玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

おかま掘られてレンタカー

2007年04月28日 | 日記
 車で交差点の信号にさしかかり、前の車にあわせてスピードを落として止まろうとしていた瞬間、まったく予期せぬ出来事が起こった。後ろから強い衝撃があって、頭が座席の上部に打ち付けられたのだった。追突されたと分かるまで一瞬の間があった。
 追突されるのはこれで四回目だ。過去三回は側面からの追突で、脇からだと衝撃を予測できるから防御の体勢をとることができるが、後ろからでは予測してみようもない。信号無視の車に一度、雪道で止まられない車に一度、駐車場からの急な飛び出しで一度ぶつけられている。
 宝くじや抽選には当たったことがないが、車にはよく当てられる。自分の車をひとの車にぶつけたことは一度もないのに、まったく災難なことだ。信号無視にやられた時は、ピカピカの新車だった。
 今回は傷だらけの車だったから、まだよかった。追突してきた車の方が損傷が大きく、車というのはフロントで衝撃を吸収するようにつくられていることがよく分かった。お互いケガもなく不幸中の幸いであった。
 ところで、こちらには百%責任がないから、修理の期間レンタカーを支給してもらえることになった。翌朝届いたレンタカーは、自分の車よりもはるかにきれいで乗り心地もよい。カーナビまで付いていて旅心を誘う。しかし、カーナビの使い方が分からない。しかも、あんな画面が目の前にあったのでは、前方不注意になりそうで、スイッチを切ることにした。
 修理には二週間ほどかかりそうで、大型連休の間は、きれいな車に乗ることができる。しかし、どこに出掛ける予定もないので、せっかくの車も車庫で眠っていることになるかも知れない。

越後タイムス4月27日「週末点描」より)


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靉光とエルンスト

2007年04月21日 | 日記
 市議会議員選挙戦の取材をさぼって、例年のように東京八王子へ。そこでの日本自費出版文化賞第二次選考の仕事もはしょって、どうしても見たかった東京国立近代美術館の「生誕百年靉光展」へ。
 靉光展の最後の展示は、旧日本軍兵士である靉光こと石村日郎がつかっていた飯盒なのだが、これを上海から持ち帰ったのが柏崎の串田良方であることはよく知られている。そのことよりも、靉光展の強烈な印象について書いておきたい。
 靉光の作品については《眼のある風景》と、眼のない《自画像》しか見たことがなかった。どちらもすごい絵とは思っていたが、靉光の作品の全貌を知ることもなかった。
 靉光は、暗くて重い画家と思っていた。ところが、靉光二十七歳頃の作品は、漫画のようなユーモアをたたえたもので、意外な思いがした。昭和十六年に描かれた緻密な線で構成されたサイバーパンク的な作品にも驚いた。
 同時期に描かれた雉のある《静物》には、もっと驚いた。その縦長の作品は、上方に死んだ雉が、そして雉の死骸から静脈と動脈のようなものが垂れ下がっていて、そこにつながれた心臓のようなアケビが描かれ、その下方には、夢で見るような植物と、それとは逆に極めて写実的な果実が描かれている。
 そのグロテスクな形象と構図は、ドイツの画家・グリューネヴァルトの作品を思わせ、同じくドイツ人のシュルレアリスト・エルンストの幻想的絵画を想起させた。夢の中に繁茂する植物と奇怪な動物や虫の取り合わせは、エルンスト独自の世界で、日本人画家でここまでの影響を受けている人がいることを知らなかった。
 今、ろくに予備知識もなしに見た靉光展への驚きの気持ちを整理しているところで、詳しいことは書けそうもない。タイムス同人の一人が近日中に書いてくれることになっている。

越後タイムス4月20日「週末点描」より)


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番神の歴史

2007年04月21日 | 日記
 岬館は、番神堂詣での信者のための茶屋から始まったということを、秋山文孝妙行寺住職の発言で初めて知った。番神海岸の恒久的浜茶屋建設に反対する署名簿提出の際に、秋山住職が会田市長に伝えた言葉の中に、そんな知られざる事実があった。
 そのことはものの本に記されてあるのだそうだが、そこまでは知らなかった。さらに、番神海岸を含めた一帯が、すべて番神堂の所有地であったことも、秋山住職の発言で知った。番神の歴史は、番神堂の歴史そのものであったのだ。
 そうした歴史を踏まえ、秋山住職は市の支援も受けず、自力で番神堂の裏山に遊歩道を整備し、日蓮聖人の銅像を建立した。今や全国から信者が団体で訪れる聖地となっている。秋山住職は柏崎の観光に大きく貢献してきたのだ。
 一方、番神浜茶屋組合の藤谷三郎組合長と話をする機会があった。永久建築の浜茶屋建設で、「こういう問題が起きると思わなかったのですか」と聞いた。藤谷さんは「こんなことになるとはまったく思わなかった」と言う。浜茶屋経営者で地元の人のことを“地玉”というのだそうだが、海水浴の衰退で、地元の人が浜茶屋の権利を外の人に売ってしまい、“地玉”がほとんどいなくなっているのが現状だ。
 藤谷さんも“地玉”ではない。だから、番神の歴史を知らなかったのも無理はないが、“地玉”の減少が今回の問題の背景にあることを表している。それにしても、番神という地名が番神堂に由来すること、そして番神堂が七百五十年もの歴史を積み重ねてきたことに対する深い配慮が関係者に欲しかった。
 東側のログハウスの建設も始まってしまった。これからどうなるにしても、景観百選を標榜する柏崎市にとって恥ずかしくない結果になることを期待している。

越後タイムス4月13日「週末点描」より)


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中村つねのアトリエ

2007年04月10日 | 日記
 「中村彝アトリエ保存会」の続報をお伝えしておく。
 新宿区の区長は女性区長の中山弘子さん。「中村彝アトリエ保存会」の事務局長・今井茂子さんによると、区長は「今井さん、大丈夫ですよ」と約束してくれ、アトリエだけでなく、その敷地百五十坪も含めた保存を検討してくれるということだ。
 しかし、これで安心ということではない。区の予算も絡んでくることだから、区長の独断で決められるものではない。議会の同意も必要になってくる。保存の方法としては、築後九十年を経たアトリエだから、一旦解体して、部材を点検し、老朽化したものは取り替えるなり補強するなりして、組み立て直すという作業が必要となる。新築するよりも経費がかかることは目に見えている。
 区議会の理解がどうしても必要である。今井さんは、そのためにもできるだけ多くの賛同者を集めたいという。現在までに集まっている賛同者は、いかにも少ない。新宿中村屋が萩原守衛や中村彝を庇護した歴史も、今や忘れられつつあるし、中村彝の存在自体も現在の人々の記憶から遠くなりつつあるような危機感を覚える。
 知人に、かつて中村彝の作品を所有していた人がいる。数百万円で画商に売ってしまった後、オークションで七千万円で落とされたことを知って愕然とした体験の持ち主である。中村彝の芸術のよき理解者である彼は、「新宿にはろくに文化財なんかないのだから、彝のアトリエを貴重な文化財として残してほしい」と言う。
 新宿というのは、その名のとおり新興の宿場町であり、現在副都心として大きな発展を見せてはいても、重厚な歴史の記憶というものを欠落させている。中村彝のアトリエは彝の絵を愛する人にとってだけでなく、新宿区にとっても歴史的資産として、極めて重要なものではないだろうか。
 越後タイムス社で賛同の署名を取りまとめたいと思う。協力していただける方の連絡をお願いしたい。署名簿も用意してあります。
電話0257-23-6396
e-mail:genbun@pop07.odn.ne.jp

越後タイムス4月6日「週末点描」より)


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