玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

シャルトル大聖堂の崇高美(9)

2020年01月13日 | ゴシック論

 こうしたカトリック大聖堂の矛盾はだから、キリスト教の歴史そのものの矛盾に起因しているわけだし、そうした矛盾は大聖堂の物質的矛盾としても表面化してくる。私はシャルトル大聖堂の外貌について、それが威圧的で、無骨で、時にグロテスクで、強権的でさえあることを強調してきたが、そうした要素が大聖堂内部における聖母マリアの遍在、慈愛に満ちた空間の存在と大きな矛盾を示していることを最後に言っておかなければならない。

 それはカトリックそのものの矛盾をその要因としているわけだから、大聖堂全般について指摘できることだと思う。私はパリ大聖堂とシャルトル大聖堂という、ある意味で対照的な二つの大聖堂しか見ていないが、シャルトル大聖堂がパリのそれに比べてそうした矛盾をより大きく抱えていることは一目瞭然である。

 エドマンド・バークに倣って言えば、それは男性的原理と女性的原理の矛盾であり、崇高の観念と美の観念との矛盾である。私がタイトルにした〝崇高美〟というような観念についてバークは詳述していないが、それこそ矛盾に充ちた表現なのに他ならない。それでもなおシャルトルの崇高美はそうした矛盾のただ中に顕現するのである。

 またカトリック大聖堂は高い塔や、高い天井、そして尖塔アーチによって〝昇高性〟を追求したというが、そこにも大きな矛盾が隠れている。カトリック大聖堂が宗教的な動機だけではなく、国王の権力誇示のために次々と建てられていったことは歴史的事実であり、そうした〝昇高性〟が、天に至ろうとする宗教的希求を意味するだけではなく、世俗権力の指標でもあったことは確かなことではないだろうか。

 そうでなければ時代が下るに従って、大聖堂をより巨大化させ、その天井をより高くしていくような競争が起こることはなかったはずだ。ボーヴェの大聖堂が48メートルという無謀に高い天井を求めたために、工事中に崩壊事故を起こしたこともよく知られている。

 結局ゴシック大聖堂は歴史的には、教会権力と世俗権力の拮抗の産物なのであって、そこにも矛盾が露呈している。また考えてみれば鉄筋コンクリートなどない時代に、建物の高さを求めれば求めるほど、外側の堅牢性を要求され、フライング・バットレスなどという苦し紛れの工法さえ考え出されたのであり、それによって建物の外貌が無骨でグロテスクになることは避けられないことであっただろう。

 以上がシャルトル大聖堂を訪れて、私が考えたことの結論であるが、聖堂内部に気になる彫刻群があったので、そのことにだけ触れておきたい。

周歩廊の彫刻群

その細部

 シャルトル大聖堂には内陣を囲む周歩廊といわれる部分に大規模な彫刻群が残されている。まるで聖堂の中の聖堂のような感じで、内陣を取り囲んでいるそれらの彫刻群は例の〈聖母被昇天像〉のような俗悪さは持っておらず、興味をそそるところが大きかった。

 それがいつ頃の時代のものなのか、何故この位置にそれがあるのかなど子細は分からなかったが、刻まれているのが聖書の物語であることくらいは分かる。膨大な彫刻群で、そのリアリスティックで精巧な仕事ぶりは見事なものだった。

 実はその彫刻群についてもユイスマンスは詳細に書いているのである。16世紀初めにジャン・スーラという彫刻家によって造られたものが中心になっていること、また時代が下るに従って愚作が多くなることなどを解説している。

 いずれにせよどんな入門書よりも、どんな解説書よりも、ユイスマンスの『大伽藍』はシャルトル大聖堂について詳しく書かれたものである。もしもう一度シャルトル大聖堂を訪れることがあれば、ユイスマンスの本を熟読して、建物外部の彫刻群も内部のそれも、もう一度丁寧に観てみたいと思うのである。

(この項おわり)

 

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シャルトル大聖堂の崇高美(8)

2020年01月11日 | ゴシック論

 もちろんこんなおぞましい彫刻作品ばかりがあるのではない。ユイスマンスはこの大聖堂における、聖母マリアの圧倒的な遍在について次のように書いている。 

「あらゆる種族の呼び求めるマリアが、ここにはいるのであった。この大伽藍の樹林には、聖母が遍在している。聖母はあたかも全世界から、中世人に知られていた限りでのありとあらゆる人種の外貌を借りて、この伽藍に馳せ寄ってきたように思われる。アフリカの女のように黒い聖母、蒙古の女のように黄色い聖母、黒白混血の女のようにミルク入りコーヒーの色をした聖母、それに、ヨーロッパの女の白い顔をした聖母。こうして聖母は全人類の「仲裁者」として、各人のための聖母であるとともに、また、万人のための聖母でもあることを証し立て、膝に抱く「人の子」、世のすべての子供たちに顔の特徴を借りたひとりの幼児の存在を通して、救世主はいかなる人間であろうと分け隔てなく、その罪を贖うために光臨したのだと明らかに告げているのであった。」

  この引用はステンドグラスの至るところに姿を見せる聖母マリアについての文章であるが、ステンドグラスだけでなく、絵画にも、彫刻にも聖母は頻繁に出現するのだ。私はその存在を知らなかったため見学することはなかったが、地下聖堂には「黒い聖母」なるものも安置されているという。私が見たのは北側内陣にある「柱の聖母」と呼ばれる像であるが、この聖母もまた黒く塗られている。

内陣中央から北側を望む

柱の聖母

 ユイスマンスならこの聖母を白人に限らず、全世界の人種に向けた「仲介者」としてのマリアの顕現とみなし、だめ押しのように「大きく裾を広げた衣装を着けて、さながら銀製の鐘のような姿を一本の柱の上に見せるに至ったのである」と書くだろう。

 この黒い聖母を見てラテン・アメリカに特有の〝黒いキリスト像〟のことを連想しないわけにはいかない。明らかにそこにはキリスト教以前のラテン・アメリカ世界の土着信仰の痕跡があるのだと見るべきであって、それは必ずしも世界の全ての人種に開かれたキリストを象徴しているわけではあるまい。

 馬杉宗夫も『シャルトル大聖堂』の中で、黒い聖母のよって来たるところを聖書に求めることはできないことを示し、それがキリスト教以前のドリュイド教時代の地母神信仰に淵源があると言っている。

 つまりシャルトル大聖堂における聖母マリアの遍在は、キリスト教以前の土着信仰の痕跡を物語っていると考えられる、と言うよりもむしろ、カトリック大聖堂がキリスト教布教のために土着の信仰との妥協を図ったということ、それによって一神教のキリスト教では本来、本質的ではなかった聖母信仰が前面に出てしまうという結果を招いたことを証明していると思う。

 そのことをユイスマンスが了解していたとは思えない。彼はパリ大聖堂のみならず、フランス各地の大聖堂、アミアン、ラン、ランス、ルーアン、ディジョン、トゥール、ル・マン等に比べて、シャルトル大聖堂こそが聖母に対する祈りにおいてもっとも純粋性を保っているとの主張を繰り返すばかりである。

 しかし、カトリックが本来持っていなかった(表向きは禁じられてさえいる)聖母への信仰が純化されればされるほど、大聖堂はキリスト教としての純粋性を失っていくのである。ならば〝ノートル=ダム寺院〟というのは、キリスト教本来の教義とマリア信仰との矛盾の産物だということになる。ルターの新教がカトリックの聖母信仰を批判したことには理由があったのである。

 しかし、キリスト教原理主義とも言うべきプロテスタントが、その原理主義故に厳格化、教条化していったのに対して、カトリック大聖堂がキリスト教以前の土着信仰を聖母信仰として取り込んでいったことは、その懐の深さを示すものであり、矛盾を矛盾として受け入れる柔軟性を持っていたことも事実であった。

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シャルトル大聖堂の崇高美(7)

2020年01月10日 | ゴシック論

 いよいよ教会の内部に入らなければならない。私はパリ大聖堂でも内部には30分しかいなかったし、無神論者の私にとってはキリスト教のイコンに支配された教会内部が大の苦手なのである。しかし、右側の扉口から入って身廊に立った私は、その天井の高さに圧倒されたのである。

 パリ大聖堂の天井の高さは32.5メートル、シャルトル大聖堂のそれは37メートルで、それほど大きな違いはないのだが、途方もなく高く感じるのは何故なのだろうか。奥行きはパリ大聖堂の方が若干長いので、そのせいではない。おそらく堂内の明るさのせいだろう。パリ大聖堂よりもシャルトル大聖堂の方が明るいのはステンドグラスの数の違いによる。だから天井がよく見渡せるのである。不分明なパリ大聖堂の天井よりも高く見えるのはそのためなのだと思う。

 ステンドグラスはまさに壮麗を極めた大傑作である。パリではサント・シャペルのステンドグラスを見たが、まるで柱がないかのように堂内全てを覆っているようで、そのような密度はないが、シャルトルではステンドグラスの規模が圧倒的に違う。全部で176ものステンドグラスがあるそうで、圧巻と言うしかない。

北袖廊のバラ窓

その下の5連窓

サント・シャペルのステンドグラス

 しかし、私はステンドグラスに対して文盲である。中世では文字を知らず聖書を読めない人々がステンドグラスに聖書の物語を読み取ったというが、私にはそんな能力もない。かろうじて聖母マリアと幼児キリストが見分けられるに過ぎない。

 しかもステンドグラスは高いところにあるので、子細に見ることができない。それらを読み解くには図版に頼るしかないと思うのだが、中世の人々はそれをどうやって読み解いたのだろう。神の光といわれるステンドグラスの光が、神々しいイメージで無神論者の私にも厳粛な気分を与えるのは確かであり、中世の非キリスト教徒が大聖堂で改宗していったのも、そうした効果が大きかったからだろう。

 ところで入ってすぐ左に塔へ登る入り口らしきものがあったが、受付が閉じられてしまっている。さっき回廊を歩いている人が見えたのは何だったのだろう。所々にバケツがぶら下がっていたから、清掃作業員だったのだろうか。とにかく塔に登ることも、回廊を歩いてみることも諦めなければならない。

 真っ直ぐ進んで十字架の交差部に立ち、内陣方向を見ると最奥に聖母被昇天像というものが鎮座しているのが見える。パリ大聖堂のピエタといい、ゴシック大聖堂の中心にあるのがキリストではなく、聖母マリアであることがよく理解できる。だから大聖堂のほとんどはノートル=ダムと呼ばれているのだった。

交差部から内陣を望む

 しかし、18世紀に造られたという聖母被昇天像は、素朴さも何もないバロック風のゴテゴテの彫刻で、とてもシャルトル大聖堂にふさわしいものとは思えない。この像についてユイスマンスは何か言っていなかったろうか。実は言っているのである。以下ユイスマンスの毒舌の切れ味を味わっていただきたい。

 

「1763年に、時の聖堂参事会はゴシック式列柱の模様替えとし称して、ミラノの石灰職人の手で、これを灰色まじりの黄色っぽい薔薇色に塗らせたのである。次いで参事会は、内陣の内回りを飾っていた壮麗なフランドルのタペストリーを外して、市の美術館に寄贈し、代わりに、恐るべきへぼ彫刻家の削り出した浅浮彫を置かせた。この彫刻家はさらに、途轍もなく大きな聖母その他の群像を刻んで、聖壇を威圧したものだった。不運なことに、1789年にサン=キュロットたちがせっかくこのブリダンの愚作《聖母被昇天図》を持ち去ろうとしたのに、ある間抜けな出しゃばり男が、聖母の頭にすっぽりとカルマニョール服を被せてわざわざこれを救ってやったのだ。

この豚の脂の塊がもっとはっきり見えるようにというので、こともあろうにすばらしいステンドグラスを壊させたという史実を、ぜひ銘記すべきである。」

豚の脂の塊

 

 ユイスマンスの美学の徒としての見識の高さに讃嘆の思いを禁じ得ない。私はそれを写真に撮るのもいやだったので、撮っていない。写真は内陣の写真を無理やり拡大したものである。

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シャルトル大聖堂の崇高美(6)

2020年01月09日 | ゴシック論

 せっかく一周して西側正面に戻ってきたのだから、あの二つの塔のことについてもう少し触れておこう。南塔がロマネスク様式でサン=ジェルマン=デ=プレ教会の塔に似ていることは前に書いたが、この教会はパリに現存する最古の教会ということで、558年創建というから途方もなく長い歴史を誇っている。9世紀にバイキングの侵略によって焼失、11世紀に再建、塔も1014年に建てられたものだというから、恐ろしく古いものなのだ。

 教会本体の方はゴシック様式で改築が施されているが、塔はゴシックの時代以前のもので、シャルトル大聖堂の南塔と似ているのは時代が近いためだ。教会の高さが19メートルというから、その倍としても38メートルの高さしかない塔である。下から4分の3の高さまで垂直に立ち上がり、その上に鐘楼が造られていて、さらにその上に二等辺三角形の屋根が聳えている。尖塔部分の高さは8~9メートルくらいだろうか。

サン=ジェルマン=デ=プレ教会の塔

シャルトルの南塔

 窓や扉口はゴシック教会と違って、半円形の穏やかな形をしていて、パリ大聖堂やシャルトル大聖堂の尖塔アーチ型とはまったく違っている。外貌には枯淡の味わいがあり、過剰なものは何もない。もちろんフライング・バットレスも付属してはいない。

 塔は6角錐になっているように見える。シャルトルの南塔の8角錐よりもさらに質朴な感じを与える。またシャルトルの南塔は二等辺三角形の基部から頂点までの高さがはるかに勝っていて、40メートル以上あるように見える。従って二等辺三角形の頂部の角度は、サン=ジェルマン=デ=プレ教会の塔の半分ほどしかない。

 恐怖感を感じさせるほどの鋭角を持って空に聳える南塔はだから、ロマネスク様式の穏やかさを湛えているとは必ずしも言えないのである。やはり凶器のように天空を切り裂いているというイメージがある。

 一方北塔は典型的なゴシック様式で、建物の基部から全体の約3分の2あたりまで垂直に駆け上がり、その上に鐘楼を構え、さらにその上に南塔の角度よりもさらに鋭角な尖塔部分を乗せている。燃え上がる炎のように見えるところから、フランボワイアン様式と呼ばれている。この塔の形が尖塔部分を除いて、私が今回の旅で見たサン・ジャック塔にそっくりなことに気がついた。

 サン・ジャック塔は私の好きなシャルル・メリヨンの〈吸血鬼〉という作品の像の向かって左側に遠望される塔である。昨年パリ大聖堂を訪れ、メリヨンがモデルにしたキマイラの像を写真に撮る時に、撮影位置を間違えて像の裏側に追いやってしまったあの塔である。

 今回の旅でサン・ジャック塔それ自体を見てみたかったのだが、パリ市庁舎を訪れた時にその目的をかなえることができた。この塔もまたフランボワイアン様式で造られたもので、過剰な装飾彫刻が四角柱の塔の周囲一面に施され、確かにまるで燃え上がっているように見える。この塔はサン・ジャック公園の中にあって、天辺まで登ることができるのだが、冬期間は公園が閉鎖されていて近寄ることもできなかった。

 おそらく教会の一部が残ったものだろうと思っていたが、後で調べると16世紀初めに立てられたサン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会の鐘楼部分だったのだという。フランス革命時に教会は破壊され、19世紀半ばに改築されたのが現在のサン・ジャック塔なのである。

 サン・ジャック塔では至るところにガーゴイルがその異様な姿形を突き出している。それはシャルトル大聖堂の北塔でも同じことで、雨樋としてのガーゴイルが何故必要とされたのかがよく分かる。シャルトルの南塔にそんなものがないのは、ガーゴイルを付けても雨は8角錐の斜面を流れ落ちるだけで、意味がないからだ。

サン・ジャック塔

シャルトルの北塔(北側から見る)

 ガーゴイルはやはりゴシック建築の垂直性が要求する仕組みなのだ。雨が建物の石と石の間の漆喰を溶かしてしまうのを防ぐために、雨を建物から離れたところに落とすように考えられた仕組みだが、やたらと装飾彫刻の多いフランボワイアン様式の塔には欠かせないものであっただろう。

 私はサン・ジャック塔の美しさに時を忘れて見入ってしまったが、シャルトルの北塔の美しさもそれに勝るとも劣らないものであった。フランボワイアン様式の塔は、ゴシック建築の精華と言ってもいい建築要素だと私は思う。

 

 

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シャルトル大聖堂の崇高美(5)

2020年01月07日 | ゴシック論

 こうして大聖堂の周囲を一回りして西側正面に戻り、そこにたくさん残されている彫刻の数々を見ようとしていると、一人のフランス人が近寄ってきて、何ごとか説明してくれる。こちらはフランス語を聞き取れないので、何を言っているか分からないが、これらの彫刻の素晴らしさを私に伝えたいのであるらしい。

 左側の中央の扉口の方を指さして「モーゼ」がどうのこうのといっているのが、かろうじて聞き取れたので、ここにモーゼがいて、こちらに○○がいてと解説してくれているのだということが分かる。そのうちに……ストリュクチュール・トレ・フィンヌ……とか言って、細い柱を指さすので、近寄ってみるとその柱には他の太い柱には見られない、微細な彫刻が施されているのが見て取れた。

 まるで象牙細工のような細かく、装飾的な彫刻が柱一面に刻まれている。そんな細い柱が両側に数本ずつあるのだが、一本を除いて長い年月のためだろう、ほとんど風化してしまっている。12世紀当時の職人の腕の見せ所であったのだろう。およそ900年もの間、風雨に耐え昔日の面影を残す貴重な彫刻と見た。

 正面の彫刻群は初期ゴシック美術の特徴を残す、フランス随一のものだというが、聖書に詳しくない者には、それらがどんな意味を持っているのか分からないし、扉口と言っても高さが数メートルもあり、ドーム状になっている弧帯といわれる部分の彫刻は肉眼ではよく見えないし、タンパンの下の楣(まぐさ)といわれる部分の彫刻もなんだかよく分からない。

 パリ大聖堂を見学した後で、私は建物の外貌については触れたものの、彫刻についてはガーゴイルとキマイラ達以外のものには触れていない。というよりもそれらについて何も言うことができないのである。当然彫刻もまた、ゴシック建築の重要な構成要素であるにも拘わらず、私はそれについて語る資格を持っていない。

 ただし、たとえば中央扉口の柱に刻まれている8つの人像円柱が、北と南のそれと比較して明らかに違っているのを見てとることはできる。北と南の扉口の人像円柱は、実際の人体のプロポーションに忠実に造られているが、西正面のそれは全く違う。それは現実の人間ではあり得ない10~12頭身に造られていて、異様に細長い形状をしている。

 下部楣の部分を見ると、そこにはキリストの12使徒像がレリーフに刻まれているが、こちらは逆に6頭身くらいの寸詰まりの姿をしている。必ずしも像を実際の人間よりも細長く高貴に見せようという意図があるのではなく、建築上与えられたスペースに応じて人像は長くなったり、短くなったりしているのだと思われる。下部楣の12使徒像はその上のキリスト像に圧迫されるかのように短くなり、柱の人像は高い柱の構造に引っ張られて長身になっているというわけだ。

 南北の扉口の人像円柱ではそのようなことは起こっていない。それらは実際の人間のプロポ-ションを堅持していて、柱の高さに呼応するために台座が西側正面のものよりかなり高くなっている。これはやはり時代が進むと共にリアリスティックな造形が求められていったということなのだろう。

 しかし、現代の我々から見て面白いのは、人間のプロポーションを崩してまでも柱の高さに合わせようという、当時の職人の素朴な意志である。あるいはそれは職人ではなく設計者の意志であったかもしれないが、いずれにせよ人像円柱はアルカイックなイメージを湛えて、現代の我々を魅了するのである。

 

西側正面扉口と人像円柱

北側扉口と人像円柱

 馬杉の本によれば、それらの像は1194年の大火をくぐり抜け、「16世紀の宗教戦争、18世紀のフランス革命、20世紀の二つの大戦」などの災禍を免れて、今日なお生命を保っているのである。パリの大聖堂がフランス革命で大きな破壊を被ったのとは大きな違いである。

 

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シャルトル大聖堂の崇高美(4)

2020年01月06日 | ゴシック論

 三層構造になっている側面を見上げると、最初の層の上に回廊が巡らせてあり、そこを何人かの人が歩いているのが見える。そういえばシャルトル大聖堂もパリ大聖堂と同じように、塔に登る見学コースがあったはずだ。北塔の下から登るらしいから後で挑戦してみよう。113メートルもあるあの塔に登るのは、高所恐怖症の私にはできそうもないが、回廊を巡るくらいはできるだろう。

 連続するフライング・バットレスの先に、直角に交差する建物の部分が見えてくる。ここの2層3層部分には細い列柱が並んでいて、垂直性を際立たせている。ここは十字架の張り出し部分であって、パリ大聖堂にはこの張り出し部分がほとんどない。いわゆる袖廊の出っ張りがないのだ。

袖廊の張り出し部

 それに対してシャルトル大聖堂の場合は、かなり袖廊が張り出していて、南側の扉口も北側の扉口も、パリ大聖堂のように平坦ではなく、かなりの奥行きを持っている。かえって正面の扉口よりも奥行きがあるかもしれない。正面の扉口に勝るとも劣らないほどの彫刻が施されているのはそのためである。

 古いのは正面の方の彫刻で、こちらは13世紀前半に新造されたものというが、そこに大きな違いがあることを一周して正面に戻った時に知ることになる。扉口を過ぎると教会の後部ということになるが、このあたりの造りもやたらと厳めしい。まるで城塞のような造りになっていて、とても教会とは思えないほどである。

 外陣に回るとパリ大聖堂との違いがもう一つ見えてくる。パリ大聖堂の外陣は完全な半円形を描いていて、グロテスクなフライング・バットレスに守られながらも、優美な曲線を描いているが、シャルトル大聖堂の場合はそうではない。三つの小さな礼拝堂の小円と長方形の聖ピア礼拝堂が半円形の部分から突出していて、凸凹な造りになっている。しかも小さな円を太い柱が数本覆っているために、ほとんど円形の曲線が原形を留めていない。ここにも大聖堂の無骨な造形を認めることができる。

外陣

 外陣を見上げるとフライング・バットレスの構造がよく分かる。シャルトル大聖堂のフライング・バットレスはパリ大聖堂のように長くもなく、斜めのスロープ型をなしてもいないし、その下にアーチ型曲線を描いてもいない。曲尺のように直角に曲がった造作が二重に重なっているのである。内側にアーチ型形状は見られるものの、パリ大聖堂のような長くて優美な曲線的構造は何処にも見られない。

 外陣全体を見てもほとんどフラットな部分は存在せず、柱やフライング・バットレスが突出していて、円形の曲線やアーチ型を覆い隠しているように見える。一見継ぎ足しに継ぎ足しを重ねたごちゃごちゃした構造にさえ見える。

外陣のフライング・バットレス

パリ大聖堂の外陣とフライング・バットレス(火災前)

 私は扉口の彫刻についてはまだ何も言っていないが、彫刻を除いた建物全体のイメージは無骨で、男性的で、威圧的なものだと言うことができる。これをゴシック建築全体のイメージとして捉えることはできるが、いずれにしてもパリ大聖堂と比べても曲線的な要素はほとんどなく、優美とは言い難いイメージに充ちていることは間違いないところだ。

 無骨といい、グロテスクといい、男性的といい、威圧的といいながらも、そこには一貫して強く感じないではいられないある種の〝美〟があって、それをエドマンド・バークの言う〝崇高〟の観念と結びつけずに済ますことは難しい。つまりそこには〝崇高美〟があるのである。バークは崇高の観念と美の観念を截然と分かつことを前提に議論を進めているし、〝崇高美〟などという言葉を使っているわけでもないが、バークの言う崇高の観念が美のそれに変貌する一瞬があるのであって、それこそがエドマンド・バークの切り拓いた美学の到達点なのだと言わなければならない。

〝崇高〟という要素について言えば、それはパリ大聖堂よりもはるかに多くシャルトル大聖堂にあると言える。我々はシャルトル大聖堂の調和の美や、優雅な美に心打たれるのではなく、その崇高の美にこそ心打たれるのである。大聖堂の外側を一周して私が抱いたイメージも、それについて考えた結果も全てはそこに結びついている。シャルトル大聖堂の崇高美というタイトルを付けた理由はそこにある。

 

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シャルトル大聖堂の崇高美(3)

2020年01月05日 | ゴシック論

 ゴシック大聖堂のほとんどは二つの塔を持っているが、それもパリ大聖堂のように同型の塔を戴いているものがほとんどである。大聖堂ではないが今回パリで見た、サン・シュルピス教会も円筒形の二つの同じ塔を持っていた。なにせ左右対称形であることは、建物の安定したイメージにとってこの上もなく重要な要素であり、教会がもともと十字架の形をしているとしたら、そこにもまた左右対称形へのこだわりが認められる。

サン・シュルピス教会の二つの塔

 そんな中でシャルトル大聖堂だけは、左右の塔の大きな違いによって左右対称性を破っている。元々そういう意志があってそうなっているわけではなく、1194年の火災で南塔が焼け残り、その後ゴシック建築として再建された時に北のゴシック塔を新築したのではあれ、結果として左右対称性を損なっているのは明白である。

 ユイスマンスはそのことについて何も言っていないが、馬杉宗夫はその『シャルトル大聖堂』の中で、二つの塔の〝調和の美〟ということを言っている。いかにもそんな言い方は褒め殺しの一種なのであって、そのような美意識こそ歪んでいると言わざるを得ない。

 一つはロマネスク様式で装飾のない幾何学的で素朴な塔であり(今回パリで見た中ではサン=ジェルマン=デ=プレ教会の一本の塔がそれに似ていた)、もう一つは装飾彫刻と小さな尖塔で満艦飾に飾り立てられたゴシック様式の塔(これをフランボアイヤン様式というらしい)で、この二つは明らかに建物全体の調和を損ねている。見るものはそこに居心地の悪さを感じないではいられないし、そうした齟齬がシャルトル大聖堂正面の大きな特徴をなしていることは明らかではないか。

サン=ジェルマン=デ=プレ教会のロマネスク様式の塔

 そんな居心地の悪さは、二つの途方もなく高い塔の威圧感を増大させることはあっても、減少させることはない。むしろ時代の違う二つの塔を併置させておくという思想の中には、安定感を損ねてもかまわないという姿勢が見て取れるし、聖母マリアに捧げられた教会であるのに、少しも優しさを感じさせない、この大聖堂独自の美学を読み取ることができる。

 正面の彫刻は後回しにして、南塔の方から左廻りに回ってみよう。これはパリ大聖堂の時とは逆方向の廻り方を意識的にやってみたのである。パリ大聖堂の時には正面のゴシック建築とは思えない、優美だが重苦しいイメージが180度変わるという体験をしたのだったが、今度の場合は正面からして十分にゴシック建築の特徴を備えているから、側面に回ってイメージが覆るようなことはない。

 南側の側面に回るとすぐにあのフライング・バットレスのこれまた無骨で威圧的な姿が目の前にせり出してくる。パリ大聖堂の場合と違って正面から側面、後陣に至るまで建物を至近距離で眺めることができるから、眼前にフライング・バットレスのグロテスクな姿形が迫ってくるのである。

 シャルトルのフライング・バットレスは、パリ大聖堂のような長いアーチ型構造ではなく、短くて太い構造になっている。その基部も階段状の造りになっているのは同じとしても、パリのそれよりもずいぶんと太い。それ自体グロテスクではあるものの、パリ大聖堂の優美さをシャルトルのそれはまったく持っていない。天井の高さの違いが影響しているのだと思うが、フライング・バットレスに掛かる圧力の違いを感じさせる。

 とにかく大きなブロック状の石の塊が階段状に積み上がって、その先端が建物を支えているのが、もろに見える。ここにも私はのしかかってくるような威圧感を感じてしまったので、ガイドブックの言う〝世界でもっとも美しいゴシック建築〟という讃辞に疑問さえ感じたのである。明らかにシャルトル大聖堂の外観は男性的な無骨さに支配されている。

シャルトル大聖堂のフライング・バットレス基部

 エドマンド・バークはその崇高と美の観念を、男性的原理と女性的原理に還元して考察したが、シャルトル大聖堂の外観には女性的な要素はまったくない。正面の巨大な刀身を思わせる尖塔といい、側面のフライング・バットレスの無骨さといい、後で見ることになる後陣のグロテスクと言うべき姿も、すべてが男性的原理に支配されているのである。

 

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シャルトル大聖堂の崇高美(2)

2020年01月04日 | ゴシック論

シャルトル大聖堂西側正面

 

 まず、至近距離から(と言ってもあまり近すぎると二本の尖塔が頭上にしか見えなくなるので、前庭の真ん中くらいから)西側正面を眺める。なんと言ってもあの二つの塔、南側のロマネスク様式による鋭角の二等辺三角形を形づくる素朴な塔と、北側のたっぷりと装飾を施したゴシック様式による塔の高さに圧倒されないわけにはいかない。

 ユイスマンスが『大伽藍』の冒頭で、暁闇の中におぼろに姿を現していく、二つの塔を凝視する場面が思い出される。次の引用はその直前の描写である。

 

「デュルタルがやや視線を落として、今度はまっすぐ自分の前のあたりを凝視すると、煙るような薄明を透して、数箇の巨大な刀身、柄も鍔もない、切っ先へ向かって先細になったいくつかの刀身が、早くも見分けられた。濃霧のような闇を切り裂いて、途方もない高みに直立するそれらの刀身は、沈彫にせよ、浮彫にせよ、よほど不安げな、ためらいがちな手に刻まれたものと見えた。」

 

 ここでユイスマンスが刀身に譬えているのは二つの巨大な塔のことではなく、その下に林立する中型の尖塔のことに違いない。二つの巨大な塔は刀身に譬えるにはあまりにも巨大すぎ、あまりに高すぎるのだ。しかしユイスマンスは、シャルトル大聖堂の前に立った時に感ずる圧倒的な威圧感をよく表現していると思う。私に見えたのは凶器のように威圧的な巨大な刀身のような、二つの石の尖塔であった。

新旧二つの塔を見上げる

 

 そこにはパリ大聖堂の正面とは大きな違いがある。中央の三つの扉口も、その上の先の円くなった縦長の窓も、さらにその上のバラ窓も共通しているが、二つの塔が全く違っている。パリ大聖堂の二つの塔は、下から上まで同じ幅を保って、先端は平らになっているが、シャルトルの二つの塔はまさに尖塔であって、上空に行くほど細くなっていって、ついに天空に消失する瞬間を迎えるのである。

 ゴシック建築がその昇高性を特徴とするならば、正面の塔は天空に駆け上がっていく尖塔でなければならない。ユイスマンスは「どんな塔にせよ、先細の鐘楼を持たぬ塔は、天空に翔け上がることはできない」と言い、次のようにパリ大聖堂の双塔を貶めている。

 

「パリの聖母堂の塔を検討してみるがよい。鈍重で、陰気で、ほとんど象みたいに肥えている。ほぼ上から下まで苦しげな開口部を穿たれたこれらの塔は、ようやくのことで立ち上がりながら、重い体躯がすぐ背伸びをやめてしまう。」 

 

 パリ大聖堂の正面が威圧感を与えないのは、あの鈍重な双塔のせいなのだ。その高さもまた比較を絶していて、パリの双塔は63メートルしかないのに、シャルトルの南塔は105メートル、北塔に至っては113メートルの高さを誇っているのだ。

 高さというものはそれだけで威圧的な圧力をもたらすものである。私のような高所恐怖症の人間には、高いところに登ればそれだけで恐怖の原因となるのだし、高い建物を見上げればその上に立った時の恐怖を想像しないではいられないからだ。

 しかもそれが石で造られているということが、威圧感の大きな要因となる。ゴシック建築の昇高性は物質としての石の存在を忘れさせてしまうといわれるが、私にはそんな風には感じられなかった。あんな高いところまで石を積み上げるという事実そのものが畏怖するに足るものであり、石の存在感、重量感がどうして私に威圧感を与えないことがあろう。

 とにかく私にとってのシャルトル大聖堂の第一印象は、威圧感に溢れる建築物と言うに尽きるものであった。

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シャルトル大聖堂の崇高美(1)

2020年01月03日 | ゴシック論

 12月7日から20日までパリに行ってきた。今回の目的の一つはシャルトル大聖堂を訪れることだった。そのためにシャルトル行き高速鉄道(TER)の始発駅である、モンパルナス駅近くにホテルを確保したのだった。ところがフランス全土で交通機関のストライキが5日から始まり、地下鉄はほぼ全面ストップ、鉄道も間引き運転でシャルトルへ行けるのかどうか、行っても帰ってこれるのかどうかも分からない状況であった。

 17日の日に一日空き時間ができたので、この日に行くことに決めたのだが、ガイドブックには30分に一本と出ているのに、午前に1~2本、午後に2~3本しか運行していない。しかも運行時間が毎日変わるので、もう出たとこ勝負で行くしかないと心を決めた。

 パリは昨年に続いて2回目で、パリ近郊の都市にはヴェルサイユとサン=ジェルマン=アン=レーに行っているが、どちらも地下鉄からの延長(RER)でチケットの買い方も分かりやすい。しかしシャルトルはパリから100キロもあるところで、TERで行くしかないし、チケットの買い方もよく分からない。

 ガイドブックには駅の窓口で行き先を書いたメモを見せればいいと書いてあるので、窓口に行ってみたが、ストライキのためか閉鎖されている。あとは自動券売機で買うしかないのだが、これがさっぱり分からない。窓口が閉鎖されていた替わりに、紅いヴェストを来た案内人が大勢いたので、その一人にお願いすることにした。

 英語で「シャルトルに行きたいのだが、チケットの買い方が分からない」と言うと、その案内人は券売機まで連れて行ってくれて、操作までしてくれた。優れものの券売機でシャルトル行きの発時間とシャルトルからの発時間が表示されて、選択できるようになっている。午前9:06発、帰りはシャルトル午後2:40発を選んで、往復のチケットを購入した。

 観光客にとってストライキは辛いものがあるが、きちんと代替措置は講じてあるのである。出発のプラットホームも分からなかったので、どこか聞くと案内人はホームの入り口まで連れて行ってくれる親切ぶりだった。モンパルナス駅はプラットホームが横一列に並んでいるので、非常に分かりやすい。パリの高速鉄道の駅はみな始発駅なので、工場のような細長い建物の中にプラットホームが整然と並んでいる。有名なサン=ラザール駅をイメージしてもらうといい。

この列車に乗った

 TERの車輌は二階建てで、重厚な造りである。「遠くへ行くんだよ」という雰囲気が漂っているが、シャルトルまでの所用時間は1時間でしかない。「その車窓からは、手入れの行き届いた畑、典型的な田舎の風景、羊や放牧牛の小さな群れなどの風景画次々と変わっていく」と、薔薇十次会の案内にはあるが、全くそのとおりの風景が車窓を横切っていく。

 サン=ジェルマン=アン=レーに行った時は途中、郊外の住宅地が広がり、ときおりマンション風の集合住宅も見え、目的地近くには別荘風の一戸建ての建物がたくさんあったが、シャルトル方向にはそんなものは全くなく、ひたすら農村風景が拡がっているだけである。フランスは農業国であるし、パリを離れればほとんどが農村地帯なのだということを実感できる。

 列車がシャルトルに近づくと、目的の大聖堂が遠くに見えてくる。とにかく高い塔が特徴で、土地が真っ平らなので、遠くからでも見渡すことができるのである。駅からの距離は300メートルと確認してあるので、駅を降りて迷うことはあるまいと思っていたが、迷ってみようがないというのが本当のところだ。

車窓からのシャルトル大聖堂

周辺整備の進むシャルトル駅

 シャルトルの駅は真新しくて、駅周辺では再開発の工事が行われていた。ウール=エ=ロワール県の県庁所在地というわりには、駅舎は小さくて、周辺にはほとんど何もない。コーヒーを一杯飲んではやる気持ちを落ち着かせ、大聖堂に向かう。

広場から見る大聖堂

 駅からやや離れたところに小さな広場があって、そこがエントランスの役割を担っている。そこでまず大聖堂との出会いの写真を撮るのである。クリスマスが近いので、雪だるまの飾りなどがあって、古い寺院にふさわしくないと思うのだが、仕方あるまい。

 しばらく歩くと大聖堂の正面に出る。ここにも小さな前庭があり、周辺にはレストランや土産物屋などがたくさんあって、駅よりもこちらのほうが町の中心なのだということが分かる。古くからの巡礼の地であり、パリの街など比較にならぬ枯淡の雰囲気を漂わせた街並みが、こぢじんまりと拡がっているのである。

 

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建築としてのゴシック(31)

2019年02月15日 | ゴシック論

●ジョリス=カルル・ユイスマンス『大伽藍』⑦
 エドマンド・バークが挙げている「崇高」の観念を構成する要素は、他にも「建物の大いさ」「壮麗さ」「建物の中の光」「唐突さ」などさまざまあるが、どれもがごゴシック大聖堂が持っている性質に当てはまるもので、ゴシック・リヴァイヴァルの先導役として『崇高と美の観念の起原』が果たした役割の大きさを示していると、私は思う。
 一方、「美」の観念を構成する要素としてバークが挙げているのは、「小さい」こと、「滑らかさ」「漸進的変化」「繊細さ」などであり、それらは「崇高」の要素として掲げられたいくつかのものの反対概念に過ぎないケースが多く、それほど独創的なものではない。
 ただしここで、「美」の観念を構成する要素として挙げられているものが、ほとんどすべて女性的な要素であることを見逃すことはできない。特に「漸進的変化」としてバークが例示しているのは「女性の肩から乳房への部分」の滑らかな曲線であり、女性の肉体の美そのものである。
 つまりバークは「美」の観念の起原を、肉体的なもの、精神的なものを含めた女性的原理に求めていることになる。そして「美」の反対概念である「崇高」の起源は男性的原理に求められることになるだろうし、事実そうなのである。
 ようやくここで、ユイスマンスとシャルトル大聖堂に関する話に戻ることができる。建築物としてのゴシック大聖堂に見られるのは、男性的原理を起源とする「崇高」の観念であり、ゴシック大聖堂の信仰の形態としてのマリア信仰に見られるのは、女性的原理を起源とする「美」の観念であるという結論を導き出すことができる。
 私にとって理解しがたいのは、ユイスマンスがどのようにしてこの二つの両極端の原理を乗り越えて、回心に至ったのかという過程である。一方では建築物としての男性的原理の表れを見て心酔し、一方では、聖母マリア像に女性的原理の表れを見て、そこに回帰していくという姿は私の理解を超えている。
 それよりもむしろ、ヨーロッパ中世において男性的原理に支配されたゴシック大聖堂が、何故に女性的原理の象徴である聖母マリアに捧げられたのかという問題の方が大きいのではないかと言われるかも知れない。
 しかしそれは、歴史の問題であって、ゴシック大聖堂が民衆へのキリスト教布教のために建てられ、本来はキリスト教の要素にはなかった聖母信仰を、民衆教化のために取り入れざるを得なかったというふうに、その問題は解かれ得るであろう。そこには妥協と、折衷、異なる原理の併存があるが、「崇高」と「美」の観念が未分化であった時代を想定するならば、ことさらそのことは異とするに足りないことのように思う。
 しかし、一人の近代人としてのユイスマンスの回心の場合にはそうはいかない。もし男性的原理が優先するならば、彼はゴシック大聖堂を愛するディレッタントに留まることができたであろうし、女性的原理が優先するならば、無骨なゴシック建築よりもより優美な建築様式を好んだのではないかと思う。
 パリのノートル=ダム大聖堂はユゴーの言うように、ロマネスク様式からゴシック様式への過渡期の建築であって、ゴシック大聖堂としては例外的に、女性的な美しさを誇っているが、ユイスマンスはパリ大聖堂を〝二流〟と断じて、シャルトル大聖堂のゴシック建築としての純粋性をこそ好んだのである。
 エドマンド・バークの崇高の美学は極めて近代的な意識に貫かれている。それは近代が生んだ産物であって、中世人のよく意識し得ぬところのものであった。ユイスマンスの高踏的美学もまた極めて近代的なものであって、男性的原理と女性的原理の混交など許されるものではなかったはずである。
 ユイスマンスはカトリックへの回心にあたって、ある一線を越える。近代という境界線を越えるのである。それは幽冥の中世への自己放棄のようなものであって、何を言ったことにもならないかも知れないが、私にはそのような理解しかできないのである。
(この項おわり)

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