玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」73号刊行

2016年05月30日 | 玄文社

 

 遅くなりましたが、玄文社では4月30日、「北方文学」第73号を刊行しました。
 今号も264頁の大冊となりました。長編の研究、評論の連載が続いていますので、どうしてもページ数が多くなってしまいます。今号も評論中心の構成になっていますが、なんといっても新村苑子の小説「一夜」が光っていますので、無味乾燥を免れているかも。決して評論が無味乾燥というわけではありませんが……。
 巻頭は館路子の「朝に、夢を訪れるものは」です。朝に夢を訪れる非在のものたち、父母や見知らぬ人、亡くした猫などを詠った作品で、いつもの息の長い長詩になっています。それらの訪問は何なのか? それらは何を告げようとしているのか? そしてそれらはいつ消滅するのであろうか?
 大橋土百は詩と紀行文が交錯する「ディアスポラの子午線」でかつての「青の陶酔」の世界へと帰っていきます。2010年のシルクロードの旅、2012年のイランへの旅を回想しながら、民族流浪について思いを巡らせています。
 評論の最初は鎌田陵人の「三島由紀夫の二重性」。21世紀の世界的潮流としての「多文化主義」と「原理主義」との相剋について、三島の作品群を通して追究しています。
 私の「完全なる虚構性の追究」はチリの作家、ホセ・ドノソの長編『別荘』についての作品論です。2014年に初めて翻訳出版されたドノソのこの作品について、おそらく日本で初めて本格的に論じたものと思います。このとんでもない小説を紹介したいという一念から、少し長くなってしまい、反省しています。
 徳間佳信の「私説 中国新時期文学史(2)」は72号の続きです。(1)ではあまりにも政治的な中国現代文学について、読みたくもないのに無理して読んでいるという部分もありましたが、それも(2)につなげるための準備にすぎなかったという感じですね。日本ではまだ誰もやったことのないことに挑戦した成果は(2)で達成されています。莫言などおなじみの作家も出てきますし、韓少功という作家に対しては、かなりの思い入れが感じられます。この連載が続いてくれることを祈っています。
大井邦雄の「優秀な劇作家から偉大な劇作家へ(2)」も先号に続く連載となりました。ハーリー・グランヴィル=バーカーが1925年に英国学術院で行った講演「『ヘンリー五世』から『ハムレット』へ」のうち、四つの項目を取り上げ、膨大な注を施して訳述したものです。
 先号は評論ばかりでしたが、今号には新村苑子の「一夜」が掲載されました。小説のつくりといい、心理描写といい、完璧な作品で、賞を取ってもおかしくない作品です。この人79歳ですが、どんどん小説がうまくなっています。ずっと新潟水俣病についての連作を続けてきましたが、この作品は方言を使わない読みやすい作品です。
 なお表紙はいつものように佐藤伸夫さん。佐藤さんこのところ体調を崩しているので、カットは霜田文子が担当しています。

 以下に目次を掲げさせて頂きます。


朝に、夢を訪れるものは◆館 路子
ディアスポラの子午線◆大橋土百
三島由紀夫の二重性◆鎌田陵人
完全なる虚構性の追究について――ホセ・ドノソ『別荘』を読む――◆柴野毅実
私説 中国新時期文学史(二)◆徳間佳信
優秀な劇作家から偉大な劇作家へ(二)――シェイクスピアの一大転換点のありかはどこか――◆ハーリー・グランヴィル=バーカー 大木邦雄訳述
語り得なかった魂の声を聴く――新村苑子『葦辺の母子』新潟水俣病第二短編集――◆霜田文子
文平、隠居(上)◆福原国郎
高村光太郎・智恵子への旅(10)――智恵子の実像を求めて――◆松井郁子
新潟県戦後五十年詩史 隣人としての詩人たち-〈7〉◆鈴木良一
一夜◆新村苑子

一部送料込みで1,500円です。ご注文は玄文社までメールでお申し付けください。
genbun@tulip.ocn.ne.jp

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荒俣宏編『アメリカ怪談集』

2016年05月24日 | ゴシック論

 荒俣宏という人はあの平井呈一亡き後、英米の恐怖小説に関しては日本で最高のアンソロジストであり、翻訳家であると思う。
 河出文庫のこの『アメリカ怪談集』は1989年の発行であるが、21世紀も10年以上が経過し、恐怖小説のアンソロジーも出尽くし、それに収める作品もとうに底をついたかと思われた2014年に、『怪奇文学大山脈~西洋近代名作選』全3巻を世に問うたのには驚いた。
 この3巻のアンソロジーのそれぞれ巻頭に置かれた精緻を極めた「まえがき」がすごい。それを読むと荒俣という人がこのジャンルに関して、いかに多くの作家に接し、いかに多くの作品を読み、いかに多くの文献に目を通し、いかに優れた分析を行っているかということが、はっきり分かる。
 もう日本でこれ以上のアンソロジーが出版されることはないであろう。荒俣という人は、このジャンルのアンソロジーに終止符を打ったのである。
 また翻訳家としての荒俣宏がいかに優れているかということも、『アメリカ怪談集』の中の3編、H・P・ラヴクラフトの「忌まれた家」、H・S・ホワイトヘッドの「黒い恐怖」、D・H・ケラーの「月を描く人」を読めば、たちどころに分かる。
 この本に収められた13編の中で最もクリアーな印象を残すのが、荒俣の訳した3編であって、それは作品の出来というよりも、彼の翻訳の出来によるところが大きいように思われる。
 特にラヴクラフトの「忌まれた家」は強い印象を残す。荒俣はこの本の解説で「幽霊と悪魔は大西洋を越えたが、妖精は大西洋の荒波を越えられなかった」と言っているが、その通りだと私も思う。
 妖精譚はゴシック的なものとは一線を画すものであり、幽霊と悪魔こそはゴシック的なものの中核をなすものだからである。そしてそれを最も強く体現している作家がH・P・ラヴクラフトであると言ってもよいだろう。
「忌まれた家」は幽霊屋敷譚である。したがって『アメリカ怪談集』に収められた作品の中で最も恐い作品となっている。なぜなら、それが「閉鎖空間の恐怖と血統相続の恐怖」というゴシック的なものの神髄を保持しているからである。
 アメリカ文学はゴシックの伝統を、その中核においてイギリス文学から引き継いだと言うべきだろう。このアンソロジーに収められたほとんどの作品について、それは言えることである。
 私が拘り続けているヘンリー・ジェイムズの作品も含まれている。「古衣裳のロマンス」というその作品は、ヘンリー・ジェイムズとしては"ひとひねり"のない本格的な怪異譚であって、彼の作品としては例外的な部類に属するのではないか。
 しかし、そんなオーソドックスと言ってもよい怪異譚においても、ヘンリー・ジェイムズはその力量を遺憾なく発揮している。一人の男を巡る姉妹の確執と、死んだあとも夫を取られた姉に復讐しようとする妹の凄まじい魂魄を描いて完璧である。
 それにしてもこのアンソロジーに収められた13編の作品には、アメリカ市民生活の日常におもねるどのような作品も含まれていない。それが荒俣の編集方針だとしたら、それも又徹底していると言わなければならない。
 日常性に回収されないある意味での"異常性"がどの作品にもあって、H・P・ラヴクラフトやアンブローズ・ビアス、そしてD・H・ケラーの作品に特に強くそれを感じとることができる。
 それは多分、アメリカ文学においてゴシックの伝統が、より濃縮された形で伝承されたことを意味しているのではないか。ポオやその衣鉢を継ぐラヴクラフトの作品を読めば、そのことは一目瞭然だと思うし、前に取り上げたポール・ボールズのような作家の作品にもそうした徴候は見て取れるだろう。
 アメリカ文学から眼を離すことはできない。

(この稿おわり)

 

荒俣宏編『アメリカ怪談集』(1989,河出文庫)
荒俣宏編『怪奇文学大山脈~西洋近代名作選』(2014,東京創元社)

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志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(5)

2016年05月20日 | ゴシック論

 ポール・ボールズの「私ではない」について書くと約束していたので、そうすることにする。実はこの『アメリカ幻想小説傑作集』は、1973年に同じ白水社から出た『現代アメリカ幻想小説』に収められた16編の作品から、4編を残し、新たに6編を加えて編集されたものである。
 解説で編者の志村正雄が「3編残して7編加えた」と書いているのは明らかに誤りである。で、残された3編というと、コンラッド・エイケンの「ひそかな雪、ひめやかな雪」、トルーマン・カポーティの「ミリアム」、セオドア・ドライサーの「亡き妻フィービー」と、ポール・ボールズの「私ではない」なのである。
 4編ともすでに『現代アメリカ幻想小説』で読んでいたわけだが、3編はほとんど印象に残っていなかった。しかし、ポール・ボールズの「私ではない」だけは、そのあまりにも強烈な印象によって強く記憶に残っていたのである。
 原題はYou Are Not I。直訳すれば「あなたは私ではない」ということ。いきなり「私ではない。私以外のだれも私であるはずがない」という書き出しになっていて、意表をつく。この言葉が作品の後半で効いてくる。
 分裂病の女の一人称で書かれた作品である。分裂病とは"言葉の病"に他ならないから、本来は理路整然とした文章構造を保てるはずがないのだが、それでは小説にならないから、主人公の分裂病者に語らせるタイプの小説の多くは正常な文章を維持している(内容ではなく形式として正常という意味)。
 ボールズのこの作品もそうなのだが、女主人公の発想とその行動は大きく正常とはかけ離れている。簡単に筋を辿ると以下のようになる。
 精神病の療養施設に入っている女が、近くで起きた列車事故のどさくさにまぎれて施設を脱走、事故で死に地面に並べられた死体の口に次々と石を詰め込んでいく。救急車がやってきて彼女も収容されるが、女が姉の住所を告げると運転手は女を姉の家まで送り届ける。
 姉は分裂病の妹を恐れていて、施設に電話して連れ戻してもらうことになる。施設の職員に取り押さえられた女は、いきなり姉の口に石を詰め込むが、その時姉と妹がそっくり入れ替わる。姉は分裂病者として施設に収容され、妹は姉としてその家に止まる。
 おかしな文章がたくさん出てくる。

「門の外の歩道のわきに黒塗りの自動車が止まっていて男がひとり運転席でタバコを吸っていた。私はこの男に話しかけて私がだれだか訊いてみようと思ったけれどやめた。」

「あなたは私ではない」ということを自覚しているのだが、この女は自分が誰であるのか本当には分かっていない。分裂病が自己同一性障害であるならば当然のことであろう("統合失調症"という言葉にはそのことが十分に表現されていない。だから、分裂病という言葉を使う)。
 しかし、では本当に姉と妹は入れ替わってしまったのだろうか。分裂病の妹は自身の妄想による"魔術"によってそれを行うのだが、口に石を詰め込む行為がその手段であり、彼女はその後「ここが変わり目だ」と思って目を閉じるのだ。魔術を完成させる儀式である。

「私はしっかり目を閉じた。目をあけたとき何もかもが変わっていて勝ったことがわかった。」

というふうに魔術は勝利を収める。しかし、本当に入れ替わっているのではない。妹が姉に入れ替わったと思っているだけであり、その証拠にこの一編の手記は「私になったと思っている」姉によって書かれているとされている。
 だから本当は逆に姉になったと思っている私によって手記は書かれているのであって、You Are Not Iというタイトルは逆説的な意味を持つことになる。書くのはいつでも"私"でなければならない。"彼女"が"私"の意識をもって書くなどということはありえないからである。
 それにしても石を死体の口に詰め込んでいく場面には鬼気迫るものがあり、この即物性ゆえにこの作品は強烈な印象を残すのであるが、それだけではないということを私は言いたかったのである。
 ポール・ボールズはジョン・マルコビッチが主演した「シェルタリング・スカイ」という映画の原作The Sheltering Skyを書いた作家として知られている。私も見たが、一種異常な映画であったことを思い出す。
 志村正雄はこの作家を高く評価していて、解説で「五十年後には然るべき評価を受けるであろう優れた小説家だと私は思います」と書いている。
(この項おわり)

 

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志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(4)

2016年05月17日 | ゴシック論

 幽霊屋敷譚にこのような転倒を導入したのは、ヘンリー・ジェイムズが初めてだっただろうし、それがヨーロッパとアメリカという二つの世界に関わる文明論的な背景を持っていることも、ジェイムズが並の恐怖小説作家ではなかったことを十分に証明している。
 いわば文明論的な衝突が、ブランドンとブランドン自身が創り出した分身との間に起きているのであって、単に恐怖を追究している小説ではないのである。しかし、ブランドンが本当に分身と出会う場面は、恐怖小説の手法に則って、押しては引き、引いては押しながら、ひたすら恐怖を増幅させる描写の連続となっている。
 最初は分身を待ち伏せしようと意気込んでいたブランドンも、あまりの恐怖に撤退しそうになる。しかし、決定的な瞬間がやって来る。分身の出現は次のように描かれている。

「幽霊のようでいながら人間のようで、この自分のような実体感と背の高さの者があそこに待っている……人を仰天させる能力で勝負しようというのだ。そうでしかあり得ない――そう思って近づくと、その顔を定かならぬものにしているのは両手を挙げて顔を覆い、挑戦的に顔をこちらに向けるどころではなくて、その手の中に暗く哀願するように面を隠しているのだ。」

 なぜ分身は顔を隠しているのか? それはすぐに分かる。ついに「あらわになった顔は彼の顔としてあまりに醜悪だ」とジェイムズは書く。そして「彼の前にいるものこそは妖怪、彼の心の中にいるおぞましいものこそおぞましいもの」と続ける。
 分身の側からすれば、醜い顔をブランドンに見られたくないという気持が働いていただろうし、ブランドンはその醜い顔を見て、それが自身の分身であるという事実を否定するだろう。かくしてアメリカを出ず、ニューヨークに33年止まっていたとしたらそうなったであろう存在は拒絶されるのである。
 またこの分身は片方の手の指を二本欠いている。このあたりの細部がなんともなまなましい。ミス・スティヴァートンが言う「彼は惨めだったのよ。彼は荒廃させられたのよ」という言葉が、なんと的確なものとして響いてくることだろう。

 もう一つの「ひとひねり」も加えられている。"夢による告知"のテーマがそれである。ブランドンはニューヨークに帰って、旧知の女性ミス・スティヴァートンとの会話を重ねている。この女性が不思議な夢を見る。彼女は夢の中でブランドンの分身と二回も会っているのである。
 そして、ミス・スティヴァートンが出会うブランドンの分身は当然のようにブランドン自身が出会うブランドンの分身とは違っている。なぜなら一方はミス・スティヴァートンによって創り上げられたブランドンの分身であり、もう一方はブランドン自身が創り上げた彼自身の分身であるのだから。
 ところで、分身と出会ったブランドンは「その面前では自分の人格が崩壊してしまうような人格の凶暴さに直面して」失神してしまう。ミス・スティヴァートンは夢による告知によって、ブランドンの危機を悟り、屋敷に駆けつけて、倒れているブランドンを発見する。彼女はもう一度夢で"彼"に会ったのである。
 最後のブランドンとミス・スティヴァートンの間の判じ物のような会話が、この作品にとって最も重要な部分である。分身をめぐる二人の異なった判断、ブランドンの自己嫌悪、そしてブランドンのスティヴァートンに寄せる気持、さらにスティヴァートンのブランドンに寄せる気持が複雑に交錯して、難解きわまりない会話を構成していく。
 しかしこのような会話と心理描写は、ヘンリー・ジェイムズの主要作品に馴染んだ者にとって、それほど特別なものではない。ただそれが超常現象に関わっているというところが違うし、それは『ねじの回転』と共通している部分なのである。
 ブランドンが見た分身は化け物のようであったが、ミス・スティヴァートンが見たブランドンの分身はそうではなかった。ブランドンは自己嫌悪とアメリカの醜悪さにおいて、醜悪な分身を創造するが、彼女の方はそうではない。なぜなら彼女はブランドンを愛しているからである。最後の場面は読む者を深い感動へと誘う。

「「だから彼は違う……そうよ、彼は――あなたじゃない」と彼女はささやき、彼は彼女を胸に引き寄せた。」

 こうして一編はラブロマンスとして完結する。「なつかしい街かど」という作品は、幽霊屋敷譚を基本としながらそこに分身のテーマと、夢による告知という恐怖小説の要素を加え、さらには文明論とラブロマンスで色づけられた傑作である。

 

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志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(3)

2016年05月16日 | ゴシック論

「過去の自分に対面するためなのであろうか……」と私は書いた。しかし、そうではなく、ブライドンはもし33年前ニューヨークを離れなかったとしたら、そうなったであろう自分自身と対面するために、古い屋敷に足繁く通うのである。
 ところで、この分身の問題を俎上に乗せる前に、この作品の基本的な枠組みである"幽霊屋敷譚"について触れておかなければならない。恐怖小説にはいろいろなジャンルがあるが、幽霊屋敷譚は最も多く書かれたジャンルの一つであろう。
 そして、世界で最も恐い小説のベスト3に、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と、エドワード・ブルワー=リットンのその名もズバリ「幽霊屋敷」という二つの幽霊屋敷譚が挙げられていることから分かるように、幽霊屋敷譚ほどに恐いものはないのである。
 それはなぜか? おそらくそれは、幽霊屋敷譚がクリス・ボルディックの言う「閉所恐怖的感覚」と「血統に対する相続恐怖」に最も関わってくるからである。つまり、ゴシック的なものの最大の核となる部分を幽霊屋敷譚が体現しているのである。
 屋敷は閉ざされてはいても広くなければならない。そうでなければどこからともなく現れる幽霊の居場所がない。さらに突然の出現を演出する舞台装置として広い屋敷は不可欠である。
 ホレース・ウォルポールが『オトラント城奇譚』で古城を舞台としたように、アン・ラドクリフが『ユドルフォの謎』でユドルフォ城やルブラン城を舞台としたように(ラドクリフの場合にはそれが幽霊ではなかったことが後で明かされるにしても)、広い閉鎖空間が用意されなければならない。
 ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』でそれを実践したのだし、「なつかしい街かど」でもこの原則を守っている。『アスパンの恋文』でも『聖なる泉』でもじことである。
 また、城や屋敷は先祖の記憶の多くを濃密に蓄えている場所でもあって、血統相続恐怖を演出するのにこれほどふさわしい場所はない。ジェイムズはこうした古典的と言ってもいいような舞台に、どんな「ひとひねり」を、あるいは「ふたひねり」を加えたのであろうか。
「ひねり」の一つはもちろん"分身"のテーマである。しかもポオの「ウィリアム・ウィルソン」の場合のような自分自身の中の罪と良心に起因する分身ではない。「なつかしい街かど」のそれは、ニューヨークを出てヨーロッパで33年過ごした現実の自分と、ニューヨークを離れずに33年を故郷で暮らしたとしたらそうなったであろう仮想の自分とに起因する分身なのである。
 しかもそこには文明論的なテーマが横たわっている。ニューヨークに帰ってスペンサー・ブライドンが抱くのは、以下のような感想である。

「ものの釣合い、価値観がめちゃくちゃになっている。予想していた醜悪なもの、あまりにもすばやく醜悪感に目ざめた遠い少年時代に醜悪と思ったもの――そういう異常なものどもが今帰って見ると、むしろ魅力になっている。それに対して「しゃれた」もの、モダンなもの、巨大なもの、有名なもの、彼が毎年やって来る何千人という純真な観光客なみに、特に見ようと思って来たものこそ、まさに落胆のみなもとであった。」


 そのような醜悪なニューヨークで生活を続けていたら自分がどうなったかについてブライドンは考え続け、そうなったであろう自分に出会うために古い屋敷に通うのである。
 しかも自分の分身に会いたいという欲望は、その屋敷の中に自分の分身が潜んでいるという確信へと変わっていく。つまりブライドン自身が分身を創り出し、分身を血肉化させていく。さらに彼は分身の先回りをする。
 幽霊が人間を待ち伏せするのではなく、逆に人間が幽霊を待ち伏せする。ジェイムズは次のように書いている。

「総じて亡霊におののいた者は多いが、彼以前にこのように主客を転倒させ、みずからが亡霊世界の計り知れぬ恐しいもの(テラー)と化した者はいないだろう。」

「ひとひねり」どころかこれは"転倒した"幽霊屋敷譚なのである。

 

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志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(2)

2016年05月15日 | ゴシック論

 10編の作品の中で私が最も凄いと思ったのは、ヘンリー・ジェイムズの「なつかしい街かど」であった。この作品は様々なアンソロジーに収載されていて、すでに2回は読んでいる。
 ポプラ社の「百年文庫」にも入っているし、ヘンリー・ジェイムズの短編集にも入っている。しかし何回読んでもよく分からない極めて難解な作品で、今回3回目に読んで初めて理解の糸口がつかめたような気がする。
 このアンソロジーの中でも、他の作家とは格の違いを見せつける重厚で、哲学的と言ってもよい作品である。ヘンリー・ジェイムズはしばしば"難解な作家"と言われるが、私は必ずしもそうは思わない。
 代表作『大使たち』にしたってじっくり読めば決して難解ではないし、恐怖小説の極北にある『ねじの回転』にしたって、その真意はともかく読みやすい作品ではある。
 しかし、「なつかしい街かど」だけはやはり難解な作品と言わざるを得ない。一種の分身小説なのだが、それが幽霊屋敷小説の形態をまとっていて、しかも夢の要素が絡んでくる。しかもその夢は現実を開示する夢であり、それもまた恐怖小説の要素であるとすれば、「なつかしい街かど」は恐怖小説の3つの要素が複雑に絡み合った作品だと言わなければならない。
 しかし、あの『聖なる泉』を吸血鬼譚のパロディとして読むことが出来るとすれば、「なつかしい街かど」は幽霊屋敷譚のパロディなのであって、そう言う読みから理解の糸口はつかめてくるだろう。
 だが"パロディ"という言葉は正確ではない。ヘンリー・ジェイムズは『聖なる泉』で吸血鬼譚をちゃかしているわけではないし、「なつかしい街かど」で幽霊屋敷譚を馬鹿にしているわけでもない。
 そうでなければあの大傑作『ねじの回転』は書かれ得なかったはずであり、ジェイムズは『ねじの回転』でも大まじめで幽霊屋敷譚を書いたのであるし、それに独創的な"ひとひねり"を加えたのであった。
 既存の幽霊屋敷譚にはあり得ない"ひとひねり"が何であったかについては、『ねじの回転』の項を参照して頂きたいが、それがあるからこそ『ねじの回転』は恐怖小説の極北にあり続けるのである。
 では「なつかしい街かど」でジェイムズは既存の幽霊屋敷譚にはないどんな"ひとひねり"を付け加えたのであろうか? そのことが「なつかしい街かど」についての私の最も大きな問題提起となるのである。
 主人公はスペンサー・ブライドン。生まれ育ったニューヨークを23歳で出て、おそらくロンドンで33年を過ごし、ニューヨークに帰ってきた男である。この設定は自身が故国を離れ、ロンドンを拠点として活動しながらも1904年に20年ぶりにアメリカに帰った(一時的にではあれ)という事実に負っている。
 ブライドンはニューヨークに二軒の家を持っている。一つは彼自身がニューヨークに所有していたもの、もう一つは兄弟達の死によって遺産として彼のものになった、彼自身の生家である。ブライドン所有の家は高層住宅に建て替えられている途中で、ブライドンもそのことを了承している。
 ニューヨークはロンドンと違って加速度的に変貌する街なのである。二つの家は対照的な存在となっている。一つは新しいニューヨークを象徴し、もう一つは古いニューヨークを象徴する。
 ブランドンは生家の取り壊しには抵抗し、毎日のように(ある時は日に二回も)その屋敷を訪れている。過去の自分に対面するためなのであろうか……。

 

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志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(1)

2016年05月14日 | ゴシック論

 フアン・ルルフォの『燃える平原』について書き継いでいこうと思っていたのだが、『ぺドロ・パラモ』についてもそうだったが、私にはうまく書けそうもない。ひとまず保留としておきたい。
 ところで、The Mysteries of Udolphoを3か月かかって読み終え、解放感に浸っている。あとはしばらく自由に好きな本を読んでやろうということで、白水社uブックスの『アメリカ幻想小説傑作集』と河出文庫の『アメリカ怪談集』を続けて読んだ。
 白水社のは1985年の本、河出のは1989年の本で、いずれも古書でしか手に入らない(と思う)。当時このようなアンソロジーが日本人の編集によって多く編まれていて、白水社の方はアメリカ編の他にフランス、ドイツ、イギリス、スペイン、日本、中国、朝鮮編がある。
 河出文庫の方もアメリカ編の他に、ドイツ、イギリス、フランス、ロシア、ラテン・アメリカ、日本編がありどちらも充実した内容になっている。「怪談集」となっているが、怪談というよりも恐怖小説や幻想小説のアンソロジーと言うべきで、編集のセンスも良い。
 先に『アメリカ幻想小説傑作集』の方を取り上げる。なぜアメリカ編を先に選択したのかと言えば、クリス・ボルディックが言っていたように、ゴシック小説の伝統が最も強く伝わっていったのがアメリカであるからで、私はこの「ゴシック論」を通して、そのことを深く認識するに至ったのである。
 編者は志村正雄。ワシントン・アーヴィングからドナルド・バーセルミまで10人の作品が収められている。アーヴィングが1783年生まれ、バーセルミが1935年生まれだから、訳150年をカバーしていることになる。
 私はこのようなアンソロジーを読む時には、まずどの作家が読むに値しないかをチェックすることにしている。しかし、10編の作品のどれもがレベルが高く、排除の要件を満たす作家はそれほどいない。つまりは編集がうまくいっている証拠である。
 一つだけ、セオドア・ドライサーの「亡き妻フィービー」については、ちょっと泣かせる作品で、アメリカ市民社会の良心をくすぐる作品であり、私には似合わないので今後読まないことにしよう。
 ナサニエル・ホーソーンの「若いグッドマン」とエドガー・アラン・ポーの「妖精の島」は、どちらもヨーロッパのゴシック小説の正統的な後継作品という感じがする。やはり偉大な作家の短編として敬意を表しておきたい。
 新しいところではポール・ボールズの「私ではない」が、異常な分裂病の女性の行動を描いていて、恐ろしい。この異常さはただごとではないので、後で詳しく書くことにする。
 トルーマン・カポーティは『冷血』を読んでいるし、『冷血』の映画化作品も観ていて、まったく好きな作家ではないのだが、「ミリアム」には唸ってしまった。ミリアムという少女がミリアムという同名の老女の家に執拗に侵入してきて、好き勝手に振る舞うが、老女の方はそれを拒絶できないという話である。少女の不気味な存在感がこの作品を忘れがたいものにしている。
 ポスト・モダン作家と言われるジョン・バースの「夜の海の旅」とドナルド・バーセルミの「父の泣いている風景」についてはどう判断していいのか正直分からない。
 バースの「夜の海の旅」は、ある精子が数億倍と言われる競争を勝ち抜いて、卵子に到達する苛酷な旅を描いているということが途中で分かるので、なぜそんなことを書くのかということは別にして、何とかついて行けるが、バーセルミの方はそうはいかない。
 バーセルミの「父の泣いている風景」は、言ってみれば"脱構築"小説であって、小説であることそれ自体を否定する意図を持って書かれているとしか思えない。で、何が言いたいのかについてはまったく理解できないのである。
 バーセルミについては池澤夏樹編「世界文学全集」の短編コレクションⅠに収められた「ジョーカー最大の勝利」も読んだが、映画の「バットマン」に出てくるバットマンとその宿敵ジョーカーの闘いを描いたその作品を、どう評価していいのかさっぱり分からなかったことも言っておかなければならない。

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(1985,白水社uブックス)

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フアン・ルルフォ『燃える平原』(2)

2016年05月07日 | ラテン・アメリカ文学

『燃える平原』は17の作品からなる短編集である。どの作品にも過剰な暴力と悲惨な死が描かれている。それはフアン・ルルフォ自身が体験した、メキシコ革命以降の混乱の時代を反映している。
 ウルグアイのオテロ・キローガの短編作品も、そのほとんどが死を描くか、死と関連した内容となっていた。しかし、キローガの作品が彼の個人的な体験を背景としているのに対して、ルルフォの方は社会的な背景を持っている。
 キローガの作品に社会性や歴史的な視点がほとんど感じられないのに対して、ルルフォの作品にはそれが強く、あまりにも強く感じられる。17編の作品の中で繰り広げられる多くの暴力や悲惨な死が、メキシコの混乱期という歴史的な背景を持っているからである。
 カルロス・フエンテスの『澄みわたる大地』にも、誰が味方で誰が敵かさえ分からないようなメキシコ革命の混迷が描かれていたが、フエンテスの視点は上級兵士に限定されていたのに対して、ルルフォの視点は下級兵士、あるいは革命に翻弄される民衆の視点が濃厚である。
『ペドロ・パラモ』もそうであるが、ルルフォの作品にはインテリ臭さがほとんど感じ取れない。苦難の中で生き、死んでいく民衆の視点で書かれている作品だというイメージが強い。
 ルルフォは多分、自らの体験をもとに書くしかなかったのだと思う。実際にルルフォはメキシコの混乱期に、父や祖父、叔父達を失い、財産も失い、彼の住んでいた町や農場も焼き払われたという。
 ラテン・アメリカの作家達の多くは生まれた国を離れて暮らし、ヨーロッパやアメリカの文学の影響下で、ある意味極めてインテリ的な作品を書いたのに対してルルフォの文学はそうではない。
 彼が生涯にたった2冊の本しか書けなかった理由もそこにあるし、その2冊の本がラテン・アメリカ文学の中でも奇跡的な特異性を持っている理由もおそらくそこにあるのだろう。
 しかし、私はルルフォが知的な作家ではなかったということを言いたいのではない。この『燃える平原』の中のいくつかの作品や『ペドロ・パラモ』のような恐ろしいほどの完成度を達成している作品が、優れた知性なしに書かれうるものではないことを知っているからだ。
 私が言いたいのは、ルルフォの文学が他のラテン・アメリカの作家、たとえばアレホ・カルペンティエールやカルロス・フエンテス、ホセ・ドノソ、バルガス・リョサなどのエリート達(知的なエリートという意味であって、社会的な成功者であるということを意味しない)の文学とは決定的に違っているということにすぎない。
 ルルフォは自分自身の体験から離れて書くことが出来なかった。他のラテン・アメリカの作家達とは違って、自身の体験以外の領域を取材して書くことも出来なかったし、想像力に遊ぶことも、ましてや完全な虚構を構築することも出来なかったのである。
 ルルフォのような作家はだから、多くの作品を残すことが出来ない。しかし、『燃える平原』と『ペドロ・パラモ』のような奇跡的な傑作を残してくれただけで、我々には十分なのだと言わなければならない。

(この項以下保留)

 

 

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(15)

2016年05月06日 | ゴシック論

 3か月もかかってしまったが、ようやくAnn Radcliffe The Mysteries of Udolphoを読み終えることが出来た。上巻336頁、下巻344頁、合わせて680頁の大冊であった。途中くじけそうになったこともあるが、大衆小説的な話のおもしろさに助けられて、何とかゴールした。
 さてエミリー一行がルブラン城に辿り着いた後の経緯を書いておかなければならない。ルブラン城には開かずの部屋があって、そこでヴィルロア侯爵夫人が不幸な死を遂げたのである。エミリーはその部屋で恐怖の体験をする。幽霊が出現したのである。
 それを確かめるために、勇敢なルドヴィコは寝ずの番をするのだが、そのルドヴィコが忽然と姿を消し、行方不明になってしまう。ヴィルフォール伯爵一行はブランシュ嬢の婚約者サンフォアの城からの帰りに、盗賊の要塞に迷い込んでしまう。ブランシュ嬢が盗賊に捕まったその時、ルドヴィコが突然現れて一家を救う。
 ルドヴィコはルブラン城の部屋に出入りしていた盗賊に拉致されていたのである。幽霊騒ぎはこの盗賊達の仕業で、略奪品の貯蔵庫として部屋を使い、誰も近づかないように幽霊の噂を広めていたのであった。
 The Mysteries of Udolphoでは何ごとにも合理的な解明が与えられる。超常現象が超常現象として放置されることはない。ラドクリフが18世紀の合理主義的な精神の持ち主であったことをよく示しているが、だからと言って、そのことでこの作品の価値が高まるわけではない。
 エミリーとヴァランクールはどうしているのか? ヴァランクールはヴィルフォール伯爵によく思われていない。彼の悪い噂を耳にしていたからである。それを聞かされたエミリーは、ヴァランクールがパリでの生活の中で、堕落してしまったものと思い込んで、彼の求愛を拒絶する。
 本当はこのあたりのことを丁寧に書いておかないと、ラブロマンスとしても面白くないのだが、エミリーの複雑な感情についてはともかく、ヴァランクールの感情については極めて下手くそにしか書かれていないので、真実味がまったくない。ラドクリフは人間の感情よりも活劇を描く方に向いていたようである。
 ところで、修道院に頭の狂った修道女が一人いて、彼女が死の床に伏せった時に、エミリーを見て「そっくりだ。貴女はヴィルロア侯爵夫人の娘ではないか?」と問い、その後、狂乱状態に陥って死んでしまう。
 その謎をラドクリフはこの修道女の語りとしてではなく、地の文で解明していくのだが、このあたりの操作も決してほめたものではない。エミリーが見聞したことを軸に小説を進めてきたのだから、ここは修道女のエミリーへの告白として書かれなければならないところである。
 謎は以下のように明かされる。その修道女はローレンティーニというユドルフォ城のかつての所有者であり、ヴィルロア侯爵と愛人関係にあった。彼女は侯爵と手を組んで侯爵夫人を毒殺し、その後良心の呵責に耐えかねて、贖罪のために修道院に入ったのであった。
 殺された侯爵夫人こそサントベールの妹であり、エミリーのもう一人の叔母であったのである。サントベールは不幸な妹のことをエミリーに知ってほしくなかったために、その存在を秘匿し、彼女の手紙を焼き捨てるようにエミリーに命じたのである。
 最後の最後に一挙に謎が解明されていくが、これこそ推理小説の基本的なあり方であって、ラドクリフが"推理小説の祖母"と言われる所以なのである。謎の解明についてもけちをつけたいところはたくさんあるが、最もいけないところは別の部分にある。
その悪い噂がまったくの誤解であったことが判明して、ヴァランクールはヴィルフォール伯爵の厚い信任を得ると同時に、エミリーの愛を取り戻し、最後はブランシュとサンフォア、エミリーとヴァランクールの結婚式の場面でこの小説は終わる。めでたしめでたしというわけである。
 最後にアン・ラドクリフは次のような文章を書きつけている。

Oh! useful may it be to have shown, that, though the vicious can sometimes pour affliction upon the good, their power is transient and their punishment certain; and that innocence, though oppressed by injustice, shall, supported by patience, finally triumph over misfortune!

 こんな勧善懲悪を絵に描いたような説教を聴くために、私はこの小説を3か月もかかって読んできたのかと思うと腹立たしくなる。二度とラドクリフの小説を読むことはないだろう。さようなら。
(この項おわり)

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