玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタンダール『パルムの僧院』(1)

2019年07月31日 | 読書ノート

 古典探索のリストからスタンダールをはずしたのは、『赤と黒』を最近読み返していたということもあるが、フローベールのような今までほとんど読んだことのない作家の作品を優先したかったからである。

 しかし、『ボヴァリー夫人』を読んで、私はフローベールに幻滅してしまった(『三つの物語』で持ち直してきているが)ので、スタンダールのもう一つの代表作『パルムの僧院』を無性に読み返したくなってしまった。

『パルムの僧院』は若い時に読んで、なんといってもあの冒頭のワァテルローの戦場で、主人公ファブリスが右往左往する場面、戦場の混乱と騒擾の中に主人公をいきなりぶち込んで、揺さぶってみせる場面が鮮烈に記憶に残っている。

 そういう意味では心理小説として繊細な男女の愛情の機微を描く『赤と黒』よりも、『パルムの僧院』のほうが強いインパクトを持っていることは確かであって、どちらが名作かといわれれば、私は『パルムの僧院』のほうを挙げるだろう。

 いずれにしても、ナポレオンが敗北した最後の戦い、ワァテルローの戦場の場面だけでも『パルムの僧院』は名作中の名作に数えられるだろう。そのスピード感溢れる文章のリズム、そして戦場を俯瞰して全体を神の視点から捉えるのではなく、一主人公の視点で、混乱を混乱のまま描いていく臨場感は他に類例を見ない。

 もし似たものがあるとすれば、スタンダリアンであった大岡昇平の『レイテ戦記』の冒頭、アメリカ軍上陸部隊による艦砲射撃で、日本兵が破壊されていく場面くらいしか思い浮かばない。大岡昇平もこの場面を自分で体験したわけではなく、スタンダールだってワァテルローの戦いを自分で体験したわけでもないのに、これ以上はないくらいの臨場感で描いている。こういうところに文学の力を感じないではいられないのである。

 すべてはイタリア人貴族の子でありながらも、ナポレオン・ボナパルトを崇拝し、無謀にもワァテルローの戦いに参入するファブリスの行動から始まる。またこの小説はミラノの舞台から始まるから、ファブリスはミラノからパリ経由で、現ベルギーのワァテルローまで歩いて行ったことになる。

 それだけでも無謀だが、武器も持たず、所属する部隊のあてもなく、だれ一人知った人間もいないのに、ファブリスは戦いの渦中に飛び込んでいく。当然フランス軍の士官にも、従軍酒保の女にも馬鹿にされるだけだ。

 この従軍酒保の女が登場する場面が、最初読んだ時に強烈なイメージとして残った。従軍酒保というからには軍に雇われて商売しているのだろうが、この女は戦場を馬車で駆け回って、兵士たちのご用を聞いて歩くのである。本当にこんな女がいたのだろうか。だとすれば19世紀の戦争というものは、なんとのどかだったのだろうという感想を抱いてもおかしくない。

 そしてファブリスはこの女に馬鹿にされながらも、戦場での行動のあり方を教えてもらう。「いますぐ戦争がしたい」というファブリスを、酒保の女はなだめすかし、死体を目にして失神しそうなファブリスにブランデーを飲ませ、馬の調達まで面倒を見てやるのだ。

 戦場に紛れ込んだ子供のようなファブリス(このとき16歳という設定)に愛情を持って接する従軍酒保の女の存在から、この小説の展開が見えてくる。つまりファブリスは直情径行の純情極まりない青年であり、これから多くの女たちに愛されていくのであろうという展開である。

 とにかく、この戦場の場面でファブリスの性格が余すところなく描き尽くされていく。馬鹿と紙一重だが、誰もが、とくに女たちが愛さずにはいられない性格の持ち主なのである。『パルムの僧院』はしかし、戦争を描いた小説ではない。むしろ、イタリアの小国パルム公国における権力闘争の犠牲となって、牢獄に繋がれる青年の物語であり、三人の女性の彼に注ぐ愛情を描いた小説なのである。

 そんな小説がいきなり、ワァテルローの戦いの混乱の場面から始まるのはまったくの驚きだが、主人公を紹介する上でこの上もなく効果的だったと言えるだろう。

スタンダール『パルムの僧院』(1967、河出書房「世界文学全集」Ⅱ―3)生島遼一訳

 

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ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』(2)

2019年07月27日 | 読書ノート

 このような文章を挙げていけばきりがないが、そこから分かることは、フローベールのロマンチシズムと言っても、そこには情熱に対する過度の熱狂や、装飾的華麗さは認められないということである。

ギュスターヴ・モロー《出現》

 書かないと言っておきながら書いてしまうが、「ヘロディアス」におけるサロメのダンスの場面は確かに豪華絢爛ではあるが、ギュスターヴ・モローが描いたような装飾的な要素はないのであり、まさにフローベールがこの場面で参考にした(と言うよりもそれに触発されて書いた)、ルーアン大聖堂のレリーフのように、素朴な輪郭を保っているように思う。

ルーアン大聖堂、タンパンのレリーフ(逆立ちして踊るサロメの姿が見える)

 ところで、「素朴なひと」の主人公フェリシテのボヴァリー夫人との対照性について言っておかなければ、何も言ったことにはならない。ボヴァリー夫人は農村の出身でありながら、強い上昇志向を持ち、奢侈を好み、色欲に溺れ、まったく自制心というものを欠落させた女である。

 一方フェリシテは信仰心厚く、自分の身分をよくわきまえ、よく働き、主人につくし、主人の子供や自分の甥を愛し、主人からもらった鸚鵡をそれが死んで剥製になってからもまだ愛し続けるという、純朴な女である。

 フローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったらしいが、決して「フェリシテは私だ」とは言えなかっただろう。なぜならボヴァリー夫人に対して否定的であるからこそ、謙虚に「ボヴァリー夫人は私だ」と言えるのであって、フェリシテのように純朴な善人に対して、自分を同化するようなことができたはずがないからである。

 私にとってよく分からないことは、フローベールがボヴァリー夫人に人間的としての価値を認めていたとは思えないとしても、ではフェリシテのような純朴な人間に理想を求めていたかどうかということである。フェリシテが美徳の塊のような女であったとしても、そこには古い価値観によって認められる部分しかないではないか。

 いずれにしてもフェリシテの物語は、次々と愛する対象を失い、悲しみに暮れながらも、新しい愛の対象に向かって生きる意味を見出していく女のそれである。

 フェリシテはまず恋人に裏切られる。彼女に結婚を申し込みながらも、徴兵逃れのために金持ちの老女と結婚するテオドールの裏切りである。

 愛の対象は次に、彼女が奉公するオーバン夫人の二人の子供たち、ポールとヴィルジニー(ベルナルダン・ド・サン=ピエールの名作から採った名前)に求められる。ポールが進学してからは、フェリシテの愛情はひとえにヴィルジニーに注がれる。

 ヴィルジニーが修道院に入ることになると、フェリシテは甥のヴィクトールを呼び寄せて、今度はヴィクトールに愛情を注いでいく。しかし、水夫になったヴィクトールはハバナで病死してしまう。そして病弱なヴィルジニーに再び愛情を注いでいくが、彼女も修道院で亡くなってしまう。

 しばらくヴィルジニーの思い出にオーバン夫人とともに泣き暮らすことになるが、次に彼女の心をときめかせるのは、アメリカ生まれの鸚鵡であった。ルルという名の鸚鵡は老いたフェリシテの唯一の慰めとなるが、そのルルもまた死んでしまう。

 フェリシテは今度はルルを剥製にしてかわいがり続けるが、次に亡くなるのはオーバン夫人である。フェリシテは虫が喰ってぼろぼろになってもルルを愛し続ける。そうしてフェリシテも死んでいくのである。

 人は皆死んでいくが、愛する対象があればこその生である。たとえそれが鸚鵡であっても。そんな悲しい物語をフローベールは書きたかったのに違いない。

(この項おわり)

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ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』(1)

2019年07月26日 | 読書ノート

 フローベールが『ボヴァリー夫人』のような、自然主義の元祖と目されるような小説しか書かなかった作家であるはずがない、という思いのもとに、私は光文社古典新訳文庫で『三つの物語』を読み、現在は『サランボオ』を読みつつある。その間にスタンダールの『パルムの僧院』も読んでいるから、古典探索の過程について書くべきことが溜まっているのだが、読む先から忘れていくから急がねばならない。

『三つの物語』は「素朴なひと」「聖ジュリアン伝」「ヘロディアス」の三編からなる大傑作である。「素朴なひと」は一度読んだら忘れられなくなるほどに、主人公の輪郭を際立たせているし、「ヘロディアス」は絢爛豪華、色彩感溢れる描写でサロメの物語を描き、同時代の画家ギュスターヴ・モローや後の作家オスカー・ワイルドにも影響を与え、サロメのイメージを確立した。それよりも私にはこの三編が、『ボヴァリー夫人』を書いた作家と同じ人物によって書かれたものであるということがほとんど信じがたい。

『ボヴァリー夫人』が1856年、著者35歳の作であり、『三つの物語』が1877年、著者56歳の作で、20年の時間差があるにしても、その作風はまったく違っていて、まるでフローベールという作家の中に二人の人物を見る思いがある。

 むしろそのことは『ボヴァリー夫人』の6年後に書かれた『サランボオ』について、より特徴的に言えることかもしれない。自然主義リアリズムの書『ボヴァリー夫人』が、現代(フローベールにとっての)をテーマとしていたのに対し、その直後に書かれた『サランボオ』は古代カルタゴ戦役をテーマとしているからである。なお『三つの物語』のうちの一編は中世の伝説を、もう一編は新約聖書を素材としている。

 自然主義文学が古代や新約の世界を舞台とすることに、何のメリットも見出さないことはエミール・ゾラのケースを観れば一目瞭然であろう。自然主義文学の分析対象はあくまで現代の人間や社会であって、懐旧的想像力などが力を発揮するような場所ではないからである。

『三つの物語』を〝懐旧的〟などと言ってしまうのは大きな誤りかも知れない。しかしフローベールが中世の伝説や新約聖書をテーマにするのは、明らかに現代よりも過去を、しかも中途半端な過去ではなく、神話や伝説がまだ生きていた過去の時代に対する彼の偏愛の故であろう。『サランボオ』についても同様のことが言える。

 それはフローベールという作家が、現代よりも古代に、遠い過去の時代に「醜悪で卑俗な環境」とは正反対なものを見ていたからであろう。これをロマンティックと言わずして、なんと言うことができるであろうか。

 ところで私は『三つの物語』の中の「聖ジュリアン伝」と「ヘロディアス」について、今は何も語ることができない。今読んでいる『サランボオ』を終えるまでは、彼の古代愛好について何も言えない気がするのだ。したがって私は「素朴なひと」についてだけ今は書いておくことにしよう。

「素朴なひと」というタイトルについては違和感がある。原題はUn Cœur Simpleで普通に訳せば〝素朴な心〟であり、これまでは〝純な心〟のようなタイトルで親しまれてきた。新訳文庫であるからといって、タイトルまでこれまでのものと変えてしまう必要もないと思うのだが、いかがだろう。

「素朴なひと」は本当の庶民、無学文盲で、上流社会の召使いとして生きるしかなく、しかもそれを自分の務めと思っているフェリシテを主人公にした感動的な物語である。

 まず私はこの小説の文章に注目せざるを得なかった。フローベールは小説において、文章の完成度を徹底的に追求した人で、そのために生涯にわたる作品数は異常に少ない。とりわけこの『三つの物語』はフランスの教科書にも取り上げられるほどの名文で、いわゆる彫琢の文章であるという。

 そのことが翻訳を通しても感じられるのである。たとえばフェリシテが主人のオーバン夫人の娘ヴィルジニーの初聖体拝領に立ち会う場面がある。

「ヴィルジニーの番がきたとき、フェリシテは、よく見ようとして、身をのり出した。そして、まことのいとおしみだけが授ける想像力によって、自分自身がヴィルジニーになっているかのように感じていた。ヴィルジニーの顔が自分の顔になり、ヴィルジニーの衣装が自分の体を包み、ヴィルジニーの高鳴る心臓が自分のうちで鼓動していた。瞼が閉じられ、ついに口が開かれようとしたその瞬間、フェリシテは気を失いかけた。」

 原文は以下。

Quand ce fut le tour de Virginie, Félicité se pencha pour la voir ; et, avec l’imagination que donnent les vraies tendresses, il lui sembla qu’elle était elle-même cette enfant ; sa figure devenait la sienne, sa robe l’habillait, son cœur lui battait dans la poitrine ; au moment d’ouvrir la bouche, en fermant les paupières, elle manqua s’évanouir.

私でも理解できる平易なフランス語で、まったく曖昧さのない簡潔極まりない表現であり、余計な装飾もいっさいない。にもかかわらずすべてを言い尽くして、余剰がない。他の部分でもこれぞ名文というのが、翻訳を通して伝わってくるのである。

 ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』(2018、光文社古典新訳文庫)谷口亜沙子訳

 

 

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Beth Hart, War in My Mind(2)

2019年07月23日 | 日記

 曲はサビの部分に入っていって、この聴かせどころがかなり長い。Bethのヴォーカルは、曲が重力に従って落ちていきそうになるのを力業で持ち上げていく。この辺で着地するかと思われるところを、さらに上昇させ、まだまだ……という感じで続いていく。

And this is more than I can handle
Give me something strong

to fill the hole

の部分が最大の山場となる。息苦しいほどの緊張感が続く。歌詞からも分かるように、ここは悲痛な叫びの部分で、このようなストレートな歌詞がこれまでの彼女の曲になかったわけではない。

 War in my mindというフレーズはBlack in my soulからBlood on the wallへと引き継がれていく。Warはもちろん比喩的な表現であって、実際の戦争のことを言っているのではない。彼女がこれまで生きてきた場面での苦闘の連続のことを言っている。

 たとえば2007年のCrashing DownやAt the Bottomも、彼女の苦渋の人生をストレートに歌った曲であった。しかし、War in My Mindのような、ストレートでありながら普遍的な意味を帯びた歌にはなっていなかった。

 Beth Hartはインタビューに答えて次のように言っている。

More than any record I've ever made, I'm more open to being myself on these songs, I've come a long way with healing, and I'm comfortable with my darknesses, weirdnesses and things that I'm ashamed of – as well as all the things that make me feel good.

 彼女の言葉は、彼女の言ってみれば〝私小説的〟な性格について多くのことを示唆している。大切なのはI'm comfortable with my darknesses, weirdnesses and things that I'm ashamed ofの部分である。彼女は自分自分を気持ちよくしてくれるものと同じくらいに、自分の中の暗い部分、奇異な部分、自分で恥と思う部分に居心地の良さを感じると言っているのである。

 暗いもの、否定的なものへの執着はそこから生まれる。War in My Mindはそういう歌である。厳しい歌である。魂の底まで触れて欲しくない人にとっては疎ましい歌でもあろう。しかし、暗いもの、否定的なものの慰謝は、曲を聴く者へと確実に伝染していく。この救いのないBlack in my soulこそがある種の聴衆に、悦びと慰めをもたらすだろう。それはBethのBlack in my soulを共有できる者に限られるだろうが。

 War in My Mindとは何か。もう一度Bethの言葉に耳を傾けてみよう。

On this album, I'm even closer to vulnerability and openness about my life, about love, addiction, my bipolar, my dad, my sister.

彼女のファンなら誰でも知っている十代からの薬物中毒、bipolar-disorder(躁鬱病)、母を捨て他の女と暮らした父のこと、薬物のため十代で死んだ妹のこと、そんな体験に今まで以上に意識的に近づこうとしているのだ。

 現在Bethは愛する夫を持ち、アーティストとしても成功を遂げ、もうそうした苦闘の時代を過ぎていると思われるのに、未だにこれほどに暗く悲しい曲を書くことができる。暗いもの、否定的なものへの親和性は彼女の身に染みこんでしまっているのだ。彼女が本物である証しである。

(この項おわり)

 

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Beth Hart, War in My Mind(1)

2019年07月22日 | 日記

 19日、アメリカのブルース・シンガーBeth Hartから(正確にはBethのファンクラブ事務局から)ニュー・アルバムのアナウンスが届いた。私はBethのファンクラブ会員になっているので、新しい情報は最も早く届くことになっている。ニュー・アルバムのタイトルはWar in My Mind。タイトル曲のビデオもついてきたので、早速聴いてみた。

 驚いた。心底驚いた。ピアノのイントロから始まるが、そのイントロはこれまで聴いたどの曲よりも暗くて悲しい曲調である。こんなに悲しい曲はバッハのカンタータ21番「わが胸に愁いは満ちぬ」以外に聴いたことがない。もちろん彼女のこれまでの暗く重苦しい曲、たとえばCaught Out in the Rainと比べても、Baddest BluesやFire on the Floorと比べてもはるかに悲しい。この世の悲しみを一手に引き受けたような曲なのだ。

 イントロを聴いただけでこの曲はBeth Hartの代表曲となるだろうことを了解した。彼女は2016年にオリジナル・アルバムFire on the Floorを出し、2017年にはJoe Bonamassaとの共作アルバムBlack Coffeeを出した。その後はツアーに専念し、ライブ・アルバムを二つ出しているが、オリジナル・アルバムからは遠ざかっていた。

 ただ、ニュー・アルバムの制作をツアーの合間に行っているとの情報は入っていたので、今年出るとは思っていた。ただ新曲を聴くのが怖かった。数々の名曲を作曲し、歌ってきたBeth Hartだが、いつでもそれ以前の曲を乗り越えることができているかと言えば、必ずしもそうではない。

 前作の前作Better than Homeはブルース・シンガーのアルバムとしては物足りない作で、前作のFire on the Floorで彼女はそれを凌駕して見せたのだったが、それ以上のことができるのだろうか。あの名曲以上の名曲を作れるのだろうか。ファンとしてはいつでもそれが不安なのである。

 ところがBeth HartはWar in My Mind一曲で、Fire on the Floorさえも軽々と超えてしまった。恐るべき才能である。

 私は2017年の後半から2018年11月にフランスのサン=ジェルマン=アン=レーで、彼女とそのバンドのコンサートを聴くまでのほぼ一年半、Beth Hartの曲だけを聴き続けてきた。日本ではほとんど知られていないが、彼女の歌唱力と声量、音域の広さは、現存の女性シンガーの中で一番だと思っているから、他のアーティストの曲を聴く必要すら感じなかった。

 しかしいつまでもオリジナル・アルバムが出ないと、ついつい浮気がしたくなるのも当然で、今年前半はBethが高く評価していたイギリスのAmy Winehouseや、このところ彼女のバンドと一緒にツアーで廻っているKenny Wayne Shepherd Bandなどを聴いてきた。

 でも私には帰っていくべき場所がある。Amy Winehouseの異常とも言うべきイントネーションと、それが醸し出す圧倒的情感には代え難いものがあるが、Bethの声量と音域の広さを彼女は持っていなかった(2011年に薬物中毒と飲酒のために死亡)。Kenny Wayne Shepherdのギターは、その超絶的な技巧とソウルフルな情緒において並ぶものがないが、いかんせんヴォーカルが弱い。Noah Huntのヴォーカルは好感が持てるのだが、Beth Hartの歌唱力と声量に遠く及ばない。

 War in My Mindはイントロから突然のギターの破裂音に続いて、Bethの歌に入っていく。

 War in My Mind

 There‘s a war in my mind

の部分の繰り返しがこの曲のベースとなる。それがイントロで聴いたピアノに伴われて続いていく。最初のWar in my mindのところで、背中に戦慄が走る。a chill down my spine

というやつである。彼女の曲では何度このa chill down my spineを体験してきたことだろう。だが今度のやつは今までのものとは次元が違っている。

 それにしてもこんなに悲しい曲があるだろうか。まるで葬送の曲のようだが、彼女はそれをいつにも増した力強いヴォーカルで聴かせていく。バラード調の曲はどうしてもヴォーカルが不明瞭になりがちだが(声量を落とすから)、Bethの場合はそんなことにはならない。

 あくまでも発音はクリアーで、力強い。こんなことができるのもBeth Hartだけではないか。まだ若い時のLearning to Liveの〝力強いバラード〟を思い出す。しかし、War in My Mindはバラードと言うよりもあくまでもブルースなのである。

 

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オノレ・ド・バルザック『従妹ベット』(2)

2019年07月19日 | 読書ノート

 リスベットは陰険でずるがしこい女だと言ったが、これは正確ではない。リスベットのシタインボックに対する献身的な奉仕・保護は、彼女の優しくて母性的な性格をよく表しているではないか。

 彼女にとって大切な男(恋人というよりは彼女の非保護者のような存在)を、アドリーヌの娘オルタンスはリスベットから奪うのであるから、嫉妬するなと言っても無理な話だし、復讐もまた正当な理由がないとは言えないのだ。

 しかし、ヴァレリーという高級娼婦が登場し、ユロ男爵が彼女を自分のものにしようと動き始めると、リスベットはヴァレリーの裏に回って暗躍を始めるのである。彼女は従姉アドリーヌやその娘、そして世路男爵に対して正面から戦いを挑むのではなく、一見ユロ一家の味方をするかのように偽装しながら復讐を遂げようとする。

 このあたりがベットを本物の悪党ではなく、こすずるい小悪党に止める部分であって、だからこの小説の主人公としての資格を欠いていると思うのである。

 ベット以上の悪党がいるとすれば、それはヴァレリーであって、この小説の後半はこの女を中心に動いていく。男が五人も彼女の周辺に群がってくる。まずはヒモのマルネフ、最初に彼女に血道を上げるユロ男爵と彼に敵愾心を燃やしてヴァレリーに言い寄るクルヴェル、さらにはヴァレリーに誘惑されるシタインボックともう一人、ブラジルからやってきた古い愛人モンテスもいる。

 ヴァレリーはこの五人の男たちと、お互いに察知されることなく関係を続けていくが、その手練手管こそ真に高級娼婦の名に値する偉業といわなければならない。彼女はこの男たちから莫大な金品をせしめるのであり、彼女こそが真の悪党だと言えるだろう。

 これほどの徹底した金銭への欲望を前にすると、ヴァレリーをかえって憎めなくなるのも事実である。ユロ男爵が彼女に血迷って家産を傾けてしまうのも、クルヴェルが裏切りを知らずに金品を貢ぎ続けるのも、シタインボックが妻のオルタンスをないがしろにして家庭の危機を招くのもみな自業自得であって、「そんなにいい女のためならすべてを失ってもいいではないか。どんどん入れあげろ」とさえ思ってしまうのである。

 しかし本当に度が過ぎるのはユロ男爵である。疾うに破産に瀕しているからユロはヴァレリーのために自分の地位を利用して、公金を私する汚職も辞さない。しかもその汚職の手先となった叔父のフィッシェルを自殺に追い込んでしまう。しかしそれでもユロ男爵は悔いて身を改めることがない。

 ユロ男爵はその後地方に左遷されたり、家族に対する面目なさから出奔したりするのだが、彼は行く先々で女遊びを繰り返す。ユロ男爵はバルタザール・クラウスと同じように、懲りない人間なのである。

 バルザックはこの小説の最後にも懲りない男の面目躍如といった場面を用意している。貞淑な妻が「あなた、私はもうこの命を差し上げるほか、何も差し上げるものがございません。もうじき自由になれましょう。そしたら、また新しい男爵夫人をお迎えなさいまし」と言い残して死んだ三日後、ユロはパリを去り、十一カ月後には若くて新しい女を妻に迎えるのである。

 このときすでにユロ男爵は七十五歳くらいのはずで、まさに艶福の極みである。ユロ男爵がクルヴェルと違っているのは、金に飽かせて女を漁るのではなく、家族に窮乏を強い、家産を傾け、犯罪に手を染めても金を作って女色を追求するところである。それだけでなく、ぼろぼろになった彼を救う女たちにも事欠かないのである。

 ユロ男爵のこうした〝行きすぎ〟は彼にバルザックの小説の主人公となる資格を与えているのである。

(この項おわり)

 

 

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オノレ・ド・バルザック『従妹ベット』(1)

2019年07月16日 | 読書ノート

 読んだ順に書いていくとすれば、次はアベ・プレヴォの『マノン・レスコー』ということになる。この魔性の女を描いた古典的名作を私はほとんど評価できない。マノンにどんなにひどい目に遭わされても、決定的な浮気をされても、それでも愛を貫くデ・グリューという男の気持ちが私には理解できないし、いわゆるFemme fataleというものを登場させた最初の小説というが、それ自体が虚構的な概念であって、マノンは私にとって存在感に乏しい。

 18世紀フランスの小説なら、サディスムの元祖マルキ・ド・サドの作品や、ラクロのすけこまし小説『危険な関係』のほうがずっといい。プレヴォには〈愛〉に対する全幅の信頼があるが、サドやラクロにはそれがないからである。フランスの小説にはその方が似合っている。ということで『マノン・レスコー』はパスすることにする。

 次はバルザックの『従妹ベット』である。『ゴリオ爺さん』に比べてこちらは倍くらい長い小説で、じっくりとバルザックらしさを味わうことのできる傑作と思う。

 小説は町人上がりのクルヴェル大尉が、この小説の主人公ユロ男爵の家に夫人を訪ねていく場面から始まる。なんとユロ家の窮乏をネタに夫人との関係を迫りに来たのである。フランスの小説にはこのようなことはありふれたことで、貴族が愛人を囲うのは当たり前だし、それだけでなく貴族の奥方が公然と恋人を持つことも当たり前に行われていたらしい。

『ゴリオ爺さん』の二人娘もちゃんと愛人を持っていたし、ラスチニャックが社交界に接近するのも、貴族の奥方に取り入ってその愛人となり、引き立ててもらうためなのであった。そんなことが当然のことのように書かれているのを読むと、当時のフランス社会の恐ろしさを感じるのである。

 とにかくクルヴェルはユロ男爵夫人アドリーヌに言い寄るのであった。しかも彼女は自分の一人娘をその息子に嫁がせた相手であって、親戚同士なのである。ほとんど狂っているではないか。後で分かることだがこの小説の主要な登場人物は、皆狂っているとしか思えないのだ。

 クルヴェルは「下ぶくれの赤ら顔」で太鼓腹の醜い男として描かれている。では戯画化された存在感の薄い人物かというとそうでもない。フローベールのルウルウなどよりかは、よほど存在感を発揮する人物なのである。

 クルヴェルが親戚の夫人をかどわかそうなどという気持ちを起こしたのも、ユロ男爵の放埒な行いによっている。クルヴェルはユロ男爵に愛人を盗られた復讐の念からそうするのであり、ここからクルヴェルとユロ男爵の女性をめぐる戦いが始まる。読者は最初の場面からこの小説は品行正しい物語ではなく、女色をめぐる戦いの物語なのだと了解する。表面的にはとても卑俗なお話なのだ。

 うっかりしていたが、この小説の主人公を、私はユロ男爵だと言った。『従妹ベット』だからベット、つまりアドリーヌの従妹リスベットが主人公なのではないかといわれるかも知れないが、『ゴリオ爺さん』と同様、リスベットはこの小説の主人公としての重量感を示していない。

リスベットはユロ男爵の家で暮らしているが、アドリーヌの美貌に対して醜い風貌の女で、昔からアドリーヌとは対照的な扱いを受けてきた。リスベットは嫉妬深い中年女性なのである。バルザック自身が「嫉妬がこの女のeccsentricityにみちた性格の基準を示している」と書いているくらいである。

リスベットには愛する男がいるが、その男シタインボックが、アドリーヌの娘オルタンスと婚約するに及んで、リスベットのユロ男爵一家に対する復讐が始まるのである。

『従妹ベット』の少なくとも前半のプロットを動かしているのは、間違いなくリスベットの嫉妬であって、彼女の名がタイトルになっているのは理由のないことではない。しかし、リスベットは陰険で、二枚舌で、ずるがしこい女であって、読者は彼女の復讐心に同調することができないのである。 

オノレ・ド・バルザック『従妹ベット』(1974、東京創元社「バルザック全集」第19巻)水野亮訳

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オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』(2)

2019年07月15日 | 読書ノート

『ゴリオ爺さん』がバルザックの代表作と言われ、一般によく読まれているのはやはり、ゴリオの悲劇的な臨終の場面があるからだろう。死の床でゴリオはアナスタジーとデルフィーヌの二人の娘が来てくれることを最後の望みとしているが、二人とも財産的な危機に瀕していて、考えることはお金のことばかり、最後にゴリオを看取るのはラスチニャックとその友人のピアンションの二人に過ぎない。

 ラスチニャックとピアンションの献身的な看護は、二人の娘の冷酷さと強い対比をなしていて、読者はゴリオの最期に涙するのである。しかし、バルザックはこの場面をそれほど悲劇的なものとして描いているわけではない。ピアンションは死に臨んでも娘達のことを心配するゴリオを見て次のように言うが、自制の効いた言葉である。 

「『デルフィーヌ! わしのかわいいデルフィーヌ! ナジー!』などと聞かされると、こん畜生と思いながらもつい涙がでちまったぜ。ほんとに泣けて泣けてしようがなかったよ」 

 バルザックはむしろゴリオの臨終の場面を、喜劇的に描いていると言ってもよい。なにせ「人間喜劇」の中の一編なのだから。ゴリオは娘たちを溺愛した罰によって死ぬのである。ゴリオの臨終の言葉……。 

「娘たちを愛しすぎた罪は、十分に贖ったじゃありませんか。あの子たちはわしの愛情に仇をなし、拷問人のように、鉄鉗(やっとこ)で挟んでさいなんだではございませんか。ところが父親っていうものは、じつに愚かなもんですなあ! 可愛くてたまらずに、またぞろ娘のところに足が向いてしまいましたわい。ちょうど賭博好きが賭場を見限れないのと同じこった。娘たちはわしにとって悪い道楽であり、色女であり、つまりはすべてなんでしたわい!」 

 結局ゴリオは自業自得で死ぬのである。それにしてもここでゴリオが、娘への溺愛を賭博狂いや女道楽と同類のものと考えているのは興味深い。つまりゴリオはバルタザール・クラウスやユロ男爵と同類なのである。

 バルタザールの死もユロ男爵の死も、家族を犠牲にしてでも好き勝手なことをやって人生を全うした末の死であり、少しも悲劇的なところがないように、ゴリオの死も悲劇的ではない。それを悲劇的と考えて涙するのは、単なる感傷に過ぎない。

 しかし、二人の娘に対するラスチニャックやピアンションの怒りはまた別の問題である。ラスチニャックは冷酷な娘たちを前にして、次のように内心では思うのである。 

「世間じゃただけち臭い罪悪しか行われていない。考えてみればヴォートランのほうがずっと偉いや」

  田舎からパリにでてきたラスチニャックは、ゴリオの死を通してパリの社会を学んでいく。ゴリオの娘たちの仕打ちに対する怒りも、ラスチニャックがこれからパリの社会に出ていくための世間智のひとつなのだ。もちろんヴォートランとのいきさつもまた、ラスチニャックが世間智を得ていくための通過儀礼なのだ。

 だから『ゴリオ爺さん』の主人公は決してゴリオではなく、ヴォートランでもなく、ラスチニャックに違いない。彼の最期の言葉がそのことを証している。 

「さあ、これからはパリとおれの一騎打ちだ」

  娘にひどい目に遭うゴリオの設定はシェイクスピアの『リア王』からきているというが、私は『リア王』を読んでいないのでそれについて何か言うことはできない。ただしシェイクスピアの四大悲劇に数えられる『リア王』の悲劇性と、『ゴリオ爺さん』の喜劇性ははっきりと対称的なものであるだろう。そして『従妹ベット』も喜劇的な作品なのであった。

 

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オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』(1)

2019年07月14日 | 読書ノート

 フローベールの私の中での再評価は後回しにして、一応読んだ順に次はバルザックの『ゴリオ爺さん』を取り上げる。この作品あたりはかつての世界文学全集の中に、『従妹ベット』などとともに必ず入れられていたから、バルザックの代表作のひとつと考えていいだろう。少なくとも世評はそうだということだ。

 確かヘンリー・ジェイムズが言っていたことだと思うが、バルザックの作品には飛び抜けた高峰はないが、すべての作品が非常に高い連峰を形成しているという。バルザックの代表作としてどの作品を挙げるか苦労するのはそうした理由によっている。

 今はとりあえず、いわゆる世評の高い作品を選択しておこうと思う。だから『ゴリオ爺さん』と『従妹ベット』が当面の目標となる。さて『ゴリオ爺さん』であるが、一体だれが主人公なのかよく分からないのが、最初の感想であった。

 主人公は、二人の娘に冷たくあしらわれても、すべてを捧げ尽くして悔いないゴリオ爺さんなのか、それとも田舎からパリに出てきてこれから出世しようとの野心を漲らせるラスチニャックなのか、あるいはラスチニャックに悪魔のように寄り添う極悪人ヴォートランなのか。

 このように主人公がはっきりしない小説の作り方は、『従妹ベット』でも同じことで、どう考えてもベット(リスベット)が主人公でないのは、ゴリオがそうでないのと同じことである。テーマも『「絶対」の探求』の様にひとつに絞られてはいない。『ゴリオ爺さん』のテーマは、ひとつにはゴリオの娘に対する絶対的奉仕であり、もうひとつにはラスチニャックのパリの上流社会に対する挑戦であると思う。

 テーマが輻輳しているために、バルザックはこの小説に『幻滅』のような、直接にテーマを指し示す用語をタイトルとして使用することができなかったのだと思われる。だから『ゴリオ爺さん』も『従妹ベット』も主人公の名を付けたというよりは、重要人物の中から選んでとりあえず付けたタイトルという気がする。

 バルザックに心酔していたヘンリー・ジェイムズにも、このように内容を喚起しない人名をタイトルにした作品がある。『カサマシマ公爵夫人』(1885)がそれである。誰が読んでもこの小説の主人公は、カサマシマ公爵夫人ではなくハイアシンス・ロビンソンである。小説はハイアシンスの出自とそこから来る革命運動に対する意識の分裂が、最後には主人公の自殺という悲劇をもたらすというドラマなのだから、タイトルを『ハイアシンス・ロビンソン』とした方がいいに決まっているのである。

 だから、ヘンリー・ジェイムズが『カサマシマ公爵夫人』などというタイトルをつけたことに、たぶん深い意味などはない。バルザックのひそみに倣ったに過ぎないということはできる。主人公の周辺にいて、彼の意識に様々な影響を与えるだけの女性の名をタイトルにする本質的な理由はない。

 また、ヘンリー・ジェイムズが『カサマシマ公爵夫人』のなかで、バルザックのいわゆる「人物再登場法」を使っていることもバルザックの真似を窺わせる要素の一つである。カサマシマ公爵夫人は他の作品にも登場していて、バルザックのラスチニャックやヴォートランの真似をしているのだ。

 しかし、そんなことはどうでもよい。『ゴリオ爺さん』のことを言わなければならない。ゴリオもまた『「絶対」の探求』のバルタザール・クラウスや『従妹ベット』のユロ男爵のように〝行きすぎた〟人間である。ゴリオは二人の娘に嫌われているにも拘わらず、全財産を二人のために捧げ、自分は貧窮の生活に甘んじて暮らすことを厭わない。

 バルタザール・クラウスの〝実験〟やユロ男爵の〝女狂い〟に比べて、ゴリオの狂気はどうなのかと言えば、はっきり言って弱い。あれほどに娘に嫌われ、冷たくあしらわれても、娘の財産的危機に際してはすべてを抛って支援するというような行動がいかにも本当らしくない。

 なぜならそこに大きな見返りがないからである。バルタザール・クラウスの実験は一攫千金を狙ったものだし、ユロ男爵の女狂いは飽くなき欲望と快楽の追求なのであって、強烈な見返りがあるからこそ彼らは狂う。しかし、ゴリオは二人の娘に嫌われていて、どんなに奉仕しても愛されることはないということを知っている。にも拘わらず……という動機が弱い。だから読者の共感を呼ばないのである。 

オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』(1974、東京創元社「バルザック全集」第8巻)小西茂也訳

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ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(2)

2019年07月13日 | 読書ノート

 一方『ボヴァリー夫人』の登場人物達は、どれも受け身で運命に翻弄されることに甘んじている。懸命に生きていないのである。シャルルとレオンの優柔不断と愚鈍については前回指摘したが、エンマはどうかと言えば、いつも場当たり的に逃げ回るだけで、破局を一寸伸ばしにしているだけである。だから破局が訪れる時には、それは致命的なものになってしまう。

『従妹ベット』の登場人物達はどんな苦境に立たされても、自分で道を切り開いていくし、自ら命を絶ったりしない。また彼らには政治的な能力があって、ずるいことでも何でもするが、それがいいことか悪いことかは別として、そういう人間を描くことができたのがバルザックという作家であった。

 つまり、バルザックは政治的なものに対する想像力を備えていたが、フローベールにはそれがないということを指摘できる。あるいはバルザックよりも少し前の作家、スタンダールと比較すればフローベールの政治的なものに対する想像力の欠如は、際立ったものになるだろう。

 スタンダールの『パルムの僧院』は恋愛小説であると同時に政治小説でもある。主人公ファブリスは政治力をまったく欠いた純粋無垢な青年であるが、副主人公サンセヴェリナ公爵夫人は、男まさりの政治力を発揮してファブリスを苦境から救い出すだろう。

『ボヴァリー夫人』にはそのような人物は一人も登場しない。金貸しルウルウも、薬剤師オメーも、悪辣で姑息、ずるがしこいだけで、高度の政治力を行使できるような人物ではない。フローベールがルウルウやオメーのような戯画的な人物しか創造できなかったことは、彼の政治的想像力の欠如を示しているに違いないのだ。

 しかし、フローベールは『ボヴァリー夫人』によってのみ評価されるべき作家ではない。友人達に馬鹿にされた『聖アントニウスの誘惑』という作品で、幻想的想像力を駆使した作家でもあったし、『三つの物語』の「純な心」におけるように、一人の平凡な人物を熱い共感を込めて極めて魅力的に描くことができた作家でもあった。だから私は『三つの物語』や『聖アントニウスの誘惑』を読む必要を感じている。

 予想できることは、フローベールが決してモーパッサンやゾラの先駆者として自然主義的リアリズムの作家として限定されるわけではないということであろう。フローベールのスケールはそんなところに収まらないことを私は予測しておきたいと思う。

 ところで『ボヴァリー夫人』の中で決して忘れられない場面がひとつある。それは第1部第8章の商工農業共進会の場面である。ボヴァリー夫妻が住むこの村にとってのはれの日、県参事官が聴衆に向かって堅苦しい演説を行う中で、ロドルフがエンマを口説くのである。

 この場面参事官リウヴァンの演説と、好色漢ロドルフがエンマに言い寄る甘い言葉が交互に何度も繰り返される。人間にとってもっとも形式的で公的な場面と、色事という人間にとってもっとも私的で秘められた場面が、これ見よがしに対置されて執拗に繰り返されるのだ。

 さらに、共進会は山場を迎えて、優秀な農業者に対して表彰が行われるのだが、この場面になると表彰の文言とロドルフとエンマの睦言とが、短いパッセージで鋭く交差し、クライマックスに至る。ついにロドルフとエンマは情欲に燃え上がり、指と指とを絡ませあうのである。

 このまるで20世紀の映画の一場面を見るようなコントラストに満ちた描写は、いかにフローベールという作家が時代に先駆けていたかということを如実に物語るものである。私はこの場面だけでもそこにフローベールの天才を認めることを否定しない。

 では、フローベールの汚名挽回のために、他の作品も読んでみることにしようではないか。

(この項おわり)

 

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