の肖像』を書いたときには、ジェイムズはまだ若かったのである。しかし〝感動的な愛の姿〟といったものは19世紀のリアリズム小説に不可欠の要素であって、どんな作家だってそういうことはやっている。
 私はだからヘンリー・ジェイムズの初期の作品が凡庸だと言うのではない。『ある婦人の肖像』の長所をこの大団円に求めたっていい。それはドストエフスキーの『白痴』の大団円、殺されたナスターシャの死骸とともに、恋敵であったロゴージンとムイシュキンが一夜を過ごす場面に、この小説の一番の長所を認めることと同じであろう。
 とにかくラルフ・タチェットは死の床で初めて、従妹イザベルと本当のことを話し合い、お互いの愛を確認するのである。それが手遅れであるということが、その愛の交換に逆に強度を与える。 
老タチェット氏が望んだように、イザベルが結婚すべき相手はラルフだったのである。しかしラルフは結核に冒されていて結婚など不可能なことであった。そして彼女のことを知り尽くすこと、それがラルフの欲望となったのだった。ラルフはオズモンドよりも重要な人物である。そのことを映画がどこまで描いているのか知らない。とてもいい役だから、誰もがやりたくなるだろう。私にはマーティン・ドノバンの演技を観てみたい気は大いにあるのである。
 オズモンドのことはどうか。この男は最初、イザベルを愛したかもしれないが、誰もが自分に従わなければならないという考えを持つオズモンドは、彼女の馴致されない性格を憎むようになっていく。そしてオズモンドのラルフへの嫉妬は、イザベルが気づかなかったとしても真実の嫉妬であった。オズモンドはローマへやってきたラルフをイザベルがしきりに訪ねることに激しく嫉妬していた。それはラルフとイザベルの隠された愛情関係を見抜いていたからである。
 このようなオズモンドの気持ちを映画はどう描くのだろう。オズモンド役のジョン・マルコビッチはうまくやっているのだろうか。ただし、硬直した性格のオズモンド役にとって、マルコビッチという配役はもったいないような気がする。
 この作品に狂言回しのようにして出没するスタックポール嬢の存在は『ある婦人の肖像』に、ある種の軽快感を与えている。この作品のドラマを左右する人物ではないが、この人物抜きには映画もまた成り立たないと思う。
 彼女は先進的な女性ジャーナリストであって、言うまでもなくアメリカ娘。言ってみればデイジー・ミラーが少しだけ大人になったような女性である。誰もがこの女性を好きにならずにはいられないだろう。
この女性を演じたのはメアリー=ルイーズ・パーカー。デイジー・ミラーもスタックポール嬢も、アメリカの進んだ女性を代表するが、ヘンリー・ジェイムズがこのような女性たちに全幅の信頼を置いていたわけではないということはスタックポールのような女性をデイジー・ミラーのような女性に替えて、彼の小説の主人公とは決してなかったということによって明らかである。

 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(3)

2018年03月18日 | 読書ノート

マダム・マールは娘との別れに際してイザベルに次のように言う。

「あなたがとても不幸なのは、わかるわ。でも私はもっと不幸なのよ。」

 この言葉にイザベルは次のように答える。

「そうね、それは信じられるわ。もう二度とお会いしたくないと思うわ。」

 ここは原作どおりに科白が入れられなければならないところだろう。マダム・マール役とイザベル役の演技がためされる場面である。そしてここでマダム・マールとイザベルの関係は終結を迎えるのである。
 もうひとつ、パンジーが実の母よりも慕っているイザベルに言う「帰っていらっしゃるでしょう?」という期待とも問いかけとも取れる科白にイザベルが、本気だったのかどうか「ええ、帰ってきますよ」と答える場面がある。
 この場面は小説の最後に、イザベルがローマへ、オズモンドのところへ帰っていく伏線となる部分である。イザベルは「ええ、帰ってきますよ」と言う。その時はパンジーへの慰めとも取れる気持ちで言った言葉が、最後にイザベルの行動を決定づけることになるのである。
 パンジーの方はどうでもいいが、イザベルの「ええ、帰ってきますよ」という言葉は、映画における科白として表現するときに、とんでもない難物と化すだろう。この場面も私は観たくないのである。
映画で最も観たい場面は、この後イザベルが危篤状態のラルフのもとにたどり着き、二人で最後の会話を交わすところである。ここは『ある婦人の肖像』の中でも最も感動的な場面であり、イザベルとラルフの真実の思いが、何ものにも妨げられることなく吐露される場面である。
 この場面を抜かしたら映画ではないし、映画はここを最後の泣かせどころとして表現するに違いない。ヘンリー・ジェイムズの小説の方は、最初は緩やかに始まり、途中謎をにおわせて後半は畳みかけるようなスピードで進んでいって、この大団円に至る。
 映画もまたこのリズムを踏襲せざるを得ないだろう。最後の場面はイザベルとラルフが真実の愛を語り合う場面であって、ここでの二人の演技力がある意味最も重要だとも言える。
 しかし愁嘆場は、観客の方が勝手に泣いてくれるのだから、それほど力を入れる必要は映画ではないのかもしれない。ただし私には、二人の科白で決してはずして欲しくない部分がある。実際の映画はどうなのか知らないが。
 イザベルの言葉。

「一度あることをしてくださいましたね――ご存じでしょう。あなたは、何よりも大切な方でした。私は一体あなたのために何をしたのでしょう――今日、何ができるのでしょう? あなたに生命をあげることができるなら死んでもいいわ。でもあなたに生きてほしいとは思いません。あなたと別れないため、私も死にたいの。」

そしてラルフの言葉。

「あんなことさえしなければ――あんなことさえしなければ――。」こう言って彼は言葉を切った。「ぼくが君の身を破滅させてしまったのだな」

 さらにラルフの言葉。

「それに、忘れないでもらいたいな、たとい君が憎まれたとしても、愛されてもいたということをね。」

 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(2)

2018年03月17日 | 読書ノート

『ある婦人の肖像』でヘンリー・ジェイムズが悪役として登場させている二人の人物、ギルバート・オズモンドとセリーナ・マールの役は極めて重要である。特にオズモンドと共謀しながらも、最後は悲惨な末路をたどるセリーナ・マールの役は重要である。
 なぜならマダム・マールはイザベルを騙したように、映画の観客をも騙さなければならないからだ。最初マールはイザベルにとって理想の友人として登場するが、最後は憎むべき人、あるいは哀れむべき人としての姿を晒すのだから。
 オズモンドは硬直した悪人として二面性を持っていなくても構わないが、マダム・マールの方はそうはいかない。単に最後に化けの皮が剥がれる善人を装った悪人であってはいけない。マダム・マールは最後にはオズモンドに捨てられ、実の娘との別れを余儀なくされるのだから。
 この役が最もむずかしい役であり、円熟した女優によって演じられる必要がある。この役はバーバラ・ハーシーが演じているが私はこの女優を知らない。私の要求を満たしてくれているだろうか。
 だからマダム・マールが最初に登場する場面、イザベルの叔母の屋敷に突然現れて、一人でベートーヴェンの曲をピアノで弾いて、イザベルとの出会いを果たす場面は、映画には欠かせないものとなる。これがイザベルの不幸な人生を決定づける第四の人物が登場する場面だからである。
 この場面、マダム・マールは謎めいた魅力的な女性として登場しなければならない。こんな雰囲気を表現できる女優はそうはいないだろう。悪役であってもある悲しみを背負っていなければいけないからだ。しかしこの役は、女優にとって演じがいのある役であるはずだ。この小説の中で最も陰影に富んだ人物だから。
 そしてマダム・マールがギルバート・オズモンドと親しく密談を交わす場面。ここは後にイザベルが二人に騙されたのだということを、その場面の記憶を通じて察知するところであり、単に二人の悪人の謀議ということであってはならない。この場面は映画の一場面としてどう撮るのがいいのか、私には分からない。
 イザベルが二人に騙されたのだと察知する場面も重要になってくる。映画ならイザベルの独白として描くところだろうか。この場面はイザベルがオズモンドと決定的な対決をする場面につながるのであり、彼女の覚醒として描かれなければならない。ニコール・キッドマンはどう演じているのだろう。
 そしてイザベルとオズモンドの対決の場面。お互いの憎悪と憎悪が激突する場面だが、決定的な決裂であってはならず(最後にイザベルはオズモンドのもとへ帰っていくのだから)、なおかつお互いの憎悪は決定的なものでなければならない。
 こんなむずかしい場面をどうしてヘンリー・ジェイムズは書き、映画はそれを再現しようとするのだろう。映画でこの場面は当然必須なものであるが、この激烈でありながら微妙な対決の場面を映画では観たくないという気さえする。
二人の対決は二人の住むローマへ、ラルフ・タチェットの危篤を知らせる電報が来たことによっている。イザベルはオズモンドの強い反対を押し切って、ラルフのもとへ向かうのだが、その前にオズモンドの娘パンジーが入れられた修道院に面会に寄る場面があり、そこでは絶望の底にあるマダム・マールとの出会いが待っている。
 この場面も映画にとって欠かせないのであり、ここではパンジーの実の母であるマダム・マールと、継母であるイザベルとが最後の対決を行う。ここも微妙な場面であり、考えてみればパンジーにすかれ愛されている継母であるイザベルと、実母とは知らずにパンジーに嫌われているマダム・マールとの交差の場面なのである。


 


ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(1)

2018年03月16日 | 読書ノート

『ある婦人の肖像』は1881年(作者38歳)に書かれた、初期の代表作と言える作品である。このころ書かれた作品にはあの有名な『デイジー・ミラー』や、それほど有名ではない『ワシントン・スクエア』がある。
『デイジー・ミラー』については不十分な作品という印象があるが、『ワシントン・スクエア』は後期の心理小説につながる要素が強くあって、私の好きな作品である。
『ある婦人の肖像』の6年後に『カサマシマ公爵夫人』が書かれていて、私はそれがあまりヘンリー・ジェイムズらしくない作品であったため、それより前に書かれた『ある婦人の肖像』に対する不安というか、躊躇を感じてしまったのである。
 初期の作品は『ワシントン・スクエア』を除いて、それほど質の高いものではないのではないか、という予想を立ててしまったのである。しかし、この作品を読んで私は、やはりこれはヘンリー・ジェイムズの傑作であるだけではなく、世界文学の名作であると思わざるを得なかった。
 そして、ヘンリー・ジェイムズの小説を映画にすることへの疑問を呈した前言を撤回しなければならないと思った。この作品は1996年にジェーン・カンピニオン監督によって2度目の映画化がされていて、ニコール・キッドマンがイザベル・アーチャー役、ジョン・マルコビッチがギルバート・オズモンド役となっている。タイトルは「ある貴婦人の肖像」。もちろん私はそれを観ていない。
 映画にしたらとてもいいだろうという場面がいくつかある。最初に三人の人物が登場する場面、引退した銀行家であるタチェット氏と、その息子で結核を患っているラルフ・タチェット、そして後に主人公のイザベル・アーチャーの求婚者となるウォーバトン卿が作者によって紹介される場面である。
 この場面は映画にするなら、タチェット氏の屋敷とその周辺をカメラでパンしていって、まず三人の人物を遠景でとらえ、徐々に近づいていって、一人ずつクローズアップで撮っていくというやり方になるだろう。
 最も重要なのはラルフ・タチェットであるが、ここではウォーバトン卿の美貌と健康に対して、ラルフの病的で、やせ細り、弱々しい姿が対照的に描かれる必要があるだろう。
 老タチェット氏を含めてこの三人は、イザベル・アーチャーのその後の人生を大きく決定づける役割を果たすのであり、ヘンリー・ジェイムズが彼ら三人を最初に登場させることには深い意味がある。映画はそのことをなぞらなければならないだろう。
 ところでこの三人の中でウォーバトン卿だけがイギリス人であり、後の二人はアメリカ人で、イギリスにやってきて成功した人物とその息子である。この後、タチェット夫人、イザベル、その友人のスタックポール嬢などが登場してくるが、皆アメリカ人で、この小説は主にアメリカ人が異境の地イギリスやイタリーで活動する物語であって、アメリカ人と典型的なイギリス人であるウォーバトン卿との対比もこの映画にとって欠かせない材料であろう。
 ウォーバトン卿はタチェット氏が禁じた姪イザベルへの求婚(彼は息子のラルフとイザベルの結婚を望んでいたのだ)をするに至るが、その場面も映画に欠かせない。イザベルはウォーバトン卿の申し出を頑として受け入れない。その時のイザベルの表情は男性に惹かれながらも一抹の恐怖(性的なものに対する恐怖であり、それが「結婚なんかしたくない」という彼女の言い訳として表現される)を示していなければならない。
 ここでの求婚への拒絶が彼女の未来を決定づける第一の場面であり、女優はその表情によって、彼女のすべての意思を表現しなければならない。ニコール・キッドマンにはそれができているのだろうか。
 次は死の床にあるタチェット氏に対して、ラルフ・タチェットが、イザベルに6万ポンドの遺産を残してくれと頼む場面である。ラルフはイザベルの可能性のために、あるいはイザベルへのひそかな愛情のためにそうするのだが、死を運命づけられたラルフのこの時の感情を、俳優は余すところなく表現しなければならない。
 父親は「まず最初に聞きたいことだが、6万ポンドももっている若い婦人は、財産目当ての男たちの餌食になるかもしれない、とは思わないのか?」と言うが、それは現実のこととなり、ラルフの善意と愛情は裏目に出てしまうのである。

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(1969、筑摩書房「世界文学全集39」)斎藤光訳