玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(14)

2018年06月11日 | ラテン・アメリカ文学

 しかし逆に、そこにこそドン・ヘロニモの不徹底と、すべてを他人まかせにする不遜があったと言うべきであろう。ドン・ヘロニモはそのことに対する罰によって事故死することになるのだ。それはまたリンコナーダの屋敷が崩壊していく物語でもある。
 ウンベルト・ペニャローサはアスーラ博士によるドン・ヘロニモとのペニス交換手術から逃れるために、リンコナーダの屋敷を脱出する。秘書であるウンベルトの逐電を知ったヘロニモは「すべてを精算しよう」とするが、五歳になった《ボーイ》の「心を占めている冥府的な状態」(つまりは外部というものを持たず、畸形と正常という概念すらないリンコナーダの屋敷が強制する無知)に満足して考え直す。
 ヘロニモはウンベルトの代わりに、彼の従妹エンペラトリスとアスーラ博士に「万事をゆだねる」ことにする。しかしそのことがエンペラトリスに嘘に嘘を重ねた報告を、ヘロニモにするようにし向けていく。崩壊の始まりである。次は《ボーイ》自身の逐電。《ボーイ》は五日間屋敷の外をさまよって帰ってくるが、「いまでは、ぼくはなんでも知ってるんだ」
とまで言うようになっている。
《ボーイ》を冥府の状態に止めておくという計画はすでに破綻している。《ボーイ》の帰還を知って、ドン・ヘロニモは息子に会うために、リンコナーダの屋敷にやってくる。しかしエンペラトリスの心もすでにヘロニモから離反している。エンペラトリスはヘロニモに面と向かって次のように言う。

「わたしたちの畸形に盛り立てられて、それであなたの子どもも、王様でいばっていられるのよ。わたしたちはただの道具、極彩色の垂れ幕、書き割り、ボール紙のお面、仮面なのよ。」

 また「あの父親は、ただ創造したというだけの理由で世界の王だと信じている」とも思っている。ドン・ヘロニモはリンコナーダの屋敷においては造物主でさえあったわけだが、しかし怠慢な造物主であった。世界を造ったばかりで、その維持管理のすべてを他人任せにしてきたからだ。
《ボーイ》はついに父親の裸の姿を目撃することになる(《ボーイ》と面会する者はすべて裸になることを義務づけられている)。その後に起こることはファルスと言うにはあまりにも残酷な事態である。父親の正常な姿態が《ボーイ》の目には、世にもおぞましい畸形と映る。《ボーイ》の反応はこうだ……。

「《ボーイ》は、回廊の突き当たりのヘロニモの姿を認めると、十歩ほどへだたった場所まで彼の方へ進んだ。そして、この化け物を喰い入るような目で見つめながら、しばらく冷静に観察した……まさか! 考えられない。……《ボーイ》は顔を蔽った。くるりと後ろを向き、困惑と苦痛の叫びをあげながら屋敷の奥まで逃げこんだ。奴を連れだせ! ここに置くな! エンペラトリス、あの化け物は、いったいなんだ?」

 このようにドン・ヘロニモは彼自身が打ち立てた怪異の美学、そして《ボーイ》に対する教育方針そのもののしっぺ返しを喰らうのである。
 この場面に続くヘロニモの一人称で語られる長いパッセージは、『夜のみだらな鳥』の中でもとりわけ緊張感に満ち、いくつかある頂点のひとつとなっている。ドン・ヘロニモの優越感や誇りが、畸形たちによって惨めに打ち砕かれていく場面が、池の水鏡や仮面舞踏会のイメージを伴走して続いていき、ついにヘロニモは、ディアナ神(これも畸形の像であるほかはない)の池で水死を遂げる。

 これは畸形たちによる造物主殺しの物語に他ならない。そこで《ボーイ》が主役を務めるのであればそれは神殺しであり、父親殺しの物語でもあるということになる。これでドン・ヘロニモの位置が《ボーイ》によって確定されたものと考えるがどうか。
《ボーイ》はその前に、五日間の放浪の記憶と、父親の記憶を消去する手術を、アスーラ博士に頼むのだが、彼歯生きることへの興味を失ってしまっているのだ。

「外に五日間いて、ぼくは生きることへの興味を失った。ある詩人が言っているよ。『生きる? 生きるだと? なんだ、それは? そんなことは代わりに召使いにやらせておけ、』って。あんたたちはぼくの召使いだ。あんたたちは、ぼくが生きることを拒絶したものを生きるんだ。現実を知ったいまでは、ぼくは人為的な世界にしか興味がない。」

 ある詩人というのはヴィリエ・ド・リラダンのこと。『アクセル』の項で紹介した有名な言葉である。こんなところで出てくるとは思わなかった。

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(13)

2018年06月10日 | ラテン・アメリカ文学

 ドン・へロニモのこのような〝美学〟は、そのままホセ・ドノソの〝美学〟として読まれる必要がある。それを〝美学〟と名付けてよいならの話だが。しかし、醜悪を怪異と次元の違った概念のもとに置き、怪異を美と対立しながら拮抗する概念とみなすというような議論はどこかで聞いたことのあるものだ。
 ゴシック小説に影響を与えたとされるエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』での議論がそれである。バークは彼の時代まで混同されていた崇高と美の観念を峻別し、崇高の観念を畏怖や恐怖と結びつけて捉えた。バークによれば〝醜の美学〟のようなものさえ成立可能である。バークは次のように言う。

「私はまた醜が崇高の観念と充分に両立しうると想像する。しかし醜それ自体は、それが強い恐怖を呼び起こす性質と結びつかぬ限り崇高な観念であると私は思わない。」

 この議論をドノソ風に言うならば、醜悪はそれ自体崇高とはまったく別のものであるが、それが恐怖と結びつくときに、それは怪異という形で崇高なものとなると。そして崇高と美とは、バークの議論の中では対立しつつ拮抗する観念なのである。バークの〝崇高〟という言葉はドノソでは〝怪異〟と言い換えられているが、言わんとするところは同一である。
 ところでドン・ヘロニモがこのような異端の美学を唱えているということには、どうしても違和感が残る。ホセ・ドノソはドン・ヘロニモに代表されるアスコイティア一族のブルジョア的精神に対して批判を繰り返しているのに(それはウンベルト・ペニャローサのドン・ヘロニモに対する敵愾心として表現されている)、なぜ『夜のみだらな鳥』の中でももっとも怪異かつ崇高な美学を体現している、リンコナーダの屋敷の設計をドン・ヘロニモに負わせなければならないのか。
 ましてや《ボーイ》の教育方針についての徹底した転倒ぶりも、ドン・ヘロニモの考えに則っているのである。それは次のようなものである。

「ところで、《ボーイ》の世話や教育にあたるあのエリート、一級の不具たちを相手に、ヘロニモがしなければならない微妙な仕事があった。それは、異常な畸形であることが他人の侮蔑や同情の対象となるべき劣等な状態ではないことを、彼らに納得させることだった。」

 そしてドン・ヘロニモは、次のようなほとんど高邁とも言うべき畸形の美学を打ち立てるのだが、それはドノソの批判にはまったく晒されてはいない。ヘロニモはそこで、ブルジョア的俗物として振る舞うのではなく、ドノソ自身の思想の中で思考している。

「正常な人間が反応できるのは、ただ、美から醜にまでわたる通常の階梯で、これは言ってみれば、同じひとつのものの微妙なニュアンスの差でしかない。ところが畸形はちがう、とドン・ヘロニモは、その信念で彼らを鼓舞するつもりか、熱をこめて主張した。畸形は、素朴なカテゴリーとしての美や醜の観念を排除する独自の権利と規範を持った、特権的な別の種である。怪異とは本質的に、上のふたつの性質が合一させられ、最大限にまで高められたものだからだ。」

 リンコナーダの屋敷の物語を、ドノソのブルジョア社会に対する風刺に満ちた批判だとする評者もいるが、私はそうは思わない。ここにはドノソの既存の美学に対する徹底した戦略的転倒があり、そのような転倒によってこそドノソはブルジョア社会に対峙する。
 でドン・ヘロニモの位置が気になるのである。これだけの転倒の美学を打ち立てながら、ヘロニモはどうしてリンコナーダの屋敷を、ウンベルト・ペニャローサ(そこでは彼は《ムディート》と呼ばれない)に任せて近づこうとせず、年に一回の報告を受けるだけにすませてしまうのだろうか。

 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(12)

2018年06月08日 | ラテン・アメリカ文学

 一体この小説では何が事実なのであるか? 26章の冒頭にこんな一節がある。

「ウンベルト・ペニャローサなる者は存在しない。虚構である。生きた人間ではなく、単なる作中人物なのだ。」

 このような文章を読ませられて、読者はどう反応すればいいのだろうか。これと同じような言い方が、ドノソのもう一つの代表長編『別荘』には繰り返し出てくる。『別荘』では作者自身が物語に介入して、「この話は作り話に過ぎない」ということを何度も繰り返す。
 こうしたものの言い方は伝統的なゴシック小説における、物語の真実性を保証しようとする姿勢に真っ向から対立するものである。ゴシック小説や怪異譚には「この物語は私が体験したことであるから事実である」というような断り書きがよく出てくるが、18、19世紀の読者には必要であり、有効であったかも知れないそんな保証も、20世紀、21世紀の読者には必要でもなければ有効でもない。
 たとえば『夜のみだらな鳥』を読んで、ウンベルト・ペニャローサ、つまりは《ムディート》が現実に存在すると考える読者がいるはずがない。『夜のみだらな鳥』が全くの虚構でないと考える読者もまた、いてみようがないのである。
 我々は『夜のみだらな鳥』をホセ・ドノソの想像力の全面展開として読み、その奇怪な想像力に動揺させられるという体験を楽しめばいいのである。この小説の中でもグロテスクの白眉とも言うべき、リンコナーダの屋敷の物語はそのように読まれるほかはない。
 ドン・ヘロニモが畸形の息子の誕生に際して、どのように反応したかについてはすでに読んだ。ヘロニモは上院議員であり、「調和の美の模範」とまで言われる人物である。そのヘロニモが《ボーイ》のために、リンコナーダの屋敷に国中から畸形者たちを集めて隔離するなどということを行うのは、彼の生き方にとって矛盾してはいないだろうか。ドノソが嫌うブルジョワにそのような奇態な行動を起こさせていいのだろうか。
 一瞬そんな疑問にとらわれるが、しかし、リンコナーダの物語は有無を言わせぬスピードを持って展開していく。ドン・ヘロニモはリンコナーダの屋敷から「外の世界を暗示させる家具、壁掛け、書物、絵などのすべて」を運び出させ、「外部に通じるドアや窓をすべて閉め切らせた」。
 リンコナーダの屋敷は外部のない世界、「畸形が例外ではなく常態である世界」と化す。それは《ボーイ》が自分が畸形であるということを認識できない世界に他ならない。そこには正常な人間がいてはならないし、中庭の石像もまた畸形の人間の姿に作られている。
 そこでは畸形という概念もなければ、正常という概念もない。もし正常者しかいない世界があるとすれば、そこでは畸形という概念はあり得ない。そんな世界を裏返したのがリンコナーダの屋敷なのである。
 ドン・ヘロニモの基準とは次のようなものである。

「ドン・ヘロニモは細かいことまで指図した。《ボーイ》を取り巻くものは、醜かったり、賤しく下品だったりしてはならない。醜悪と怪異とはまったく別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異は、やはり美と対等の特権を与えられなければならない。デン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがその誕生の日から息子の与えたいと願ったのは、ただひとつ、怪異なるものだった。」

そして

「鼻も下顎もゆがみ、黄色い乱ぐい歯がむき出しになった畸形。巨人症の男たち。亡霊のように肌が透きとおっている白子の女たち。ペンギンの手足とコウモリの耳を頂戴した少女たち。彼らの肉体的血管はもはや醜悪の域を超えて、怪異という、あの高貴な範疇にまで達していた。」


 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(11)

2018年06月07日 | ラテン・アメリカ文学

 ドノソの退嬰的なものへの偏愛はまだまだ続いていく。特にリンコナーダの屋敷でアスーラ博士の手術を受け、80パーセントの血と臓器を摘出され、その上ヘロニモとの間でペニスの交換手術を受けるその前に逃げ出した《ムディート》を待っているのは、エンカルナシオン修道院の老婆たちである。《ムディート》は彼女たちの優しい呼びかけを聞く。

「いらっしゃい、ここへ。みんな待ってるのよ。迎えに来てるのよ。わたしたちは、何もくれなんて言わないわ。ただ、あんたの面倒がみたいだけ。やさしくしてあげたいだけ。あんたを暖かく包んでやりたいだけよ。この袋を見て。あんたを入れて運ぶために持ってきたのよ。」

 手術を受けて20パーセントの大きさの人間へと変貌するということ自体、赤ん坊への先祖返りを意味している。まさにそのように、《ムディート》はダミアナがイリスと老婆たちの赤ん坊ごっこの対象にされたのと、まったく同じ扱いを受けることになる。しかしダミアナにはペニスがないが、《ムディート》にはそれがある。

「ちぢこまったおれのペニスが老婆たちの目にさらされる。彼女たちは、それが《ムディート》のペニスだと信じている。ところが違うのだ。それは《ムディート》のおとなしいペニスをよそおっているだけなのだ。子どものおチンチンらしく見えるように、イリスの命令で毛が剃られているが、ドン・ヘロニモよ、これはあんたのだ。彼女に触れたあんたのものだ。おれは、アスーラ博士が交換手術にかかるその前に、まんまと逃げおおせたのだから。老婆たちはペニスをつかみ、スポンジで洗う。いやらしい、こんなものをあれして悦ぶ女が、よくいるわね、などと言いながらパウダーをまぶす。おいしいご馳走か何かで、これからむしゃぶりついて呑みこもうとするように。」

 ここでも少し補足が必要だ。ドン・ヘロニモのペニスが触れた〝彼女〟というのはペータ・ポンセのことで、前に紹介したイネス夫人と《ムディート》が交わる場面で、ドン・ヘロニモは間違ってペータ・ポンセと交わることで、不能に陥るのである。だからドン・ヘロニモは《ムディート》を罰するために、アスーラ博士にペニスの交換手術を命じるのである。
 ここには事実誤認がある(この小説に事実というものがあるとしての話だが)。交換手術を行っていないのなら、不能のペニスはまだドン・ヘロニモに付いているはずで、《ムディート》は健常なペニスを持っているはずだから、「これはあんたのだ。」というのはおかしい。また交換手術が行われていたのだとすると、《ムディート》にはドン・ヘロニモの不能のペニスが付いておいるはずで、これもおかしい。この小説にはこのような誤認がたくさんあるが、人物だけでなく性器もまたいつでも交換可能性のうちにあるということにして、許しておこう。
 とにかく老婆たちの慰みものとしての赤ん坊を演じる限り、ペニスは本来の大きさであってはならない。それは〝ちぢこまった〟〝おとなしい〟〝子どものおチンチン〟のようでなければならない。老婆たちは念のために《ムディート》のペニスを繃帯できつく縛るだろう。

「老婆たちはぼろ切れで作った繃帯をぐるぐる巻いて、おれを包みにし始める。まず足の先に巻く。そのあと脚に巻いて動けないようにする。性器のところまで来ると、まるで危険な動物か何かのように、きつく縛る。幼な児のそれをよそおってはいるが、おれの思いのままになることを見抜いているみたいだ。おれが隠しているものに気づかないことを祈ろう。おれの性器に繃帯を巻き終わった老婆たちは、それを太腿に縛り付ける。」

 このように《ムディート》は赤ん坊として、イリスに与えられる。赤ん坊《ムディート》は老婆たちにとっては人形のような可愛い愛玩物であるが、イリスにとってはそうではない。《ムディート》は本当の父親を親身になって捜してくれない冷たい人間であり、イリスは《ムディート》を虐待して言うことを聞かせようとする。
 しかしそれもイリスの本当の赤ん坊が生まれるまでのこと、本当の赤ん坊の代替物にしかすぎないのだ。ところが最後にとんでももないことが待っている。イリスに赤ん坊のことを聞かれた老婆たちは言う。

「赤ちゃん? 何を言っているの。あの《ムディート》が長いあいだ待ってた子どもじゃないの。ずいぶん昔のことで、この修道院じゃあ、それがいつのことだったか、覚えている者もいないくらいよ。」

 一体この小説では何が事実なのであるか。

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(10)

2018年06月06日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』は以上のようにゴシック小説として定義することができるが、ジャンル分けすることにどんな意味があるのかと問う声が聞こえてきそうだ。しかし私は、ゴシック小説の定義を与えることが、『夜のみだらな鳥』の空間恐怖と相続恐怖の構造を明らかにすることにつながると考えているし、この小説のほかの要素もこの二つの恐怖に緊密に結びついていると指摘することができると思っている。
 ほかの要素とは何か? それはこの小説の基調をなしている〝退嬰〟のイメージであって、それは『夜のみだらな鳥』の至るところに出現して、この小説のイメージを決定づけている。
 まずは妊娠したイリス・マテルーナが、父親が死刑の判決を受けて刑を執行されたらしいということを知らされて動揺し、雨の降る中庭をさまよって倒れ、老婆たちに介抱される場面から見てみよう。介抱者の中に新参のダミアナという老婆がいて、彼女は赤ん坊の真似をしてイリスの母性本能を呼び覚まそうとするのである。

「イリスは小さな腕を伸ばして、ママ、ママと言っている、恐ろしく年を取ったその赤ん坊を見つめる。無心な目で笑いながら赤ん坊は、抱いて愛撫してくれとせがむ。母親に抱かれて愛撫を受けるのが赤ん坊は好きなのだ。子どもを抱いて愛撫するのが母親は好きなのだ。ダミアナは、血管が浮いた脚――その先は節くれだっていて、まめだらけだ――をばたばたさせる。皺くちゃの汚い顔で愛撫を求める。きれいなよだれ掛かけの上に、年寄りくさいよだれを垂れる。」

 こんな調子で赤ん坊ごっこが始まり、イリスはダミアナの求めに応じて歯のないダミアナの口に乳首を含ませたり、おしめを替えたり、皺だらけの性器を拭いたり、パウダーをはたいたりする。ほかの老婆たちも一緒に嬉々として赤ん坊ごっこに耽るのである。
 この集団的退嬰行為の描写を読んで、あまりのおぞましさに吐き気を催す読者もいるだろう。ホセ・ドノソはそんなことは承知の上で描写を進めていく。その後イリスがかたわの子どもを産むのではないかという議論が始まって、ダミアナは〝かたわの子どもの現実的効用〟を説くに至るのだが、《ムディート》はそんなダミアナを内心で非難する。

「家族、母親、父親、子ども、家、扶養、食事、苦労……いいだろう、ダミアナ。そういうものを、信じたければ信じつづけるがいい。あるふれた幸福の、日々の悲しみの物語を練りつづけるがいい。一方おれは、集まって個体と化していく湯気で、無秩序な自由から生まれるあるものを形づくる。おれがそのひとりである老婆たちの意識は、そうした自在な働きをするのだ。」

これは《ムディート》の言葉であると同時に、ドノソの表現論ともなっている。ドノソは日常性におもねることなく、無秩序な自由から生まれるものに形を与えていく。ドノソが描く退嬰行為は日常性に回帰することなく、醜いものは醜いまま、おぞましいものはおぞましいまま、挑発的なあるいは暴力的な退嬰行為と化す。
 ドノソの退嬰は日常的あるいは社会的にはマイナスの価値しか持たないし、この作品をまったく社会性を欠落させたものとして、もっと言えば歴史からの退行的逸脱として位置づけることになるだろう。しかし、ドノソはそんなことにはたじろがない。ドノソはひたすらに〝無秩序な自由から生まれるあるもの〟に形を与えつづけるだろう。
 世界中から畸形たちをあつめて隔離するリンコナーダの屋敷もまた、退嬰的なイメージに染め上げられている。それもまた歴史からの退却と呼ばれなければならない。しかし、ゴシック小説というものがもともと、歴史からの退行的逸脱として、あるいは歴史からの退却として開始されたジャンルだったことを忘れてはならない。

 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(9)

2018年06月05日 | ラテン・アメリカ文学

 登場人物同士の取り替え可能性ということについては、特別に言っておきたいことがある。『夜のみだらな鳥』の中でそうしたことが頻繁に起きることは、これまで書いてきたことから理解してもらえるだろう。
 それはゴシック小説によく見られる〝分身〟というテーマとは少し違っていて、やはり人物同士の互換性、取り替え可能性というしかないあり方である。私はカルロス・フエンテスの「アウラ」という短編小説を取り上げたときに、そのことに触れている。
「アウラ」においてはコンスエロ夫人とその姪のアウラが取り替え可能な存在であり、夫人の夫リョレンテ将軍と主人公モンテーロが取り替え可能な存在である。コンスエロ夫人はアウラの中に生起し、アウラはコンスエロ夫人の中に生起する。リョレンテ将軍はモンテーロの中に生起し、モンテーロはリョレンテ将軍の中に生起する。
 彼らは分身のようで分身ではない。二つの主体として対峙することがないからである。ゴシック小説における分身が、ヨーロッパ特有の霊肉二元論に起因することは、ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』やE・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』を読むとよく分かる。分身同士は厳しく対峙し、霊と肉との分裂こそが小説のテーマとなる。
 しかし、フエンテスの「アウラ」はそのような霊肉二元論的世界をもっているわけではなく、むしろ霊肉一元論的な世界がそこにはある。そこでは分身同士が対峙したり、まして対立したりすることがない。あるいはそこには分身が存在するとさえ言えないのであって、それは「アウラ」の最後でモンテーロがアウラとベッドを共にする場面で際だっている。
 それと同じことが『夜のみだらな鳥』で《ムディート》とイネス夫人が交わる場面で言える。《ムディート》とヘロニモが互いに交換可能となり、イネス夫人とその乳母ペータ・ポンセが互いに交換可能となる。あるいは《ムディート》とヘロニモの欲望が互いに交換可能となり、イネス夫人とペータ・ポンセの欲望が互いに交換可能となる。
 だから現実に誰と誰とが性行為を行ったのかが分からなくなってしまうのである。そこに黄色い牝犬が絡んできたり、アスコイティア家の最初の物語が絡んできたりするから、さらにそれは不分明なものとなる。そうした不分明なあり方はフエンテスの「アウラ」でも共通している。
 フエンテスの「アウラ」は1962年に書かれ、ドノソの『夜のみだらな鳥』は1970年に完成しているから、ドノソの最も親密な友人であり、『夜のみだらな鳥』を完成させるために生活の面倒まで見てくれたフエンテスの「アウラ」を読まなかったはずはない。
〝分身〟がゴシック小説のひとつの要素だとしたら、フエンテスは「アウラ」で登場人物の互換性というゴシック小説の新しい要素を、初めて導入したのだったし、ドノソはそれをより複雑で規模の大きななものに拡張したのである。
 分身というテーマが近代的主体というものの盤石性を揺るがすものであるとしても、そこにはまだ主体として存立する基盤そのものは失われていない。ひとつの主体は霊から発生し、もう一つの主体は肉から発生する。だから分身同士はお互いに厳しく対峙することになるし、分身が派生する方の主体は分身に対して激しい恐怖を感じることになる。
 しかし、フエンテスやドノソの取り替え可能性の場合は、近代的主体そのものがほとんど崩壊しているとさえ言えるかも知れない。言ってみればそれは〝人間の廃墟〟のようなもので、『夜のみだらな鳥』の主人公《ムディート》こそは〝人間の廃墟〟と呼ばれるべき存在である。そして〝廃墟〟こそはゴシック小説が好んで舞台とした背景そのものなのである。
 木村榮一は「現代イスパノアメリカ文学とゴシック」で、ラテンアメリカ文学におけるゴシック的小説として、フリオ・コルターサルの『遊戯の終り』『秘密の武器』など、またカルロス・フエンテスの「アウラ」や『脱皮』『テラ・ノストラ』、そしてホセ・ドノソの『境界なき土地』や『別荘』などを挙げている。
 当然『夜のみだらな鳥』もそのリストの中に含まれているわけだが、『夜のみだらな鳥』こそはラテンアメリカ文学最大のゴシック小説であると、私は断言したい。


 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(8)

2018年06月04日 | ラテン・アメリカ文学

 ゴシック小説では過去に起きた事件が因果となって、後の物語に取り憑くという構造がよく見られるが、『夜のみだらな鳥』ではそうした構造が偏執狂的なまでに徹底している。最初のアスコイティア家の物語が因果となって、エンカルナシオン修道院の物語とリンコナーダのお屋敷の物語に憑依していくのだ。
 また私はゴシック小説の第二の条件は〝相続恐怖〟であると言った。しかもそれは血塗られ、呪われた血統への相続恐怖なのであって、だからこそ『夜のみだらな鳥』の中では、妊娠に至る性行為の場面と出産の場面とが執拗に繰り返されていく。
 ヘロニモになりきった《ムディート》がイネス夫人と交わる場面こそ執拗な繰り返しの中心にある部分である。この場面は《ムディート》の中で何度も何度も繰り返され、追体験されるが、それはアスコイティア家の最初の物語に取り憑かれた状態のもとで行われる。
 そこではペータ・ポンセと娘イネスの乳母との取り替え可能性、あるいは娘イネスと現在のイネス夫人との取り替え可能性が強調されるばかりでなく、ペータ・ポンセの使い魔である黄色い牝犬と娘イネスの乳母の使い魔である黄色い牝犬との取り替え可能性にさえ言及される。
 つまり最初のアスコイティア家の物語の要素が『夜のみだらな鳥』の至るところに、何度も何度も甦ってくるのである。以下のような《ムディート》の反芻に、そうしたことは顕著に表れてくる。

「死体を見た人間はいないけれども黄色い牝犬が死んだあの晩、リンコナーダのペータの部屋で、おれがはっきりと、おれの下で悦びの声を上げているのはイネスだと信じたその理由、それはペータがもうひとりのイネス・デ・アスコイティアの血を引いており、いわばその子孫であるということだ。もっとも、卑しい何代もの先祖の存在は、混血の呪い師めいた顔の底にあるあらゆる高貴な一族のしるしを埋めてしまったが……あの晩現われておれの下になり怪物を産むものをおれから受けたのは、若い聖女自身、若い魔女自身だったのかもしれない。」

 ここでいくつかのことを補足しなければならない。ペータ・ポンセが娘イネスの血を引いているとすれば、娘イネスは最初の物語の中で、子どもを出産していなければならない。前にも書いたように《ムディート》は、アスコイティア家の先祖がポンチョで隠したのは、娘イネスの出産の場面だったと推測しているのである。娘イネスに子どもがいなければ子孫など存在するはずがない。
 また娘イネスが聖女と呼ばれるのは、大地震が起きたとき彼女が乳母からもらった「木の枝を革の紐でくくった十字架」を掲げて、彼女が幽閉された修道院を倒壊から救ったという伝説によっている。
 またイネス夫人はこのイネスの奇跡を主張して、ローマ教会に列福の神聖を行うのだが、それがうまくいくはずもない。むしろ魔女であった乳母からもらった十字架で奇跡を行ったのであれば、娘イネスもまた魔女の奇跡を行うのでなければならない。
 本題に戻る。《ムディート》が執拗に繰り返す追体験は、小説における時間の構造を変形させる。時間は直線的に流れことをせずに、絶えずアスコイティア家の最初の物語に回帰しながら、いわば螺旋形に流れていく。
 もちろん螺旋形に上昇するのではなく、螺旋形に下降していくのであるが、このようにして『夜のみだらな鳥』は迷宮化された時間を獲得するだろう。この小説にあっては空間の構造だけでなく、時間の構造さえ迷宮としての姿を現すのである。

 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(7)

2018年06月01日 | ラテン・アメリカ文学

 その物語とは以下のようなものである。
 大地主アスコイティア家の先祖には九人の息子と末の娘がいた。猛暑、旱魃、不作などの災厄が続いた年に、娘の乳母に似た黄色い牝犬に先導された娘の顔にそっくりな「恐ろしい首が長い髪をなびかせながら空を飛ぶ」という噂が流れた。
 百姓たちは災厄の原因は娘とその乳母による魔法にあると考え、二人を魔女だとみなしていた。父とその息子たちはそんな噂を信じようとはしなかったが、ある作男の「例の黄色い犬と化け物が、その辺をうろついていますぜ!」という言葉に反応して、黄色い犬を追った。犬を見失った彼らが農園に帰ると、黄色い犬が屋敷に戻ろうとしているのを発見する。
 彼らは娘の部屋で魂の抜けた魔女と化した乳母を見つけ、窓の外で吠え立てている犬を捕まえ、半死半生の魔女の体を丸太に縛り付けてマウレ河に流し海へと放擲することに成功する。
 乳母が発見されるところで、先に紹介した父親が娘をポンチョで隠す場面がある。また例の「インブンチェ」への恐怖も魔女の体を川に流す場面に出てくる。
 後日譚として娘が修道院に幽閉されたこと、またその後アスコイティア家には女子しか生まれず、男の血統は次第に弱まり、ドン・ヘロニモとその弟ドン・クレメンテだけとなっていることが語られる。死期が迫ったクレメンテはエンカルナシオン修道院(娘イネスが幽閉され、後にアスコイティア家の所有となる修道院)に入れられ狂死するから、残るはドン・ヘロニモ唯一人である。
 この物語は簡単に言えば、魔女に呪いをかけられたアスコイティア家の血統をめぐる物語であり、娘イネスの記憶を充満させたエンカルナシオン修道院の物語に引き継がれていく物語である。
 だから、イリス・マテルーナが産むであろう子も、イネス夫人が産む《ボーイ》も、呪われた血への相続恐怖のもとにある。二人の子どもは畸形として産まれることを宿命づけられているのである。
 最初の物語に出てくる「インブンチェ」の恐怖も、黄色い牝犬も、魔女としてのイネスの乳母も、修道院の物語の中で何度も何度も変奏されるテーマであり、修道院に暮らす老婆たちも皆魔女の相貌を帯びている。そこに《ムディート》も加わって、彼もまた七人目の魔女となる。魔女としての《ムディート》は次のように執拗に、イリス・マテルーナを追い回すだろう。

「おそらく、お前はほかの孤児の女の子に気づかれないようにベッドを抜け出して、たしかめたのにちがいない、おれが毎晩のように遅くまで、ときには一晩じゅう――わたしは眠らないのだ――修道院のなかを歩きまわっていることを。最初は姿を見せずに、おれの前に立っていただけだった。おれの領分である夜の闇の一部を占めている自分をこちらに感じ取らせ、犬が臭いをつけるように、見えないお前のあとを追えと、おれに要求するだけだった。」

 エンカルナシオン修道院は魔女たちの妄想に支配された閉鎖空間であり、イリス・マテルーナは魔女たちの妄想によって懐妊するのだと言ってもよい。だからその子は畸形として生まれなければならない。そしてこれから生まれるであろうイリスの子もまた、《ボーイ》と取り替え可能な存在なのである。まずは《ボーイ》が生まれる場面を見てみよう。第九章のクライマックスである。

「やっと許しが出てゆりかごのカーテンを細目に開け、待ち望んでいた子どもを見たとき、彼はいっそ、その場で殺してしまおうとさえ思った。瘤の上でブドウ蔓のようにねじれた、醜悪きわまりない胴体。深い溝が走っている顔。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだらにむき出しになった唇や、口蓋や鼻……それは混乱もしくは無秩序そのものであり、死がとった別の形、それも最悪の形だった。」

 これがアスコイティア一族の最初の物語の一つの帰結なのである。

 

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