心理小説の図式的構図は人物の配置にあるばかりではなく、もうひとつ別の構図をそこから派生させることになる。それは『ワシントン・スクエア』でも見ることができた1対1の構図に他ならない。
『金色の盃』は全部で42の節で構成されているが、その中で1対1の対峙が描かれない節はわずか10節にすぎない。そのうちの5節は第1部に集中していて、作者による登場人物に対する分析に費やされ、またその他の4節は第2部公爵夫人の部に集中していて、マギーの視点からの分析を担っている。残りの1節は小説の最後の節で、アメリーゴとマギー夫婦、アダムとシャーロット夫婦の別れの場面となっている。
それ以外の32節では、手を替え品を替えた組み合わせで1対1の対決が行われる。一番多いのは当然のことだが(不倫の当事者同士だから)、アメリーゴとシャーロットの組み合わせで、これも第1部に集中して7回、2番目に多いのが意外なことに、四角関係の当事者ではないファニー・アシンガム夫人とボブ・アシンガム大佐夫婦の対決で、第1部、第2部通して6回行われる。しかも当事者ではないファニー・アシンガムの出番は、他に対アメリーゴが2回、対シャーロットが1回、対マギーが7回の計10回もある。
ファニーの出番は16回もあるのであって、マギーの14回、アメリーゴの13回よりも多いのである。このことが意味しているのは、心理分析官としてのファニーの重要性であるのだが、それについては後ほど触れることにする。
1対1の対決の構図が『金色の盃』全編のほとんどを占めていることになるが、それがなぜなのかを考えることは心理小説というものの本質について考えることにつながるだろう。
人間の心理というものが剥き出しになって対峙する場が、まず1対1の差し向かいの場面にしかないことは容易に理解されることである。人間が3人以上集まる場所では、抜き差しならぬ心理戦が展開されることはあり得ない。
だから心理小説の人的配置は、1対1を基本とせざるを得ないのである。夏目漱石の『明暗』もぴたりとこうした構図に当て嵌まるのだが、それは必ずしも漱石がヘンリー・ジェイムズの真似をしているということばかりではない。心理戦を描くには1対1の構図が欠かせないものだからだ。
フランスの心理小説もこのような構図をもっているはずだが、ヘンリー・ジェイムズのように一つの節ごとに律儀に、組み合わせを替えて心理戦を闘わせるという、これまたあまりにも図式的な構図になってはいないだろう。一方漱石の『明暗』は明らかにこの図式的構図を踏襲しているし、それは新聞連載小説という形式にぴったり合った構図でもあった。
〝心理戦〟という言葉を使ったが、それには根拠がある。ヘンリー・ジェイムズ自身が1対1の対決を〝戦闘〟に譬えている部分もあるし、軍隊用語を譬えに使っている所もあるのである。
〝心理が剥き出しになる〟といったが、必ずしもこの言い方は正しくない。1対1の対決はお互いがお互いの手の内を見せないように、相手の腹に探りを入れながら、相手の考えていることを捉えようとする闘いであり、お互いの心理は剥き出しになるどころか、お互いに対してしっかりと秘匿されていなければならない。
相手が押してくればこちらは引き、相手が引くと見れば攻勢をかけるといったような心理戦は、実際の戦闘行為に似ているのであり、そこに嘘や追従が絡んでくれば、その心理戦は泥沼の様相を呈することになる。
交わされる会話自体が本音によっているのかどうかさえ分からない。あるいは、発言されてもいない言葉を相手の表情から読み取ったり、発言してもいない言葉への反応を相手のうちに見て取ったり、いつも相手の発言の先回りをし、その場で待ち受けることによって優位に立とうとする。これはまるで戦闘行為そのものなのであって、だから対決の済んだ後で、ヘンリー・ジェイムズは〝勝利〟や〝敗北〟といった言葉を使うことになる。