玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(7)

2024年01月29日 | ラテン・アメリカ文学

『パラディーソ』は直喩と隠喩、それも奇っ怪極まりない直喩と隠喩に彩られた、というよりもそれらが充満した作品であり、そうした特徴はこの場面でのアルベルト伯父の手紙=散文詩に凝縮して表現されている。『マルドロールの歌』に見られる、比喩されるものから意図的に遠ざかろうとする長大な直喩は、「まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹に運び去られるみたいだ」の部分に表れてくるし、海洋動物を大量に隠喩に動員するという『マルドロールの歌』の特徴も、「硬骨魚類―タツノポトシゴーえらー鱏」の部分で踏襲されている。
 アルベルトの手紙は、デュカスの『マルドロールの歌』へのオマージュに満ちた模倣なのだ。〝模倣〟と私が言ってしまうのは、アルベルトの手紙が『マルドロールの歌』の突飛さや暴力性を再現しているとしても、いささか滑稽すぎるし、下品のそしりを免れず、『マルドロールの歌』の高い完成度に達していないからだ。私はそこにレサマ=リマの作為を見る。アルベルトの手紙がいかに『パラディーソ』全体の修辞的構造を凝縮したものであっても、『パラディーソ』そのものを超えてはならないからである。アルベルトの手紙は質的に『パラディーソ』そのものよりも劣っていなければならない。
 そしてまた、この部分から読み取れることは他にもたくさんある。『パラディーソ』全体は、それが修辞的な比重があまりにも高すぎるために、物語的な構造を欠いているのだが、本質的にこの作品は少年ホセ・セミーの成長の過程を描く、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)として読むことができる。物語性を欠いた教養小説というのは、言ってみれば脱構築された教養小説だということになる。〝脱構築〟などという用語を安易に使うべきでないというならば、ジャック・デリダが井筒俊彦に宛てた書簡を翻訳した丸山圭三郎が、déconstructionの訳語として提唱している「解体構築」という用語を使ってもよい。
 デリダはその書簡「DECONSTRUCTIONとは何か」の中で、déconstructionの構造主義的な挙措と反構造主義的な挙措の両義性について語っているからである。『パラディーソ』が教養小説でありながら、反教養小説でもあるということは、déconstructionの持つ両義性と相即だからである。レサマ=リマは教養小説の文脈において、それをdéconstruireすると同時に、新たな小説の文脈をconstruireしていると言えるのである。
 それはともかく、アルベルト伯父の手紙を読んで聞かせられるホセ・セミー少年の姿を借りて、レサマ=リマは自身の詩的体験について語っているのである。そしてそれが具体的には、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』との出会いの体験であったと読んでも、決しておかしなことではないだろう。
 ここで、セミー少年がアルベルト伯父の手紙に触発されて、どのような言語的体験をするのかを示す、二つの文章を引用しておくのも無駄なことではないだろう。そこにはレサマ=リマ自身の言語的体験そのものが反映されているはずだからである。

「海中の部族の名前を次々と耳にしながら、彼の記憶の中では、魚のことを勉強した小学校予科の授業が浮かび上がってきただけでなく、単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて、彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入ってくるのをありありと感じとっていた。このことばの行進を耳にしながら、彼は海岸通りの突堤にすわって漁師たちが魚を引きあげるのを眺めているのと同じ感覚を味わっていた。魚たちが本来の場所の外に引き出されて身をよじりながら、死に抱き止められていく様子を見ているような。しかし、その手紙の中では、外に引き出されたことばの魚たちは、同じように身をよじっていたものの、それは新しい合唱が生まれたことの歓喜に身をよじっていたのであり、(後略)」

「彼はことばが浮き彫りになってくるのを感じ、また、頬の上で、軽やかな風がそうしたことばを震わせて前進させるのを、さらには、そのそよ風がパンアテナィア祭に集まった群衆の長衣をなびかせるのを感じるようになり、ことばの意味は揺れ動いて徐々に見えなくなっていくのだったが、波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱としてふたたび姿をあらわしてくるのだった」



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