玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アリョーシャの思い出

2008年07月27日 | 日記
 「文楽の会」でドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。文庫本で三巻、総ページ数は千二百ページもあるので、ボリューム的にも読むのが大変である。その上、ロシアの小説の読みづらさには定評がある。登場人物の名前が複雑で、誰が誰だか分からなくなってしまう。『罪と罰』だと、主人公のフルネームは“ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ”で、真ん中の“ロマーヌイチ”というのは父親の名前を示す“父称”だ。
 ロジオンの妹の方は、“アヴドーチャ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコフ”で、父称も男の子と女の子で変わる。さらに“愛称”というものがあり、ロジオンは“ロージャ”と呼ばれ、妹のアヴドーチャは“ドーニャ”と呼ばれることがある。
 かと思うと、かしこまった場面では“ロジオン・ロマーヌイチ”とか呼ばれるし、この小説のもう一人の重要な登場人物・ソーニャは“ソフィヤ・セミョーノヴナ”と呼ばれたり、“ソーネチカ”と呼ばれたりするので、訳が分からなくなる。
 それでも亀山郁夫先生訳の『カラマーゾフの兄弟』はベストセラーを続けている。そんな読みづらさを超えた面白さがあるからだ。ドストエフスキーの復権はとてもうれしいことだ。
 ところで、十年ほど前に、ロシアのサーカス団団長の息子・アレクサンドル君が我が家にホームステイした時のことを思い出す。アレクサンドル君はとてつもない偏食で、パンと肉とキュウリしか食べないのだ。魚は一切口にしないし、ごはんも食べなかった。ロシア人というのは、いったい普段何を食べているのかと思ってしまった。
 そのアレクサンドル君の愛称は“アリョーシャ”というので、『カラマーゾフの兄弟』の主人公・アレクセイ・カラマーゾフと一緒だった。そんなことよりも、一緒に散歩に出た時に、近くにある豪邸を指差して“Is your house like this?”と聞いたら、アリョーシャは“Yes”と屈託もなく答えた。ロシアではサーカス団団長はエリート階級に属しているのだとその時思い、“この野郎”と思って、それ以降、アリョーシャに冷たくあたることにした。

越後タイムス7月25日「週末点描」より)


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地震とアドレナリン

2008年07月21日 | 日記
 中越沖地震から一周年の七月十六日が暮れていく。この日は朝から夜まで復興祈念のさまざまな行事が続いた。とても全部を追えるものではなく、その一部を紹介して「中越沖地震復興祈念第二弾」とさせてもらった。
 午前九時に、この日から「復興祈念アート展」の開かれる、ギャラリー「十三代目長兵衛」を訪ね、“一日取材なのでアート展の取材はあとになる”ことのお詫び。五日に亡くなった曽田恒さんの遺影に手を合わせて市民プラザへ。
 合同追悼式の取材説明を受け、本番に臨む。ものすごい祭壇にびっくりしてしまった。午前十時十三分には、列席者の黙祷の様子を撮影して、すぐに黙祷に加わる。撮影のためステージの上からだったので、大変居心地の悪い思いがした。
 追悼式終了後、柏崎商工会議所で、自衛隊と第九管区海上保安本部への感謝状贈呈式を取材。一年前の自衛隊と海上保安本部の献身的な支援活動を思い出した。
 午後は産文会館での「復興セレモニー」と「子ども未来フォーラム」を取材。自転車であちこちと動いているうちに、あの暑かった一年前を思い出さないわけにいかなくなった。
 一年前、あの日から約一カ月間、休む暇なく炎天下の取材にあけくれたことが、つい昨日のように思い出される。作業服姿で、首にタオルを掛けて、自転車で移動していた。何度も被災者に間違われた。汗で曇るメガネをタオルで拭き続けていたら、メガネが傷だらけになってしまった。
 あれから一年、メガネも自転車も新調した。タオルだけは同じだが、取材に臨んでいて何かが違う。一年前には“疲れる”ということがなかったのに、一年後の今日は激しい疲労を感じてしまった。一年歳をとったからばかりではあるまい。一年前には、市民の誰もがアドレナリンを分泌させていて、“疲れる”ということを忘れていたのだった。

越後タイムス7月18日「週末点描」より)


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復旧なき復興

2008年07月21日 | 日記
 中越沖地震発生からまもなく一周年となる七月十六日が間近に迫ってきた。思い起こせば、あっという間の一年間であったが、妙に充実した一年間でもあった。被害の大小はあれ、市民の誰もが、地震後の後片付けや住宅再建に向けての取り組みなどで、今まで経験したことのない忙しい時間を強いられてきた。
 このあたりで一年前のことを思い出してみるのも有意義なことと思い、今号は「中越沖地震一周年復興祈念号」とさせてもらった。ただし七月十六日には一周年を迎えてのさまざまな復興イベントが目白押しなので、次週七月十八日号も、実質的には「一周年復興祈念号」となる予定だ。
 中越沖地震では、十五人の尊い人命ばかりでなく、さまざまなものが失われた。歴史的な財産である多くの土蔵づくりの建物が倒壊した。倒壊をまぬがれても、危険があるとの理由で解体された蔵もあった。多くの寺院も倒壊の憂き目をみた。
 しかし三井田勝一さんの蔵の跡地に家庭菜園ができ、夏野菜が盛んに実っているのを見て、“これはこれでいいのではないか”と思った。古いものを守ることは大切なことだが、形あるものはいつか壊れる運命にある。それが人間の成し得ることの限界でもある。
 復旧は“旧に復すること”、復興は“そこからさらに興すこと”と定義されるだろうが、復旧なしの復興だってあり得るのではないかと思った。ギャラリー「十三代目長兵衛」の曽田文子代表は、「失われたものも多くあったが、新しく生まれた文化もあった」と話しているが、破壊の中から生まれてくるものこそ、明日につながるものなのかもしれない。
 “視点を変えて、一歩前へ”。それがこれからの柏崎を甦らせていく原動力となるような気がしている。

越後タイムス7月11日「週末点描」より)


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菅創吉展を終えて

2008年07月18日 | 日記
 越後タイムス社主催の「菅創吉展」を盛況裡に終えることができた。来館者は市内よりも新潟市や上越市の方が圧倒的に多く、“菅創吉の作品を県内の人に知ってもらいたい”という主催者の目的を果たすことができた。
 すごく嬉しかったのは、展覧会を見てくださった方々の濃密な反応にあった。市外からの来館者は、自分でも絵を描く人が多く、そんな方々の強いリアクションが収穫だった。「自分がやっていることが恥ずかしくなった」とまで言う人もいた。「個展を開こうと思っていたが、自信がなくなった。もう一度出直したい」と言う人もいた。
 「こんなすごい絵見たことがない」「技法を盗んで帰りたいが、できそうもない」などの感想をいただいた。なかには“なんで柏崎で菅創吉展を開くことになったのか”、不思議に思われる人もいた。
 出会いである。それに尽きる。こんな幸運はまたとないのかも知れない。菅作品を所蔵する「すどう美術館」の須藤館長と親しい、元NHKカメラマン・高橋章氏の存在がなければ、「菅創吉展」は実現できなかった。
 今回の展示は、菅の作品と出会って、大きく人生を変えてしまった、小田原の「すどう美術館」の監修による。館長の須藤一郎さん、副館長の須藤紀子さんの誠実な人柄に畏敬の念を覚えた。無私の心でひたすら自分の眼を信じて、絵を愛することの大切さを教えていただいた。
 越後タイムス社と「すどう美術館」との絆ができた。来年も何かやれるかも知れない。須藤さんの御厚意で、菅創吉の作品を数点、しばらくお借りすることになった。「游文舎」のアートライブラリーに懸けてあるので、是非ご覧いただきたい。

越後タイムス7月5日「週末点描」より)


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