玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(16)

2018年06月14日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』は、一般的には幻想小説の一種とみなされていて、ゴシック小説が幻想小説の一ジャンルだとするなら、そういうことも言い得るのかも知れないが、現実的には必ずしもそうではない。ゴシック小説が幻想小説というものを一部として取り込んでいる場合もある。
 ゴシック小説のすべてが幻想的であるわけではない。私が「ゴシック論」で取り上げた作品群のいくつかは、幻想的な性格を欠いているし、世の中にはメアリ・シェリーの父親であるウィリアム・ゴドウィンが書いた『ケイレブ・ウィリアムズ』のような、社会派サスペンスと言われるような作品さえある。
 ならば幻想小説とは何か、ということを『夜のみだらな鳥』に即して考えていったらどうなるのか? 『夜のみだらな鳥』に幻想的な場面がたくさん出てくることは確かである。しかしそれは現実にはありそうもないこと、あるいは現実とは思えない怪異なことがそこでは起きているということを意味しているに過ぎない。
 たとえば《ムディート》がアスーラ博士の手術によって、血液や臓器を摘出され、体の80パーセントを失ってしまう場面、これを現実にはあり得ないことであるから〝幻想的〟と呼ぶことに一理はありそうである。しかしその手術を《ムディート》もアスーラ博士も事実として受け止め、誰もそのことを疑っていないとしたらどうだろう。
 それを〝幻想的〟と呼ぶことは可能だろうか。作中人物の誰もがそれを事実として受け止めているものを〝幻想〟と呼ぶことはできない。だからリンコナーダの屋敷の物語は〝幻想的〟な要素からまったく除外される。
 いかに現実には存在しないような畸形たちがたくさん登場しようが、《ボーイ》がそこで王子のように育てられていくという話がいくら現実離れしていようが、ドン・ヘロニモがそこで奇態な死を遂げようが、作中人物達にそれらの事実に対する〝疑い〟がなければ、それは〝幻想的〟と呼べるようなものではない。だから『夜のみだらな鳥』の主要な部分は幻想小説から除外されてしまう。
 幻想文学に対して斬新な定義を行ったのは、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』である。トドロフはこの本の中で、「幻想」とは「怪奇」と「驚異」との境界域にあるものだと述べている。「怪奇」は超自然というものがあることを認めず、起きた出来事を自然的現象へと還元する認識であり、「驚異」は超自然的現象を認め、起きた出来事を超自然に由来するものと判断する認識である。「幻想」はその二つの認識の境界域にある「ためらい」にあるというのがトドロフの議論である。
 だからあらゆる恐怖小説(あらゆると書いたが正確ではない。肉体に対する暴力への恐怖をテーマにした小説は除外する。しかし、それが対象とするのはhorrorでなくterrorではないのか)は、幻想小説であると言える。ある奇怪な出来事に対して、作中人物はそれを自然的現象に還元したらいいのか、超自然的現象と受け止めたらいいのか、判然としなくなるが、そこにこそ〝恐怖〟が生まれてくるのだからである。
 一方怪奇小説という概念がより恐怖小説と対立的なものであると想定した場合(実際にはそうではないが)、作中人物(特にその事件の謎を解く人物)が超自然的と思われる現象をさえ、自然的現象に還元するのだとすれば、それはミステリー(推理小説)につながるジャンルとなっていくだろう。
 作中人物だけではなく、読者もまたそこで重要な役割を果たさなければならない。つまり幻想小説にあっては、読者も作中人物と同時に「怪奇」と「驚異」との境界域にある「ためらい」のうちに留まっていなければならないということである。読者もまた作中の事件に対して、それを自然的に解釈したらいのか、超自然的に解釈したらいいのか、判断できないという状況に置かれていなければならないのだ。
『夜のみだらな鳥』においてはどちらの要素もないし、したがってその境界域にある「幻想」さえも存在しないと言わざるを得ない。またここでは作中人物と読者とは立場を異なるものにしている。作中人物は『夜のみだらな鳥』の中で生起する事件に対して疑いを持っていない。つまりは超自然的現象を超自然的なものとして受け止めているのに対して、読者は『夜のみだらな鳥』自体を〝虚構〟としか受け止めることができない。作者が「これは虚構に過ぎない」といっている以上それは当然のことで、そこにもこの小説が〝幻想小説〟としての条件を満たさない要因がある。
 小説の最後に《ムディート》が老婆たちによってインブンチェにされ、それによって彼女たちが聖なる存在としてのインブンチェに救いの奇跡を求める場面でも、老婆たちはそれを奇怪な行動とも考えないし、それによって起きるであろう奇跡を驚異なものとも考えていない。彼女たちに〝ためらい〟はない。
 老婆たちには奇怪な出来事を自然的現象に還元する認識もなければ、超自然的なものとする認識もない。まるで近代以前の超自然譚を読むかのようにである。一方読者の方はどちらの位置からもずれた場所に立たされている。それが『夜のみだらな鳥』の説話的構造であり、それがトドロフの言う「幻想文学」に該当しない原因となる。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホセ・ドノソ『夜のみだらな... | トップ | ホセ・ドノソ『夜のみだらな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ラテン・アメリカ文学」カテゴリの最新記事