玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(6)

2015年02月28日 | ゴシック論
『明暗』は未完の小説であり、あと十数回で終わる予定の新聞連載小説であった。漱石の胃潰瘍悪化による死で『明暗』は完成をみなかったわけだが、たしかに『明暗』のような百鬼夜行の小説を書いていれば、胃潰瘍も致命的なものとなったであろう。
 しかし“百鬼夜行”と言うが、人間をその心理の奥底に於いて描こうとすれば、どうしてもそうなるのであって、漱石の『明暗』だけが特殊なわけではない。『鳩の翼』もまた、登場人物の心理の奥底を描くことによって“百鬼夜行”の観を呈する。
 ただひとり、主人公のミリー・シールだけがその純粋な心魂において描かれるのであり、そのほかの登場人物は副主人公のマートン・デンシャーとケイト・クロイを含めて、お互いの腹のさぐり合いに終始していて醜い姿を晒すのである。正に百鬼夜行の図である。
『明暗』でもひとり清子だけが汚れのない人物として描かれている。このことも『鳩の翼』との共通点だとすれば、かなり多くの共通点が存在することになる。むしろ『罪と罰』よりも『鳩の翼』の方を『明暗』に大きな影響を与えた作品と考えるべき根拠がある。
 何よりも『明暗』で吉川夫人が、津田に津田の昔の恋人清子を会わせることで、津田夫妻の夫婦関係の危機を好転させようとする陰謀は、『鳩の翼』におけるラウダー夫人が、ケイトと密かに婚約しているデンシャーをミリーに会わせることで、姪のケイトの幸せを確保しようとする陰謀のあり方と似ている。
 また何よりも叙述のあり方そのものが極めて近い。『明暗』もまた極端な心理小説であり、会話もなしに分析的記述が数頁にわたって続くことは珍しくなく、この小説もまた行動のスリルではなく心理のスリルを描こうとしているのである。

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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(5)

2015年02月28日 | ゴシック論
『鳩の翼』を途中まで読んでいて気がついたことがある。この作品は夏目漱石の『明暗』に酷似しているのではないかということである。
 漱石の『明暗』については、かなり前に書いたことがある。登場人物の小林というのがドストエフスキーの作品の登場人物から影響を受けているはずだという確信があり、そのことについて書いた。
 確かにドストエフスキーの『罪と罰』の影響は疑うべくもない。お延につきまとう小林がスヴィドリガイロフにそっくりなのだ。また『明暗』も心理小説だし、『罪と罰』も心理小説である。私は『罪と罰』こそが文学史上世界最高の心理小説であると信じて疑わない。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ、そしてラスコーリニコフとポルフィーリーとの凄まじい心理的戦闘こそはドストエフスキー以外の作家には書き得なかったものだ。
『鳩の翼』は『明暗』と同様“家族小説”でもある。登場人物を照合することも出来る。『明暗』の主人公津田は『鳩の翼』の副主人公マートン・デンシャー、津田の妻お延はマートンの恋人ケイト・クロイ、津田の初恋の女清子は『鳩の翼』の主人公ミリー・シールであり、ケイトの姉マリアン・コンドリップ夫人は津田の妹お秀に違いない。
 さらに小説全体を裏で操るモード・ラウダー夫人は『明暗』における吉川夫人を彷彿とさせる。何よりの証拠はデンシャーと津田の優柔不断、そしてラウダー夫人と吉川夫人の恋をめぐる陰謀にこそみなければならないと私は思う。
漱石は原語でヘンリー・ジェイムズを読んでいたから、『鳩の翼』を読んでいたことは想像に難くない。ちなみに漱石の蔵書の中にジェイムズの『黄金の盃』があり、そこに漱石は次のような書き込みを残している。
「此人ノ文ハ分カルコトヲ分リニクキ言論デカクノヲ目的ニスルナリ」
「カカル精細ナル女ノ記述ハ古人ノ夢想セザル所ナリ」
 おそらく日本で初めてのジェイムズ評であろうこの言葉は、『鳩の翼』についても当たっている。


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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(4)

2015年02月27日 | ゴシック論
 分析的記述が会話文の10倍以上はある。ジェイムズが今日読まれなくなっている理由がよく分かる。フランスの心理小説に慣れていない人にとってはこうした分析的記述は読んでいて苦痛以外のものではないだろう。
 しかし、私は老眼を乗り越え、8ポ2段組をものともせず、夢中になって読むことが出来た。決して哲学的なわけでもない。必ずしも難解でさえない。ジェイムズは人間のドラマをその行動においてではなく、その心理に於いて描こうとしたのに過ぎない。
 そのような作品があってもいいのだし、そうした小説は登場人物の行動のスリルを描くのではなく、心理のスリルをこそ描こうとする。登場人物たちが会話を交わすたびに彼らの心理のスリルが的確に捉えられていく。そのような小説を堪能することもまた可能なことなのである。
 小説のクライマックスもまた、行動においてではなく、心理において実現されていく。これはやはり特殊な小説なのだと言わなければならない。哲学的などとは言えないと私は思う。哲学的であるが故に難解なのではなく、登場人物の心理とその変化を執拗なほど微細に描いているからこそ難解と言われるのではないか。だから分析的記述に根気よく付き合っていけばそれほど難解な小説ではない。ただし、大衆的な指示が得られやすい小説でないことは確かである。
 フランス心理小説の主流との違いが一つある。フランスの心理小説のほとんどは純粋な恋愛小説である。『クレーヴの奥方』、『アドルフ』、『ドルジェル伯の舞踏会』も純粋な恋愛小説、『赤と黒』は若干違うが、それとても恋愛の占める比重は大きい。
 しかし、ジェイムズの『鳩の翼』は純粋な恋愛小説とは言えない。そう言って良ければ“恋愛をめぐる陰謀小説”であって、フランスの心理小説に似たものを探すとすれば、ラクロの『危険な関係』が近いかも知れない。二人の恋人が財産を得て結婚するために、大富豪で不治の病に冒された娘を利用するというストーリーなのだから。

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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(3)

2015年02月27日 | ゴシック論
 そろそろ本題に入らなければいけない。ヘンリー・ジェイムズの小説は哲学のような小説で、極めて難解だとよく言われる。しかし、『デイジー・ミラー』などは決して難解ではないし、何回読んでもよく分からないと言われる『ねじの回転』にしたって、読み出したら止まらないおもしろさを持っている。怖いが……。
 『鳩の翼』を読み始めてすぐに気づいた。これはフランス流の心理小説の一種であると。ジェイムズが“心理主義的”と言われるのはそのせいなのだと納得した。
 小説は副主人公ケイト・クロイとその父ライオネル・クロイのやりとりから始まる。これがなかなかくせ者なのだ。2人の会話は相手に自分の言いたいことを理解させようという形では進行しない。そうではなく、お互いになるべく相手に自分の考えていることを隠しながら、相手の考えていることを探り出そうというやりとりとして進行するのだ。
 父と娘の間でもこのありさまで、2人の会話に対してジェイムズは長い分析を加えていく。フランスの心理小説と同じである。小説が進んで行くにつれて会話は極端に少なくなり、分析的文章が圧倒的に多くなっていく。
 こうした特徴は本家フランスの心理小説よりも極端だと言わなければならない。フランスの心理小説でも腹のさぐり合いとそれに対する分析的記述が中心となるのだが、ジェイムズの場合分析的記述の比重が圧倒的に高い。
 人物描写もなければ、ましてや情景描写などほとんどない。ロンドンとヴェニスを舞台としているのに、名所旧跡についての読者受けする記述や描写などまったくないのである。よくこんな小説が映画になったものだと思うが、たぶん監督はジェイムズの意図をまったく理解していなかったのであろう。

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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(2)

2015年02月26日 | ゴシック論
 しかし、ヘンリー・ジェイムズの長編作品を手に入れて読むのはかなり難しい。かつての日本で「世界文学全集」のたぐいがブームであった頃、そこには必ずヘンリー・ジェイムズの長編作品が入っていたのだが、今日では国書刊行会が出している「ヘンリー・ジェイムズ作品集」によるしかない。
 ところがこの作品集が高すぎて買えない。一冊6,000円以上する。『鳩の翼』は最近まで講談社文芸文庫で出ていたのだが、すでに絶版となってしまっている。アマゾンで古書で手に入れることは出来るだろうが、私はこの河の名前の会社にばかり儲けさせることに快い気持ちを持っていない。
 したがって、過去に出た「世界文学全集」に頼るしかない。文学と美術のライブラリー游文舎には「世界文学全集」だけでも、河出書房、講談社、筑摩書房、集英社等々なんでも揃っている。筑摩版には『ある婦人の肖像』が、講談社版には『使者たち』が、別の講談社の「世界文学全集」には『鳩の翼』が入っている。
 この3作が翻訳されているジェイムズの長編としては代表作と言えるだろう。どれを読もうかと考えたが、ストーリーが一番面白そうだったのが『鳩の翼』だったので、まずこれを読むことにした。
 ところが昔の「世界文学全集」のたぐいは8ポ2段組が主流であり、行間も狭く、読みにくいこと甚だしい。とりわけ老眼の進んでいる私のような世代にとっては、苦痛以外の何ものでもない。
 『鳩の翼』は講談社版「世界文学全集 オプション103」の第54巻に納められていて、8ポ2段組で530頁ある。これを今日出ている標準的な文庫本に換算すると1000頁以上にもなる。大長編なのである。講談社文芸文庫版でも上下巻で900頁ある。
 かつての「世界文学全集」は書斎のインテリアとも揶揄されたが、私はあれがなかったら外国文学に親しむことはおそらくなかったと思う。1巻1巻征服していく喜びは何ものにも代え難かった。今日、河出の池澤夏樹個人編集によるもの以外にないということはやはり寂しいことと言わなければならない。
 しかも池澤版は全30巻しかないが、講談社の「世界文学全集」は全103巻もあったのだ。「なんでこんなものまで」と思わせるような作品も収録されていたかも知れないが、世界文学として必読の作品は必ず入っていたから、どんなに役に立ったことか。
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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(1)

2015年02月25日 | ゴシック論
 ヘンリー・ジェイムズはこれまで『ねじの回転』と創元推理文庫に『ねじの回転』とともに収録されている4編の心霊小説、これも心霊小説だが『エドマンド・オーム卿』それから心霊小説ではない『デイジー・ミラー』を読んできた。『ねじの回転』は世界で最も怖い恐怖小説三作のうちの一つに数えられていたはずだ。あと二つは、ブルワー=リットンの『幽霊屋敷』ともう一つは何だったか忘れた。
 そんなものは読む人によって違うはずだから、それほど重要なことではない。しかし、間違いなく『ねじの回転』と『幽霊屋敷』は3本の指に入るだろう。『ねじの回転』もまた幽霊屋敷譚としても読めるわけで、やはり怖い話の王道は幽霊屋敷にまつわるお話なのである。
『デイジー・ミラー』は若書きの習作のような感じで、それほどの作品とは思わない。天真爛漫なアメリカ娘デイジーは魅力的だが、あまりにもその行動は破天荒で、不自然な小説である。
『鳩の翼』に挑戦したのは、ヘンリー・ジェイムズの本領は長編にこそあり、その心理主義的といわれる小説作法は彼の長編を読まなければ理解できないと考えたからである。もう一つの理由はチリのホセ・ドノソがヘンリー・ジェイムズを偏愛していたという事実があるからである。
 ドノソの死の床を見舞ったバルガス・リョサが「ヘンリー・ジェイムズなんかクソだ」と言うと、ドノソが「フローベールはもっとクソだ」と言い返したというエピソードが知られている。私はリョサの小説は大好きだが、リョサが最も高く評価したフローベールは苦手というか、ほとんど食わず嫌いで『ボヴァリー夫人』さえ読んだことがない。
 ドノソの大好きだったヘンリー・ジェイムズの本丸を攻めない手はない。
「世界文学全集」オプション103の第54巻(講談社・1974)青木次生訳
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ジュリアン・グリーン『モイラ』(3)

2015年02月24日 | ゴシック論
 後味のわるい小説である。『アドリエンヌ・ムジュラ』もそうだった。アドリエンヌにも魅力はないが、ジョゼフにはもっと魅力がない。まるでグリーンは自分の中の否定的な部分を主人公に仮託し、主人公を裁く事を目的としているようにさえ思われる。
 小説を書くことそのものがグリーンにとって内心の罪への処罰の行為であるかのように、グリーンは主人公たちを破局に向かって追いつめていく。ただし、グリーンはアドリエンヌに対しては同情的であるが、ジョゼフに対しては必ずしもそうではない。
 アドリエンヌは戯画化されてはいないがジョゼフは明らかに戯画化されている。グリーンはカトリックの作家である。『モイラ』にはピューリタニズムへの批判の姿勢が明瞭に見て取れる。カトリックは歴史的に宗教的寛容を獲得していったが、ピューリタニズムはそうではなかった。
 アメリカでは未だに宗教的不寛容が大きな力を持っている。「ダーウィニズムを学校で教えてはならない」などという圧力を州や国にかけている団体さえある。無神論への不寛容がその理由である。グリーンが『モイラ』でアメリカを舞台にしたのはそのような理由があったはずだ。
 ところで、ゴシック小説としてほとんど忘れられかけているジェイムズ・ホッグという作家の『悪の誘惑』という作品もまた、ピューリタニズム(この小説ではカルヴィニストの一派の思想)の不寛容、おのれの信仰に従わぬ異端の徒は殺してもかまわぬのだという狂信的な思想への批判の書でもある(後日取り上げることになる)。
 宗教の持つ不寛容についてはイスラム教だけが責めを負っているのではない。キリスト教もまた宗教的不寛容の歴史を積み重ねてきたのであった。ピューリタニズムの禁欲的不寛容はそのひとつの現れである。
『モイラ』のあともう一冊グリーンの小説を読んだ。1971年に書かれた『他者』である。この作品もまた〈性〉をテーマとし、男女の性の行き違いあるいは信仰の行き違いを描いている。第2次世界大戦を背景としているが、歴史的な掘り下げはない。ひたすら性と信仰をめぐる物語で、これもまた後味のわるい小説である。詳しくは書かない。
「ジュリアン・グリーン全集」第6巻(人文書院・1979)山崎 庸一郎訳
(この項おわり)




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ジュリアン・グリーン『モイラ』(2)

2015年02月24日 | ゴシック論
 ジョゼフがいかに教条的な禁欲主義を振りかざそうが、彼自身性の誘惑に勝つことは出来ない。自分が住む下宿の部屋にこの間まで住んでいたモイラという娘が近日中に帰ってくるので、部屋を明け渡してくれといわれ、ジョゼフが行う行為はどういうものか? ベッドのシーツに残された若い娘の匂いを嗅ぎまくって妄想にふけることでしかない。
 第2部になってモイラという魅惑的な娘が登場する。開放的なアメリカ娘とその肉体はジョゼフにとって悪魔の誘い以外のものではない。最も禁じられているものが〈性〉であるとき、女性の肉体は悪魔の誘いであり、闘うべき対象そのものである。
 このようにして禁欲的な宗教思想は、女性の肉体の中に悪魔を造形するのである。悪魔の発生する場所は女性の肉体であり、禁じられた〈性〉そのものである。悪魔を生んだのは神ではない。神による〈禁止〉こそが、人間の中に悪魔を生むのである。
 たとえば、禁欲の空間としての修道院こそが悪魔の温床となる。それこそがゴシック小説が執拗に描いた悪魔の住む本来の場所なのだ。修道士が悪魔と契約して禁じられた欲望を果たしていくというようなゴシック的ストーリーを、我々はマシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』やチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』、H・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』など多くの小説にみることが出来る。
 そのような意味で、ジョゼフが住む下宿の部屋こそがゴシック的空間となる。新しい部屋にモイラが尋ねてきたとき(それは学友たちのいたずらに過ぎなかったのだが)ジョゼフはモイラの肉体の魅力に必死で抵抗するが、結局抵抗むなしくモイラを犯してしまう。そして翌朝目覚めたとき、自らの禁忌への侵犯を罰するかのようにモイラを絞め殺す。
 ジョゼフは自らのうちに潜む悪魔を殺害したのである。

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ジュリアン・グリーン『モイラ』(1)

2015年02月24日 | ゴシック論
『アドリエンヌ・ムジュラ』があまりにも素晴らしかったので、グリーンを続けて読もうと思い、候補に高橋たか子訳の『ヴァルーナ』と私の嫌いな福永武彦訳の『モイラ』の2作を挙げてみたが、全集の月報で私の好きな加賀乙彦が『モイラ』をドストエフスキー的な作品として評価していたので、まず『モイラ』を読むことにした。
『モイラ』は第1部と第2部に分かれているが、表題のモイラは第2部にしか出てこない。いささか身持ちの悪い魅惑的な若い娘の名で主人公ではない。主人公はジョゼフ・デイという色白の美男子だが、髪は赤毛で差別の対象ともなる。根っからの求道者であり、そこがこの小説のキーポイントとなる。アメリカの大学の下宿街を舞台にしている。
 ジョゼフの頑迷な禁欲的思想を中心に、彼の周りにホモセクシュアルや自由思想の持ち主、彼を差別する謎の学生ブルース・プレーローなどの登場人物が配置されている。ジョゼフの周辺はことごとく彼の偏狭な禁欲思想の攻撃の的とされる。
 ジョゼフは決して魅力的な人物として描かれない。彼の禁欲的なピューリタニズムは周囲の嘲笑の的ともなるが、彼は動じない。ジョゼフは下宿生たちに対し酒を飲んだと言っては攻撃し、女遊びに興じたと言っては責め立てる。時には暴力行為にまで及ぶいささか滑稽で危険な人物として描かれる。ジョゼフはグリーンの分身ではない。
 アメリカの大学が舞台だが、そういえばジュリアン・グリーンの両親はアメリカ人であり、グリーンなどというフランス人らしくない名前はそのためだったのだ。彼はだからアメリカ流のピューリタニズムについて知悉していたに違いない。
 グリーンのテーマはいつでも〈性〉である。『アドリエンヌ・ムジュラ』でもそうだが、禁じられているのはいつでも〈性〉そのものであって、それはグリーンが性欲というものに罪の意識を持っていたためだとされている。しかもグリーンはホモセクシュアルに対する強い願望を持っていた。
 主人公ジョゼフに恋するが、ジョゼフの冷酷な扱いに絶望して死ぬホモのサイモン・デマスにはグリーンの欲望が投影されているようだ。
「ジュリアン・グリーン全集」第4巻(人文書院・1980)福永武彦訳。
 
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ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』(3)

2015年02月24日 | ゴシック論
 出口裕弘は何故にこの作品を“幻想小説”と位置づけたのだろうか? この小説には幽霊や悪魔など出ては来ないし、超常現象が起きるわけでもない。
 もともとフランスは知性の国というだけあって、幻想文学の歴史の薄い国である。出口が挙げている10作品の中で純粋に幻想小説と言えるのはシュペルヴィエルの『沖の小娘』くらいのものではないだろうか。バタイユやブルトンの作品を幻想文学と規定するのはいかがなものかという気がするし、ボレルの作品は残酷文学ではあっても幻想文学ではない。デュカスもボードレールも幻想的な資質を持った人ではない。
 ボードレールはアメリカのエドガー・アラン・ポーのゴシック小説をこよなく愛し、自ら翻訳を行うほどの偏愛ぶりだったが、本人は極めて明晰な詩作品と評論を書いた人だった。『悪の華』は確かに背徳的な詩集であるが、幻想的というよりも古典的な枠組みをはずれない。
 戦後の日本にゴシック小説あるいは怪奇小説を本格的に紹介した平井呈一編集の「怪奇小説傑作集」全5巻(創元推理文庫)の中にフランス編1巻が含まれているが、他の巻、イギリス編2巻、アメリカ編、ドイツ・ロシア編とはいかにも趣が違うのである。そこに収録された作品をみれば誰でもそう思うだろう。フランスにはゴシック小説と呼べるようなものが存在しないのである。
 ではなぜ出口は『アドリエンヌ・ムジュラ』を選んだのか。それはこの作品が心理に於いてゴシックであるからだと私は思う。舞台はムジュラ家のお屋敷、そこで父と娘との確執があり、父は娘に対し愛を禁じ、娘もまたそれに抵抗しながらも自らに愛を禁じていく。
 禁じられた愛がアドリエンヌを奇矯な行動に導いていき、その行動故に愛は破綻し、アドリエンヌは狂気に陥っていく。この作品は『閉ざされた庭』The Closed Gardenという題名で英訳されているが、このClosedという言葉がゴシックの閉ざされた空間をよく表現している。
『アドリエンヌ・ムジュラ』にあっては、心理そのものが閉ざされた空間でゴシック風に展開されるのである。閉ざされた空間は閉ざされた心理のゴシック的隠喩なのである。
 新庄嘉章による翻訳は極めつけの名訳であることを付け加えておく。
(この項おわり)
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