玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

セサル・アイラ『文学会議』(4)

2017年09月28日 | ラテン・アメリカ文学

『文学会議』にはもう一編「試練」という作品が収められている。「試練」の方は「文学会議」のような底抜けのホラ話ではなく、奇想天外ではあるがある意味シリアスな小説とも読める。
 簡単にあらすじを言えば、背が低くて太った16歳の普通の女学生マルシアが、二人のパンク少女に「ねえ、やらない?」と声をかけられ、二人と話すうちにパンク少女への共感を深めていって、共に〈試練〉を実行するという物語である。
 パンク少女の名前はマオとレーニン。ふざけた名前だが、レーニンの方は不細工で影が薄く、マオの方は絶世の美人で、マルシアはこのマオの方に惹きつけられていく。
 マオの「ねえ、やらない?」という唐突な言葉は、マルシアに対する〈愛〉の表現であって、単なる冷やかしではないということが徐々に分かってくる。マオは真剣なのだ。
 二人のパンク少女(主にマオ)との会話が続いていくが、最初は大きな齟齬があったのに、どんどんその会話がかみ合っていって、抜き差しならぬ次元に入っていく。マオは次のような演説をする。

「けれども、愛だってひとつは回り道を許す。たったひとつだ。それは行動さ。愛には説明は不用だが、いずれにしろ、試練はつきものだからだ。もちろん正確にいえばそれは時間を引き延ばすことにはならない。試練(プルエバ)だけが愛に備わるものだからだ。だからゆっくりで込み入っていても、その場ですぐになされるものでもある。試練は愛と同じほど価値があるが、同じものだからとか同等だから同じ価値になるってのじゃない。人生のもうひとつの局面についての見通しを開くものだからだ。もうひとつの局面ってのが行動だ。」

その前にマオは「根本的には暴力しかないんだ」とも言っていて、この言葉と演説とが、後半に急展開するストーリーを導いていく。マルシアは二人が「スーパーマーケットから何か盗み、それをプレゼントする」ことで愛の証明(プルエバ)を行おうとしていることを察知する。そしてマルシアは二人のパンク少女と行動をともにするのである。
 スーパーマーケット襲撃はほとんどテロのような形で実行される。二人のパンク少女は店員や客を残虐なやり方で殺し、レジの現金を奪って逃走に成功する。二人と一人とが……。

「二つの暗い人間の形が、外の広大無辺な闇に紛れて外形も見えなくなっていく……そしてまさに二人が外に出た瞬間、三つ目の影が合流した……夜の中を大きく旋回しながら逃走する三つの天体になった……南半球の子供たちなら誰もがまじないにかかったように、何が何だかわからないといった表情で眺める、三体のマリア像になった……そして三人はフローレス地区の街路の中に消えていった。」

 この最後の文章はいったい何なのだ? 三人が愛のための試練を乗り越えることで聖別されたとでも言うのだろうか? この文章を読者はテロリズムに対するほとんど賞賛の言葉として読むべきなのだろうか?
 そこのところが分からない。「根本的には暴力しかないんだ」という言葉はマオのものであると同時に、作者セサル・アイラのものであるのかどうか?
 ラテン・アメリカ文学の第三世代とも言うべき、アイラのような作家の分かりづらさはそこにある。彼等が小説を通して何を言おうとしているのか、何を主張しようとしているのか、そのあたりのことがつかめないのである。
 同じ年代のチリの作家ロベルト・ボラーニョの作品を読んだ時にも感じた〝分からなさ〟はそこにある。多分小説に作家の主張を読むこと自体が間違っているのだ。
 それでもボラーニョの場合には、『2666』のあの膨大な殺人調書、そして連続強姦殺人に対する登場人物の恐怖感といったものに、ボラーニョが感じとっている〝世界の暴力性〟というものを読み取ることはできた。
 あるいは『はるかな星』に登場するカルロス・ビーダーという、空に詩を描く飛行機乗りがなぜ同時に凶悪な殺人鬼でなければならないのか、という疑問すらも、それがボラーニョの〝世界像〟であるからという納得に落とし込むことができた。
 しかし、セサル・アイラの場合にはそれができないのである。「文学会議」についてはそれが、SF映画やホラー映画のパロディであるという読み方ができるが、「試練」の場合にはそれができない。
 小説作品に作家の主張を読むのではなく、作家が提示する世界像を読めばいいという理解は、ボラーニョまでは通用するがアイラには通用しない。かといってアイラの作品を純粋なナンセンス文学として読めばいいのだとも思えない。
 セサル・アイラはだから、ボラーニョ以上に謎の多い作家なのだ。ただし「文学会議」にしても「試練」にしても、決して不真面目な姿勢で書かれた作品ではないことははっきりと理解できる。
 日本でいえば高橋源一郎のような作家に近い(年齢もほぼ同じ)のかも知れないが、高橋のずぶずぶな漫画的世界に比べて、アイラの世界は独特なクリアーさと堅牢さをもっている。あるいはもっと言うならば、作家として求めうる〝真実〟を堅持している。
 そのことを「試練」でより強く感じることができるが、私はさらにもう一冊の邦訳作品『わたしの物語』を読んで、答えを求めてみたい気持ちに駆られているのである。
(この項おわり)

 

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セサル・アイラ『文学会議』(3)

2017年09月24日 | ラテン・アメリカ文学

 もう一度、セサル・アイラはこの小説でカルロス・フエンテスを揶揄しているのであろうか? もしそうであるならば、この『文学会議』にフエンテスの作品への批判が含まれていなければならないと思うのだが、そんなものは微塵もない。
 むしろ作品としてこの『文学会議』の好餌とされているのは、同じアルゼンチンの作家ビオイ=カサーレスの『モレルの発明』ではないだろうか。
『モレルの発明』もまた、マッド・サイエンティストが出てくるSF的趣向の作品である。この小説の舞台はウィリングス島という孤島で、そこに辿りついた7人のうちの一人、モレルという男が全員をその島で生き続けさせるために、一週間にわたって特殊な撮影を行う。
 今でいうホログラムであるが、そこに映し出された人間達は単なるイメージではなく、魂をもった本物の人間なのであるという。モレルは「われわれは永遠に生き続けるだろう」との期待をホログラムに込めるのである。
『モレルの発明』はH・G・ウェルズの『モロー博士の島』に触発されて書かれた小説で、モロー博士がそうであるようにモレルもまたマッド・サイエンティストなのだ。
 この小説には謎解きの要素ともうひとつ、この島に政治的な理由で逃げてきた語り手である主人公が、そのホログラムの一人の女性フォスティーヌに愛を寄せる物語としての要素ももっている。
 訳者の清水徹は「語り手=私がフォスティーヌに寄せる愛とは、人間関係における他者性というものをもっとも苛酷に示すかたちの愛に他ならぬ」と書いているが、私には承服できない。
『モレルの発明』のメインプロットはあくまでも、モレルの発明とその顛末であって、その謎が主人公によって徐々に解明されていくというところにあるので、それほど深遠なテーマがそこにあるとは考えられないのだ。
 また現実の存在ではない女性に対する愛というようなテーマは、ヨーロッパのゴシック小説などにで再三にわたって繰り返されてきたもので、ビオイ=カサーレスのそれが何も特別の位置にあるわけではない。肖像画に代表される現実存在のコピーがホログラムというSF的なテクノロジーに変わっているだけのことである。
問いかけても答えず、愛を寄せても応えない対象への〝不可能な愛〟は、むしろ古典的なテーマなのである。
 ボルヘスが〝完璧な小説〟と評したこの『モレルの発明』という小説の中心的プロット=マッド・サイエンティストとその発明品、それをセサル・アイラは壮大なナンセンスに解体して、笑いのめしているのではないか。
『モレルの発明』はアルゼンチンで最も成功した小説と言われていて、アイラがこの小説を意識しなかったはずはない。この小説でマッド・サイエンティスト=モレルは、主人公にとって間接的に接触する(つまりはホログラムを通して)にすぎないのに対して、アイラはマッド・サイエンティストを自分自身に擬している。
 それによってアイラは、マッド・サイエンティストのマッドぶりを最高度に発揮することを可能にしている。なにせカルロス・フエンテスのクローンを創造するという恐るべき手段を、自分自身の手に握るのであるから。
 またビオイ=カサーレスの〝不可能な愛〟のテーマも、アイラの小説にとってはまったく重要性を持たない。主人公アイラが、青春時代に一目惚れしたフロレンシアの面影を宿すアメリーナに恋し、彼女に近づくためにその親友であるネリーに接触するというようなエピソードはあるが、愛をめぐるプロットはその程度のものでしかない。
また〝愛の物語〟はアイラの小説では不可能である。なぜなら男女の愛の根本にはアダムとイヴの関係があり、イヴがアダムの肋骨から創造されたのだとすれば、イヴはアダムのクローンに他ならないからだ。クローンこそが恋の駆け引きのごたごたを解消する手だてなのだ。

 

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セサル・アイラ『文学会議』(2)

2017年09月22日 | ラテン・アメリカ文学

 アイラはアンデス山脈の山小屋に、クローン製造器を設置して万全の計画を立てる。カルロス・フエンテスの細胞を手に入れるために、クローンのスズメバチを飼い慣らし、スズメバチにフエンテスの頸のあたりから細胞を取ってこさせようというのである。
 細胞採取に成功したアイラは、後はただ待っていればよい。クローン製造器がすべてを自動的に完遂してくれるだろう。アイラは彼が書いたアダムとイヴの劇が上演される空港に向かうバスの中で次のように思いをめぐらすのである。

「計算間違いでなければ、その日の晩に私のクローン製造器はその仕事に終止符を打ち、〈天才〉が卵の殻を突き破って生まれてくるはずだった。今頃はもう創造の外皮はパンパンにふくれあがっているはずだ。夜明け時には山の頂上からカルロス・フエンテスのクローン完成版が下りてくるはずだった。」

 このグロテスクきわまりない計画は、さらにグロテスクな光景によって打ち砕かれることになる。フエンテスのクロ-ンのかわりに山頂から下りてきたのは、長さ300メートル、直径20メートルもの巨大なうじ虫の群れであったのである。
 まちはパニックに陥り、まるでSF怪獣映画のような場面が描かれていくが、明らかにこれはSF映画やホラー映画のパロディであって、アイラは大まじめでこんなことを書いているわけではない。
 で、アイラは何を間違ったのかというと、スズメバチがフエンテスの体の細胞ではなく、フエンテスが締めていた絹のネクタイから蚕の細胞を採取してきたのであった。フエンテスのかわりに下りてきたのは、巨大化した蚕の群れであったのだ。
 巨大化したのはアイラが「天才モード」で機器を作動させたからという説明が付いているが、そんなことはどうでもいい。我々はこの作品の徹底した破天荒ぶりを楽しめばよい。
 この作品はSFでいえば、マッド・サイエンティストもののスラップスティックということになろうが、これほどにばかばかしくも壮大なスペクタクルを、単なる冗談から導き出してくるのは、セサル・アイラの才能でなくて何であろう。
 ところでアイラは本当にカルロス・フエンテスを揶揄したのだろうか。実際にフエンテスもこの作品に登場していて、パニックに陥ったまちから空港に逃げてくる群衆の一人として描かれている。そのことを根拠にアイラがフエンテスをおちょくっているのだと考える人もいるだろう。
 しかし、スズメバチが間違えることなく、フエンテスの体の細胞を持ち帰っていたとしたら、山から下りてくる無数のフエンテスの姿が描かれていたはずで、これこそフエンテス本人にとっては耐えがたいものとなり得たであろう場面である。
 文学者のクローンとは一体何を意味することができるかということを考えてみるとよい。小説を書くクローンは小説を量産するのではなく、まったく同じ小説を複数書くことができるだけである。これではクローンの意味がない。肉体を使って仕事をする人間のクロ-ンなら、多くの仕事をこなせるだろうが、作家のクローンはそうはいかない。もともと作家フエンテスのクローンというものは無意味なのである。
 またその場面でフエンテスの体が巨大化していたとすれば、これはもうフエンテスに対する冒涜ともなり得たであろう。アイラの世界征服計画はスズメバチの犯した間違いによって、フエンテスに対する侮辱の意味を免れるのである。

 カルロス・フエンテスは天才であったと私は思う。セサル・アイラは1949年生まれで、私より2歳年上にすぎない。アイラもきっとわたしと同じ世代の感覚でフエンテスの作品を読んできたのに違いない。
 フエンテスは短編「アウラ」や「純な魂」によって偉大であった。また長編『澄みわたる大地』や『脱皮』、『遠い家族』や代表作『テラ・ノストラ』(半分まで征服した)によって偉大であり、天才であった。
 そしてフエンテスはラテン・アメリカ文学を世界の舞台に乗せるという文学的政治力によっても偉大であった。さらに創作に行き詰まっていたチリの作家、ホセ・ドノソの面倒を見、『夜のみだらな鳥』を完成させる陰の力になったことにおいても真に偉大な人であった。

 

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セサル・アイラ『文学会議』(1)

2017年09月21日 | ラテン・アメリカ文学

 福岡市の出版社「書肆侃侃房」(〝しょしかんかんぼう〟と読む)が出している「文学ムック たべるのがおそい」という雑誌がある。作家の西崎憲が編集長をつとめる幾分同人誌風の文学雑誌であるが、小川洋子や最果タヒ、星野智幸など有名な作家も書いているので、同人誌ではない。
 この雑誌のことを私が知ったのは、山尾悠子の新作がどこかに載っていないかと思って、その手のサイトを調べていたときだった。山尾の作品が今年4月刊の第3号に掲載されていることを知り、早速「たべるのがおそい」を取り寄せることにしたのだった。
 山尾悠子の作品についてはまた別に書くつもりだが、タイトルは「親水性について」、相変わらず硬質な文体で、高踏的な幻想の世界を繰り広げる質の高い作品である。山尾の文章は若い作家を中心としたこの雑誌の掲載作品の中で、群を抜いて際立っている。
 今回はしかし、「たべるのがおそい」第3号に載っているアルゼンチンの作家、セサル・アイラの作品のことを書かなければならない。「ピカソ」という短い作品は幾ばくかの奇想と言葉遊び、ピカソの架空の作品に対する批評と少しばかりの内省とに彩られた不思議な魅力をもった作品で、訳者である柳原教敦による注解と相俟ってこの作家に対する興味を掻き立てられるに十分なものがあった。
 柳原によれば、これまでに邦訳されているのは「悪魔の日記」という短編と中編『わたしの物語』、そして「文学会議」と「試練」という二編を収めた『文学会議』のみということで、アルゼンチンでは毎年10月になるとノーベル賞受賞をめぐって騒ぎになるというわりには、日本への紹介は始まったばかりなのである。
 アルゼンチンの作家といえば誰しもホルヘ・ルイス・ボルヘスを思い出すだろうが、ボルヘスの盟友アドルフォ・ビオイ=カサーレスも、短編の名手フリオ・コルターサルも含めて、極めて知的に洗練された作家が多い。
 ボルヘスを嫌いだったエルネスト・サバトなどは、作家であると同時に理論物理学者でもあり、ボルヘスとはまったく違った意味ではあれ、知的な作家であることに違いはない。
 セサル・アイラも「ピカソ」を読む限りでは、知的に洗練された作家という印象を受ける。とにかくアルゼンチンの作家の作品はボルヘスに代表されるように、他のラテン・アメリカ地域の作家に比べて、先住民の文化や精神性からは何らの影響も受けず、ひたすらヨーロッパと地続きの世界をもっているのである。
 ところでセサル・アイラについては「文学会議」という作品が、彼の奇想を全開にした作品であるらしいので、さっそく「文学会議」と「試練」の二編を収めた『文学会議』を読んでみることにした。
 冒頭、ベネズエラにあるという〈マクートの糸〉の謎を解いて、その先に隠された海賊の財宝を手に入れ、大金持ちになるというエピソードから始まる。しかもそれはマッド・サイエンティストたる〈私〉こと、セサル・アイラ自身の話なのだ。
 ここまで読んで私の第一印象は間違っていたかも知れないと思った。アイラは知的に洗練されたスマートな作家などではない、ほとんどホラ作家ではないかという思いに変わった。主人公であるセサル・アイラは大金を持って、ベネズエラの美都メリダへ飛行機で向かうのであるが、そこではメキシコの作家カルロス・フエンテスも参加するという〈文学会議〉が開かれようとしているのだった。
 ここから先はホラ作品どころか大ボラ作品となっていくのである。アイラの奇想はほとんど常軌を逸している。マッド・サイエンティストたるアイラは、クローン技術を使って世界征服を目論むのだが、まずは一人の天才のクローンを作って、そのクローンに世界征服の仕事を委ねようというのだ。なぜならアイラ自身はどうやったら世界征服ができるのか分からないからなのである。
 そしてその一人の天才としてアイラが選択したのが「議論の余地のない、望みうる限り完全無欠の天才」としてのカルロス・フエンテスというわけだ。
 こんなことを書かれたフエンテスが〝天才〟とおだてられてうれしく思ったなどということはあり得ない。アイラに揶揄されたと感じたフエンテスは「ひとつからかってやれ」というつもりで、「アイラがアルゼンチン最初のノーベル賞受賞作家になることを私は夢想する」と書いたのに違いない(ということはあの大ボルヘスもノーベル文学賞は取っていなかったのだ!)。
 なぜしかし、アイラは他の作家でなく、カルロス・フエンテスを選択したのか? なぜガブリエル・ガルシア=マルケスやマリオ・バルガス=リョサではなかったのか? 「文学会議」が書かれた1997年にはノーベル賞作家、マルケスはまだ健在であったし、リョサもその後ノーベル賞を受賞しているではないか。一方、フエンテスはノーベル賞を取っていない。
 それは多分柳原が解説で言っているように、フエンテスが作家としての活動以上に、ラテン・アメリカの作家たちを糾合して彼等の作品を世界中に知らしめ、ラテン・アメリカ文学のブームに火をつけた張本人だったからなのだろう。
 柳原は「フエンテスは一時期、ラテンアメリカ作家たちという軍団を率いて文学の世界を征服した最大の功労者の一人だったのだ」と書いている。

「たべるのがおそい」第3号(2017、書肆侃侃房)
『文学会議』(2015、新潮クレスト・ブックス)柳原教敦訳

 

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