玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

北方文学第89号紹介

2024年07月01日 | 北方文学

「北方文学」第89号を発行しましたので、紹介させていただきます。今号から新しい同人が加わることになりました。なんとまだ30歳の青年です。全国に数ある同人誌に関わる人が聞いたら、羨望のあまり発狂してしまいそうな事件ですが、なぜか最近新たに加わる同人の年齢が下がっています。
 もとより評論が多いのが「北方文学」の特徴ですが、今号はロック評論あり、映画論あり、音楽エッセイありといった具合で、文学のジャンルにとらわれない内容になっています。しかもいずれも力作で、文学のおまけとして雑誌の片隅に載っているというようなものではありません。本格的なロック評論が掲載される文芸同人誌など聞いたこともないので、これからも「北方文学」の特徴として、大事にしていきたいと思います。

 巻頭は魚家明子の詩2篇。「春の仕事」と「腐敗」です。隠喩としての言語の使いかたにただならぬ気配を感じさせます。ドキッとするほど残酷でエロティックな美しさに満ちています。巻頭にふさわしい2篇と思います。
 続いて、鈴木良一の「断片的なものの詩学」第3弾「『リリアン』から「夢・見果てぬはて」へ(一九八七・六・九)」です。詩史のような詩でもあるのですが、今回は大事に保存された新潟における演劇関係のチラシを巡って、思い出に耽るといった趣になっています。よくこんなチラシを取っておいたものです。
 三人目は館路子の「漆・卓上のデリュ―ジョン」。最近作品が短くなってきたのは何故でしょうか。漆塗りの座卓をモチーフにした作品。輪島の漆器なのでしょうか、漆黒の漆塗りに職人の宇宙観を見て取る方向へと幻想は膨らんでいきます。デリュージョンは妄想の意味ですが、しっかりした幻想になっています。
 大橋土百の俳句が続きます。23~24年までの49句が収められています。難読漢字の植物名が目を引きます。たとえば「松陰嚢」と書いて、「まつぼっくり」と読むのですが、ここでは漢字で書くことの必然性が示されていると言えるでしょう。そんな植物名には、句のイメージを膨らませる力がありそうです。
 
 批評はまず、柴野毅実の「ホセ・レサマ=リマの修辞学――『パラディーソ』における比喩表現について――」です。久々に長い論考になりました。キューバの作家ホセ・レサマ=リマの作品における直喩と隠喩についての試論ですが、そこに19世紀フランスの天才詩人イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』についての読解が絡んできます。理論的な問題についても触れてはいますが、それよりもラテンアメリカ小説の中では、あまり読まれることのない隠れた傑作の、唯一無二とも言える文体を紹介することを目的としたものです。引用が長くなっているのはそのためなのです。
 霜田文子の「語り直すこと、生み直すこと――津島佑子『ナラ・レポート』を読む――」が続きます。前号では津島佑子の『狩りの時代』を中心に、障害者に対する差別の問題をテーマとしましたが、今号はその延長として「過去と現在を往還し、夢や幻想によって死者と生者が行き交う」魔術的リアリズムの手法を取り入れた『ナラ・レポート』を取り上げ、母と子の問題を掘り下げて、この作家の重要性を強調しています。
 鎌田陵人は前号でも、レディオヘッドとその後に結成されたスマイルについて、本格的な評論を書いていますが、今号はさらに本格的なロック評論になっています。題して「レディオヘッド『キッドA』からザ・スマイル『ウォール・オブ・アイズ』へ」。Wall Of Eyesから発展して、フーコーやドゥルーズにまで言及するかと思えば、ジョン・ケージやペンデレツキにまで言い及ぶという、壮大な論考です。Wall Of Eyesではバックのオーケストラが特徴的ですが、このロンドン・コンテンポラリー・オーケストラのトーン・クラスターについての考察は誰にでもできるものではありません。
 映画論、坂巻裕三の「ヴィム・ヴェンダースを観る・聴く・読む」が続きます。ヴェンダース監督の役所広司を主役に据えた「Perfect Days」がテーマですが、「観る・聴く・読む」というのは、この映画に11曲の音楽が使用され、なかでもルー・リードの「Perfect Day」に触発された映画だということで、音楽が重要な役割を果たしているからです。またこの映画に出てくる本の数々に、ヴェンダース監督が込めた思惑についても分析しています。映画論としてはかなり長いものになっていますが、多角的な解釈が必要とされたからでしょう。
 続いて岡嶋航の「ナンセンス・マシンとしての世界――『もう一度』における商と剰余について――」。アメリカの映画監督ではなく、イギリスの作家の方のトム・マッカーシーの『もう一度』についての評論です。エピグラフに寺山修司の「奴婢訓」の一節が使われている割には、内容が数学的というか理科系的で難解です。集合が分からないと中に出てくる数式も理解できません。しかし、最後の終末のイメージ、意味のない永劫回帰のイメージはなんとか分からないでもないような……。

 福原国郎の「記されざる家史」は福原家に伝わる過去帳と、庄屋に残された宗門人別帳から分かる家史についての文章です。東京美術学校卒後、長岡女子師範学校(後の新潟大学教育学部)で教えた藤巻嘯月という人の本によって明らかにされた、福原家の隠された歴史についてのエッセイとも言えるでしょう。
 次の徳間佳信は巻末の執筆者紹介で、評論をやめ、エッセイに転進すると言っていて、音楽エッセイの第1弾がこの「忘れえぬ歌 一」ということになります。まずはサイモンとガーファンクルの「アメリカ」と、カルメン・マキの「戦争は知らない」の2曲が取り上げられています。軽いエッセイかと思いきや、時代背景についてのきちんとした分析もなされた内容で、歌と自身の人生との関りについての真摯な回想でもあります。
 
 小説は3本。まずは新入同人、此木里予の「シロアリの巣」からスタート。地方都市の人口減少による中学校統合を避けるため、〝3D生徒〟なるものを製造して対応するというアイディアや、それらがどうも白アリとオオアリクイの生態と関連付けられているようだという点でSF的な作品と言えます。最後のミチルの無限増殖の場面は、フィリップ・K・ディックの作品を思わせる終わり方になっています。
 次は板坂剛の「偏帰行 Ⅱ ――至極の鍵盤――」です。前号の「偏帰行」とのつながりは小説のラストで明らかにされますが、そのことはあまり重要ではないようです。むしろXjapanのYOSHIKIを思わせる美貌のピアニスト・森田義樹が登場して、彼の曲を聴くと自殺未遂者は再生し、極悪人は善人へと変貌するという、大人のおとぎばなし風の筋立てになっています。
 最後は柳沢さうびの「書肆?水と夜光貝の函(2)」。時代は戦後、舞台は?崎市海水浴場に立つ「客舎?水樓」。初回に登場した青年たちはそれぞれの進路に問題を抱えながら、挫折を余儀なくされたり、順当に大学に進んだりしていきます。二人の主人公、澗川理彦(たにがわあやひこ)と浄水文(きよみずあや)との関係は遠ざかったままですが、次号でまた接近することになるのでしょう。今回ストーリーの展開はあまり進んでいません。柳沢の文章を読んでいると一昔前の〝文豪〟と呼ばれるような作家の文章を想起させるところがあり、文章だけを追っていても十分に楽しめる作品になっています。

以下に目次を掲げます。

魚家明子*春の仕事/腐敗
鈴木良一*断片的なものの詩学 ――Ⅲ 『リリアン』から「夢・見果てぬはて」へ(一九八七・六・九)
館 路子*漆・卓上のデリュ―ジョン
大橋土百*土と生き 帰る土
柴野毅実*ホセ・レサマ=リマの修辞学――『パラディーソ』における比喩表現について――
霜田文子*語り直すこと、生み直すこと――津島佑子『ナラ・レポート』を読む――
鎌田陵人*レディオヘッド『キッドA』からザ・スマイル『ウォール・オブ・アイズ』へ
坂巻裕三*ヴィム・ヴェンダースを観る・聴く・読む
岡嶋 航*ナンセンス・マシンとしての世界――『もう一度』における商と剰余について――
福原国郎*記されざる家史
徳間佳信*忘れえぬ歌 一
此木里予*白アリの巣
板坂 剛*偏帰行 Ⅱ ――至極の鍵盤――
柳沢さうび*書肆海水と夜光貝の函(2)

玄文社の本は地方小出版流通センターを通して、全国の書店から注文できます。

 

 

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(13)

2024年02月15日 | ラテン・アメリカ文学

 ここでレサマ=リマは、「タミエラ」という単語の言語的多面体としての機能について、美しくも危うい直喩と隠喩によって語りつくしている。「タミエラ」は「川の水に濡れた草の間をなめらかに這っていくヘビのように」見える、というのは、言語的多面体が意識の光源を反射して、様々な色彩に輝く姿を捉えているし、言語的多面体が「通り抜けたあと」では、周辺の単語たちがその反射熱によって「燃えあがりはじめ」るが、その時には言語的多面体としての「タミエラ」という単語は、炎を見つめながらじっとしているのだという風に読める。
 直喩として持ち出されたヘビが、いつしか隠喩としてのヘビにすり替わり、直喩は単純な放物線を描いてすぐに着地するのではなく、隠喩の作用によって重力の軛をしばらく逃れた後、「ずっと身をかがめたルビー色の山猫のように」という、新たな直喩を起動しつつ、美しい放物線を描いて着地するのである。
 レサマ=リマのこの文章から、彼が隠喩というものをどう捉えていたかが理解されてくるだろう。「ヘビのように見え、それがゆっくりと通り抜けたあと」の部分で、直喩から隠喩への移行がすでに行われている。「通過したところの落ち葉」は隠喩をさらに次の段階へと移行させ、「パチパチと燃えあがりはじめ」の部分は、ヘビという直喩に導き出されながらも、さらに違った次元へと上昇を見せる。レサマ=リマによる比喩表現の修辞学の典型のように美しい文章であり、このような直喩と隠喩の組み合わせによって実現された美しい表現は、『パラディーソ』という作品の中には無数に存在しているのである。
 では、ヘビが通過した後に燃え上がる落葉=「タミエラ」の背後にふたたび隠されてしまったいくつもの単語は、どのような姿を見せるのだろうか。先の引用に続く部分をさらに引用してみよう。

「タミエラの背後にふたたび隠れてしまったいくつもの単語は、いくつもの新たなきらめきに分割されていた。だから、それはたとえば、性格的な「慎重さ」、 思慮深さの持ち主で あることと、危険がある際に向かうべき「保留地」のことの両方に言及しているのだった。「穀物倉庫」と「屋根裏窓」は、誰かが穀物倉庫に住みついたとたんに同じもののことになるのだった、というのも、収穫物の集積と、自分の貝殻をまだ見つけていない個人性の不調にかかわってくるからだ。「沈殿物」と「堆積物」は、その類似性、その重量あるいは その油性の根本原理によって??それによってその対象は大地の地獄的な中心を探し求めていくわけだが??保管されている対象を、重力の隠れた法則が踏みつけていったとたんに同一物になるのだった。」

 つまり「タミエラ」の周辺にある単語たちもまた、「タミエラ」の言語的多面体の反射作用によって多面体化され、いくつもの意味を発散させながら、そこに隠された同一性を結晶化させていくのである。隠喩はレサマ=リマのこの一節によれば、二つの別々の単語もそれらの「類似性」や「重量の根本原理」によって同一化される、という風に理解される。しかしその「類似性」は万人に開示された「類似性」ではなく、〝隠された〟類似性でなければならない。そしてそれを見出すのが詩人の使命なのである。この原理はシャルル・ボードレールの「万物照応」(Corespondance)の原理にも通じているし、人類学でいう類間呪術の原理にも通じている。つまり隠喩とは隠された類似性による、単語と単語の結びつき、あるいは同一化の作用のことなのだ。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(12)

2024年02月14日 | ラテン・アメリカ文学

 とにかくこの二人のペダンティスムは互いによく似ている。と言うか、博物学に関する部分では、レサマ=リマがデュカスの影響下に書いていることが明らかに示されている。アルベルト伯父の手紙は、それがデュカスの影響を受けていることを宣言するに等しいもので、それを明示するために書かれているのだから、当然とも言える。しかし、他にも『パラディーソ』には『マルドロールの歌』の博物学的ペダンティスムを意識して書かれていると思われる部分がたくさんある。たとえば第9章でのフロネーシスの長い議論の中から拾ってみるとすれば、次のような一節にその典型を見ることができる。

「木によじのぼる魚のひとつ、アナバス・スカンデンス〔キノポリウオ〕は、海岸線から百メートルも離れたところで、海洋ヨードによって肺の?が最大限にふくらんでいる状態で目撃されている。木に登る海牛とも言うべきこうしたスカンデンスの仲間には、口づけ魚と呼ばれている種類があって、それの面白いのは、円形の口をもう一匹の口にぴったりくっつける習性があるところだ。まったく愛の優美とは無関係に。」

 ここで「キノボリウオ」が学名で示されていることに注目しよう。前に紹介したように動物の名前は『パラディーソ』に頻出するが、学名で登場するのは多分ここ一箇所だけである。翻訳の問題が絡んでいるのではと言われるかもしれないが、ここだけ学名の後に〔キノボリウオ〕と訳者の注がついていることから、他の動物名で学名で出てくるものは、ここより他にないと思われる。
 面白いことに、『マルドロールの歌』でも、昆虫名が学名で出てくるところが一箇所だけある。第4歌にその部分はある。

「また茂みの背後に身を隠し、巣から頭しか外に見せないカミキリムシの一種、アカントフォルス・セラティコルニスよろしく、じっとしていた。女たちは潮が満ちるような速さで近づいてきた。地面に耳をつけてみると、はっきり足音が聞こえ、彼女たちの足取りが叙情的に揺れている様子が伝わってくる。」

『マルドロールの歌』には、観たことも聞いたこともないような動物名が頻出するが、特に学名の出現には、ペダンティスムのもたらす積極的な効果があると思われる。『マルドロールの歌』の世界が通常の日常世界ではなく、そこから遠く離れたところにあるという認識を読者の与える効果である。シュルレアリスムの用語で言えば、〝デペイズマン〟ということになろうか。
『マルドロールの歌』では、マルドロールが次から次へと様々な動物に変身していく場面が続いていくが、これは動物名を渡り歩く、博物学的逍遥とでも呼ぶべきものであり、動物名そのものが次々とデペイズマンの効果を持続させていくのである。ものの名または単語の持つイメージ喚起力は、読者を現実の世界から拉致し去って、はるか遠くの世界に連れていく。『パラディーソ』でセミーが、そのような単語の力に目覚める場面があり、それは次のように感動的に書かれている。

「ある日セミーは、コプト語の単語「タミエラ」を撫でまわしていた。これはわれわれの言語では、大きく異なった意味を持つさまざまな単語に分解されるものなのだ。複数の母音 のさえずりと、Lのよろこばしい口蓋音が流れるのだった。 タミエラ、それは彼には、笛(フラウタ)、沈黙(シレンシオ)、賢人(サビオ)、口唇的(ラビアル)、皮膚(ピエル)のように聞こえたのだった。しかし、今回、この言語的多面体は、地獄の根そのものを形成していた。多数の重なりあった鱗が、この泳ぐ言語的身体のきらめきを作っていた。タミエラが意味するのは、同時に、保留=慎重さ(レセルバ)、穀物倉庫、屋根裏窓、沈殿物、堆積物、宝物、便所、事務所、居室、住居、これらのすべてだった。この単語と初めて出会った夜には、それは彼には川の水に濡れた草の間をなめらかに這っていくヘビのように見え、それがゆっくりと通り抜けたあと、通過したところの落ち葉がパチパチと燃えあがりはじめ、その晩の残りをヘビはずっと身をかがめたルビー色の山猫のようにじっとしていたのだった。」

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(11)

2024年02月13日 | ラテン・アメリカ文学

 一方私が常に比較対象にしてきたイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』における衒学的要素はどの様なものなのか。デュカスには当然、レサマ=リマのような歴史や哲学、文学、美術、音楽などの広範な領域におけるペダンティスムは存在しない。それはデュカスが『マルドロールの歌』を書いたのが20歳そこそこだったのに対して、レサマ=リマの『パラディーソ』は十数年かけて書かれ、1966年に出版されたもので、その時彼はすでに56歳になっていたのだから、それまでに蓄積した膨大な知識を惜しげもなく投入できたのである。
 しかしデュカスには、博物学的な知識があり、特に動物についての博識ぶりには目を瞠るものがある。そして、そうした知識は『マルドロールの歌』において、鮮烈な直喩表現に活かされている。第5歌からいくつか引用する。

「いつも飢えているかのように落ち着きのない鳥であるトウゾクカモメが、南北両極を浸す海洋地帯を好み、温帯には偶然やってくるにすぎないのと同じく、私もやはり平静ではいられず、ひどくゆっくりと脚を進めていたからだ。だが、私の行く手にあるあの人体のような物質は、いったい何なのか? ペリカン科の仲間には相異なる四つの種族が含まれることを、私は知っていた。カツオドリ、ペリカン、鵜、それに軍艦鳥だ。姿を現した灰色っぽい形状は、カツオドリではなかつた。垣間見える変形自在の塊は、軍艦鳥ではなかつた。私が 見つめている結晶化した肉は、鵜ではなかつた。」

「成長への傾向が組織体の取りこむ分子量には比列していない成人における胸部の発育停止の法則のように美しい子羊禿鷹は、大気の高層部へと消えてしまった。ペリカンはといえば、その寛大な赦しは当然のものとは思えなかったので大いに私を感動させたのだったが、まるで人類という航海者たちに、自分という実例に注意を払い、陰鬱な魔女たちの愛からおのれの運命を守りたまえと警告するかのように、丘の上で灯台のようにおごそかな冷静さを取り戻し、相変わらず前方を見つめていた。」

 実はレサマ=リマの博物学的ペダンティスムもまた、いくつかの例によって実証されるのである。それはあのアルベルト伯父の手紙の文章において露骨に示されている。たとえば、

「癒顎目(ゆがくもく)という戦士の部族は、顎に兜が打ちつけてあり、卜ールの槌をもって戦闘に向かう。〈盗賊魚〉(ガラファテ)は海のティレシアス、おどけ者、釣り針の悲劇的な意味を愚弄して、いたずら者、針だけを王様たちのために残して、自らの零の中で燐をめらめらと燃やしながら深みの底へと眠りにもどっていく。 盗賊魚の近くには針千本、棘のかたまりだが、棍棒の扱いは下手、ずる賢い神学者で、生まれながら抜け目がない。一方は針に食いつかず、他方は舳先に詐術で対抗する。」

 博物学の知識に歴史の知識が混入して、複雑なペダンティスムの味を感じさせる部分もある。

「栄光に満ちた硬鱗類は苦痛の王。ピナ?ル・デル・リオの黄昏には緑色の糸くず。シエナの地には原始の魚マンフアリー〔硬鱗類に属するキューバの淡水魚、尖った嘴がある〕、その脊椎はバウハウスの工房で研究された。尻鰭の使用に断固反対する男根魚。彼は陸に横たわり、最期の苦しみのうちに身を伸ばし、身を伸ばすことで死を勝ち取る、まるでイッポリト・デ・エステ〔十五世紀のイタリアの貴族、幼少時から教会の要職を歴任した〕の階梯を昇るかのように。信念は死して地下の出口へ、竜巻は死して始原の渾沌へ。」(〔〕内は訳者注)

 博物学単体での知識のイメージへの転用の面では、デュカスの方が刺激的かもしれないが、博物学に他の領域が混入した知識のイメージへの転用という点では、レサマ=リマの方が(アルベルト伯父の方が)鮮烈さの点で優っているように思う。
 奇態な、名前も聞いたこともないような動物たちがもたらすイメージ喚起力は、彼らのペダンティスムと不即不離の関係にあり、それを必ずしも否定的に捉えて指弾することはできないだろう。イジドール・デュカスがもっと長生きしていたら、レサマ=リマのように様々な領域に衒学の幅を広げていたかもしれないのである。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(10)

2024年02月12日 | ラテン・アメリカ文学

 うっかりしていたが、隠喩について考える前に、もう少し直喩のあり方について触れておくべきことがあった。たとえば、主人公ホセの父ホセ・エウヘニオが若い時に祖母のムンダから、彼の進むべき進路についてアドヴァイスを受ける場面で、レサマ=リマはムンダばあさんの尊大さを次のような直喩で表現している。

「老母は反駁しようのない尊大な様子で頭をもち上げたが、それはまるで、ロシアの女帝エ カテリーナが重農主義者の陳情団を迎えて、最初は儀式ばった峻厳さの中に思いやりをにじませておきながら、じきに情け容赦なく、侮蔑的に、冷酷になって、その日の晩のうちにもう帰るようにと、代表団の笑劇的な退散のための橇を用意しようとしているみたいな感じだった。」

 このような歴史に関する蘊蓄を感じさせる直喩、しかもなかなか着地することなく、歴史上の出来事についての知識を開陳しながら、長い放物線を描いていく直喩表現は『パラディーソ』の中にはいたるところに出てくる。歴史上の人物や出来事だけでなく、ギリシャ神話の神々の業績やギリシャの哲人たちの発言、あるいは文学、美術、音楽などあらゆる分野のテクストを踏まえた直喩表現は、時に〝衒学的〟と言いたくなるほどの執拗さで繰り返される。
 このようなレサマ=リマの衒学趣味は、第8章以降にセミーの友人として登場する、フロネーシスとフォシオンの二人が繰り広げるぺダンティックな果てしない議論で頂点に達する。フロネーシスは大学生活で出逢ったばかりのセミーにいきなり、次のようなフォシオンとの議論を聴かせるのである。フロネーシスとフォシオンの議論は限りなく長く、無作為に引用してもそのサンプルとすることができるだろう。

「すでに性的器官の話はした。また、フロイトが通常の性的表現の媒体に、口と肛門??ラブレーの同時代人たちがあの黒い穴ぼこと呼んでいたものだ??をつけくわえることで、その数をふやしたことも話した。一部の人がフロイトによる拡大として評価しているこれも、キリストの七千年前のものと目されるマヌ法典と比べてみれば、根底においてはむしろ制限なのだ。」

 ここは直接に直喩に関わる部分ではないが、二人の友人、そしてセミーも含めた三人のあいだで闘わされる議論ではない場面でも、レサマ=リマのペダンティスムは旺盛であり、それは直喩表現だけではなく隠喩表現としても展開される。
 ここで我々は、アルベルト伯父の手紙に美質について、デメトリオがセミーに語って聞かせる言葉を思い出しておかなければならない。「馬鹿にしたような、衒学的な外見の下に心の優しさが隠れていて」という部分がそれである。デメトリオはこの部分で「君の伯父さんと一緒に勉強していたころのことを」思い出して「泣かされた」と言うのであり、青年時代の学問に対する熾烈な欲求と、それが果たされた時の悦びについてデメトリオは語っているのだ。
 それがアルベルト伯父の文章の美質だと、デメトリオが言っているのだとすれば、彼はここで『パラディーソ』全体のペダンティスムに対して、先回りして免責を与えているのであり、それはレサマ=リマが自らのペダンティスムに対して前もって免責を与えていることに等しいのである。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(9)

2024年01月31日 | ラテン・アメリカ文学

 以上のように『パラディーソ』には、「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ」の中で、歓喜に打ち震える比喩表現が無数に散りばめられている。前回引用した部分でいえば、「呪われた花飾り」や「浮氷の塊」、「電解質のコイルの黄金プレー卜」、「パンヤの木の精」や「笛吹く影」がそれに該当する。
 しかし、「本来の土地から引き離され」た単語たちは、必ずしも「歓びに満ちた動き」だけを見せているわけではない。それに続くセミーの反応がそのことを明らかにする。それらの単語は「彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入って来る」のであり、〝彼〟がアルベルト伯父を指すのだとすれば、アルベルトの存在の暗部に入ってくることによって、それらの単語は不吉な様相を呈していくことになる。
 レサマ=リマはここで、漁師によって引き上げられた魚の直喩を使っているが、これほど見事な譬えを見たことがない。魚たちはぴちぴちと跳ね回って、生のエネルギーを悦びのうちに発散しているかのように一見見えるが、そうではなく、それは海中から引き上げられ、大気中に放たれて「身をよじりながら、死に抱き止められていく様子」に他ならないのである。つまり、「本来の土地から引き離され」た言葉たちは、自由の悦びと同時に、死の恐怖に抱きとめられ、もがいているのでもある。
 レサマ=リマはマルドロール的な直喩、あるいは隠喩の中に、言葉の生と死のアンビヴァレントな両義性を見て取っているわけだ。それはしかも、イジドール・デュカスの存在の暗部を潜り抜けることによってもたらされる両義性でもある。このような読みは『マルドロールの歌』を読む読者に対して基本的に求められる態度なのに他ならない。そこにアルベルトの比喩表現がそのようなものであるだけでなく、レサマ=リマの比喩表現もまた生と死の両方の側に接する両義性を持っていると言えるのである。そのことを私が前々回に引用したセミーの二つ目の反応についての、直喩と隠喩を組み合わせた比喩表現が語っている。もう一度引用する。

「彼はことばが浮き彫りになってくるのを感じ、また、頬の上で、軽やかな風がそうしたことばを震わせて前進させるのを、さらには、そのそよ風がパンアテナィア祭に集まった群衆の長衣をなびかせるのを感じるようになり、ことばの意味は揺れ動いて徐々に見えなくなっていくのだったが、波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱としてふたたび姿をあらわしてくるのだった」

 この一節は比喩表現に関わる言葉が、爽やかな歓喜の中に打ち震えながら、次第に意味そのものを失っていきつつも、結果として新たな意味を文章の中に刻印していくあり方を鮮やかに表現しているのである。
 この辺でレサマ=リマの隠喩表現について見ていく必要があるだろう。今再度引用した文章の後半部分は、隠喩だけで構成されているが、「波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱」という表現は、言葉=魚という直喩を前提としていて、それほど唐突でも、奇っ怪なものでもない。
 先に言ったように直喩は「~のように」という指標によって、比喩するものに対して強力な重力を発動するから、直喩がいかに奇態なものであっても、比喩するものは比喩されるものに結局は回帰する。ただそこで、直喩表現がどのような放物線を描くかが問題なので、そこで隠喩がどのような役割を果たしていくのかを検証しなければならない。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(8)

2024年01月30日 | ラテン・アメリカ文学

 この二つの文章から、セミー少年のではなく、レサマ=リマの言語的体験がどのようなものであったか、そして具体的に言えば『マルドロールの歌』の衝撃がどのようなものであったかを推測することができる。第一に「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて」の部分は、まさに『
マルドロールの歌』における、直喩と隠喩、とりわけ直喩のあり方を正確に表現している。そうした直喩はメルヴィンヌ少年の美しさを形容する直喩の場面(ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように、の部分)をはじめとして『マルドロールの歌』には無数に存在するが、もう一つ「単語がその本来の土地から引き離されて」いる極めつけを挙げておこう。

「他者の肉の愛好者であり、追跡の有効性の擁護者である、アーカンサス州のパノッコの葉を摘む骸骨たちのように美しい猛禽類の一群が一列になって、従順な公認の召使のようにおまえの額のまわりを飛び回っている」

 ここに登場しているのは「美しい猛禽類の一群」なのだが、それを奇矯なイメージで修飾する長大な直喩表現を読むときに、一瞬、あるいはより持続的に我々は「美しい猛禽類の一群」を見失って、「アーカンサス州のパノッコの葉を摘む骸骨たち」の方をより視覚的なイメージとして受け止めてしまうことにさえなるだろう。比喩するものが比喩されるものを我々の現前から駆逐してしまうのである。こうした現象は『マルドロールの歌』では隠喩の場合よりも、直喩の場合の方が際立っていて、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように」という直喩が「本来の土地」=メルヴィンヌの美しさから遠く離れて、直喩の現前性が直喩されるものの存在感を駆逐していくのである。
 そのことにセミー少年は「歓びに満ちた動き」を読み取っているわけだが、当然レサマ=リマ自身の詩的体験も同一のものであったと見なしてよい。『パラディーソ』でもまた、そのような直表現が、アルベルトの手紙をより洗練した形で頻出してくるのである。レサマ=リマの直喩が直喩対象を駆逐していく例をいくつか挙げてみよう。セミーの同級の悪童たちを描いた場面にその様な例はよく見られる。

「ちょっとした地獄のようなその室内、その地表を流れる大河の上で、彼はまるでサルのように、見たこともない呪われた花飾りを乗せているような浮氷の塊を乗りこなしているみたいだった」

「フィーボは虹色の棒へのエネルゲイアの放出が処罰されずに見逃されたことに驚き勇んで熱狂していき、基地を移動しつつ、電磁化された尖端を突き刺しながら、まるで電解質のコイルの黄金プレー 卜の指示を読めるヵエルのように跳ねまわった」

「その猫というのは百日政権の将軍たちの悪夢の中に立ちあらわれるような巨大化した、若干怪物的でさえある猫であり、その毛は長く伸びて、発生したばかりの乳首のような無数の小さな出っぱりになっていて、大食堂の端からら端まで這いずりまわっていくのだった。海からあらわれてきて、ふくれあがるパンヤの木の精に飲みこまれて消える笛吹く影のように」

 最後の引用では、私の指摘は「百日政権の将軍たちの悪夢の中に立ちあらわれるような」でも、「発生したばかりの乳首のような」でもなく、「海からあらわれてきて、ふくれあがるパンヤの木の精に飲みこまれて消える笛吹く影のように」の部分にこそ当てはまる。

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(7)

2024年01月29日 | ラテン・アメリカ文学

『パラディーソ』は直喩と隠喩、それも奇っ怪極まりない直喩と隠喩に彩られた、というよりもそれらが充満した作品であり、そうした特徴はこの場面でのアルベルト伯父の手紙=散文詩に凝縮して表現されている。『マルドロールの歌』に見られる、比喩されるものから意図的に遠ざかろうとする長大な直喩は、「まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹に運び去られるみたいだ」の部分に表れてくるし、海洋動物を大量に隠喩に動員するという『マルドロールの歌』の特徴も、「硬骨魚類―タツノポトシゴーえらー鱏」の部分で踏襲されている。
 アルベルトの手紙は、デュカスの『マルドロールの歌』へのオマージュに満ちた模倣なのだ。〝模倣〟と私が言ってしまうのは、アルベルトの手紙が『マルドロールの歌』の突飛さや暴力性を再現しているとしても、いささか滑稽すぎるし、下品のそしりを免れず、『マルドロールの歌』の高い完成度に達していないからだ。私はそこにレサマ=リマの作為を見る。アルベルトの手紙がいかに『パラディーソ』全体の修辞的構造を凝縮したものであっても、『パラディーソ』そのものを超えてはならないからである。アルベルトの手紙は質的に『パラディーソ』そのものよりも劣っていなければならない。
 そしてまた、この部分から読み取れることは他にもたくさんある。『パラディーソ』全体は、それが修辞的な比重があまりにも高すぎるために、物語的な構造を欠いているのだが、本質的にこの作品は少年ホセ・セミーの成長の過程を描く、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)として読むことができる。物語性を欠いた教養小説というのは、言ってみれば脱構築された教養小説だということになる。〝脱構築〟などという用語を安易に使うべきでないというならば、ジャック・デリダが井筒俊彦に宛てた書簡を翻訳した丸山圭三郎が、déconstructionの訳語として提唱している「解体構築」という用語を使ってもよい。
 デリダはその書簡「DECONSTRUCTIONとは何か」の中で、déconstructionの構造主義的な挙措と反構造主義的な挙措の両義性について語っているからである。『パラディーソ』が教養小説でありながら、反教養小説でもあるということは、déconstructionの持つ両義性と相即だからである。レサマ=リマは教養小説の文脈において、それをdéconstruireすると同時に、新たな小説の文脈をconstruireしていると言えるのである。
 それはともかく、アルベルト伯父の手紙を読んで聞かせられるホセ・セミー少年の姿を借りて、レサマ=リマは自身の詩的体験について語っているのである。そしてそれが具体的には、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』との出会いの体験であったと読んでも、決しておかしなことではないだろう。
 ここで、セミー少年がアルベルト伯父の手紙に触発されて、どのような言語的体験をするのかを示す、二つの文章を引用しておくのも無駄なことではないだろう。そこにはレサマ=リマ自身の言語的体験そのものが反映されているはずだからである。

「海中の部族の名前を次々と耳にしながら、彼の記憶の中では、魚のことを勉強した小学校予科の授業が浮かび上がってきただけでなく、単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて、彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入ってくるのをありありと感じとっていた。このことばの行進を耳にしながら、彼は海岸通りの突堤にすわって漁師たちが魚を引きあげるのを眺めているのと同じ感覚を味わっていた。魚たちが本来の場所の外に引き出されて身をよじりながら、死に抱き止められていく様子を見ているような。しかし、その手紙の中では、外に引き出されたことばの魚たちは、同じように身をよじっていたものの、それは新しい合唱が生まれたことの歓喜に身をよじっていたのであり、(後略)」

「彼はことばが浮き彫りになってくるのを感じ、また、頬の上で、軽やかな風がそうしたことばを震わせて前進させるのを、さらには、そのそよ風がパンアテナィア祭に集まった群衆の長衣をなびかせるのを感じるようになり、ことばの意味は揺れ動いて徐々に見えなくなっていくのだったが、波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱としてふたたび姿をあらわしてくるのだった」

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(6)

2024年01月28日 | ラテン・アメリカ文学

 レサマ=リマの『パラディーソ』における『マルドロールの歌』の影響についてみてきたが、第7章には〝動かぬ証拠〟とでも言いたくなるほど、その影響が明白に示されている部分がある。伯父アルベルトの友人デメトリオの家に連れていかれたホセ・セミーが、友人アルベルトから受け取った手紙をデメトリオに読んで聞かせられる場面である。
 デメトリオは読み始める。それは言葉遊びに始まり、比喩されるものから遠く離れ、長くて奇態な直喩を経て、詩的な隠喩に至る一節である。この部分を読んで、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』を思い浮かべない読者は存在しないだろう。

《ジムノオイコどもが、裸苦行者(ジムノソフィスタ)みたいに、サティのジムノペディを聞いている。まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹に運び去られるみたいだ。充?せよ、裸形が歯金を詰めていく》

 デメトリオはここまで読むと、セミーに次のように言って聞かせ、アルベルト伯父に対する偏見と誤解を払拭するよう教え諭すのである。アルベルトはセミーのクオリーリョ・ブルジョワジー的な家族の中で、異質な存在であり、これまで数々の不行跡を重ねてきたことから、一族の中の「悪霊的存在」と見なされてきたのであった。しかし、友人デメトリオはアルベルトという人間の真実を知っていたのである。

「もっとこっちにおいで、アルベルト伯父さんの手紙がよく聞こえるように。伯父さんのことをよく知って、歓びに満ちた人であることを見抜くようにならないといけないよ。これから君は生まれて初めて、自由自在にあやつられたことばを聞くことになるんだ、そこにはほのめかしや可愛らしい博学気取りの仕掛けが縦横に張りめぐらされている、けれども、島にいたときの私は、これを受け取ってどれほどうれしかったか、というのも、不在のうちに思い出させてくれたからだ、ずっと年上の私が、君の伯父さんと一緒に勉強していたころのことを。馬鹿にしたような、街学的な外見の下に心の優しさが隠れていて、泣かされたさ」

 手紙の朗読は続いていく。かなりの長文で、ほとんどマルドロール的散文詩のような、直喩と隠喩で織りなされた刺激的で、過激な表現が続いていく。

「骨の王国である硬骨魚類は、タッノオトシゴがそうだが、気管支(ブロンキオ)をえら(ブランキア)に変え、喘息(サンスクリット語で窒息のこと)患者の口から滝が流れこんで、あとで脇腹から激しく流れ出すようにした。しかし最後には、黄金の薄片が霊安室にあらわれ、そこでは鱏(エイ)の仲間が紫色の合間に青をちらつかせながら、猫の尾のように艷めかしい尻尾を振る。
 肺魚類の世界には繊細な注意を。そこは両生類と蛇類の中間の、寓意譚のマクロコスモス。彼らは沼の中で、緊急脱出のために火のついたアパートメントが、誘拐犯とエレベーターの爪楊枝によって認識されるようにと祈りを上げる」

これを聴いた時のセミーの反応は次のようなものである。

「しかし、根源的な何かが起こって、彼のもとへと押し寄せたことは確かだった。あたかも光輝の銛で刺されたかのように、アルベルトが悪霊的であるという一家の固定観念は彼の中から消え去った」

 セミーはアルベルト伯父の手紙=散文詩を読んで聞かせられて、伯父に対する考え方を決定的に変えるのである。

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(5)

2024年01月27日 | ラテン・アメリカ文学

『マルドロールの歌』には、様々な動物が登場するが、とくに海洋生物が多く直喩や隠喩のために動員されている。リストを挙げれば、タコ、オットセイ、マッコウクジラ、サメ、シュモクザメ、エイ、アザラシ……ということになる。それらすべてが喩のために動員されているわけではないが、タコとサメが特に重要な役割を果たしている。第2歌で、マルドロールは「自分に似た者」あるいは「自分の生き写しの存在」としてのサメと海中で交合するのだし、同じ第2歌で彼は、タコに変身して「四百の吸盤をやつの脇の下にぴったり押しつけて、恐ろしい叫び声をあげさせ」るのである。ここで「やつ」とは〈創造主〉のことを意味している。
 デュカスはマルドロールのサメとの交合や、タコに変身して神を締め上げる様子を〝描写〟しているのだが、誰もそれを単なる描写とは読まないだろう。サメが「自分に似た者」であるということは、サメがマルドロールの隠喩として召喚されていることを意味しているのだし、タコの悪魔のような姿が、〈創造主〉と対峙するのに相応しい存在であるがゆえに、それもまた隠喩として呼び出されているのである。
 レサマ=リマの『パラディーソ』にもまた、様々な動物が登場し、その中で海洋生物が占める割合は『マルドロールの歌』の場合よりもかえって多いかもしれない。『パラディーソ』のボリュームは、『マルドロールの歌』の数倍はあるので、動物の種数も多くなり、海洋生物の数も多くなる。したがってリストは、イルカ、サケ、マナティ、タチウオ、クジラ、タツノオトジゴ、小ザメ、イカ、アザラシ、イソギンチャク、キノボリウオ、ハゼ、タコ、ウミヘビ……のように長くなる。これらが『マルドロールの歌』の場合と同じように直喩や隠喩のために動員されるのである。
 ホセ・セミーが軍人だった父親の面影を求めて、カバージョの要塞の軍馬に思いを馳せる場面がある。その部分は夢とも幻想ともつかぬ奇怪なシーンに満ちているのだが、ここで海洋生物が直喩と隠喩の素材として動員されてくるのだ。

「馬たちは要塞内を駆けめぐりはじめ、兵士たちと混じりあい、すると兵士たちはバロック的な水盤で手を濡らしてから彼らをなでさすった。膨れあがっていく四匹の小魚は、イルカほどの大きさになって四頭の馬を乗りこなしていた。その四頭の馬は、魚たちが膨張を続けてついには破裂してしまうのを避けるために、タツノオトシゴに変容しなければならなかった。 最後には湾の中央で、一頭のクジラが、植物的な鈍速でのたうちまわるのが見えた。」

 海洋生物で『マルドロールの歌』の場合と『パラディ-ソ』の場合で共通しているのは、そう多くはなく、タコとサメくらいなものなのだが、タツノオトシゴに関しては複数回登場するので、レサマ=リマのこだわりが強く感じられる。馬がタツノオトシゴに変身するのは、スペイン語でタツノオトシゴがcaballo de mar(海の馬=英語でもseahorseという)というからで、変身は語の類縁性から来る隠喩の役割を果たしているのである。このことも『マルドロールの歌』における変身の持つ意味との共通性を窺わせる。
 ここで直喩と隠喩のもたらす、それぞれの結果について触れておかなければならない。直喩はいかに奇態なものであれ、「~のように」という指標によって、比喩するものは比喩されるものの方向へと回帰していくが、隠喩の場合はそうではない。隠喩は比喩の指標を持たないために、比喩するものが比喩されるものから離れたきり帰ってこないこともある。比喩するものの遠心力が一定程度より大きければ、それは比喩するものの重力から逃れていくことができる。その例としてマルドロールの変身や『パラディーソ』における馬の変身を挙げることができるだろう。

 

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