玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジュリアン・グラック『アルゴオルの城』(2)

2016年06月25日 | ゴシック論

 まず城が登場する。ということは、まず城が描写されるということに他ならない。最初に(この小説はグラックの処女作品である)ゴシック的な建造物に対する憧憬が語られなければならないということを意味している。
 グラックは主人公アルベエルの移動を借りて、アルゴオルの城の外観からその庭へ、玄関から内部へ、階段や天井の詳細な検分の後、バルコニーに出て城を囲む森を見渡し、城に付属する塔へ、という具合に、執拗に描写を続ける。城の外観は次のように描かれる。

「正面玄関は、高い円い塔の左側に支えられて、熱い壁だけで造られ、その壁の青鼠色の砂石は、灰色がかったセメントで平らに二重塗りされていた。この建造物の最も堂々たる特色は、屋根が平屋根になっている点に由来していたのだが、これは四季を通じて雨の多い風土にはきわめて稀な特質であろう。つまり、この高い正面玄関の頂が、空に向かって、水平の、硬い一線を劃していること、あたかも火災で破壊された宮殿の壁のようであった。」

このような正確さへの拘りは、ピラネージの建築的リアリズムに通ずるものがある。後にこの小説がほとんど幻想小説としての趣を呈してくるのに対して、ここでのグラックの描写は幻想的な要素をまったく持っていない。
 引用した部分には「あたかも火災で破壊された宮殿の壁のよう」という直喩が一回出てくるだけであって、あらゆる比喩の方法を駆使して、ほとんど比喩だけで成り立っているようなこの小説の中で異質な部分でさえある。
 では、この小説はどのようにして幻想小説へと傾斜していくのであろうか?  
アルベルトが城のバルコニーに出て周囲を見渡すところ、建築物ならざるものを見るときに、この作品は一挙に直喩と隠喩のオンパレードと化す。次のように。

「吹きつける冷い強風に息もとまるばかり、風は露台を掃き、その下、二百尺のところに樹海の樹々を傾けていた。高くかかげられた絹の旗のはためく音は、船の帆にも似て真ぢかに突如として聞こえてきたのだが、その旗のもつれた襞は、踊っている影をいたるところに走らせていた。そして、白い砂利の上を埃とばかりに舞う光りのため、眼はひどく刺される。その間にも、太陽の祭典は、寂寥をきわめた地の果てにまでつづくかと思われた。」

 明らかに描写のスタイルは豹変する。比喩による表現を排し、正確を期していた描写が複雑な隠喩と直喩を駆使した描写に変わるのである。ピラネージの建築的リアリズムが、建築的夢想に変わっていくように……。
 つづくのは「墓場」の章である。そこで初めてこの小説に"人事"が介入してくるのであるが、そのことはまた後で検証しなければならない。墓場という人工的な構築物を描くに際しても、グラックの筆は隠喩と直喩を多用せずにはいない。多分墓が人事の介入する部分の大きい存在であるからだ。
 そして、吹きつける風に混じる砂埃が墓石の墓碑銘をほとんど不分明なものにしているにも拘わらず、アルベエルは一つの十字架の下に転がる墓石に、「ハイデ」の名を読み取るのである。
 ハイデとは前章で予告されているように、アルベエルの親友であるエルミニヤンが彼の城に連れてくることになっている女性の名なのである。
 早くもここで、たった三人の登場人物の一人、ハイデという女性の死が暗示されている。墓にまだ生きている人間の名を読み取るという、ゴシック小説や恐怖小説の常套的手段まで使って、ジュリアン・グラックは何を書きたいのだろうか?

 

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ジュリアン・グラック『アルゴオルの城』(1)

2016年06月24日 | ゴシック論

「願わくば、「ユードルフ」や、「オトラント城」や、「アッシャー家」の神秘劇の力強い脅威が動員されて、このかよわい調べに、彼等の因縁、彼等の亡霊、彼等の死棺が持ち続けてきた呪詛の少しでもが伝えられんことを。著者は、これらの神秘劇がいつも著者の上に滾々と注いでくれた魅惑に対し、明らかに意識的な敬意を捧げることしか出来ないであろう。」

 以上のようなゴシックへのあからさまな偏愛の言葉を読むことが出来るのは、フランスの作家、ジュリアン・グラックの『アルゴオルの城』に付された1938年の日付のある序文「読者への言葉」の末尾においてである。
『アルゴオルの城』は原題がAu château d'Argol。「アルゴオルの城で」とか「アルゴオルの城にて」と訳すべきで、岩波文庫版の安藤元雄訳では『アルゴオルの城にて』となっている。私が参照しているのは1970年の現代出版社版、青柳瑞穂訳で、このいささか苦し紛れの翻訳を使わざるを得ないことは少し残念なことである。
 ジュリアン・グラック(1910-2007)は、本国ではフランスを代表する作家の一人とされているが、日本では今日ほとんど読まれない作家である。グラックはシュルレアリスムの作家と見なされているが、しかし"シュルレアリスム小説"というものがあるとして、それがいったいどんなものを意味しうるのか私には分からない。
 アンドレ・ブルトンのシュルレアリスムが"オートマティスム"ということをテーゼとしたのであれば、"シュルレアリスム詩"というものはあり得ても、自動筆記によって書かれた小説などというものがあり得るはずもないからである。
 シュルレアリスムの理論的なマニフェストとしての意味を含んだ、ブルトンの『ナジャ』ならばシュルレアリスム小説と呼びうるだろうが、ジュリアン・グラックの『アルゴオルの城』がシュルレアリスム小説であるなどとは、私は考えない。それがいかにブルトンによって評価された小説であるとしても……。それはせいぜいのところ、シュルレアリストによって好まれた小説というくらいの意味しか持ってはいない。
 グラックの「読者への言葉」が明らかに示しているように、『アルゴオルの城』は『ユドルフォの謎』や『オトラント城奇譚』、『アッシャー家の崩壊』の系譜につながるものであって、むしろゴシック小説と呼んで差し支えないものと私は思う。
 第一にこの小説はアルゴオルという古城を舞台にしているのだし、その城は迷宮のように入り組んでいて、その迷宮が小説のプロットにおいて重要な役割を果たしているのだから。
 そしてまた、城の近くにある墓場の存在もゴシック的であって、そこに主人公のアルベエルが発見する「ハイデ」という墓碑銘が、ゴシック小説特有の"謎"を惹起し、最後にその謎が解明される(というよりも、この小説のプロットがその謎の中に収斂していくと言った方がいい)のも、ゴシック的な仕掛けに他ならない。
 さらにアルベエルが、彼の分身とも言うべきエルミニヤンの所持品の中に発見する銅版画は、ピラネ-ジの作品に似ているだろう。作者は次のように書いている。

「それはアルフォルタス王の苦痛を描いた図柄だった。途方もなく広大な寺院、その建て方が、どっしりとして、烈しく、神経的である点など、ピラネジイ(原文ママ)に似ていた。」

 またこの作品にはピラネージの《幻想の牢獄》におけるように、拷問のための機具がアルベエルによって幻視される場面もある。ジュリアン・グラックがピラネージの作品を参照していた証拠である。
 ただし、マルグリット・ユルスナールによれば、《幻想の牢獄》に描かれた機具はもともと拷問のためのものなのではないという。それは建築のための機具であって、見る者に拷問のための機具であるという錯覚を抱かせるだけなのである。しかし、ジュリアン・グラックがそこに拷問機具を見たとしても誰も責めることは出来ない。
 ピラネージの作品は直接的にはイギリスのゴシック・ロマンス発祥に影響を与えたが、フランスのゴシックにも影を落としていることも指摘される。そのことはマルグリット・ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』に見たばかりであるし、ペータースとスクイテンの『闇の国々』にも、ごく最近のものとしてみたばかりである。

ジュリアン・グラック『アルゴオルの城』(1970、現代出版社「20世紀の文学」7)青柳瑞穂訳

 

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ペータース×スクイテン『闇の国々』

2016年06月17日 | ゴシック論

 ある男にフランスのBD(bande dessinée)の代表作『闇の国々』がすごいから読んでみろ、と言われて素直に読んでみることにした。バンド・デシネとはフランス語圏の漫画のことで、原作のブノア・ペータースはパリ生まれの作家・出版業者、ジャック・デリダの伝記を書いたこともあるという超インテリである。画を担当するフランソワ・スクイテンはベルギーのブリュッセル生まれで、世界の漫画界を代表するアーティストだそうである。
 漫画を読まなくなって久しいし、漫画といえば日本のものしか読んだことがないので、非常に違和感がある。絵は綺麗だが、動きというものがほとんど感じられない極めて絵画的な世界である。吹き出しも固定的かつ定型的で、日本の漫画の複雑さとはまったく違う。絵と科白がシンクロしていない。科白は何か解説を読んでいるような気にさせられる。
『闇の国々』には二人の代表作3編が収載されているが、その中で「傾いた少女」という作品が、一番理屈っぽくなくて、情感に訴える所があり、好ましいと思った。「狂騒のユルビカンド」は幾何学的な図形に支配されていて、人物の表情まで幾何学的でついて行けない。


 もう1編「塔」という作品がピラネージの《幻想の牢獄》に関係している。というよりも、ほとんど《幻想の牢獄》の漫画化作品と言ってもよい。サンプルに掲げた画は(漫画の一こまを引用することは許されているから、ここは引用ということでお許しを)、まったく《幻想の牢獄》そのものであるし、主人公の名はジョバンニ・バティスタというので、言うまでもなくジョバンニ・バティスタ・ピラネージへのオマージュを読み取ることが出来る。
 ジョバンニ・バティスタは誰もその全貌を知ることのない、巨大な石の塔の下部に住む修復士(老朽化した石の修復を行う技術者)である。塔下部の崩壊の危険を危惧し、いつまでもやってこない巡察使に業を煮やして、地階を探りに出掛ける。
 しかし、「下に降りようという強い願いが、しばしば人を上へと導くことになる」(第2章のタイトル)という理由で、ジョバンニは塔を登り始めるのである。そこにはピラネージの《幻想の牢獄》からの引用がしきりに行われ、ピラネージ風の階段や石組みのアーチ、石につたう植物や装飾的な石像まで描かれている。
 ジョバンニはド・クインシーが夢想したように階段を登っていくだけではなくて、石にへばりついて垂直の壁面を登り続ける。この上昇への止むに止まれぬ希求こそ、ド・クインシーが《幻想の牢獄》に読み取ったものであり、《幻想の牢獄》が我々のうちに喚起するものに他ならない。
 ペータースは多分、ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』に引用されているド・クインシーの文章を読んで触発されたのであろう、正しく《幻想の牢獄》の基調を捉えていると思う。
 だからこの「塔」という作品は上昇する物語となる。どこへ導かれるとも知れぬ、世界そのもののような牢獄の塔の頂点目指して、ジョバンニ・バティスタはひたすら登っていく。それは塔の秘密を探るためでもあり、塔によって構成された世界そのものを理解するためでもある。
 しかし、彼の期待はことごとく裏切られ続け、それでも彼は無益にも塔の頂点目指して登っていく。このあたり、ペータース自身が言っているように、カフカの『城』を思わせる部分であり、この塔という作品は、様々な文学作品や絵画作品を寄せ集めたつぎはぎのような印象を与える。
 ピーテル・ブリューゲルの《バベルの塔》の引用まであって、これはバベルの塔の崩壊の物語でさえある。つまりは《幻想の牢獄》と《バベルの塔》を融合させて、創り上げた物語とも言えるのだ。
 そこにもう一つSF的なタイムトラベルの要素が混入してくる。上に登るほど時代は新しくなっていく。中世からルネッサンスまで、そして近代から世界の崩壊の時代へ。世界を理解するために塔を登り続けるジョバンニは、最後には決定的に裏切られるというわけである。
 いささかペダンティスムが鼻につく作品であるが、ピラネージの夢想の裏に隠された希求(ド・クインシーにとっては隠されてなどいないそれ)を描いた、意欲的で良質な作品であるとは思う。でも、私はもう『闇の国々』を読むことはないだろう。

ブノワ・ペータース=作、フランソワ・スクイテン=画『闇の国々』(2011、小学館集英社プロダクション)古永真一、原正人訳

(この項おわり)

 

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マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』(2)

2016年06月16日 | ゴシック論

《幻想の牢獄》第2版 7図

 ド・クインシーの文章を長々と引用したのにはわけがある。私はこの文章を読んだとき、ド・クインシーの描き出すイメージがあまりにも鮮明であるために、作品の中に階段を登る複数のピラネージの姿が本当に描かれているのだと思い込んでしまい、《幻想の牢獄》の一枚一枚をつぶさに見るという体験を強いられたのである。
 当然ながら、ピラネージ本人の姿が作品の中に描かれているというようなことはない。ド・クインシーの記憶が間違っていたのか、コウルリッジの記憶が間違っていたのか分からないが、版画集のタイトルさえ「夢」と間違って記述されている。
 しかし、階段を登っていくピラネージのイメージ、そしてさらに上方の階段にもう一人のピラネージがいて、さらに上を目指して登っていくというイメージは、間違いなく《幻想の牢獄》が見る者の内部に喚起するものである。私は現物を見たわけでもないド・クインシーの想像力に驚嘆の思いを禁じ得ない。
《幻想の牢獄》の視点は水平からやや上方を見上げる位置を取っている。いくつもの階段が縦横に張り巡らされて、上へ上へと見る者を誘導していく。しかもそれには限界がない。一つの丸天井がこの建築物の境界を画するかと思いきや、その奥にさらに高い丸天井が覗いている。また、迷路のように配置された階段こそが、見る者を上方へと誘うもっとも重要な装置となっている。
 ユルスナールは次のように書いて、《幻想の牢獄》のもたらす無限感に言及しているが、それはもっぱら横の空間への広がりを想定していて、ド・クインシーが観察したような上方へと向かう無限感とはなっていない。

「中心を奪われたこの世界は同時にどこまでも拡張しうる世界なのだ。格子のはまった通気孔のあるこれらの広間の背後に、創造しうるあらゆる方向に、推定された、あるいは漠然と推定しうる、まったく類似の空間がつづいているのではないかとわれわれは疑う。石の廊下や階段をあちこちでだぶらせている軽やかな歩道橋や空中の跳ね橋は、可能なかぎりあらゆる曲線や平行線を空間に投げ出そうとする同じ配慮に応えるもののようだ。自分自身の上に締め金をかけたこの閉ざされた世界は、数学的には無限なのである。」

「自分自身の上に締め金をかけたこの閉ざされた世界」という言葉は正確である。ユルスナールはそこにゴシック的な閉鎖空間を見ているし、それは「黒い脳髄」という隠喩を呼び寄せもするだろう。そして「数学的には無限である」という言葉もある程度は正しい。閉鎖空間としての脳髄は、物理的には境界を持っているにも拘わらず、その内部に無限の世界を孕むことも出来るからである。
 しかし、ユルスナールはド・クインシーが現物を見てもいないのに、そこに読み取った垂直の方向への無限感を掴み損ねているように思う。牢獄は上へ上へとどこまでも続いていく。この牢獄は"塔"となるべく、どこまでも増殖を続けていくのである。
 ド・クインシーの最後の言葉に注目しよう。「――これと同じ果てしない成長と自己増殖の力を帯びて、私の夢の建築は進んだ」という言葉は、阿片吸引者たる自分に起こった夢想について語っていて、それがピラネージの夢想とまったく同じものであることを主張している。
 ド・クインシーは先の引用に続けて、「病いの初期には、私の見る華麗な夢は、事実、主として建築的なものであった」と書いている。ド・クインシーの夢が建築的なものであった以上に、ピラネージもまた建築的夢想によって《幻想の牢獄》を構築したのである。
 だからユルスナールが解釈するように、ピラネージの夢が必要以上にロマン主義的なものであったとは思われないのである。
 ところで、次ぎに紹介するのは、ピラネージの上昇する夢を正確に捉えたフランスの漫画作品である。
(この項おわり)

 

 

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マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』(1)

2016年06月15日 | ゴシック論

ピラネージ《幻想の牢獄》第2版 1図 

マルグリット・ユルスナールによれば、"ピラネージの黒い脳髄"ということを言ったのは、ヴィクトル・ユーゴーであったという。この言葉はピラネージの膨大な作品のなかで、22歳の時に製作された《幻想の牢獄》にこそ当てはまるもので、ユルスナールは1961年に出された《幻想の牢獄》の復刻版のために書かれた文章にこのタイトルを付けたのであった。
 ユルスナールは《幻想の牢獄》シリーズ14作品(第2版では16作品)を、ピラネージの作品の頂点にあるものと見ているが、本当にそうなのだろうか。銅版画家としてのピラネージの技量は他の作品、《ローマの景観》や《ローマの古代遺跡》にこそ遺憾なく発揮されているのだし、第一に22歳という若年で製作された作品が、最も優れたものだというようなことがあり得るのだろうか。
 しかも、《幻想の牢獄》シリーズは、トマス・ド・クィンシーが『イギリス阿片吸引者の告白』(多田智満子訳では『阿片飲みの告白』、野島秀勝訳は『英吉利阿片服用者の告白』)で書いているところによれば、「この画家が熱病で錯乱状態にあったとき見た幻想を描いたもの」だという。
 ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』を読むと、ローマの遺跡にはマラリア蚊がたくさん棲息していて、遺跡を訪れる者にとって大きな危険となっていた(デイジー・ミラーもまたそれによって死ぬのである)そうであるから、ローマの遺跡を描くことに生涯を賭けたピラネージもマラリアにやられたのであったかも知れない。
 ユルスナールが《幻想の牢獄》をピラネージの最高傑作とするのは、それがローマの遺跡を描いた具象的リアリズムによってではなく、完全な夢想によって評価されるべきものであるからなのである。つまりそれは、ロマン主義的な考え方であって、ゴシック小説の創始者である、ホレース・ウォルポールもウィリアム・ベックフォードも、主にこの《幻想の牢獄》の影響を受けて彼らの小説を書いたのであった。
 そのような評価が今日通用するのかどうか、私は問うてみたいのだが、そんなことを論じる力はないので、ユルスナールの評価に対する疑問だけを提出しておく。
 もっと大事なことがある。なぜユーゴーが"ピラネージの黒い脳髄"という言葉を使ったのかということにそれは関連している。ユルスナールはまったくそのことを書いていないが、ピラネージの《幻想の牢獄》だけが廃墟の"内観"を描いているということである。
 ピラネージの主要作品《ローマの景観》や《ローマの古代遺跡》などのほとんどは、廃墟の"外観"を描いているのに対して、《幻想の牢獄》だけが"内観"を描いているという事実はもっと注目されてよい。必ずしも幻想=内観、現実=外観という等式が成立するわけではない。ピラネージの《ローマの古代遺跡》に彼の幻想的資質を見ないですますことは許されないことだろう。
 しかし決定的な違いは幻想的であるか、リアリスティックであるかというところにあるのではない。内観を描いているか外観を描いているかという、形式的な違いにこそ本質的な相違がある。そして、内観によって捉えられるものが、人間にとって(個としての人間にとって)第一に"脳髄"でることは、疑うべくもない事実ではないか。
 そのことをトマス・ド・クインシーは、詩人コウルリッジからの伝聞だけで書いたのであったが、そのユルスナールも認めている《幻想の牢獄》についての「最も美しい英語のテクスト」を書いたド・クインシーの天才的な感性については、いくら強調してもしすぎることはない。
 その文章を野島秀勝のいささか古風な訳文によって紹介しておくことにしよう。

「ずっと以前、ピラネージの『羅馬古蹟集』(『ローマの古代遺跡』のこと)を見ていると、傍に坐っていたコウルリッジ氏が、同じ画家の『夢』と題された一連の銅版画の話をしてくれた。それは画家自らが熱病の譫妄状態で見た幻の光景を記録したものだという。その連作の中には(私はコウルリッジ氏の話の記憶から書いているだけなのだが)、広大なゴシック様式の館が描かれ、その床の上にはありとあらゆる種類の機械や装置、車輪、綱索、滑車、梃子、投石具等々が
置かれていて、いずれも途方もない力が発揮され、それに耐え遂には潰え去った抵抗の名残りを如実に物語っていた。壁づたいに這っていくと、一筋の階段があるのに気づく。その階段を手探りしながら登ってゆくのは、ピラネージその人だ。さらにもう少し階段を登ってゆくと、突然ぷっつりと切れていて、手摺りもない。この突端まで昇りつめたピラネージにはもう進める一歩の階段もない。進むとすれば、眼下の深淵に真っ逆さまの憂き目に遭うよりほかはない。哀れなピラネージはどうなるのか。いずれにしても彼の労苦はどうやらここで終わりを告げることになるに違いない。いや、いや、目を上げてもっと高い所にある第二の階段を見てみ給え。そこにはまたもやピラネージがいる、この度はそれこそ深淵の直ぐ縁に立っているではないか。さらに眼を高く上げてみ給え。またまた空中高く一筋の階段が懸かっている。そして、またもや哀れなピラネージが上へ上へと憧れ登ろうと懸命になっているのだ。上へ上へ、終には未完成の階段とピラネージは、諸共に館の天井の暗闇に呑まれてしまう。――これと同じ果てしない成長と自己増殖の力を帯びて、私の夢の建築は進んだ。私は雲の中でもなければ、覚めている眼には断じて見えないような壮麗な都市や宮殿を見た。」

マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』(1985、白水社、アートコレクション)多田智満子訳

トマス・ド・クインシー『英吉利阿片服用者の告白』(1995、国書刊行会、「トマス・ド・クィンシー著作集Ⅰ」所収)野島秀勝訳

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バルガス・ジョサ『水を得た魚』(6)

2016年06月12日 | ラテン・アメリカ文学

 リョサは『水を得た魚』の自伝部分で、政治活動への目覚めが、ジャン=ポール・サルトルのアンガージュマンの思想の影響によっていたことを告白している。実は私も高校生の時に、サルトルの著作を多数読み、政治へと煽動された人間の一人である。
 サルトルは「飢えた子供の前で文学は無力だ」と言ったが、こうした考え方を突き詰めれば、飢えた子供に食糧を与えることが出来るのは政治以外にあり得ず、文学はまったくの無価値だという思想に行き着く。
 確かに私も文学を通して政治に目覚めていった人間である。当時世界の思想界に君臨していた知識人であったサルトルが、そのような流れを先導したのである。文学は無価値であり、アンガージュマン(政治参加)こそ必要な行動であるとサルトルは言った。
 しかしこの考え方は間違っている。政治というものが究極的には暴力に行き着く(戦争がその最終段階)のだとしても、それが言葉によって行われる行動であることは否定できない(戦争でさえ、暴力に附随する言葉の影響を受ける)。文学もまた言葉によって(言葉によってのみ)行われる行為に他ならない。ならば政治が優位におかれ、文学が劣位におかれなければならない理由などあり得ない。
 ただし政治の言葉が短期の射程しか持たないのに対して、文学の射程が長期の射程を持つものであるから、目先のことしか考えることが出来ない人間にとっては、どうしても政治の言葉の方が有効であるかのように思われてしまうだけだ。
 また、文学の言葉が広く一般に受け入れられるものであるとは限らないのに対して、政治の言葉はポピュリズムの戦略によって多くの大衆に届くという違いもある。だから多数派工作にのみ重要性を求める者は、その有効性において政治の言葉が優位にあると錯覚するのである。ファシズムが民主主義から生まれたという歴史的事実もそこに原因が求められる。
 だから、文学の言葉が政治の言葉の劣位にあるなどという考え方は、とうてい受け入れることのできないものである。サルトルの思想は政治を優先するために、絶えず文学者に対して脅迫を与え続けることになる。文学は居心地の悪いものとなり、いつでも「こんな無意味なことをしていていいのだろうか」という不安の意識を文学者に与えることになる。
 このような考え方は、いつでも文学を政治のために奉仕させようとした、共産主義の思想と何ら変わるところはない。ソ連や中国そして日本でも、共産主義とその党はそうした役割を果たしてきた。それが結局は、文学というものを死滅させ、人間から自由な表現を奪う元凶となったのである。
 若い時にはサルトルの思想に大きく支配されていたリョサも、いつしかサルトルの考え方を軽蔑するようになっていく。だから1987年にリョサが政治活動を開始したとしても、それはサルトルの思想に影響されたためではない。
 むしろペルーの外にいても、故国ペルーの政治状況が気になってならないという、一種の"愛国心"(それはナショナリズムとはまったく違うものだとリョサ自身言っている)によるものであっただろう。
 リョサは政治の言葉が文学の言葉より優位にあるなどという迷妄を信じたことのない作家であった。1990年に26編で出した『嘘から出たまこと』に、2002年に10編を加えて増補改訂版を出したことにも、その証拠は見て取れる。
 この本の序文は2002年の日付を持っていて、大統領選挙敗北後、リョサが文学の言葉に対する信頼についてもう一度確認したかったのだ、ということを窺わせる文章である。リョサは小説の言葉の力への信頼を語る。

「確かに19世紀――トルストイ、ドストエフスキー、メルヴィル、バルザック、そしてフローベールの世紀――は小説の世紀と呼ぶにふさわしいが、20世紀とてこれに劣るわけではない。様々な言語と文化的伝統を背景とした小説家達のなかには、すでに物語文学の最高峰まで登りつめた作家と張り合えるだけの野望、妄想にも似た大胆さを備えた者たちがまだ残っていたのだ。本書で取り上げたわずかばかりの作品を見れば、文学の未来をめぐって悲観的な予言が飛び交うなか、神殺しの民たる小説家はいまだ健在で、歴史の不備を補うべくいつも機会を窺っていることがよくわかるだろう。」

"神殺しの民"というのは、創造者に代わって言葉による創造を行う者と理解していい。リョサは『嘘から出たまこと』の巻頭を飾る最初のエッセイの末尾にも、フィクションとしての小説について感動的な言葉を書き記している。それについて論ずるのはまた別の機会にしたいが、それが1989年の日付を持っていることからも、大統領選のさなかでさえ、リョサは文学の言葉への信頼を失っていなかったのだということを指摘するに止めておきたい。

「フィクションはそれ自体、体制やイデオロギーに支配された人間の在り方を厳しく問い質し、その問題点、人の満足を妨げる不備を赤裸々に暴く。だからこそ人を従順に手懐けようと迫る権力への抵抗力として機能する。自由から生まれた文学の嘘は権力の嘘を明るみに出す。今後もフィクションは、その役割を担って、策略を張り巡らせるに違いない。」

マリオ・バルガス・ジョサ『嘘から出たまこと』(2010、現代企画室)寺尾隆吉訳

 (この項おわり)

 

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バルガス・ジョサ『水を得た魚』(5)

2016年06月11日 | ラテン・アメリカ文学

 アルベルト・フジモリは大統領就任後の1992年4月6日、テレビで声明を発表し、議会、裁判所、憲法裁判所、国家司法評議会を閉鎖し、憲法を停止して、政令による政治を行うと宣言した。"自主クーデター"と呼ばれるものである。リョサはこの事態について絶望を込めて次のように書いている。

「こうして12年の独裁政権を経て、1980年にようやく回復されたペルーの民主主義体制が、わずか2年前に大統領選挙で当選し、しかも1990年7月28日の就任式では憲法と主権国家の遵守を誓った男によって、再び踏みにじられることになった。」

 政治の世界では政治家の誓いや約束など鴻毛より軽いのである。権力を握りさえすれば、過去の約束など守られる必要はない。政治の世界に信義など不要である。権力と暴力を使って体制を維持することだけが至上命令であって、自余は何の価値もない。
 安倍政権が国民に対する約束を破ってまで、消費税増税の再延期を決めたのも、アベノミクスの失敗を覆い隠して、直近の参院選に勝利し権力基盤を揺るぎないものにするためなのであって、国民のためを思っての"新しい判断"などでは決してない。
 アルベルト・フジモリは強権的な政治を推し進め、2000年には三選を禁ずる憲法解釈を強引に変えてでも三たび大統領選に出馬したが落選、その後軍による民間人殺害への関与などの人権侵害と汚職の罪で逮捕・収監されることになる。
 リョサが言っているのはこのことである。いかに父と娘は違う人間であるとはいえ、娘が「大統領になったら、父に恩赦を与える」とまで言っていたのだから、二人は一蓮托生なのである。
 リョサがケイコ・フジモリの当選を阻止するために何をやったのか知りたいところだが、多分スペインの地にありながら、ペルー国民や海外在住のペルー人に対して、「ケイコに投票するな」と呼び掛けるなどの行動は行ったのであろうと思われる。
 ところで、『水を得た魚』というのは極めて逆説的なタイトルではないか。スペイン語はまったく分からないが、原題はEL PEZ EN EL AGUAだから、"水の中の魚"くらいの意味で、直訳に近いだろう。
 まさかバルガス・リョサが、政治の世界において"水を得た魚"のように、存分に自らの能力を発揮したなどという意味を込めたはずはない。どう考えてもこのタイトルは、政治という自分にはふさわしくない世界に誤って足を踏み入れ、無駄な努力を強いられてしまった自分自身への皮肉を込めたものとしか思えない。
 メキシコの詩人、オクタビオ・パスは決選投票の2年前、リョサの政治参加に反対したという。パスは政治活動に足を踏み入れることの不都合について、「知的仕事とは両立不可能、独立心の喪失、職業政治家の操作、やがて訪れる挫折、人生の数年を浪費した徒労感」などを指摘したのであった。
 決選投票時にパスは、一転してビデオレターでリョサへの支持を表明することになるが、リョサはすぐに、オクタビオ・パスの最初の忠告が正しかったことを思い知らされる。リョサは書いている。

「だが、このわずか数カ月後には、オクタビオの最初の反応がいかに的を射たものであったか、そして、この第二の反応(リョサへの支持)がペルーの現実を前にいかにあっけなく崩れ落ちてしまうものか、思い知らされることになった。」

『水を得た魚』には、前途に大きな期待を抱いてペルーの空港からヨーロッパに向けて飛び立つ場面が二回ある。一つは文学への夢を胸に、ヨーロッパ留学へと出発する若き日の場面。もう一つは大統領選に敗れ、再び文学にすべてを賭ける決意でヨーロッパへ向かう場面である。
『水を得た魚』とは、本当はこの文学の世界にこそ生きる場所を求め、そこで自由に能力を開花させるリョサのことをこそ意味しているのである。そうでなければ救いがないではないか。

 

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バルガス・ジョサ『水を得た魚』(4)

2016年06月10日 | ラテン・アメリカ文学

 ペルー大統領選決選投票の結果がようやく出た。開票率100%でクチンスキー候補がケイコ・フジモリ候補を約4万票リードということで、クチンスキー候補の勝利が確実となった。ところで、ペドロ・パブロ・クチンスキー氏はリョサの大統領選出馬時の「経済担当顧問の一人」ということで、『水を得た魚』にも登場する人物である。リョサもようやく安堵の胸をなで下ろしていることだろう。
 ところでリョサは、1990年の大統領選について『水を得た魚』の第18章「汚い戦争」で、ペルーにおける選挙のおぞましいあり方を暴露している。当時の大統領のアラン・ガルシア率いるアプラ(アメリカ革命人民同盟)による、リョサに対する誹謗中傷にはすさまじいものがあったようだ。
 リョサが印税をごまかして税金逃れをしているというデマもその一つ。本の印税は作家に対して、あらかじめ天引きされた金額が支払われるのだから、税金逃れなど不可能に近いというのに……。また「私は変態、ポルノマニアという扱いを受けた」ともリョサは書いている。その根拠とされたのは『継母礼賛』という官能的な小説であるが、決してそれは汚らしいポルノ小説などではない。
 また、反無神論キャンペーンにも強力なものがあった。多分リョサは無神論者であると私は思っているが、当時は選挙対策で"不可知論者"を自称していたという。それでもリョサは、とくにプロテスタント系の福音主義者からの猛烈な攻撃を受けた。
 ことは言論だけではなく、暴力行為にも及んだ。リョサによれば「ペルー史に刻まれた伝統的手法――石、拳銃、棍棒――に回帰したアプラは、刺客集団を差し向けてわれわれの集会に攻撃を仕掛け、参加者を蹴散らかそうとした」と書いている。
 そんな中で、アルベルト・フジモリという誰も知らなかった人物が台頭してくる。彼は最初の頃、ろくに政策論議も出来ないような人物であったらしい。リョサはフジモリと既成権力との関係について、次のように見ていた。

「選挙の最終段階で現れたフジモリは、アプラと左翼勢力にはまさに天の恵みであり、両者とも、政権運営能力などあるはずもない候補者に大統領職を任せる危険すら顧みることなく、全力で彼の支持にあたることは間違いなかった。」

 つまり、アルベルト・フジモリは、アラン・ガルシアの傀儡であったのであり、リョサを追い落とすためには願ってもない人物であったわけだ。
決選投票が加熱して、リョサの支持者達が「マリオはペルー人」「ペルーにはペルーの大統領を」という人種差別的な声を上げ始めた時、リョサは「白人だろうがインディオだろうが中国系だろうが黒人だろうが日系だろうが、ペルー人に変わりはない。私もペルー人なら、フジモリもペルー人だ」と言って、そうした発言を諫めたという。
 しかし、フジモリはリョサの発言に感謝するような人物ではなかった。彼は人種問題を選挙戦の戦術として使ったのである。ペルーでは富が集中する白人に対する怨嗟と逆差別が横行していて、フジモリはそれを利用して、白人に対して(リョサも白人とみなされていた)有色人種系の団結を呼び掛け、それに成功したのであった。
 選挙戦は政策論の闘いではなく、人種間の闘いに堕してしまう。フジモリはペルーの貧困層に支持されたというが、それは彼らが政策論を理解せず、フジモリの繰り出すポピュリズム的な戦術に乗ってしまったからだとリョサは分析している。
 政治におけるポピュリズムの影響力は、この頃から表面化していたのだ。フジモリは今日アメリカ共和党大統領候補に指名された、ドナルド・トランプのように、自分が既成の政治家ではないことを強調して大衆におもねり、人種ナショナリズム(方向は逆だが)を煽り立てて自身への支持を集める。デマゴークのポピュリズム戦略である。
 こうしてリョッサは決選投票に敗北し、ペルーの政治状況に対して絶望を深めていくことになる。

 

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バルガス・ジョサ『水を得た魚』(3)

2016年06月09日 | ラテン・アメリカ文学

 まだペルー大統領選の決着がつかない。開票率は99%を越えているというのに、まれに見る大接戦である。それに郵送投票分や海外投票分の開票が遅れているらしい。リョサもやきもきしているだろう。
 リョサが政治に足を踏み入れるきっかけとなったのは、当時のアラン・ガルシア大統領が行った「国内すべての銀行、保険会社、金融機関を「国有化」する」という演説であった。リョサはこの国有化政策について次のように書いている。

「誰もが軍事独裁政権時代(1968-1980)を思いだし、当時大々的に行われた国有化政策――ベラスコ将軍の体制が始まった時には七つしかなかった国営企業が、その末期には二〇〇近くに膨れ上がった――が、ただでさえ貧しかったペルーを現在の極貧国へ追いやった過程を振り返ってみずにはいられなかった。」

 リョサは、かつてのハイチのようにラテン・アメリカ世界における最貧国に成り下がったペルーのためには、「市場開放」「競争原理の導入」「起業の奨励」が不可欠であると考えていた。アラン・ガルシア大統領の国有化政策は、それに逆行するものであり、リョサは黙っているわけにはいかなかったのである。
 リョサはすぐに「全体主義へ向かうペルー」という文章を新聞紙上に発表するが、その時は大統領の方針が国民に支持されるだろうから、「私が反対したという証拠を残しておく」、その程度にしか考えていなかったという。国民に対して大きな期待は持っていなかったのである。
 しかし、その後の展開はリョサの予想をはるかに超えるものであり、各地で大統領の国有化政策に反対するデモや抗議集会が組織されていった。妻のパトリシアはリョサが政治の世界に足をつっこむことに反対していて、「しまいには大統領に担ぎ上げられるわよ。文学とこの快適な生活を捨てて、ペルーで政治家になるつもりなの? 今に痛い目に遭うだけよ」と言ったという。
 パトリシアの予言はことごとく的中していく。リョサは大統領候補に担ぎ出され、ペルーを変えるために大統領になることを決意し、最後は政治の世界のおぞましい部分を嫌というほど見せつけられた挙げ句に、アルベルト・フジモリとの決選投票に敗れるのである。
『水を得た魚』の主要なテーマは、もちろん大統領選に他ならないのだが、決してリョサの意図は対立候補のアルベルト・フジモリを攻撃することにだけあるのではない。三年間にわたる大統領選挙の過程で露呈してくる政治の暗部をこそリョサは描きたいのである。その意図はエピグラフに掲げられた、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の一節に示されている。

「原始的キリスト教徒ですら正確に理解していたように、世界は悪霊に支配されているのであり、政治に首を突っ込もう、すなわち、権力と暴力を手段として用いようとすれば、悪魔と取引せざるを得ないのだから、政治的活動において、善行が善を生み、悪行が悪を生むなどということはなく、むしろ往々にしてその逆が起こるものだ。そんな理屈もわからないものは、政治的に幼稚すぎると言わねばなるまい。」

 リョサは明らかに、マックス・ウェーバーの「そんな理屈もわからないものは、政治的に幼稚すぎると言わねばなるまい」という言葉に、自己批判を込めているのである。リョサの政治行動は完全に無私の行動であったし、善意の行動であったが、政治の世界では善意が善を生むとは限らないのである。
 リョサは大統領選一時投票で、過半数の票を獲得するに至らなかった段階で、一旦決選投票を辞退する決心を固めている。決選投票になれば、反リョサ陣営が結束してフジモリ支持に周り、敗北することが目に見えていたからである。
 そして、決選投票を降りることを条件に、フジモリに自分の政策を実行してもらうことを約束させれば、ペルーのためになると考えたのである。リョサの目的は自分が大統領になることそれ自体にあったのではなく、自分が訴える政策が実行されてペルーが豊かで自由な国になることなのであった。
 政治の目的が"権力を手にすること"にあるのだとすれば、リョサの目標は政治的なものとは縁遠いものであった。そして、だからこそリョサは敗北したのである。

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バルガス・ジョサ『水を得た魚』(2)

2016年06月08日 | ラテン・アメリカ文学

 まだペルー大統領選の決選投票の決着がついていないようで、気が気でない。開票も残り少なくなり、元首相のクチンスキー候補が僅差でケイコ・フジモリ候補をリードしているようだが、予断を許さない。リョサもスペインの地で息を詰めて見守っていると思う。
 さて、寺尾隆吉が編集・翻訳した『疎外と叛逆~ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話』に、ある会合でリョサがガルシア=マルケスの顔面を殴ったというエピソードが紹介されている。そうした行為に及んだ理由をリョサは明らかにしていないが、その以前から政治的な見解の相違が表面化していたことを寺尾は指摘している。
 そのきっかけとなったのは1971年3月にキューバで起きた「パディージャ事件」であったという。寺尾隆吉は次のように書いている。

「革命政府を挑発するとも取れる創作を続けてきた詩人エベルト・パディージャを拘束し、茶番とも言えるような自己批判を公開の場で強制したキューバ政府に対して、バルガス・ジョサやフエンテスが反対声明に与する一方、ガルシア・マルケスやコルタサルはカストロ体制支持へと傾いていくことになる。」

 この事件を直接のきっかけとしたのかどうかは判断できないが、キューバ革命を礼讃していた若き日のリョサはもうそこにはいない。革命を標榜するカストロ体制も、この頃には偏狭な独裁政権に堕していたわけである。
 かつてソ連のスターリン体制に対する評価がヨーロッパの知識人の試金石であったように、この事件を通してのカストロ体制に対する評価が、ラテン・アメリカの知識人の試金石になったのである。
 言うまでもなく私は、リョサやフエンテスを支持するし、ガルシア=マルケスやコルタサルの態度は、教条主義的な左翼思想に対する幻想の産物でしかないと思う。ガルシア=マルケスは『戒厳令下チリ潜入記-ある映画監督の冒険』を書いて、チリの独裁者ピノチェト将軍を批判したが、ならば作家の自由な表現を許さないカストロ政権をも同様に批判しなければならないはずである。
 それに対してリョサの態度は一貫している。リョサは左翼政権であろうが、反動政権であろうが、独裁政治というものに対して一貫して抵抗してきた。それは彼の小説にもよく表現されているし、独裁的権力を振るったアルベルト・フジモリに対する批判にも、今回のケイコ・フジモリが大統領に就任することへの強い懸念にも現れている。
 しかし、ラテン・アメリカ世界は各国で強圧的な独裁政治を経験し、それに対する抵抗の姿勢として左翼思想が根強く生き続けている。ペルーもそうであったし、キューバは半世紀以上にわたってカストロ政権が続いている国である。
 だから現在のリョサの反左翼的な考え方が、ラテン・アメリカの左翼的知識人から見たら、反動思想そのものに見えてしまうということはあり得るだろう。あのウルグアイ人のミュージシャンが「リョサは逆卍だ」と言ったのも、そのような意味を持っていたのだと、今の私は思う。
 それはかつての日本において、しかも戦前・戦後の二度にわたって、文学というものが日本共産党に支配されていた時代に、日本共産党を批判する文学者がことごとく「革命に抵抗する反革命」の名の下に断罪された事情によく似ている。
 そのような事情が今でもラテン・アメリカ世界では生きているのだろう。しかしそのような構図は、北朝鮮や中国のような国が自分にとって都合の悪い知識人を「反革命分子」として処断するのと何の違いもない。
 そのような政治的ご都合主義は永遠に棄却されるべきであるが、政治の世界は中国や北朝鮮に限らず、そうした欺瞞に溢れている。
 では、なぜリョサはそのような政治の世界に足を踏み入れたのであったか?

『疎外と叛逆~ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話』(2014、水声社)寺尾隆吉訳

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