玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(13)

2022年03月31日 | 読書ノート

 以上のようにパテラは、神の似姿として造形されているが、それは遍在すると言いながら不在であり、約束を守ろうとせず、疲労に打ちひしがれた神としてなのである。ここには極めて現代的な神のイメージが示されているし、それはヨーロッパに関しての文明論的な探究の結果という意味さえ担っているように見える。だからパテラもまた多義的な存在であり、それを単に神の寓意として捉えることはできないのである。
 ところで、ツヴェタン・トドロフはその『幻想文学論序説』の中で、幻想文学と寓意との関係について、詳しく分析を行っている。寓意とはトドロフによれば、次のようなものである。

「第一に、寓意は同一の語群に少なくとも二つの意味が存在することを前提とする。ただし、第一の意味は姿を消すべきだとされることもあり、二つの意味が併存していなければならぬとされることもある。第二に、この二重の意味は、作品内に明瞭な方法で示されるのであって、特定の読者の解釈(恣意的であるとないとを問わず)に依存するものではない。」

 つまり寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)があって、それらが二重の意味を形成しながらも、寓意するもの(言葉)はすぐに姿を消してしまい、寓意されるもの(言葉)の支配権が確立される場合もあれば、二重の意味がさまざまなバランスの中で併存し続ける場合もある。また寓意の意味は読者の解釈にゆだねられるのではなく、作者によって明瞭に示されていなければならないということである。
 寓意するもの(言葉)が消滅してしまうような作品には「そこにはもう幻想のための場などはありはしない」(トドロフ)のであり、いかに超自然的な現象が描かれていようとも、それを幻想文学と呼ぶことはできないのである。一方二重の意味が保持され、寓意するもの(言葉)が消えてしまわないような作品の場合、寓意の構造はより複雑で精妙なものとなる。トドロフはそのような例として、バルザックの『あら皮』を挙げている。
 私はトドロフの定義にもう一つ、寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)との対応の一義性と多義性ということを付け加えてもいいのではないかと思う。寓意するものとされるものとの対応が一義的な場合には、そこに幻想性が保持される余地はまったくないが、その対応が多義的である場合には、そこに幻想性が保持される余地が残される。
 しかし、寓意の意味の解釈が読者にゆだねられることなく、作者によって明示されることが寓意の本質だとすれば、寓意するものとされるものとの対応が一義的であれ、多義的であれ、幻想性がいつまでも保持されることはないであろう。トドロフはバルザックの『あら皮』についても、「この作品の幻想は、寓意、それも間接的に指示された寓意の存在によって、殺されているのである」と書いている。
 クビーンの『裏面』は、一面では寓意的な物語とみなされることもあるかも知れないが、まず第一に、寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)との対応が一義的であることはない。『裏面』でのそれは極度に多義的であって、寓意されるもの(言葉)の一元的な支配は許されていないのである。

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アルフレート・クビーン『裏面』(12)

2022年03月27日 | 読書ノート

 アメリカ人ハーキュリーズ・ベルについて、彼が意味しているものについて寓意的に読み取ろうとしても、そう簡単にはいかない。時には経済至上主義的な勢力とも読めるし、彼が決起呼びかけの声明文に「呪術はたち切られねばならない!」と書いていることから、自由主義的な革命勢力を表象しているようにも読める。
 さらに声明文の最後で「すべての若者はルーチファー党員になれ!」と呼び掛けていることから、神と対立するものとして位置づけられているようにも見える。ルーチファーはルシファー、つまりは堕天使であり、悪魔と同一視されることもあるから、神の反対概念でさえある。しかし、アメリカ人はパテラを「サタン」と呼んで批判しているのであるから、本来の「光をもたらす者」として「サタン」に対立する存在とみなすこともできる。
 もともと「ハーキュリーズ」はギリシャ神話のヘラクレスのことであり、キリスト教にとっては異教の権力神であり、大きな暴力性を象徴している存在でもあるだろう。アメリカ人の表象するものがこれほど多義的である以上、それを単に寓意的に読もうとする試みは失敗するだろう。一方パテラの方はどうかと言えば、こちらは明らかにキリスト教の神のイメージをまとわされており、アメリカ人ほどの多義性はないかもしれないが、その代わりにヨーロッパがそれまで信仰してきた神とは、驚くほど異なった神の諸相を示している。だからパテラについても単純に神を寓意するものとして捉えることはできない。
 私が言う神の諸相は、「私」とパテラとの対決の場面に表現されているのである。最初の対決の場面で、まずパテラは「私」に次のように言う。

「君はいちども私のところへ来ることができないといって、苦情をいっているが、しかし私はいつでも君のそばにいたのだ。君が私を非難したり、私に絶望したりしている姿を、私はいくども見かけた。なにを君のためにしてあげればいいというのだ? 君の願いを言うがいい!」

 これが神の遍在の主張であることは明らかである。神は不在のように思われても、見えざる者として、いつでも人間のそばに寄り添っているということである。しかし、パテラの言葉は神の日常的な不在に対する言い訳のようにしか聞こえない。
 また願いを問われた「私」はパテラに対して、健康を害した妻を救ってくれと懇願し、パテラは「助けてあげよう」と答えるが、結局この約束が果たされることはなく、妻は死んでしまうのである。ここには救いの約束をしながらそれを果たさない〝神の約束不履行〟の姿が示されている。神は自らの責任を遂行することができないのである。
 二度目の対決で「私」はペルレの国の没落に際して、何もしようとしないパテラを難詰する。

「――私は最後の力をふりしぼって問いかけた。「パテラよ、きみはなぜ万事をなるがままにまかせているのだ?」」

「私」の問いにパテラは動揺したのか、しばらく返事を返さないでいるが、やがて返ってくる返事は次のようなものである。

「突然彼は金属的に響く低音で、「ぼくは疲れている!」と叫んだ。」

 約束を履行することもなく、責任を遂行することもない神は、今度は自らの疲労をその理由とするのである。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(11)

2022年03月22日 | 読書ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(11)

 一方、巨大化したアメリカ人ハーキュリーズ・ベルの変身の方は、グロテスクの極致ともいうべき相貌を見せていく。以下のような幻想場面を生理的な嫌悪感なしに読むことは難しい。

「今度は私は、遙か向こうの方に、いまやパテラの恐ろしい大きさを自分のものにしたアメリカ人の姿をみとめた。ローマ皇帝を思わせるその頭は、ダィヤモンドの閃光をはなつ両眼を見ひらいていたが、彼は悪鬼につかれたような痙攣を起こしながら、自分自身と闘っており、途方もなく彎曲しふくれあがった血管が、首筋のあたりでうねうねと青味をおびた網目をえがきだしていた。彼はわれとわが首を絞めようとしていたのだ、――だが無駄だった! あらんかぎりの力で、彼は自分の胸を打ちたたいた。まるで鋼鉄のシンバルのような音響がして、その轟音は私の耳を聾するばかりだった。やがて、この怪物は急速に溶けてなくなっていったが、そのセックスだけは一向に小さくなろうとせず、結局は彼の方がみすぼらしい寄生動物よろしく、この途轍もなく大きな男根にへばりついているような形になった。――それから、この寄生動物が干からびた乳首のように離れ落ちると、恐るべき男根はまるで大蛇のように地面を這っていき、毛虫かなにかのようにまるまったと見る間に、だんだん小さくなって、夢の国の地下の通路の一つに消えうせてしまった。」

 この後もまだまだグロテスクな場面が続くのだが、あまりに引用が長くなりそうなので、この辺で切り上げておく。グロテスクな幻想描写もホフマンが得意としたものであったが、ここまでおぞましい描写はさすがのホフマンにもない。こうしてクビーンの幻想描写はその現前性を最大限に増大させていくのである。
 しかし、このような描写の中に物語の意味を読み取ろうとすると、私の思考回路はすっかり錯綜してしまって、解読への道を閉ざされてしまう。なぜアメリカ人はパテラと同じように巨大化するのか? なぜ巨大化したアメリカ人は我とわが身を罰しようとするのだろうか? なぜアメリカ人の体は男根の付属物のようになって溶けていくのか? なぜ小さくなった男根は地下に潜むのだろうか?
 先の引用に続く部分で、それが地下に入って浸透し、触手を伸ばして街の至るところの住居に忍び込んでいくことから、最後の疑問に対してなら答えることができるかも知れない。それは戦争に対する不安の蔓延のようなものを、隠喩として指し示していると言うことができるだろう。他の疑問に対しては簡単には答えを導き出せそうにもない。
『裏面』という小説全体を壮大な寓話として読むこともできないことではない。ならば、パテラとアメリカ人が巨大化して戦う、その戦いも当時のヨーロッパにおける二つの勢力の衝突を寓意しているのだろうか。アメリカ人とはアメリカ合衆国そのものを寓意しているのだろうか。
 そうであれば、パテラは古き良きヨーロッパを寓意していることになるが、そう考えるべき根拠がないわけではない。最終的にアメリカ人は生き残るのに、パテラは死んでしまうのだからである。『裏面』が寓意によって成り立っている小説であると見なすならば、そういうことになるが、事はそんなに単純ではない。
 巨大化したアメリカ人が溶けていき、実体がなくなっていく時に、その巨大な男根だけは残るということは、アメリカ的なものの男性的欲望を寓意していることになる。それに対して死んでいくパテラは、ひたすら美化されて提示されていることに気づくのは、以下の描写を読めばたやすいことである。

「――この大きな両眼は今はうるんだ濃い青色 の光をはなち――われわれすべてを底しれぬ善意の眼差で包みこんだ。それから私はもう一度、考えうる最も美しい清純さをたたえた横顔が、光輝を発しながら背景から明るく浮きだしているのを見た。」

 さらに次のような一節もある。

「その体はある名状しがたい美しさをただよわせていた。私は形体の優美さと清純さにじっと見いっていたが、どうしてこのようなものがわれわれの地上へ現われて来ることが出来たのか、私には理解できなかった。」

 パテラの死体はこのように女性的とも言えるような美しさを纏っているのであり、ヨーロッパの女性的なイメージを示しているように見えるのである。
 この小説の最後の最後に記された「造物主は半陰陽(Zwitter)なのである」という言葉はしかし、別の見方を要求しているように思われる。アメリカ人とパテラは、衝突する二つの勢力というのではなく、神の二つの側面を代表しているのではないか。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(10)

2022年03月16日 | 読書ノート

「第4章 幻影――パテラの死」は、この小説の大きな山場となっていて、おそらくE・T・A・ホフマン以外の作家には到底書けないような幻想場面のオンパレードとなっている。ペルレの町の破壊の後に残された「私」は、なぜか不思議な爽快感に浸っている。この章は次のように始まる。

「かつて感じたことのない軽やかな気持が私の身内にやどっており、甘味のある淡い香りが私の内側からこみあげてきた。私の感情は根底から変化をとげていたし、私の生命は目覚めた小さな?以外のなにものでもなかった。」

 この破壊の後の生命の高揚感はいったいどこから来るのであろうか。また何を意味しているのだろうか。すべてが無へと潰え去った後の爽快感は、破滅を前にした一種の開放感に似ているのかも知れない。あるいは、これから展開されていくパテラの断末魔の闘いに備えて、清澄な意識を用意しようとしているのかも知れない。
 この直後にパテラの最後の大変身が始まるのであり、そしてその変身は前に取り上げた相貌の変化に留まることなく、最大限の巨大化と、最大限の凶暴化を伴う。恐るべきメタモルフォーゼがこれから繰り広げられていくのだ。

「――巨大な足でもって彼は街路をおし分けると、停車場のうえに屈みこんで、一台の機関車を手に?んだ。彼はそれを、まるでハーモニヵを吹くような具合に吹いたのだが、彼の姿は見る見る四方八方へ向けてどんどん大きくなっていったので、彼にはじきに、この玩具が小さすぎるようになってしまった。そこで彼は例の大きな塔をへし折って、それを喇叭のように口にあてると、ものすごい音を響かせて、大空へ向けて吹き鳴らした。体をはだけた彼の姿は見るも恐ろしい光景だった。今度は果てしなく伸びあがっていって、火山を一つ掘じくりだしたが、その火山の尻には、花崗岩が蝸牛のように巻きついた大地の腸がぶらさがっていた。この巨大な楽器を彼は唇にあてた??宇宙もふるえるかと思われる音が鳴りとどろいた。

 引用が長くなることを許してほしい。この場面は『裏面』という作品の幻想的場面の白眉ともいうべき部分であり、私が真に驚いたのはこの場面だったからである。クビーンの恐るべき想像力の破天荒を理解してもらうには、どうしても長い引用が必要になる。
 ここにはホフマンでさえ及びもつかないほどのスケールの拡大がある。その想像力の拡張はたぶん、空間認識の拡大によっている。それは近代物理学の空間認識が、宇宙の大きさにまで拡がっていったことに対応しているだろう。だから、クビーンの描く幻想場面は、ほとんどSF的なスケールにまで達していく。

「パテラとアメリカ人は一つの不格好な塊となって互につかみ合っており、アメリカ人はパテラの体のなかへめりこんだようになっていた。無様でなんとも見極めのつかない一つの物体が四方八方に転げまわっているのだった。形体を失ったこの存在はプロテゥスの天性をそなえていて、小さな変化する何百万もの顔がその表面に形づくられ、それが互に入り乱れて喋ったり歌ったり叫んだりしては、またどこかへ引きあげていった。しかし突然、この怪物に休息がおとずれて来たと見る間に、それは廻転しながら巨大な球体となり、パテラの頭蓋になった。地球の大陸ほどの大きさをした眼は、千里眼をそなえた鷲のような目付きをしていた。やがて、それは運命の女神の顔つきになり、私の眼の前で数百万年も年とっていった。にわかに、その頭が飛散したかとおもうと、私はぎらぎらした不確かな無のなかを凝視していた……」

 私が引用した二つの場面には、ある種の滑稽さが伴っていることを再び付け加えておかなければならない。パテラが巨大化していって機関車を鷲づかみにするところや、巨大化したパテラが同じように巨大化したアメリカ人ハーキュリーズ・ベルと闘う場面などは、まるで怪獣映画のようではないか。この恐怖の中のユーモアは、ホフマンの幻想小説以外ではめったに見ることのできないものである。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(9)

2022年03月13日 | 読書ノート

 つまりエピソードは、不整合が表面化しないうちに、あるいは整合性が問われる前に、重ね書きされていくのだと言ってもよい。『百年の孤独』におけるエピソードの連続は重ね書きされたエピソードの波状攻撃のようなものであり、それによって不整合との批判を逃れていく。
『百年の孤独』に一体いくつのエピソードが書かれているのか数えたことはないが、そこでは波状的な重ね書きが必要とされ、その結果として膨大な量のエピソードが続いていくのである。『裏面』の場合、異変のエピソードは小説の最初から出てくるわけではないから、それほど多くのエピソードが書かれてはいない。しかし、「第3章 地獄」で最も重要なのは、『百年の孤独』の場合と同じように、エピソードの重ね書きであり、波状的生起なのである。
 ここでもう一度思い出してほしいのは、異変のエピソードが多くの幻想物語の場合のように、個人的な幻想体験に留まるのではなくて、共同体全体の集団的幻想体験であるということである。『裏面』と『百年の孤独』の最も重要な共通性はそこにある。
 だから二つの小説に共通するものとして、エピソードの連続だけを指摘して済ますことはできない。まず『裏面』の場合、夢の国パルレはパテラによって人工的に創建された閉鎖空間としての町であり、『百年の孤独』のマコンドも、マルケスが生まれたコロンビアの小村アラカタカをモデルにしている。その村は19世紀末に建設され、バナナブームで一時的に栄えたが、時代の流れの中で衰退していった村なのである。
 二つの町が人工的に建設された閉鎖的な場所であるところも共通している。パルレは西ヨーロッパの建造物を運んできて、中央アジアのあるところに建設された町であり、周囲からは隔絶した地として閉鎖的である。マコンドもまた周囲から疎外された町であり、外からの情報は時たま町を訪れる旅人によってもたらされるだけである。クビーンもマルケスも、そうした閉鎖空間に物語の場を設定し、一つの共同体の発生から滅亡までの年代記を書こうとしたのである。
 それが年代記であるということは、二つの小説とも時間が過去から現在、現在から未来へとリニアーに流れるという結果を生む。ある共同体の盛衰を書こうとしたら、時間が前後したり、輻輳したりすることは避けなければならないことになるからである。だから二つの小説は奇怪なエピソードの波状的生起はあっても、説話の時間的構造は至ってシンプルになるという共通性も持っているのである。
 さて、先回掲載したクビーン自身の挿絵を見ても分かることだが、ペルレの崩壊と没落は完全に戦争のイメージとして描かれている。大寺院の湖への沈降、教会での略奪と修道女の虐殺、アルヒーフの爆破と消滅、市街地での暴動と殺戮、住民たちの集団自殺……といったように血なまぐさい場面が続いていく。
 ここまで読んで私は、これはヨーロッパ崩壊のイメージそのものだということに気付くのである。単にユートピアの変質と没落というのではない。この小説が書かれたのが1909年であり、第一次世界大戦の勃発が1914年である。まさにクビーンはオーストリアにあって、不穏な歴史の動きの中に、世界大戦によるヨーロッパの崩壊を予見したのである。
 なぜ夢の国ペルレの町が、ヨーロッパの建造物を移築し、ヨーロッパからの移民たちを集めて創建されなければならなかったのかが、そこに示されている。夢の国はヨーロッパのイメージを強固に持つことによって、現実のヨーロッパの写し絵となっているのである。

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アルフレート・クビーン『裏面』(8)

2022年03月11日 | 読書ノート

 私はマルケスの『百年の孤独』における、超自然的なエピソードの連続は、ラテンアメリカ文学についていわれるマジック・リアリズムの中核的な表現であり、それがマルケスの独創的表現方法であることに何の疑いも持ってはいなかった。それが彼の母親による〝語り〟の方法を取り入れたマルケスの創造によるものであることにも疑いは持っていなかった。
 しかし、『百年の孤独』が書かれた60年も前に、同じような方法で書かれた一人のオーストリア人画家による小説があったのであり、そのことに驚きを感じないでいることはできない。マルケスの『百年の孤独』の方法は、ヨーロッパの文学伝統とはまったく隔絶したものであるとされているが、そんな説がまったくの?であることが、クビーンの『裏面』によって証明されるのである。
 さて、クビーンの「眠り病」のエピソードの後には、動物たちの異常な増殖のエピソードが、そして次には植物の衰退のそれが、そして真の崩壊をイメージさせる建築物の瓦解のエピソードが続く。

「何よりも無気味なのは、動物の蔓延とともにはじまったある謎めいた事態の推移であって、それは、絶えまなく、ますます急速に進み、夢の国の完全な没落の原因になった。――瓦解――それがすべてをとらえた。種々様々の素材でできた建物、多年にわたり集められた物件、この国の支配者がお金をつぎこんだすべてのものが、絶滅の運命に捧げられた。同時に、どこの壁にも亀裂が現われ、木材は腐り、鉄はさびつき、ガラスはくもり、その他さまざまな素材がくずれおちた。髙価な芸術品が、十分な理由もわからずに、なすすべもなく内部からこわれていった。」

 建築物ばかりではなく、食べ物もまた大気中の未知の物質によって腐敗を始め、繊維製品も崩壊し、裸に近い姿となった住民たちの間では放埒な性衝動が開放されていく。そのようにしてペルレは没落へとまっしぐらに進んでいき、最後は殺人・凌辱・暴動といったまさに戦争の状態に至るのである。

クビーン自身の挿絵(没落)


 この畳みかけるようなエピソードの連鎖は、完全に『百年の孤独』の方法と一致している。『裏面』においては一つひとつのエピソードが矛盾しているように見えることもあるし、発生した異変がどのように終息したのか書いてない場合もあり、必ずしも整合性が取れているとは言いがたい面はある。
 しかしそれは、マルケスの場合でも同じことである。不眠症のエピソードに続くのは健忘症のエピソードであるが、ものの名前を忘れないように町の中のあらゆるものに名前を書き記していく、あの忘れがたいエピソードがどのようにして終焉するのかといえば、町にやってきた一人の老人がもたらす薬によってなのである。
 ご都合主義的とも言えるこうしたエピソードの終息やエピソード間の不整合は、『百年の孤独』でも顕著なのであって、それが小説については素人であった、一人の画家が描いた『裏面』という作品の欠陥であったのではない。エピソードの積み重ねは〝語り〟に特有の方法であり、不整合などものともせずに、語りは次から次へとエピソードを繰り出していくのである。
 エピソードの畳み重ねがそれぞれの不整合を覆い隠していく、というよりも、整合性の価値自体を?脱していくのである。語られる者にとってエピソードの整合性などどうでもいいというのが、語りというものの本質であるからだ。子どもの頃、母親や祖母などに即興の物語を聞かされた者にとって、それは自明のことである。

 

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(7)

2022年03月10日 | 読書ノート

「夢の国の没落」と題された第3部は、ペルレに現れたアメリカ人ハーキュリーズ・ベルがパテラと激しく対立する中で、夢の国が何か不可思議な力によって崩壊していくという内容になっている。私がこの小説を読んで最も驚いたのはこの第3部第3章「地獄」と題された部分に対してであった。
 この章はパテラ崩壊の予兆のいくつかがエピソードとして連続していくところで、その最初のエピソードが「眠り病」である。「眠り病」はハーキュリーズ・ベルがパテラを倒すための行動に打って出ようとする時に、彼自身と彼の周辺の現象として発生する。つまりそれはベルの政治活動を阻害する要因をなすのだが、それだけではなく「眠り病」はパルレの町全体、夢の国全体へと拡がっていく。

「ベルレは、不可抗力の眠り病に冒された。眠り病はアルヒーフで突然起こり、そこから町と国へ広がっていった。誰一人としてその伝染病にはさからえなかった。まだ活力があると自慢にしていた人も、知らぬ間にどこかで病原菌にとりつかれていた。
 眠り病の伝染的な性質は、すぐさま認識されたが、しかしどの医者にも治療手段が見つからなかった。ベルの声明は目的を達しなかった。まだそれを読んでいる最中に、人びとはあくびをしはじめたからである。家にいられる人はすべて、できるかぎり家にいて、街で疫病に襲われないようにした。自分の身を守るにふさわしい場所がみつかると、人びとは従容としてその新しい運命にしたがった。悲しんでなどいなかった。たいていの場合、強い疲労感が最初の徴候だったが、そのあと患者は一種痙攣性のあくびに襲われた。眼に砂がはいったように思い、瞼が重くなり、考えごとがすべてもうろうとしてきて、そのときちょうど立っていた場所でそのままぐったり坐りこんでしまった。 病人は、強い臭気や塩化アンモニウムなどによって時おり眠りから救い出されることもあったが、わけのわからない二三の言 
葉を舌足らずに口ごもるだけで、ふたたび気を失っていった。」

 この一節を読んで、G・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』における伝染性不眠症のエピソードを思い出さない者はいないだろう。『百年の孤独』はエピソードに続くエピソードが展開する、エピソードの無限連鎖から成り立っているが、不眠症のエピソードは最初の集団的異変であって、このエピソードによって『百年の孤独』はスタートするのだと言ってもいいくらい重要な場面である。引用してみよう。

「実際に、みんなが不眠症にかかっていた。ウルスラはさまざまな草や木の薬効を母から教えられていたので、鳥兜の飲み物をみんなに与えたが、眠れるどころか、一日じゅう目をさましたまま夢を見つづけた。そのような幻覚にみちた覚醒状態のなかで、みんなは自分自身の夢にあらわれる幻を見ていただけではない。ある者は、他人の夢にあらわれる幻まで見ていた。まるで家のなかが客であふれているような感じだった。台所の片隅におかれた揺り椅子に腰かけたレベーカは、白麻の服を着て、ワイシャツのカラーを金のボタンできちんと留めた、自分にそっくりな男から薔薇の花束をささげられる夢をみた。男のそばには白魚のような指をした女がいて、花束から墓を一輪ぬいてレベーカの髪に挿してくれた。ウルスラはその男女がレベーカの両親にちがいないと考えたが、しかしいくら思い出そうとしても、一 度も会ったことがないという確信を深めたたけだった。」

 クビーンのもマルケスのも長めの引用としたのは、その内容だけではなく、語り口までよく似ていることを理解してほしいからである。もちろん「眠り病」と「不眠症」は正反対の異変であるが、どちらも伝染性であり(『百年の孤独』では口から感染することになっている)、集団的現象あるいは集団的幻想であることの共通性こそが重要なのである。

・ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(2006、新潮社)鼓直訳

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(6)

2022年03月08日 | 読書ノート

 さらに付け加えるならば、ホフマンの幻想表現も、クビーンの幻想表現も極めて絵画的で、それが鮮明なイメージを結ばせるという点で共通している。グリューネヴァルトの《聖アントニウスの誘惑》では、鳥に棍棒を持った人間の腕を接合したり、ナマズのような顔の動物に人間の体を合体させたりしているのだが、イメージは現実の存在物とまったく同じレベルで現前している。絵画にはそのようなことが可能なのである。
 ホフマンの幻想表現もまた、グリューネヴァルトの絵画と同じように、人間の顔と鴉の体の接合、蟻と人間の脚の接合、あるいは毛虫と羽との接合が直接に絵画的イメージを喚起させる。言葉もまた現実の存在物と同じように、想像物を現前させることができるのだ。ホフマンの幻想描写が、他の作家のそれを大きく凌駕しているのはそのためだと言うことができる。
 あるいはまた、そうした幻想的なもののイメージを現前させることができるのは、言葉と絵画だけだと言うことも可能だろう。それは幻想というものが主に視覚的なイメージに支えられることが多いことから来ていると思われる。幻聴のようなものももちろんあるが、それは絵画によって表現できないし、言語によっても表現することが難しいものである。
 そんな意味でクビーンのペテラの顔の百面相もまた絵画的で、現実の存在物と同じように現前するイメージを獲得している。そして、クビーンの描写の中に実は、幻想というものが生まれる場所が示されているのである。
 先日の引用をもう一度読めば分かるのだが、パテラの顔の変貌は、最初は比喩としての表現に始まって、徐々に比喩的な要素をなくしていって、最後は比喩が比喩対象にすり替わるという過程を経ている。それはパテラの顔が最初は人間の相貌であったのに、徐々に人間の顔の特徴を失って、動物化していく過程そのものである。
〝ような〟という直喩の指標が減じていく流れがそこにはあって、それはつまり直喩が隠喩に転換していく過程なのである。「カメレオンのように」とあるのは、人間の顔がカメレオンに似ていくということではなくて、カメレオンがその体皮を千変万化させるように、人間の顔が変わっていくということである。
 さらに「七面鳥のような贅肉」というのも、パテラの顔が七面鳥の顔と化すのではなく、顔に七面鳥の肉垂のような爛れた肉が付くというだけのことである。そして「次に現れたのは動物たちの顔だった」という一文以降、直喩は指標を欠落させて隠喩に、いや隠喩ですらなく比喩対象そのものを失っていくのである。もう一度最後の所を引用する。

「一頭のライオンの顔貌、それがやがてジャッカルのようにとがって狡猾な顔つきになり――それが鼻孔をふくらませた野生の雄馬に変り――鳥類になったかと思うと――次には蛇のようなものに変った。」

「蛇のようなもの」という表現にまだ直喩の指標が残っているではないか、といわれるかも知れないがそうではない。ここは「蛇」でもかまわないが、「蛇のようなもの」とすることで、蛇に似ているがそうではない得体の知れないものを示し、幻想性を高めているのである。すでに人間の相貌は失われている。
 以上がクビーンの一節から読み取ることができる、幻想というものが生み出されていく言語的な構造である。比喩表現がその対象を駆逐して、比喩そのものが対象に成り代わるのである。直喩が隠喩と化していく過程、あるいは直喩が隠喩を経て、比喩表現そのものを失っていく過程こそが幻想が生まれ出る場所なのだと言うことができる。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(5)

2022年03月07日 | 読書ノート

 クビーンの方は顔が次々に変貌していくのに対し、ホフマンの方では次から次へと奇態な悪鬼どもが姿を現すという違いはある。しかし私が指摘したいのは、想像力の働かせ方の共通性である。クビーンの引用からは「カメレオン」と「七面鳥」を拾うことができ、ホフマンの引用からは「蟋蟀」「鳥」「蜥蜴」「毛虫」「蟻」「馬」「梟」を拾い上げることができる。
 クビーンの先の引用に続く以下の場面でも、多くの動物の面貌がパテラの顔に現れてくることが読み取れるだろう。

「次に現われたのは動物たちの顔だった――一頭のライオンの顔貌、それがやがてジャッカルのようにとがって狡猾な顔つきになり――それが鼻孔をふくらませた野生の雄馬に変り――鳥類になったかと思うと――次には蛇のようなものに変った。それは見るも恐ろしい眺めだったが、私は叫び声をあげようにも、あげることができなかった。いまわしい顔、血みどろになった顔、わんぱくで臆病な顔などを、私はつぎつぎに見なければならなかった。」

 怪異なもの、面妖なもの、グロテスクなものを、動物の顔や姿形になぞらえるという共通性を、明らかに読み取ることができるのである。それだけではなく、もう一つの共通性として恐ろしさの中に、ある種の滑稽さが含まれていることも指摘しておきたい。クビーンの場合も言ってみれば百面相のようなおかしさがあるし、特にホフマンの引用部分には人間の体と動物の体の接合が描かれており、独特な滑稽さがある。
 ここで思い出すのが、15~16世紀のドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画に描かれた《聖アントニウスの誘惑》である。この作品の中では豚や魚、鳥などと人間の体との接合が描かれているし、そこには恐ろしいだけではなくて、幾分かの滑稽さが含まれていることを否定することは出来ない。
 おそらく、二人の奇抜な想像力の源泉にはグリューネヴァルトのこの作品があると思われる。特にクビーンの本業は画家であり、『裏面』の中でパルレの建物の装飾品としての絵画の作者として、ブリューゲルやレンブラントと共に、グリューネヴァルトの名前が挙げられているのである。

グリューネヴァルト《聖アントニウスの誘惑》

また、ホフマンのクビーンへの直接的な影響も明らかである。『裏面』刊行の後のことではあるが、クビーンはポー、ネルヴァル、ドストエフスキー、ホフマンなど、自分の好きな作家の小説に挿画を描くことに専念したことが、解説に記されている。ホフマンはクビーンの愛読作家だったのである。

 

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アルフレート・クビーン『裏面』(4)

2022年03月06日 | 読書ノート

「第4章 魔力のとりこ」から、「ある幻想的な物語り」とのサブタイトルを持つ、この作品特有の怪異な現象が始まっていく。最初の怪異は妻が街中でパテラと遭遇する場面になっている。妻はパテラの恐ろしい目に恐怖を感じ、不安状態から抜け出せなくなり、心身の不調に責めさいなまれることになる。結局これが要因となって妻は死に至るのであり、この場面は重要である。ここからこの物語の登場人物たちは何ものかの「魔力のとりこ」になっていくのだからである。
 絶望のあまり彷徨する「私」は、知らず知らずにパテラがいるであろう宮殿の前に佇んでいる。そこに入っていき、無数の部屋を通り抜けて、行き止まりの大きな部屋に達した「私」は、そこに眠ったまま笑い、しゃべり続けるパテラの姿を発見する。ここでパテラと「私」の妻の救いをめぐるやりとりがあるのだが、そこには後ほど触れることにする。まずはクビーンの幻想の描き方を見てほしい。
 パテラはいきなり立ちあがって「私」の前で、次々とその顔を変貌させていく。

「それから私は、ある名状しがたい光景を目撃することになった。――眼がふたたびとじられると、思わずぞっとするような、恐ろしい生命がこの顔にのりうつってきた。顔の表情がカメレオンのように――たえまなく――千通りにも、いや十万通りにも変化していった。電光石火のはやさで、この顔貌はつぎつぎと、若者に――女に――子供に――老人に、似たものになった。それはふとったりやせたりし、七面鳥のような贅肉がついたかと思うと、ちぢみあがってほんのちっぽけなものになったし、――次の瞬間には元気にはちきれんばかりに、ふくれ、のびひろがって、嘲笑や、善意や、嗜虐や、憎悪の表情をうかべ――、皺だらけになったかと見ると、ふたたび石のようになめらかになった――それはまるで解き明かしがたい天然の不可思議のようで――、私は眼をそらすことができなかった。ある魔法の力がまるでねじでしめつけるように私をつかまえ、恐怖が私の全身をひたした。」

 私はこのような恐るべき幻想描写を、E・T・A・ホフマンの作品以外で読んだことがない。世の中に幻想小説は数限りなくあるが、想像力を全開にして〝これでもか〟という具合に、怪異の極みともいうべき場面を連続させていく、ホフマンの描写に比肩できる作家などいるはずがないと思っていたのだ。このことが『裏面』を読んでの私の第二の驚きなのだった。
 では、ホフマンの『悪魔の霊酒』における幻想的場面の頂点を読んでみよう。これも長い引用になるが、是非味わってもらわねばならない。

「わたしが祈りをあげようとしたそのとき、感覚を惑わせるような囁きやざわめきが聞こえた。むかし出会ったことのある人間たちが、醜く歪んで気違いじみた顰め面を見せながら、立ち現われた。――どれもこれも、頭だけの姿で、その耳のすぐわきから生え出た蟋蟀の脚であたりを這いずりまわり、わたしのほうをむいては陰険な目つきで笑うのであった。奇妙な形の鳥たち――人間の顔をもつ鴉たちが空中で騒いでいた。――B市の楽士長とその妹の姿も現われ、この妹のほうは荒っぽいワルツのリズムでくるくる旋回していて、兄がその伴奏を担当していたが、胸がヴァィオリンになってしまっていて、それを弾いているのであった。――ベルカンポが、醜い蜥蝎の顔で現われ、吐き気をもよおしそうな羽の生えた毛虫の翼に乗って、こちらにつっかかるように飛んできたが、わたしの髯を剃るつもりらしく、手に白熱した鉄の櫛をかざしていた――が、そうはうまく剃れるはずもなかった。
 騒ぎはますます気違いじみていき、さまざまな姿の化け物たちは、いっそう奇っ怪で奇抜な形に化け、人間の脚をして踊りまくる小さな小さな蟻から、ぎらぎら光る目をもつ長い長い胴体の馬の骸骨まで、それはさまざま。この馬の骸骨の皮はそれがそのまま鞍敷そのものになっていて、光を放つ梟の頭をした騎士が乗って跨っている。」

 

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