玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」第85号紹介

2022年07月08日 | 玄文社

「北方文学」第85号が発刊されましたので、紹介させていただきます。発行直前に同人の坪井裕俊氏が急逝大動脈瘤解離で急逝され、昨年10月に亡くなった同じく同人の長谷川潤治氏と合わせて、追悼特集を組むことになりました。二人とも団塊の世代で、この世代はどうも長生きはできないようです。二人がまだ若かった頃の作品を再録し、略年表を作成し、追悼文を数編ずつ載せてあります。読んで二人のことを偲んでいただければ幸いです。

 巻頭は詩集『魚卵』で知られる三井喬子さんの寄稿作品です。題して「海堀とはかいぼりのことである」。題名も不思議な感じですが、中身も不思議なイメージに満ちています。「うるさい!」と怒鳴る池の主たる龍の存在感が中心にあって、この龍が何を意味しているのか?、池の水を抜く「かいぼり」とは何の象徴なのか?、いろいろ考えさせる作品です。
 三井さんの作品に触発されたのか、同人三人の詩が揃いました。ずいぶん久しぶりのことです。館路子「夏の未明・宙の篝火」、鈴木良一「亡き人へのオマージュ――庭仕事の人」、魚家明子「労働」と続きます。

 批評の最初は霜田文子の「ポ・リン/ここにとどまれ ブルーノ・シュルツ ―揺らぐ国境の街で―」です。1892年に生まれ、1942年にナチスによって殺害されたポーランドのユダヤ人作家ブルーノ・シュルツについての論考です。ロシアによるウクライナ侵攻の暴力と、ナチス・ドイツの暴力が、時代認識として重なっています。ポーランドはウクライナとともに、ナチスとソ連によって最も歴史の悲惨を体験させられた国であり、迫害されたユダヤ人という点ではヴァルター・ベンヤミンともつながっています。マイナーな作家ですが、ちゃんと『ブルーノ・シュルツ全集』全二巻も日本で出ているのでした。

 海津澄子の「遠藤周作と私――読書体験と宗教論――」が続きます。遠藤周作によってカトリック信仰へと導かれ、全作品を読んでキリスト教への思索を深めていった海津さんの、読書と思索の記録であります。カトリックの教義に縛られることなく、自分の頭で考え、神について、人について思考を深めていく姿に共感したいと思います。「本は人に知識を与え、読むことは共感のカタルシスを得させる。そしてそれだけでなく、その人が思想することを助け、その人自身の内側を作りあげていく」。全くその通りです。

 榎本宗俊の「寂寥のさなかの美質」もまた宗教論です。越後堀之内生まれの歌人宮柊二を中心として、その〈生活道〉に即した歌の本質に触れています。

 批評は以上3本で、柴野毅実の紀行文「ユイスマンスとシャルトル大聖堂――続・建築としてのゴシック――」へと続きますが、これも紀行というよりも批評に近いものかもしれません。コロナのパンデミックが始まる前の2019年に、シャルトル大聖堂を訪れた時の感想を、J・K・ユイスマンスの『大伽藍』に沿って展開したものです。ゴシック大聖堂の持つ美学的な矛盾を指摘し、それに無自覚であったユイスマンスへの批判となっています。しかし、ゴシック建築の持つ矛盾が、我々の内部の矛盾を惹起することも確かで、それは危うい美学的体験を強いる建築なのであります。柴野が撮影した写真23葉を掲載。

 続く徳間佳信の「現代中国のアイデンティティを巡る二篇」は、現代中国の作家張梅の「?里的天空」と、李其綱の「浜北人」について論じたものです。「浜北人」については著者による翻訳も掲載されています(「?里的天空」はすでに「北方文学」80号に「この町の空」とのタイトルで紹介済みです)。二つの論文は、現代中国の変貌の中における作者の自己アイデンティティの問題を分析したものになっています。「?里的天空」においては農民工と呼ばれる層の、「浜北人」においては都市民の意識の変化が捉えられています。

 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩史―隣人としての詩人たち」も19回目を数え、長期にわたる連載もあと1回ということになりました。鈴木のライフワークといえるこの労作もついに完結というわけです。扱う年代は1991年から1995年で、最初に「北方文学」40号から44号までの動向が紹介されています。創刊者吉岡又司の定年により編集発行人が、長谷川潤治に交替しています。同人の若返りも進み、初期同人から第2世代への交代期と位置づけることが出来るでしょう。他には「BLUE BEAT JAKET」、「桜花文芸」、「地平詩集」、「掌詩集」、「くちなし」、「新潟詩人会議」、「泉」などの詩誌の活動が紹介されています。

 福原国郎の「疑惑――戊辰戦争余波――」は、福原家に伝わる古文書などの一次資料を根拠にした、福原らしい歴史研究と言えます。戊辰戦争が彼の故郷真人村に何をもたらしたかが手に取るように分かります。軍隊の食糧の現地調達という悪癖が旧日本軍に始まったことでないことも、それによって田舎の小村がいかに多大な迷惑をこうむったかということも分かるのです。〝疑惑〟というのは、その頃地元の庄屋が帳面の不正を行っているようだから調べてくれとの訴えがあったにもかかわらず、うやむやのうちに終わっていることを指しています。

 坂巻裕三の永井荷風研究も長丁場になりそうです。今号は荷風の二番目の妻であった舞踊家藤蔭静枝のことを調べた「荷風夫人・藤蔭静枝のこと」です。静枝の本名は内田八重で、新潟市の芸妓の家に生まれた女性です。東京に出て新橋芸者として売り出していた頃、荷風と知り合っています。最初の妻と結婚する前から荷風と八重は関係があったようですし、父の死後すぐに最初の妻を離縁して八重を二番目の妻として迎えています。八重は女出入りの激しすぎる荷風を見限って家を出てしまいますが、離婚後も二人はときどき関係を持っていたようです。荷風という人はなんという人だったんでしょう。この論考の後半は、静枝の調査のために新潟市を訪れた坂巻の、紀行文のような感じになっています。

 小説が3本。最初は魚家明子の「電車の夜」。8頁の極めて短い作品で、雪のため立ち往生した電車の中で出会った高校生の、死への恐怖を描いた掌編小説といったところでしょうか。

 板坂剛の「アンダルシアの罠」は、彼としてはいつもより短い作品で、これくらいの方が焦点がはっきりしていいのではないかと思われます。酷暑のアンダルシアで気を失い、記憶をも失った男の謎。アンダルシアにいるとばかり思っていた男は再び気を失ったと思うと、なぜか六本木のギャラリーにいるという夢幻的な作品になっています。それをつなぐのは、フラメンコの男女のダンサーを描いた絵画という仕掛けです。

 最後の柳沢さうびの「えいえんのひる」を紹介する前に、彼女の前作「反転銀河に擬似星座」が、文芸誌「季刊文科」88号に転載になったことを報告しておきます。まだ同人になって5年にも満たないのに、最初の作品は「文芸思潮」に転載になりましたし、恐ろしい才能です。今号の作品はいつもと打って変わってファンタジー風の味わいの小説です。前作は異常に漢字が多かったのに、今作はひらがなが多くて、タイトルまでひらがなになっています。当然前作とは文体も全く違っていて、いくつもの文体を駆使できる能力を証明しています。最後の文章だけ読んでください。「いっせいにつぼみをつけたおほりのはすが、とがらせた唇からぷうっとあまく涼しい息をはいて、次々に開いていった。もうすぐ、夏になる。」 決まってますね。

目次

【追悼・長谷川潤治】長谷川潤治*闇草紙/長谷川潤治*少年詩人・井上円了――新資料・稿本『詩冊』を読む――/長谷川潤治略年譜/追悼文・鈴木良一*同時代人としての長谷川潤治/福原国郎*あとは朧/鎌田陵人*長谷川先生と論語/柴野毅実*酒は骨で飲む!
【追悼・坪井裕俊】坪井裕俊*《異域》の精神--『大川の水』論 芥川龍之介の世界Ⅰ--/坪井裕俊略年譜/鷲尾謙治*弔辞/米山敏保*坪井さんの思い出/坂巻裕三*会いたかった同人
三井喬子*海堀とはかいぼりのことである/鈴木良一*亡き人へのオマージュ――庭仕事の人/館路子*夏の未明・宙の篝火/魚家明子*労働/霜田文子*ポ・リン/ここにとどまれ ブルーノ・シュルツ ―揺らぐ国境の街で―/海津澄子*遠藤周作と私 ――読書体験と宗教論――/榎本宗俊*寂寥のさなかの美質/柴野毅実*ユイスマンスとシャルトル大聖堂――続・建築としてのゴシック――/徳間佳信*現代中国のアイデンティティを巡る二篇/鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史―隣人としての詩人たち〈19〉/福原国郎*疑惑―戊辰戦争余波―/坂巻裕三*荷風夫人・藤蔭静枝のこと/鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史―隣人としての詩人たち第十章―一九九一年から一九九五年まで(前半)/魚家明子*電車の夜/板坂 剛*アンダルシアの罠/柳沢さうび*えいえんのひる

 

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