玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

新道の柿

2010年11月12日 | 日記
 隣の家の柿の木に、紡錘形の大きな柿が二十個ほど実った。昨年、一昨年と、一個も実をつけなかったのに、今年は豊作だった。昨年まで隣家は空き家になっていて、持ち主から「柿を採って食べてもいいよ」というお墨付きをいただいていた。
 三年前に豊作となり、遠慮なくいただいて渋を抜いて食べた。ボリュームもあり、非常においしい柿で、なんという品種か知らないが、もう食べられないと思うと残念だ。隣家は買い手がついて、人が住むようになったのだ。
 残念に思っているところへ、新道の友人から「柿を採りに来ないか」との誘いがあった。もちろん飛んでいった。新道の柿が美味しいことはよく知っている。子供の頃、木に登って甘柿を採ったことはあるが、本格的な柿の収穫は初めてである。
 新道の柿は今年は不作だと報道されているが、柿団地の柿は、意外にたくさんの実をつけていた。友人のところの柿は平年並みの出来だというから、バラツキがあるのだろう。雨の上がった日で、大勢の人が収穫に精を出していた。
 新道の柿は、いわゆる「おけさ柿」で、種がないことが不思議なことから「八珍柿」とも呼ばれるが、もっと不思議なことがある。あの四角形が不思議でならない。ほとんどの果実は球形をしているのに、おけさ柿は四角い。
 なぜだ。四角形だと出荷の時、段ボール箱に詰める時に、無駄が無くて効率的だ。「おけさ柿」は人間にとって便利なように進化したのだろうか。あり得ないことではない。突然変異で四角になった柿を、先人達が選択的に栽培してきたという可能性もある。
 ところで、柿組合の人達の高齢化も進み、オーナー制度も導入されているが、あちこちに手入れのされていない柿の木が目立つ。収穫後の剪定、結実後の摘果など、良質の柿を実らせるための作業はなかなか大変だということだ。オーナーになってみようかな。

越後タイムス11月6日「週末点描」より)

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小林寛さんのこと

2010年11月12日 | 日記
 文英堂の小林寛さんが今月十四日に亡くなった。最近までまち中を散歩されている姿をお見掛けしていたので、突然の訃報にびっくりしてしまった。ご冥福を祈りたい。
 ところで小林寛さんは十数年前、私に「越後タイムスを継いでくれないか」と強く懇請された二人の人物のうちの一人であった。先代の吉田昭一さんの健康状態が思わしくなく、それこそ、やっとの思いでタイムスの発行を続けておられた、その姿を見かねてのことであったと思う。
 しかし私は、その懇請にすぐに応じることはなかった。ものを書くことは、高校生時代から三十年以上続けてきていたが、ジャーナリズムの世界とはまったく違う世界で書いてきたのであったし、記者としての教育も訓練も受けてきてはいない。私には不向きな仕事だと最初は考えた。
 迷いに迷った。断るべきか、引き受けるべきか。それまでカメラを持って写真を撮るなどということもほとんどなかったし、取材などということもしたことがなかった。二年間迷った末に、ついに引き受けることを決断した。
 なぜ引き受けたか。今でもよく分からない部分があるが、小林寛さんともう一人の人物の強い懇請に負けたというよりも、むしろ「越後タイムス」の歴史の重みに対する屈服からであったように思う。
 タイムスは創刊以来、中央の文化人と密接に交流し、ローカル紙としては異色の紙面を誇ってきた。そんな伝統を復活させてみたいと思ったのが、決断のきっかけとなった。それを果たそうと努力してきたが、本当にできているのかどうか。小林寛さんは、どう思っておられるのか。今はお聴きするすべもない。来年五月に「越後タイムス」は創刊百周年を迎える。

越後タイムス10月29日「週末点描」より)

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原爆展

2010年11月12日 | 日記
 柏崎市は二十九日まで、ソフィアセンターで「原爆写真展」を開いている。展示された写真の点数は多くはないが、久しぶりに見る原爆写真で、やはり胸を打たれる。
 長崎にも広島にも行った。長崎に行ったのは三十年近くも前のことで、原爆資料館にも行ったはずだが、よく覚えていない。記憶に残っているのは、生まれて初めて食べたチャンポンと皿うどんくらいなもので、大浦天主堂も平和祈念像も行って見たはずなのに、ほとんど記憶がない。
 広島にはその後、二十五年前くらいに行っている。この時に原爆資料館で見た写真の数々はよく記憶に残っている。泊まったホテルが、平和公園の目と鼻の先、目の前に原爆ドームがあったから、広島の記憶は原爆に集中している。その他に記憶に残っているのはお好み焼きの味くらいなものだ。
 原爆資料館で見た写真で、最も記憶に残っているのは、無残に焼かれ、破壊され、傷めつけられた人体の写真であった。それまで原爆の映画は見たことがあっても、本物の原爆の記録に接したことはなかった。衝撃的な写真の数々であった。痛いほどの体験だった。
 今回の「原爆写真展」にも、その時に見た写真で記憶に残っているものがいくつかあった。しかし今回、最も恐ろしいものを見たように思ったのは、会場入口に展示された被爆二カ月後の広島と長崎のパノラマ写真だった。
 そこには、ごく少数の破壊された建造物を除いて、ほとんど何も残っていない。ほとんどの建物は跡形もなく消え失せている。会場で上映されたビデオ「ヒロシマ・母たちの祈り」で、ナレーションの杉村春子が「十数万の死者たちの大きな墓場」と言った時、それが心に落ち、“言葉の力”というものを強く感じた。

越後タイムス10月22日「週末点描」より)

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