玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(11)

2018年03月09日 | ゴシック論

『アクセル』全編を支配しているのは〝人生は生きるに値するか?〟という形而上学に他ならない。そして最後にVivre? les serviteurs feront cela pour nous.という結論が来て、さらに全人類に対する滅亡への呼びかけで終わるというわけだ。
 カスパルとの決闘を前にしたアクセルの長広舌は、俗世間の価値観に対するより高邁な精神がする反撃であった。ジャニュス先生との対決は〝知ること〟と〝生きること〟との優先順位をめぐっての思想的対決であった。そしてサラとの対決は、人間の本源的な欲望に対するアクセルの存在を賭けた否定によって特徴づけられた。
 こうしてゴシック小説は形而上学を誘発する装置としての意味を持ち始めるのである。これこそが『アクセル』のゴシック小説としての最大の特徴であったし、ゴシック小説に対する最大の貢献であったと言わなければならない。
 ゴシック小説はアン・ラドクリフの例を持ち出すまでもなく、その多くは娯楽的要素を強く持つものであった。しかし、ゴシック小説の最高傑作といわれるマチューリンの『放浪者メルモス』は、娯楽的要素も持ち合わせてはいるが、形而上学的な要素も持っている。
 あるいはジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』もまた、娯楽性を保持しながらも、真のテーマを悪魔とそれに取り憑かれたものとの対決ということに置いていて、形而上学的テーマを十分に持ち合わせた作品であったことを思い出さなければならない。
 またアメリカにおけるゴシック小説の正当な後継者であるエドガー・アラン・ポオの作品は、そのほとんどが短編であるという事実において、形而上学的な議論を展開させるに十分なものではなかったが、その背後にそうしたものを孕んでいるという意味では傑出したものであった。
 ヴィリエ・ド・リラダンもポオの影響を強く受けた作家であり、その短編作品は優れてポオ的であるといえるし、『未来のイヴ』にしてもポオの影響なしには考えられない作品である。『アクセル』もまた、ポオの隠された形而上学の影響下にある作品なのかも知れない。
 しかし、リラダンの『アクセル』はあくまでも、ゴシック小説の中に形而上学的要素を持ち込んだ独創的な作品としての価値を持ち続けている。それはゴシック小説の可能性を大きく広げた作品なのであった。
 アクセルはカスパルの「わたしは何処にゐるのか」という質問に対して、広大な森に守られた石造の館にいる、と答えていて、それについて私はそれがアクセルの意識を守る強固な要害の隠喩であることを指摘したが、ゴシック小説の特徴はその舞台装置がそのまま、主人公の精神的なあり方の隠喩として機能するというところにある。
 シュヴァルツヴァルトの中央に位置する古城は、直接的にアクセルの精神の隠喩なのであり、すべてが古城において展開するということは、つまりはすべてが閉鎖空間としてのアクセルの精神の内部において生起するということに他ならないのだ。
 だから何度も言うように、アクセルとカスパル、ジャニュス先生、そしてサラとの対決は、閉鎖空間における自分自身との対決を意味しているのであって、どこまで行っても主観の軛を逃れることができない。
 しかしそのことが20世紀文学における「客観的なものから主観的なものへ」という流れの源流になっているとしたら、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』はいつまでもその価値を失わない傑作戯曲なのである。
(この項おわり)

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(10)

2018年03月08日 | ゴシック論

 プルーストは人間の〝記憶〟というものについての探究を行い、ジョイスは人間に〝意識〟というものへの探究を行って、20世紀文学の方向性を決定づけた。そしてその源流にヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』があったということになる。エドマンド・ウィルソンが彼の評論集のタイトルを『アクセルの城』としたことには、そのような理由があった。
 ところで私は、この『アクセル』の項を「ゴシック論」に位置づけた。それはこの作品がゴシック小説の条件を完全に満たしているからである。
 まず『アクセル』はサラが幽閉されようとしている修道院の舞台から始まる。修道院への幽閉とそこからの脱出というテーマは、ルイスの『マンク』、マチューリンの『放浪者メルモス』などと共通するものであり、ゴシック小説に特有のテーマである。
 そして主な舞台は「北部ドイツの東、シュヴァルツヴァルトの中央に孤立してゐる辺境総督ドーエルスペール家の、いたく古りた城砦」なのである。第2幕から第4幕まではこの辺境にうち捨てられた城の内部で展開するのであり、それはゴシック小説に特有の閉鎖空間を実現している。
 クリス・ボルディックのゴシック小説についての定義を思い出してみよう。それは以下のようなものであった。

「ゴシック的効果を獲得するために、物語は、時間的には相続することを恐れる感覚に、空間的には囲い込まれているという閉所恐怖的感覚に結びつけられるべきで、こうした二つの次元は、崩壊へと突き進む病んだ血統という印象を生み出すために、お互いを強め合う。」

 ボルディックの定義はリラダンの『アクセル』に完全に合致する。まず空間的には「閉所恐怖的感覚」に支配されているという意味で、『アクセル』はポオの『アッシャー家の崩壊』と同様に典型的である。しかもその閉所恐怖が閉所愛好とアンヴバレンツな関係においてあるという意味でも、『アッシャー家の崩壊』に共通する。
 さらに第4幕、サラとアクセルの二人だけの場面は、財宝が秘匿された地下埋葬所を舞台とするのであり、閉鎖空間としての性質はさらに強化される。
 そして時間的な相続恐怖ということについては、例の財宝がまずその役割を担っていると言える。アクセルを激怒させたのはカスパルがその財宝に言及したからであって、その話題はアクセルにとって永久に秘密しておかなければならないものであった。
 なぜなら財宝の存在はアクセルの中に世俗的な関心を呼び覚ますからであり、それは決してあってはならないことであった。アクセルは父親が秘匿した財宝を相続することを自ら禁じているのであり、そこに相続恐怖を見ないわけにはいかない。
 さらに父親の名誉に関する部分、それもまた相続恐怖につながっている。父親の名誉を守るためにも、財宝はアクセルにとって存在してはならないものであって、財宝の発見は父親の名誉を、ひいては自らの名誉を傷つけることに他ならない。そこに〝血統〟という意味での相続の相があり、これもまた、呪われた血統に恐怖する『アッシャー家の崩壊』との共通性をもつ。
「いたく古りた城砦」は、ゴシック小説には欠かせない舞台装置である。そこであらゆるゴシック的想像力が花開くのである。ウォルポールの『オトラント城奇譚』も、ラドクリフの『ユドルフォの謎』もそうである。
 ただし、彼らの古城の中では通俗的なドラマが展開するだけなのに対して、『アクセル』の方はそうではない。『ユドルフォの謎』では主人公エミリーが幽閉され、そして救い出される手に汗握るスペクタクルの主要舞台が古城であったが、『アクセル』ではそのような活劇の意味はほとんどない。カスパルとの決闘やサラとの暴力的な出会いはあるが、もっと重要な要素が『アクセル』を支配しているのである。

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(9)

2018年03月07日 | ゴシック論

 アクセルの価値観をこのように全人類に拡張して見せる考え方は大胆かつ破滅的である。しかし、この徹底ぶりこそアクセルという人物造形の最大の要であろう。アクセルは全人類に心中を迫っているのだから。
 エドマンド・ウィルソンは『アクセルの城』で、このようなアクセルについて、次のように言っている。

「リラダンのこの超夢想家が、当時のみならず今日も、象徴派のあらゆるヒーローたちの典型であることは、容易に見てとられるであろう。」

 ウィルソンはさらにこの象徴的な主人公の末裔として、ウォルター・ペイターの「瞑想的、非行動的なメーリアス」や、ジュール・ラフォルグの「ローエングラン」、ステファン・マラルメの「『イジチュール』に出てくるハムレットともいうべき人物」や、ジョリス=カルル・ユイスマンスの「デ・ゼッサント」を挙げている。
 さらにウィルソンは象徴主義運動の文学史的位置づけへと進んでいく。

「象徴主義の運動は十九世紀自然主義の解毒剤であり、ロマン主義の運動は十七,十八世紀の新古典主義の解毒剤であった。」

 このような文学史的位置づけについて、わたしは論評することができないが、「解毒剤」という言い方はある意味逆説的である。「解毒剤」が毒を無力化して人間を快癒へと導くものであるとすれば、自然主義よりも象徴主義の方が健全であり、ロマン主義の方が新古典主義よりも健全だということになる。
 しかし、どう考えてもこの構造は逆である。新古典主義の方が狂熱の中に生きようとしたロマン主義よりも健全であり、自然主義の方が社会からの逃亡を図る象徴主義よりも健全であったことは明白だからだ。
 ウィルソンはそんなことは分かっていて逆説的に語っているのだろう。だから次のように議論を進めていく。

「ロマン派の特徴が、愛、旅行、政治といった、経験それ自体のために経験を求めること、人生のさまざまな可能性をためすことにあったのに対して、象徴派は、同じく公式を嫌い、同じく因習を捨てながら、自分たちの実地訓練を文学の領域だけに限って進める。そして、彼らはまた、本質的には探検家でありながら、ひたすら想像力と思考の可能性だけを探検する。」

そしてウィルソンはアクセルという人物造形がもたらした文学史上の意味を次のように総括する。
「象徴派は、終局的には、ちょうど象徴派の代弁者アクセルが人生の舞台を一変させたように、文学の領域を、客観的なものから主観的なものへ、社会とともにする経験から孤独においてかみしめられるべき経験へと、完全に一変させるであろう。」

 このようにしてアクセルは、今度は二十世紀の文学においてその後継者を生み出していくだろう。ウィルソンが挙げているのはポール・ヴァレリーのテスト氏であり、『失われた時を求めて』におけるマルセル・プルーストであり、ジェイムズ・ジョイスのブルームである。
『アクセルの城』でウィルソンが劇的に明らかにしたのは、マルセル・プルーストとジェイムズ・ジョイスがなぜに偉大であったかということであった。プルーストとジョイスの主人公は、アクセルのように現実というものを否定し、主観の世界への探究を徹底させたのである。

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(8)

2018年03月06日 | ゴシック論

 サラは誇り高き探索者として登場するが、アクセルの愛へのためらいを前にして肉の喜びへの誘惑者へと変容する。そしてさらに、世俗的な生への誘惑者へと変貌していく。しかもそれは無限の価値を持ったあの財宝を利用してということになるだろう。
 サラは世界中の魅力的な土地を次々と列挙して、そこに二人で旅をし、そこで二人で暮らそうとアクセルに誘いかける。この〝旅への誘い〟はこの全集本で4ページ以上にもわたっている。

「ねえ、いとしいひと! 隊商の群が通り過ぎるあの国へ、カシュミールやミゾールの棕櫚の葉蔭にいらつしやらない? ベンガルに行つて、市場(バザール)で、薔薇の花や、色々な織物や、白貂(しろてん)の毛色のやうに肌の白い、アルメニヤの娘たちをお選びにならない? 軍隊を招集して――若きシヤクサールの」やうにイランの北方に旌旗をお進めにならない?――それともいつそ、セイロン島に向つて船の帆を上げませうかしら。……」

 このような誘惑があくことなく続いていく。前にわたしは、財宝の世俗的価値が拡大してしまうと書いたが、それはこのサラによる誘惑の場面を想定してのことであった。サラが最後に次のように言うとき、サラの夢と誘惑はあの財宝を蕩尽することによってのみ可能なのだということが分かる。

「ねえ、わたしたちには至高の権力があるのですもの、今やわたしたちは、未知の王者に似てゐるのですもの、数ある夢の中からどのやうな夢を選ばうと構わないのですわ。」

 これらの夢は財宝の存在によっていつでも可能なものとなっている。しかし、実現可能なものを夢とは言わないし、財宝という裏付けによってそれらの夢は世俗的な価値に染まってしまうのである。だからアクセルはその誘惑を受け入れることができない。アクセルは突然さらに向かって次のように言う。

「その夢を実現したところで何にならう?……そのやうに美しい夢を!」

 サラはその言葉に驚いて「地上においでなさい、ここに来て生きて下さい!」と、アクセルを促す。そうだった。アクセルとサラはまだ地下の埋葬所にいるのだった。そこは地上的な価値を否定する場所でさえあった。アクセルは、ではさらに何を否定するのであるか。

「生きる? 否(いな)、だ。わたしたちの生命(いのち)は満され、――その杯は溢れてゐる!――如何なる砂漏刻(すなどけい)が今宵の時を計り得ようか! 未来?……サラ、この言葉を信じておくれ、わたしたちは今やそれを汲み尽したのだ。」

 アクセルは未来を全否定するのである。あるいは時間というものを全否定するのだと言ってもよい。つまり地下埋葬所において、アクセルはサラと愛を確認した以上、そのほかに何が必要かと問うている。またそこで未来のすべてが汲み尽くされたのであり、その後の時間は必要なものではない。
 例のVivre? les serviteurs feront cela pour nous.の科白はこの後間をおかずに発せられる。結局ふたりは毒をあおいで死ぬのであるが、それを心中と呼ぶことはできない。
 アクセルはサラと一緒に死ぬのではない。アクセルは自らの欲望と世俗的な夢とを道連れにして死ぬのである。それだけではない。アクセルの最後の科白は彼の悲劇的な価値観を、全人類に敷衍するものである。

「願はくは人類の、むなしき迷妄より、むなしき絶望より、はたまた消え去るために造られし肉の眼(まなこ)を眩惑するありとある虚偽より醒めて、――もはやこの陰惨なる謎の遊びを受け容れず、然り、冀(こひねがは)くは人類の、われらに倣ひ、汝(なんぢ)大地に別辞をさへも告げやらず、冷然と遁れ去りて、以てその最後をば遂げ得むことを。」

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(7)

2018年03月05日 | ゴシック論

 先のアクセルの言葉にはもう一つ嘘がある。「この世にあつてそなたを知つたことは、今より後、必ずや、わたしが生きることを妨げることであらう!」という部分である。
この部分はジャニュス先生に対して「おれは生きたい! おれはもう知りたくない!」と言った言葉と矛盾している。サラの存在が「わたしが生きることを妨げる」というのは、「おれは生きたい!」という言葉の内実と相反している。
 むしろこう言うべきだろう。「そなたの存在は、今より後、必ずや、わたしがわたしの夢想を実現する妨げになることであろう!」と。つまりサラの存在は、アクセルが生きることを妨げるのではなく、アクセルが知識の世界を極めようとする夢想を妨げることになるはずだ。
 ここには嘘と迷いがある。しかし、アクセルはそれを立て直していく。どのようにしてか。それは一度、サラの誘惑、肉の喜びへの誘惑に屈することにおいてである。サラの誘惑は強烈である。

「誘惑されておしまひなさい!――東邦(オリヤン)の美酒のやうに陶然と酔はせる不思議な綴りの言葉もお聴かせしますわ! 命を奪ふ愛撫の中にあなたを眠らせることも出来ましてよ。限りのない歓喜や、えも言はれぬ叫び声や、あらゆる希望がその中に絶え入るやうな逸楽の秘訣も心得てゐますわ。おお、わたしの白い肌のなかにお身体をお埋めになって。そしたらあなたの魂はそこでさながら雪に埋もれた一輪の花のやうになつてしまいますわ。この髪の毛でお身体をお包みになつて。……」

 なぜ処女であるはずのサラがこのような慎みのない言葉を吐くのかと問うべきではない。そうではなくアクセルの肉への欲望が、サラにこのような誘惑の言葉を要求するのである。リラダンは実相を描いているのではない。実相を描きたいのでもない。
 もとより『アクセル』はリアリズムの要素をまったく欠いているし、リラダンが目指すものもそこにはない。サラとアクセルの対話は、他者同士の対話に見えて実はそうではない。
 すべてはモノローグである。これまで見てきたカスパルとの対決も、ジャニュス先生との対決も、最後となるサラとの対決も、ダイアローグであるのではない。すべてはアクセルの心中におけるモノローグなのである。
 しかし、モノローグとは単に一つの意識の中の純粋思考を意味するのではない。どのようなモノローグもその中にダイアローグの要素を含まずにはいないということが、言語にとっての宿命である。
 アクセルはサラとの対話(対決)の中で、サラ自身の肉体への誘惑に応答するのではなく、自らの内部の肉への欲求に対して応答しているのである。

「わたしの愛と欲望とは、ひしとそなたを抱締め、そなたに浸み入り、おお恋人よ! そなたを激昂せしめ、そなたのなかに死んで……再びそなたの美しさのなかによみがへるのだ。!」

だからサラの存在は幽霊のようなものであって、実在とはほど遠いところに押しやられている。そして読者はサラの存在感の希薄さや、彼女の言葉のありえなさについて云々することを禁じられているのである。

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(6)

2018年03月04日 | ゴシック論

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(6)
 アクセルのこの言葉は間違いなく彼の〝迷い〟を示している。〝知ること〟を断念し、〝生きること〟を欲するアクセルの願望は、もはやカスパルに対して放った真実の言葉からの後退に他ならないからだ。
 そしてこのアクセルの〝迷い〟は「第4章 情熱の世界」の第4場以降のアクセルとサラとの二人きりの場面に引き継がれていく。あるいはむしろ、ここでアクセルに〝迷い〟を与えておくことが、第4場以降のドラマにより緊迫感をもたらすことになるのだと言っておこう。
 アクセルは師ジャニュス先生の「汝は「光明」と、「希望」と、「生命」とを受け容るるや」という最後の詰問に答えて、「いいえ」と言い放つ。だからこの場は「?棄者(ほうきしゃ)」と題されている。「?棄」は「放棄」とほぼ同義、原語ではLe renonciateurである。
 そしてもう一人の「?棄者」が用意されている。それは『アクセル』の最初の場面、修道院に幽閉されんとするサラ・ド・モーペールが副司教の「そなたは「光明」と、「希望」と、「生命」とを受け容るるや」という詰問に対して「いいえ」と答える場面である。
 二つの詰問はまったく同じである。しかし、サラの場合には「光明」「希望」「生命」が神への帰依によってもたらされるものであるのに対し、アクセルの場合にはそれは智恵や知識への帰依によってもたらされるものという違いがある。
 しかし、サラのこの場面も「?棄者」と題されているし(こちらは女性名詞でLa renonciatrice)、まったく同じ詰問がなされることにおいても、この物語の中で完全な〝対〟の構造をなしている。だから二人の「?棄者」は必ずどこかで出会わなければならない。
 第4章でサラが唐突に登場する時に、読者である我々にまったく違和感がないのはそのためである。と言うよりもむしろ我々は第4章でサラが登場するであろうことを、最初から知っているのである。宿命的な出会いの作者による周到な準備がなされていると言わなければならない。
 そしてサラは「失われた王杖を掴むために」修道院を逃れ、アクセルの城までやってきたのである。これでつじつまが合うのだが、そのかわり財宝の持つ世俗的な意味が拡大してしまうのはやむを得ないところか。
 サラは財宝を地下墓地の隠し所に発見するが、それを見ていたアクセルに気づいて、ピストルを撃ってアクセルに傷を負わせる。アクセルはサラを殺そうとするが、サラの美しい顔を見て思いとどまる。
 ここから再びというか、三たび、二人の間の形而上学的な会話が始まるのである。アクセルはサラからの誘惑を感じ取り、それに対して最初の抵抗を言葉にする。

「――わたしは愛することを欲しない者だ。……わたしの夢想はそれとは異なる光明を知っているのだ。――汝に禍あれ、といふのも汝は、その妖術の如き出現によつて、我が夢の古りし希望を掻き擾した誘惑者であつたからだ。――この世にあつてそなたを知つたことは、今より後、必ずや、私が生きることを妨げることであろらう! さればこそわたしは、亡骸(なきがら)と化したそなたの姿を眺めたいのだ……」

 このアクセルの言葉には嘘がある。彼はすでにカスパルを殺したことによって「我が夢の古りし希望を掻き擾」されていたはずであり、だからこそジャニュス先生の詰問に「いいえ」と答えたのであり、「俺は生きたい! 俺はもう知りたくない!」との迷いの言葉を口にしたのではなかったか。
 しかも誘惑されるのは当人の責任であって、必ずしも誘惑者の責任ではない。すべての責任を誘惑者に転嫁するのは身勝手というもので、そのために誘惑者が死ななければならないなどという理屈は無茶というものだ。
 だから、それを聞いたサラは「おお聴いたことのない言葉!」と返し、アクセルの殺意を疑って次のように言うのだ。

「いいえ! もう遅すぎますわ。その超人的なお言葉の燃え立つ炎(ほむら)であなたの魂をかいま見せるやうなことをなさらずにわたくしを打ち殺すべきでした!」

と。

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(5)

2018年03月03日 | ゴシック論

 この後に待っているのは思いもよらぬアクセルの変節である。その変節はカスパルを殺したことによってもたらされたものであるらしい。アクセルは学問の世界(錬金術の秘法)に戻ろうとして本を開くが、それを読むことができない。アクセルのここでの科白……。

「――かつて幾たびか、その燦爛たる光がおれを眩惑したこれらの言葉さえ、今はよそよそしく思へるほど、俺の魂は上の空なのだ。――已んぬるかな! 何物かが通り過ぎて俺を地上に呼び戻した。おれは身裡に感じる、おれは生きたいのだ!……」

 こうしてアクセルはこれまで錬金術の秘法を学んできた師ジャニュス先生との思想的対決の場面に入っていく。二人の対決は〝知ること〟と〝生きること〟とのそれであって、『アクセル』の中でも最も形而上学的な議論が集中する場面となる。
 息詰まる対決である。二人の修辞の限りを尽くした議論のやりとりは『アクセル』にあって最も高みにある場面と言えるし、このような議論の展開はおそらくゲーテの『ファウスト』の影響の下にあるのだろう。フランス文学でこのような形而上学的な議論を中核に据えた作品を私は寡聞にして知らない。
 ジャニュス先生は「自己の裡に、あらゆる情慾を制し、あらゆる食慾を忘れ、あらゆる人間性の痕跡を亡ぼし、――解脱によって超克」することをアクセルに要求する。その言わんとするところはあまりに高邁で、ある意味では蠱惑的ですらある。

「神々のごとく、信仰によって「非創造・実在(つくられずしてあるもの)」の中に遁れ去れ。汝の星辰の光芒の中に汝自身を成就せよ! 湧き出でよ! 刈入れよ! 上昇せよ! 汝自身の花となれ! 汝は汝の考ふうるものにすぎぬ、されば己れを永遠なりと思へ。開く扉を疑つて時を失ふな。汝が己れの胚子の裡に授け与へたる未来、しかも汝に委ねられし未来をば、寸刻たりとも疑ふな。――もろもろの疑惑の彼方、一切の夜の彼方に、そなたの永劫不滅の実在が燦として輝くのを感じないのか!」

 神の下にあらゆることを知り尽くすこと、そのために一切のものを犠牲にすること、そのことをジャニュス先生はアクセルに要求する。しかしこれは、〝智恵〟の名のもとに人生を転倒させる倒錯した思想であって、アクセルはそれに従うことができない。
 議論は〝記憶〟ということを巡っても展開する。アクセルは「死が一切の記憶を亡ぼしてしまう」なら、そんなことになんの価値があるのかという疑問に囚われている。しかしジャニュス先生は記憶ということ自体を決然として否定する。

「すでに現世に於て、そなたはきのふの日を覚えてゐるのか。過ぎ去るもの、移ろふものは、想い起こすに値するのか。一体そなたは何を覚えてゐるのか。」

しかしアクセルは、ジャニュス先生の言葉を肯定することができない。

「数と、空間と、形態との、かの究極(いやはて)の大海原に於て、自意識を失はずに、私がなほも存在するといふことを、誰が保証してくれるでせうか。」

 記憶とは生きたことの証である。記憶を否定してしまえば生きることにはなんの意味もないことになってしまう。アクセルはそのことを恐れているのである。アクセルは最後に叫ぶ。

「おれは生きたい! おれはもう知りたくない!」

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(4)

2018年03月02日 | ゴシック論

 それにしてもなんたるプライドであろう。私はこれまでに、これほどに精神の矜持というものを披瀝した文学作品を読んだことがない。
 ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』や『残酷物語』を読んでも決して得られない、彼の美質がいかんなく発揮された作品なのである。エドマンド・ウィルソンがその象徴主義文学についての評論集のタイトルとしたことの意味が、否応なく理解される。
 アクセルの矜持は俗世間の見解を前にしても、国家を前にしても、あるいは〝萬民の福利〟という脅迫を前にしても、微塵も揺るがない。それは彼がすでに〝生きること〟を放棄しているからであって、そんな人間にとって世界がおよぼす脅迫などは、何物でもないからである。
 さて、決闘開始の前にカスパルは次のような質問をアクセルに対して発している。

「わたしは何処にゐるのか、そして君は何者なのか。」

 この質問は軽薄な人物としてのカスパルにしては本質的なものであって、むしろアクセルに真実を語らせるべく、作者が用意した質問だといえる。カスパルは「何処にゐるのか?」

「――君は夜がその百里を蔽い包むたぐひなき「森」の中にゐる。その森には危険な騎兵銃をもつ二萬の森林看守が住んでゐて、――彼等は先祖代々わが家に忠節を尽した血から生れ、かつては兵士であつた。――わたしはその中心となり、すでに三度、敵の包囲を却けた、いと古りし石造の館にあつて、見張りをしてゐる。」

 むしろ問いは「アクセルは何処にゐるのか?」であってもよかったであろう。アクセルは広大な森に守られた石造の館に住んでいる。その森は国家の包囲をも却けることができる。つまり広大な森と石造の館は、アクセルの自意識を守る強固な要害の隠喩なのであって、それを文字通りに読むことはできない。アクセルは本質的な質問に真正面から答えているのである。
 そして「アクセルとは何者なのか?」

「《わたし》の方はどうかと申せば、相当に御し難き夢想家だ、とごく簡単に言つて置かう、(中略)――多分君も聞いたことがあると思ふ……人呼んで「世界の屋根」といふかのシリア山上に築かれた、アラモン城の奥深くから、遙かな諸国の王者をして来賓の余儀なきに至らしめてゐた、遠い昔の一青年のことを。その人物は、たしか、「山の老翁」と呼ばれてゐたと思ふが。……ところで、このわたしは、「森の老翁」だ。」

 訳者注によれば「山の老翁」というのは、回教の一派イスマエル教の創始者、ハッサン・イプン・サバー(1050-1124)で、彼は「難攻不落の城塞に拠り、神秘的方法によって多数の刺客を服従せしめ、1107年「シリア暗殺団を組織、諸国の王を脅かしたという伝説的超人」であるという。今日で言えばイスラム国の指導者のようなものか。
 その前にアクセルは「相当に御し難き夢想家」であるのだが、その辺の詳しい説明はなされない。カスパルに聞かせても分かりはしないだろうが、もう少し披瀝して欲しかった。しかし、その点についてはアクセルとその師ジャニュス先生との対話や、大団円におけるサラとの対話の中で十分に展開されていると言うこともできる。
 アクセルは何者にも屈することのない御し難き夢想家である。今はそれをアクセルを規定する言葉だとしておこう。
 この後予定通り決闘が行われ、カスパルはアクセルの剣に心臓を刺し貫かれて死ぬ。カスパルは死ぬ前にアクセルの本質的な言葉を聞いたのである。

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(3)

2018年03月01日 | ゴシック論

 以上のようなアクセルの科白に、我々はプライドを傷つけられた高貴な精神の憤怒の表現を読み取らなければならない。カスパルは俗世間、あるいは卑俗な精神を代表する人物であり、アクセルの科白はそうしたものに対する逆襲の一撃なのに他ならない。
 アクセルとカスパルの価値観はあまりにもかけ離れたものであり、その違いについてアクセルはそれをカスパルに分からせなければならない。あるいは作者リラダンがそれを読者に対して分からせなければならないと言うこともできる。
 決闘を前にしたこのいささか不自然な長広舌はどうしても必要な部分なのであり、この作品の勝負を決する部分でもあるのだ。ここでのアクセルの科白の迫真性があのVivre? les serviteurs feront cela pour nous.という科白の真実を保証することになるのだから。
 ところで本当にアクセルを怒らせたのは、カスパルのアクセルの生き方に対する侮辱だけであるのではなかった。アクセルの本当の怒りは、アクセルの父ドーエルスペール伯爵によって秘匿されたとされる、財宝のことにカスパルが触れたからであった。カスパルはその財宝を見つけて山分けしようと持ちかけたのである。
 その財宝の由来とはどんなものなのか。そのことについていわゆる象徴主義文学についての名著『アクセルの城』*を書いた、エドマンド・ウィルソンがうまく要約してくれているので、その文章を引用したい。

「ナポレオンの軍隊がフランクフルトを脅かしたとき、周辺の人びとは幾マイルも離れたところから金や宝石その他の貴重な品々をフランクフルト国立銀行に預けるために持ってきたが、三億五千ターラーの巨額に達したその財宝は、アクセルの父を長とする護衛隊をつけて、秘密の安全な場所へ輸送されることになった。ところが、悪質な役人たちの一味が陰謀をめぐらし、伯爵を殺害してその財宝を横取りしようとしたうえ、伯爵がフランス軍の手中に陥ったと思わせる工作までした。しかしながら伯爵はこの裏切りに屈する前に、機をみてその財宝を広大な地所のどこかの地下に隠し、妻以外にはだれにもその秘密を口外しなかった。」

 もとよりアクセル・ドーエルスペールにとって金銀財宝などは何物でもない。ことは父親の名誉に関わっている。アクセルの逆鱗に触れたのはカスパルが持ち出したこの話題であったのだ。アクセルにとってこの話題は父親の名誉を守るための絶対の秘密であり、アクセルは〝秘密を守る龍〟としての務めを自分に課しているのである。しかし、カスパルはそれに反論して〝国家〟ということを持ち出す。財宝の所有権は国家にあり、その存在を国に報告しないのは、臣民としての義務違反であり、財宝を見つけて国に差し出すことこそ臣民の務めだと言う。
 しかし、アクセルは微動だにしない。父親を惨殺させたのが国家そのものであったからだ。アクセルの呪詛は国家に対しても向けられている。

「ところで国家は――もしさういふ奴等が国家の代理人であつたとすれば――この行為に対して連帯責任がある。従つて、(さういふ奴等の代表してゐた)国家の「公正」なるものは、死滅したもの、宣誓に違反したもの! 虚妄なもの! 要するに、廃棄されたもの! となつて、我が家の門口に横たわつてゐるのだ。」

 またカスパルは苦し紛れに〝萬民の福利〟ということさえ持ち出す。その財宝があれば「数百萬の無辜なる民衆の福利」に供することができると主張するのである。しかしそれでもアクセルは動じない。アクセルの返す言葉……。

「萬民の福利か! 殊勝な目標だ、それを口実にして、あらゆる時代、あらゆる国家に於て、略奪を好む王侯貴顕は、おのが快楽のためにする苛斂誅求を裁可したものだ。そして今以てこの目標を掲げれば、貧民を、彼らの利益といふ名目で冷酷に丸裸にしながら、むりやり彼等に感謝の表示を要求することが許されるのだ。」

 アクセルがこのようなことを言っているということ、あるいはリラダンがこのようなことをアクセルに言わせているということを、我々は銘記しておかなければならない。リラダンが単に反動として、自ら属する貴族社会を擁護し、古くさい価値観を抱き続けたわけではないことが分かるからである。
〝王侯貴顕〟を〝政治家〟に置き換えれば、アクセルの議論は今日でも立派に通用するものではないか。

*『アクセルの城』というタイトルはもちろん、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』から採っている。その意味するところは「1870年から1930年に至る文学の研究」というサブタイトルを持つ本書の最も重要なテーマに関わっている。つまりいわゆる象徴主義文学は、芸術至上主義的で生きるということに価値を見出さない文学潮流であるというテーマに。
 なお『アクセルの城』の「アクセルとランボー」の章で、エドマンド・ウィルソンはリラダンの『アクセル』の簡にして要を得たあらすじ紹介を行っている。その一部を引用した。

 エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』(2000、ちくま学芸文庫)土岐恒二訳

 

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ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(2)

2018年02月28日 | ゴシック論

 ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』は、主人公アクセル・ドーエルスペールが最終幕で放つ「生きること? そんなことは召使いどもに任せておけ」というあまりにも刺激的な科白によって有名である。齋藤磯雄訳では「生きる? そんなことは下僕共がやってくれるさ」となっている。原文はこうだ。

 Vivre? les serviteurs feront cela pour nous.

 直訳すれば「生きること? そんなことは召使いどもが私たちのためにやってくれるだろう」というところか。
『アクセル』一編はこの科白に向かって収斂するように、緻密に構成されている。だからここだけ読んで『アクセル』を読んだということはできない。しかし、主人公アクセルのこの〝生きることへの否定〟はどこからやってくるのだろうか。
『アクセル』は形而上学的悲劇と呼べる作品であり、もっぱらその形而上学は主人公アクセルの科白によっている。アクセルの科白は極端に長く、長広舌とさえ言えるほどであるが、それを最もよく代表しているのが、従兄の勲爵士カスパル・ドーエルスペールとの決闘の場面である。
 カスパルはアクセルに対してその古城への蟄居をとがめ、「世の中に乗り出せ」と忠告する。そしてアクセルの父親が秘匿したとされる財宝のことに話題が及ぶと、アクセルは突然小姓に命じて剣を二本持ってこさせ、カスパルに対して決闘を挑むのである。
 この唐突さはカスパルにとって驚きであると同時に、我々読者にとってもまるで青天の霹靂のように受け止められる。このようなあら筋を聞くと時代設定は中世あたりに置かれているのかと思うかも知れないが、そうではない。この戯曲の時代設定は19世紀初頭であって、リラダンが生きた時代の少し前のことに過ぎない。
 アクセルはカスパルに対して唐突に次のように言う。

「先程あなたは、狎々(なれなれ)しい話をして私を侮辱しました。直ちにその償いをして頂きませう。あなたはもはや私の客人ではありません。決闘場として、この広間は絶好です、とりわけこの嵐の日には。」

 カスパルはこの言葉に納得しない。カスパルはアクセルに次のように返答する。

「なんだと! ドーエルスペール伯爵がたつた今襲はれた唐突な精神錯乱の発作などにさう易々諾々として応じられるものかい。」

 カスパルはアクセルの決闘の申し出を本気と受け止めていないのである。だからアクセルは説明しなければならない。カスパルに対してだけではなく、読者に対して説明しなければならない。
 だから、すぐにでも始まるはずの決闘が、ここから始まるアクセルの長広舌によって、先へ先へと引き延ばされていく。いつまでたっても決闘が始まらないのだが、それはリラダンがアクセルの怒りに表現を与えなければならないからである。
 決闘の勝敗などは初めから見えている。ここでアクセルが決闘に敗れて死ぬなどということは考えられないからである。だから読者の関心のおもむくところは、アクセルのカスパルに対する怒りと侮蔑の言葉ということになる。
 アクセルの科白を少し引用することで、この場でアクセルが考えていることを理解してもらえるだろう。たとえば……。

「他人のことを甚だ我儘勝手に《精神錯乱》と断ずる君が、良識の如何なる証拠を我々に示したといふのか!
(中略)
ところが逆に、君はみづから、《経験》豊かな、慧眼な、逞しき精神なりと自惚れてゐるのだな、さうだらう。そして、君には解し得ない思想を抱懐し、君には禁じられてゐる学問を研究しようとする努力、又その清澄にして厳粛なる美しさが、君には無益なものとしか思はれないので、君にとつては永遠に退屈であり、つまりは禁断のものであるやうな語らひをしようとする努力に対して、君は常に、得々として、嘲罵の一撃を加へ得るものと考へている。」

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(1975、東京創元社「ヴィリエ・ド・リラダン全集」第3巻)齋藤磯雄訳

 

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