玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

図書館協議会委員

2008年05月30日 | 日記
 図書館協議会委員をおおせつかったので、喜んでお受けすることにした。ところが、現在は市立図書館の熱心な利用者ではない。本を借りることもほとんどないし、調べ物で利用することもあまりない。強いて言えば、昔のタイムス紙の記事を確かめたい時に利用するくらいで、協議会委員の資格はないのである。
 しかし、かつて市立図書館に大いにお世話になったことがある。現在のソフィアセンターの前の現ふるさと人物館のそのまた前の、あの木造の古ぼけた図書館の時代である。当時高校生であったから、四十年も前のことだ。
 毎日のように、あの古ぼけた図書館に入り浸っていた。今と比べれば書架の充実もなく、限られた本しか並んでいなかったが、そこで多くの書物と出会うことができた。芥川龍之介の全集や夏目漱石の全集に親しむこともできた。和辻哲郎の全集もあったので、『古寺巡礼』などの主要著作に触れることができた。
 何の脈絡もなく、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』とか、ボーヴォワールの『第二の性』とか、世界の小説を訳もわからず読みまくった記憶があるが、全部忘れた。限られた蔵書ではあったが、市立図書館がなければ、自分の精神形成はあり得なかったと思っている。時効だから言うが、学校の授業をさぼって、市立図書館で本を読んでいたこともあった。
 そんな体験があるので、図書館協議会委員を、恩返しのつもりで引き受けることにしたのだった。でも公立図書館をめぐる状況は大きく変わってきている。貸出至上主義で、ベストセラー本を並べることに賛成できない。誰でも買えるような本を公立図書館の蔵書にすべきではない。
 地方の書店の経営を圧迫するだけではなく、出版業界の活力を失わせることにもなりかねないからだ。公立図書館は、一般の人が買うことができない豪華本や、個人全集などの充実につとめるべきだと思う。高校生の時代にそのような恩恵を受けているので、今でもそうした気持ちを強く持っている。

越後タイムス5月23日「週末点描」より)



木下晋のペンシルワーク

2008年05月30日 | 日記
 大型連休で、「越後タイムス」を一週間休刊させていただいた。その間、休んで寝ていたわけではない。十日からのタイムス主催「木下晋のペンシルワーク」の準備に追われていた。連休明けに木下展を設定したのは、休みの間に準備ができると踏んでいたからで、まったくもって正解だった。
 十日、十一日と、多くの方に「游文舎」と「十三代目長兵衛」に足を運んでいただいた。游文舎の方は、図書館を目的に来られた人も多く、安藤正男さんの同級生も来てくださり、正男さんの残した膨大な書物を眺めながら、二人でさまざまな感慨にふけることになった。
 「木下晋のペンシルワーク」は、「トラ吉百態」と題して、木下さんの比較的優しい絵をギャラリー「十三代目長兵衛」に、「生の深き淵から」と題して、木下さんのとても厳しい作品を「游文舎」に展示した。二つの会場には、恐るべき階梯がある。
 できれば、まずは「十三代目長兵衛」の一階で木下さんの愛猫・トラ吉のコワイイ絵を見て、その細密描写にびっくりしていただきたい。二階に二点、木下さんの本領を発揮した老人を描いた大きめの作品を展示した。トラ吉の絵とは全く違った“すごみ”のある作品で、木下ワールドへの導入部とした。この二作品で心の準備をしてもらって、「游文舎」の大作に向き合っていただきたい。
 「游文舎」で展示している大作群は、木下さんがモデルと格闘した軌跡を刻んだ“ものすごい”作品で、見に来てくださる方が拒絶反応を起こすのではないかと心配していたが、そんなことはなかった。
 来館者の多くは、「こんなにすごい絵は見たことがない」と、深い感動を語ってくださった。初めて木下作品を見た人にも拒絶反応はなかったようだ。
 十七日午後二時から、木下さんのギャラリートークが「游文舎」で行われる。お出でいただければ幸いである。

越後タイムス5月16日「週末点描」より)



10年ぶりの結婚式

2008年05月07日 | 日記
 十年ぶりに結婚式というものに出席した。葬式は重なるときは毎月のようにあるのに、どうして結婚式がこんなに少なくなってしまったのだろう。日本の人口減少と、少子化の現実を反映しているのだろうか。ただし、葬式に参列する人数の方が結婚式に出席する人数よりも圧倒的に多いのは事実だが。
 結婚式は東京千代田区紀尾井町のホテルニューオータニで、午後六時から行われたので、泊まりがけで東京へ行ってきた。ニューオータニは結婚式の披露宴会場としては超一流だそうで、まずはその豪華絢爛な会場に圧倒されてしまった。こんなすごい会場の結婚式に出席するのは初めてだった。
 しかも、知っているのは新婦さんと、そのご両親の三人のみ。控え室では全く知らない人ばかりだったので、どう振る舞っていいか分からず、時間までニューオータニ探検をしてみようかと、会場をうろうろしてみたが、あまりにも場違いな施設でおじけづいてしまった。
 どうして、この結婚式に出席することになったのか説明しておかなければならない。新婦のお母さんと「中村彝アトリエ保存会」の関係で知り合ったのがきっかけだ。お嬢さんは昨年から柏崎の病院に研修医として勤務しておられる。昨年七月十六日のあの中越沖地震発生の翌日、お嬢さんは東京から長岡へ、長岡からはタクシーで、支援の食糧を持って駆けつけてくださった。
 あの時、一番最初に我が家に届けられた支援物資だった。ガスも水道も止まっている状況で、どれほど助かったことか、忘れようもない。感謝の気持ちを込めて出席させてもらったのだった。やさしい新婦さん、本当におめでとうございました。

越後タイムス5月2日「週末点描」より)



阪本芳夫さんのこと

2008年05月07日 | 日記
 一面に掲載した故阪本芳夫さんの原稿は、タイムス編集発行人への私信である。水戸市で中村彝展が開催された平成十五年の九月から十二月まで、十一回にわたって連載した「“魂”の宿る場所││水戸に中村彝展を観て││」を読んで書かれたものだ。私信といっても、中村彝について真正面から論じた評論文であり、阪本さんが亡くなってしまった今、遺稿として紹介することも意味のあることと思う。
 阪本さんとは、折に触れ手紙のやりとりをさせてもらった。私も長文の手紙を書き、阪本さんも長文の手紙をくださった。阪本さんの手紙には、“私的な”要素はほとんどなく、いつも美術や文学、そして哲学について真剣に論じたものばかりだった。
 手紙をいただいた時は、どんな本を読む時よりも緊張感が走り、居住まいを正して読ませてもらった。その古今東西の文化芸術に対する深い教養と思考能力には敬服すべきものがあった。抽象的な概念を頭脳の中で展開し、それを文章に構成していく力は、私信の中にも十分示されていると思う。
 だから、返事を書く時には、さらなる緊張感を感じてしまい、押しつぶされそうになることさえあった。しかし、返事を書く中で、“ものを考える”ということ、そして、きちんとした文章を書くということの訓練をさせてもらった。大変感謝している。
 阪本さんは私にとって、美術批評や文芸批評を書く上での、たった一人の“師”であった。平成十五年から五年間、お会いするチャンスがなかったわけではないのに、特に平成十六年に新潟市美術館で開催された、実弟の故阪本文男さんの回顧展の時に機会はあったのに、結局一度もお会いすることができなかった。
 今、そのことが悔やまれてならず、せめて阪本さんの優れた文章を読者の皆さんに紹介するつとめを果たしたいと思うばかりである。

越後タイムス4月25日「週末点描」より)



鶏に嗤われた

2008年05月07日 | 日記
 東本町三の三井田勝一さんから「楽農苑」のレンタルを薦められ、「やってみませんか」と声を掛けられた。しかし、施設に入ってしまったため主を失った広大な畑が長岡市にあり、土地もよく肥えた畑なので、そちらの方に興味があった。
 例年、ダイコンやサトイモ、ネギなど大量の収穫物の世話になってきたが、今年からそれがなくなると思うと少し寂しい。畑全部を自分でやり切る自信は全くないし、そんなにしょっちゅう通うこともできないので、ほっておけば収穫できる簡単な作物をほんの少しだけやってみようかと、畑の偵察に行ってきた。
 誰も耕す者のない畑は草ぼうぼうで、昨年の畝も固くなってしまっている。一畝でもいいから、草をとって耕してみようと、三本鍬で耕し始めた。土は固く締まっているし、慣れないので異常に疲れる。汗をふきふき、休みながら一畝耕し、ひら鍬で畝の形に整えるのに三十分以上もかかってしまった。
 一番簡単な作物はカボチャだということで、ホームセンターで買ってきたカボチャの苗を植えた。他に簡単そうなものはないかと思い、一番説明書きの少ないショウガも植えた。ジャガイモも簡単らしいので植えようと思ったが、種イモにつける灰がない。畑にあった枯枝に火を付けてまず灰をつくることにした。火遊びの面白さを久しぶりに味わうことができた。
 隣の休耕地では、ニワトリや七面鳥が放し飼いになっていて、うまそうだった。ニワトリのやつは、畑を耕している間中、「クルクル、クックッ」と鳴き続けている。慣れない農作業を嘲笑されているようで、悔しかった。いつか食ってやる。
 ところで、「楽農苑」の方は、十二区画すべて借り手がついたそうである。一区画年間レンタル料が水道付き、駐車場付きで五千円は安い。

越後タイムス4月18日「週末点描」より)



手動に切り替え

2008年05月07日 | 日記
 四月一日は、道路特定財源の暫定税率期限切れで、ガソリンが安くなるというだけの日ではなかった。その日は京都議定書の約束期間が始まる日でもあった。日本では二〇一二年までの五年間に一九九〇年に比べて二酸化炭素排出量を六%減らすことが求められる。
 ところが、排出量は減るどころか、八%も増加していて、結果五年間で一四%削減しなければならないことになっている。絶望的な数字である。ガソリンの値下げがガソリンの浪費に拍車をかけ、二酸化炭素排出量をさらに増やしてしまうという説もある。
 ところで、四月二日に新しい自転車を購入した。親父のかたみである電動アシスト付自転車がパンクし、老朽化が著しいためだが、そればかりではない。電動をやめ、普通の自転車を自分の脚で漕ぐことにしたのだ。少しでも二酸化炭素排出を減らすことができ、健康のためにも有効であればと思っての買い替えだった。
 その前には、電動コーヒーミルのモーターが回らなくなったので、これも電動をやめて、手回し式のものに買い替えた。電動なら八秒くらいで碾けるものを、三十秒以上もかけてハンドルをぐるぐる廻さなければならない。しかし、これで腕力と脚力の増強に資することはまちがいない。
 四月一日には安くなったガソリンを給油した。しかし、そのためにガソリンを浪費するようなことはしていない。そう遠くない距離は自転車で移動するし、遠い所へ行くときは、なるべく公共交通機関を利用することにしている。
 こんなことをしても、地球全体の二酸化炭素削減にどれだけの効果があるか、まったく疑問でしかないが、それでも何もしないよりはましだと思う。二酸化炭素排出量は、特に民生部門で増えている。ライフスタイルを変えなければどうにもならない。次は何を手動式に切り替えようかな……。

越後タイムス4月11日「週末点描」より)