玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(4)

2017年11月28日 | 読書ノート

 心理小説の図式的構図は人物の配置にあるばかりではなく、もうひとつ別の構図をそこから派生させることになる。それは『ワシントン・スクエア』でも見ることができた1対1の構図に他ならない。
『金色の盃』は全部で42の節で構成されているが、その中で1対1の対峙が描かれない節はわずか10節にすぎない。そのうちの5節は第1部に集中していて、作者による登場人物に対する分析に費やされ、またその他の4節は第2部公爵夫人の部に集中していて、マギーの視点からの分析を担っている。残りの1節は小説の最後の節で、アメリーゴとマギー夫婦、アダムとシャーロット夫婦の別れの場面となっている。
 それ以外の32節では、手を替え品を替えた組み合わせで1対1の対決が行われる。一番多いのは当然のことだが(不倫の当事者同士だから)、アメリーゴとシャーロットの組み合わせで、これも第1部に集中して7回、2番目に多いのが意外なことに、四角関係の当事者ではないファニー・アシンガム夫人とボブ・アシンガム大佐夫婦の対決で、第1部、第2部通して6回行われる。しかも当事者ではないファニー・アシンガムの出番は、他に対アメリーゴが2回、対シャーロットが1回、対マギーが7回の計10回もある。
 ファニーの出番は16回もあるのであって、マギーの14回、アメリーゴの13回よりも多いのである。このことが意味しているのは、心理分析官としてのファニーの重要性であるのだが、それについては後ほど触れることにする。
 1対1の対決の構図が『金色の盃』全編のほとんどを占めていることになるが、それがなぜなのかを考えることは心理小説というものの本質について考えることにつながるだろう。
 人間の心理というものが剥き出しになって対峙する場が、まず1対1の差し向かいの場面にしかないことは容易に理解されることである。人間が3人以上集まる場所では、抜き差しならぬ心理戦が展開されることはあり得ない。
 だから心理小説の人的配置は、1対1を基本とせざるを得ないのである。夏目漱石の『明暗』もぴたりとこうした構図に当て嵌まるのだが、それは必ずしも漱石がヘンリー・ジェイムズの真似をしているということばかりではない。心理戦を描くには1対1の構図が欠かせないものだからだ。
 フランスの心理小説もこのような構図をもっているはずだが、ヘンリー・ジェイムズのように一つの節ごとに律儀に、組み合わせを替えて心理戦を闘わせるという、これまたあまりにも図式的な構図になってはいないだろう。一方漱石の『明暗』は明らかにこの図式的構図を踏襲しているし、それは新聞連載小説という形式にぴったり合った構図でもあった。
〝心理戦〟という言葉を使ったが、それには根拠がある。ヘンリー・ジェイムズ自身が1対1の対決を〝戦闘〟に譬えている部分もあるし、軍隊用語を譬えに使っている所もあるのである。
〝心理が剥き出しになる〟といったが、必ずしもこの言い方は正しくない。1対1の対決はお互いがお互いの手の内を見せないように、相手の腹に探りを入れながら、相手の考えていることを捉えようとする闘いであり、お互いの心理は剥き出しになるどころか、お互いに対してしっかりと秘匿されていなければならない。
 相手が押してくればこちらは引き、相手が引くと見れば攻勢をかけるといったような心理戦は、実際の戦闘行為に似ているのであり、そこに嘘や追従が絡んでくれば、その心理戦は泥沼の様相を呈することになる。
 交わされる会話自体が本音によっているのかどうかさえ分からない。あるいは、発言されてもいない言葉を相手の表情から読み取ったり、発言してもいない言葉への反応を相手のうちに見て取ったり、いつも相手の発言の先回りをし、その場で待ち受けることによって優位に立とうとする。これはまるで戦闘行為そのものなのであって、だから対決の済んだ後で、ヘンリー・ジェイムズは〝勝利〟や〝敗北〟といった言葉を使うことになる。


 

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(3)

2017年11月27日 | 読書ノート

 いずれにしてもヘンリー・ジェイムズの作品を道徳論的に読むことは、一時も早くやめなければならない。日本の研究者たちもアメリカの批評家たちの議論の影響下にあるらしいから、百害あって一利なしである。
 青木次生によればこのような読み方は、第二次世界大戦後に盛んになったジェイムズ研究において、「戦後世界の復興に大きく貢献しつつあったアメリカ人の、アメリカの軍事力のみならず、アメリカの民主主義、道徳観、ひいては生活全般についての自信」の反映だという。
 だからこのような読み方は、世界の正義を標榜するアメリカ人の思い上がりから来るのであり、ヘンリー・ジェイムズがそのような考えをもっていたとは到底考えられない。
 最初に私は心理小説の図式的構造ということを言ったが、その図式性とは「アメリカの無垢がヨーロッパの退廃を救う」などというところにあるのではない。そうではなく、人間関係の図式的配置こそが心理小説の大きな特徴だということを私は言いたかったのである。
 心理小説の多くは家庭内小説としての性格をもっている。ラブロマンスというよりはファミリーロマンスなのであって、そこに不倫ということが絡んでくると、そのファミリーが崩壊の危機に瀕することになる。不倫という恋愛関係は家庭に亀裂を走らせる最も大きな要因であるからである。
 そして本家フランスの心理小説のほとんどは不倫ということを主要なテーマとしているし、そこには三角関係という図式的構図が成立する。これが最も単純な危機的人間関係の構図であって、心理小説はそこにこそ拘って展開されていくのである。
 心理小説が精緻な心理分析によって特徴づけられるとすれば、それ以上に人間関係の配置を複雑にすることはむずかしい。配置を複雑にすればするほど、個々の登場人物の心理分析に与えられる時間が少なくなってしまうからである。
 ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』には、フランスの心理小説と違って、不倫の要素は入ってこなかった。しかしそこには、求婚者と被求婚者、そしてそれに反対し介入する父親という三角形の構図があり、これもまた家庭劇であらざるを得なかった。
『金色の盃』は不倫をテーマにした小説であり、本家フランスの心理小説に近いものがあるが、しかしそこに現出するのは三角関係ではなくて四角関係である。たぶんヘンリー・ジェイムズは、これ以上はできないぎりぎりの所まで人間関係の配置を複雑化させることに挑戦したのである。
『金色の盃』は後期三部作の中で最も長い作品であるが、この作品を長くしているのは、それが『鳩の翼』や『使者たち』における三角関係よりも複雑であり、心理分析により多くのページを割く必要があったからだと思われる。
 心理小説は危機をめぐる人間関係のドラマを、三角関係あるいは四角関係に配置された力学的関係の場において描くものである。三者あるいは四者は、力学的な引力あるいは斥力の働く場に置かれ、その関係のあり方が時々刻々に変化していく、その過程を描くことを使命とする。
 だから図式的構図というものは心理小説にあっては避けられない構造なのであって、それを否定したのでは心理小説そのものが成り立たないことになる。レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』が「幾何学の軌跡のような美しい線」を評価されたのも、そのスタティックな構図によっている。
 また心理小説がある意味で抽象的な構築物であるような印象を与えるのも、それが必然化する図式的構図によっているのだと言うべきだろう。

 

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(2)

2017年11月26日 | 読書ノート

『金色の盃』には訳者青木次生による長大な解説が付されていて、この難解で一筋縄ではいかない小説を、我々がどう読んだらいいかについての一つの解答を与えてくれる。その解答について言う前に、青木が紹介しているアメリカの批評家たちによる議論について触れておかなければならない。
 青木によれば、『金色の盃』解釈の最右翼というのは「アダム・ヴァーヴァーは神のごとき、マギーはキリストのごとき存在であるとするような解釈」であるらしく、「アメリカの無垢がヨーロッパの退廃を救うのだというのは確かに大勢の批評家たちの――ことにアメリカの批評家たちの、お気に入りの発想である」と青木は書いている。
 つまりこの小説の登場人物たちは、道徳的な布置の中で解釈され、ヘンリー・ジェイムズがヨーロッパの退廃に対する、アメリカの無垢というものの勝利を謳い上げているのだと批評家たちは思いたいらしい。
 言うまでもなく、アメリカの無垢を象徴するのが父アダムとその娘マギーであり、ヨーロッパの退廃を象徴するのがイタリア人で、マギーの夫となるアメリーゴ公爵というわけである。アメリーゴと不倫を犯すアダムの妻シャーロットも、アメリカ人ではあれアメリーゴと同罪ということになる。
 しかし青木次生はそのような考え方を真っ向から否定する。『金色の盃』は第一部公爵と第二部公爵夫人に分かれ、第一部はアメリーゴ公爵の、第二部はアメリーゴ公爵夫人の視点から書かれている。だから、第一部でのアメリーゴの不行跡について、第二部で妻のマギーがそのことを察知していき、それによって精神的な不安定に陥りながらも、それを乗り越えて夫を許すに至るというような読み方がされてしまう。
 青木はマギーの道徳的純粋性などというものを、はなから信じることなく、むしろ公爵の方が道徳的には正しいとまで主張するが、それもまた道徳的な読みにすぎず、私は青木の考え方に与することができない。
 ただし青木が徹底してヘンリー・ジェイムズの、いわゆる〝視点〟というものを重視し、『金色の盃』で語られていることが必ずしも事実ではなく、1人の登場人物の視点から解釈された事実にすぎないという青木の主張には賛意を表したいと思う。
 事実というものが普遍的に存在するのではなく、それが個々の人間の解釈の上にしか存在できないとする考え方が、ヘンリー・ジェイムズの小説の基本にあるのだとすれば、読者はアメリーゴの言うこともマギーの言うことも、そのまま鵜呑みにすることはできない。
 ではすべては相対化されているのかといえば、そうも言い切れない部分があり、それは青木がマギーに見ている過剰な想像力という観点から解明されるべき事柄であろう。
 つまり公爵と公爵夫人の視点のどちらが信用できるのかと言えば、多くの批評家が判断するように公爵夫人にではなく、青木が判断する公爵にこそ信が置かれるべきなのだ。
 この小説はアメリカの大富豪アダム・ヴァーヴァーの一人娘マギーが結婚するイタリア人のアメリーゴ公爵には、かつての恋人シャーロットがいて、彼女はマギーの親友であり、マギーの働きかけでシャーロットは父アダムと結婚するという、極めて危険な設定の上に成り立っている。
 そしてアメリーゴとシャーロットの不倫を誘発するのは、必ずしもお互いの配偶者に対する不満ではなくて、アダムとマギー父娘の異常な親密さにこそある。アメリーゴとシャーロットはそのために自らの居場所をなくしてしまうのであって、本当の罪はマギーにこそ帰せられるべきということを読者は知っている。
 第五章の最後にシャーロットがマギーに投げつける二つの言葉は、自らの不行跡に対する居直りなのではなく、これこそ真実の言葉なのでなければならない。

「あなたという人はわたくしたちの結婚を憎み抜いていたのね!」
「あなたという人はずうっとわたくしのじゃまばかりしていたのよ!」

 

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(1)

2017年11月24日 | 読書ノート

 先月ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』を読んで、久しぶりにこの作家は私の生理にとても合っているという確認ができたので、一度読みかけて中断していた『金色の盃』に再度挑戦し、講談社文芸文庫で上下二巻、総頁数1,150もある大長編を読み終えた。
 これでヘンリー・ジェイムズの後期長編三部作を征服したことになり、私にとって記念すべき読書体験となった。一番最初に読んだのが、『鳩の翼』、二番目が『使者たち』、次いで『金色の盃』ということになり、出版順に読んできたことになる。
『鳩の翼』が1902年(作者59歳)、『使者たち』が1903年(60歳)、『金色の盃』が1904年(61歳)で、いずれも大長編を年に一作ずつ発表し続けたということが信じがたい。執筆年は『鳩の翼』よりも『使者たち』の方が早かったようだが、いずれにせよこの三部作はお互いによく似ているし、心理小説としての完成度をとっても、どの作品も優劣つけがたいものがある。
 しかし、ある意味でヘンリー・ジェイムズの後期三部作ほど、読みづらくて退屈な小説はないのかも知れない。それは『ワシントン・スクエア』と較べてみるとよく理解できる特徴である。
『ワシントン・スクエア』では、地の文と会話文との比率は二対一くらいなのに対して、後期三部作ではそれが二〇対一くらいに拡大している。特に最後の『金色の盃』はその落差が大きくて、ちゃんと計測すれば三〇対一くらいになるのではないか。
 ヘンリー・ジェイムズにおける地の文というのは、他の多くの小説におけるような地の文とは性質を異にしている。多くの小説にあって地の文は登場人物たちの行動や、情景描写について費やされるものであるが、ヘンリー・ジェイムズの地の文には人物の行動が描かれるわけでもないし、情景描写などはほとんど行われることがない。
 では何があるのかと言えば、ひたすら延々と続く登場人物たちの心理分析だけがあるのだ。ヘンリー・ジェイムズの小説はジャンルとして括れば、「心理小説」と呼ぶしかないものであり、彼は小説が進行する場所であるとか、空間であるとかにはまったく無関心を貫き通すのである。
 だから小説に躍動的なストーリーを期待する読者にとって、ヘンリー・ジェイムズの小説はまったく退屈きわまりない小説として受け取られざるを得ないことになる。
 ジェイムズの小説が今日読者を失っているとすれば、その主な要因はそこの所にこそあると言わなければならない。しかし、ヘンリー・ジェイムズの主要な作品を訳し続けてきた青木次生によれば、ジェイムズの作品の出版部数は1000~1500でしかなかったようで、もともと多くの読者に受け入れられるような作品ではなかったのである。
 心理分析としての地の文の長大さは心理小説の本家であるフランスの有名作品のそれを、はるかに凌駕している。私が考えているのはラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』、スタンダールの『赤と黒』、そして言うまでもなくレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』である。
 心理小説が退屈な理由はその図式的な構造に求められるのだが、私が挙げたフランスの小説もそうしたそしりを免れていない。我が国の心理小説の代表作である漱石の『明暗』が、「拵えもの」との批判を受けたことを思い出せばよい。
 しかもヘンリー・ジェイムズの作品は、フランスの心理小説における心理分析をはるかに超えたものであり、その図式的構造も本家をはるかに上回っている。ラ・ファイエット夫人もスタンダールもラディゲも、心理分析に会話文の20から30倍の分量を与えるようなことは決してなかったからである。

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(2001、講談社文芸文庫)青木次生訳


 

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スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(5)

2017年11月11日 | 読書ノート

「ペテン師に囲まれた幻視者」のディックについての論点は多岐にわたっていて、他にも独自な指摘はたくさんあるのだが、レムの言いたいことをひと言でまとめている文章を挙げるとすれば、以下のような部分であろう。

「――つまり、ディックの世界において悪性腫瘍のように攻撃的になってゆくこの現象――は、もはや単に純然たる幻想とは思われないのである。だがそれは、ディックがなんらかの具体的な未来について予言しているということではない。彼の小説で描かれる崩壊してゆく世界は、いわば創世記をひっくり返したようなもので、そこでは調和が混沌へと逆もどりさせられる。これは予見された未来というよりはむしろ、未来の衝撃であり、単純な形ではないにせよ、虚構の現実の中に具体化されているのだ。つまりこれは、現代の人間に特有の恐怖や陶酔が客体に投影されたものなのである。」

つまり、世界の崩壊現象というものがディックにおいては、未来に仮構されているのではなく、間違いなく現代において捉えられているのだということ、あるいはそこに登場する人間もまた、世界の崩壊現象を現代の黙示録として受け取るのだということをレムは言っている。
 前にも言ったが、SFというものが未来を語る振りをしながら、過去を語ることしかできず、現代をテーマとする責任から逃れていることがその致命的な欠陥だとすれば、ディックの作品はそのような欠陥を免れている稀有なものといわざるを得ない。
 最後にハヤカワ文庫版『ユービック』の浅倉久志による解説の末尾に引用されている、P・K・ディック自身の自作解題を紹介しておきたい。長くなるが引用する。この文章を読まなければ我々は『ユービック』の本質を本当には理解できないだろうからだ。

「われわれは『ユービック』の登場人物のように、半生命状態にあります。われわれは死んでも生きてもおらず、解凍される日を待ちながら、冷凍睡眠に入っています。季節にたとえれば、これは人類にとっての冬であり、『ユービック』の登場人物たちにとっての冬なのです。……『ユービック』の登場人物たちの上を覆った氷と雪を融かすもの、彼らの生命の冷却を止め、彼らの感じるエントロピーを押さえるものは、グレン・ランシターが呼びかける声です。ランシターの声は、毎冬、地中の種子や根が聞く目覚めをうながす声にほかなりません。……『ユービック』では、時間が無力化され、もはやわれわれが経験するように線的な前進をしなくなります。登場人物たちの死によってこれが起こったとき、読者としてのわれわれと、ペルソナとしての彼らは、マヤのヴェール、すなわち、線的時間の曖昧なもやを取り去られた、この世界を見ることになります。時間は、あらゆる現象を結び合わせ、すべての生命を維持しますが、その活動によって、その下にある本体論的な現実を隠してもいるのです。」

 ディックが言うように、我々は『ユービック』の登場人物たちとまったく同じ状態におかれている。ディックは彼らをありもしない未来に送り込んでいるのではなく、彼らもまた我々と同じ現代を生きているのである。
 グレン・ランシターというのは、最初に出てくる「ランシター合作社」の代表であり、月面での爆発でただひとり生き残り、退行する時間の中で、半生状態にある仲間たちにメッセージを送り続ける人物である。したがって、ランシターのメッセージは反エントロピーとしての性格を帯びることになる。
 エントロピーが死に向かっての平衡状態を意味するなら、生命こそが反エントロピーそのものであるからだ。そしてリニアーな時間がエントロピーに支配されているのだとすれば、リニアーな時間の停止はエントロピーに支配された世界の下に、「ある本体論的な現実」を顕わにするのだ。
(本体論とは聞き慣れない言葉だが、いわゆる存在論のことだと考えればディックの言うことはよく分かる。ディックは形而上学を徹底して学んだ人でもあった。)
 そして、先の文章に続くディック自身の言葉は『ユービック』の悪夢のような世界を体験してきた読者にとって、ある種の救いとなるほどに感動的な部分を含んでいる。では、最後に……。

「……この本体論、この存在の領域の中で、われわれ自身のように、夢の中で眠りながら、目覚めよと告げる声が聞こえるのを待っています。彼らとそしてわれわれが春の訪れを待っているというのは、たんなる比喩ではありません。春は暖かさの復帰を、エントロピー過程の廃棄を意味します。……春は生命を蘇らせます――そして、人類という種でもそうですが、新しい生命は、場合によっては完全な変容なのです。」

フィリップ・K・ディック『ユービック』(1978、ハヤカワ文庫)浅倉久志訳

(この項おわり)

 

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スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(4)

2017年11月10日 | 読書ノート

『ユービック』を読む体験とは、なぜ世界が時間退行現象を起こしていくのか、その謎の解読というような所にはない。そうではなく、正しくレムが言っているように、読者の精神世界もまた「悪性の癌に倒れ、その転移によって生命の色々な部位を次々に蝕まれていく」のである。
 SF小説は実は、推理小説と起源を同じくしている。どちらもその源をゴシック小説から派生した恐怖小説にもっていることは、エドガー・アラン・ポーの小説世界に触れてみれば分かる。恐怖小説は超自然現象が起こり、その謎が物語の進展と共に解明されていくという構造をもっている。
 SF小説の場合には、超自然現象の謎が科学的解明に委ねられるのだし、推理小説の場合には、論理的推論による解明に委ねられるのである。恐怖小説を主に書いたポーが、一方では推理小説の祖とも言われ、SF小説の先駆者とも言われるのはそのような構造的類似性によっている。
 P・K・ディックの場合には、特に『ユービック』や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』のような作品においては、超自然現象の原因を解明することに主眼があるのではない。何ものとも知れぬ要因によって、現実世界が崩壊していく様相、あるいは現実世界が次々と反転していく過程を描くことにこそディックの主眼はある。
 レムはディックが他のSF作家のように、世界崩壊の要因をはっきりと限定もせず、明示もしないことについて肯定的に評価し、それを現代文学一般に敷衍して、ディックの作品を擁護している。

「小説の中で起こるすべての出来事についての完全な知識を全知の神のような立場から読者に与える文学など、現代では時代錯誤にすぎず、芸術の理論も認識の理論もその擁護を引き受けたりはしないだろう。」

 レムはこの後かなり長く『ユービック』のあらすじを紹介していくが、私はあらすじを追おうとは思わない。私はただ、レムのこの文章からディックのいわゆる不可知論が、〝芸術の理論〟や〝認識の理論〟に関わっているのだということを指摘しておけばよい。そしてこの二つの理論こそが、ディックの作品を単なるSFの世界から〝文学〟の世界へと引き上げるものなのだと言っておきたい。
『ユービック』と『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』はどちらも、〝現実とは何か?〟ということを主要なテーマとしている作品である。『ユービック』の場合には、それは肉体的には死んでいるが、精神的には生きている「半生状態」におかれた人間が、現実と思われたものが幻覚に変わっていくときにその現実にどのように対処していくかがテーマとなる。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の場合には、幻覚剤によって認識を改変されてしまった人間が、もろくも幻覚に落ち込んでいく現実にいかにして手を掛けていくかをテーマとする。
 どちらも簡単に言えば、〝現実とは何か?〟というテーマを芸術理論的に、あるいは認識論的に追求しているのである。このようなテーマはこれまでアメリカSFによって追求されたことのなかったものであり、P・K・ディックの特異性も偉大さもそこにこそある。
 ディックのいくつかの作品はだから、アメリカSFに対して上級審の文学としての位置を占めることができたのである。レムはせっかくディックがSFの新たな地平を切りひらいたのであるのに、アメリカのSF界はディックを正しく評価できず、その地平を引き継ぐことがなかったことを嘆いている。
 ディックは不遇な作家であった。「ブレードナンナー」以降、ディックの作品を原作とした映画が数多く作られ、それによってディックは死後有名になったが、「ブレードランナー」以外の通俗映画がどれだけディックの本質に迫っていると言いうるだろうか。ディックは死後も不遇な作家であり続けている。

 

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スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(3)

2017年11月09日 | 読書ノート

 スタニスワフ・レムのアメリカSFに対する批判にはまったく容赦というものがない。ゲットーの内部では評価の基準というものがなく、批評の言語に対してまったく無知であるから、作品として優れているかどうかではなく、出版部数の多さが唯一の基準になってしまっていると、レムはアメリカのSFを徹底して批判する。

「SFにおいては、現代の問題をごまかしたり、単純化したり、あるいは単なる娯楽読物風に扱わないで正面から取り組もうとするような作品のための場所はほとんどない。」

 このようにレムが言って、続いて次のように述べているのを読むと、アメリカSFの通俗性に抗して、SFの本当のテーマをレムが指し示しているのだということが理解できる。

「本格的に現代の問題に取り組むというのは、たとえば、宇宙において理性が占めることができる位置について、あるいは地球でつくられた概念が認識のための道具として通用する範囲の境界について考察することであり、さらにはSFのどうしようもなく原始的なアイデアのレパートリーとは一線を画すような形で、地球外の生命との接触の結果について考察することである。」

 このような指針はレム自身が『ソラリスの陽のもとに』という作品によって追求してきたことであり、特に「地球外の生命との接触の結果について考察する」という言葉は、人間の想像力をはるかに超えたと思えるほどの形で地球外生命体を創造してみせた、『ソラリスの陽のもとに』を書いたレムにしか書けない言葉だと思う。
 このようにしてレムは次第にフィリップ・K・ディックの世界に近づいていくための準備作業を整えていく。「ペテン師に囲まれた幻視者」とは、劣悪なアメリカSFの環境下におかれたディック=幻視者のことを言っているのであるから。
 しかし、最初にレムはディックの作品と他のアメリカSF作品との「違いを把握することは難しい」と書いている。なぜなら「ディックが用いているのは、他のアメリカの作家と同じ小道具、同じプロットだからである」と。
『ユービック』の書き出しは以下のようなものである。

「一九九二年六月五日の夜、午前三時三十分、ニューヨーク市にあるランシター合作社のオフィスの大地図から、太陽系のテレパスが足跡をくらました。たちまち英話が鳴りづめに鳴り出す。ここ2ヶ月、ホリス異能プロダクション所属のエスパーの中で、ランシター合作社がその行方を失った相手は、あまりにも多い。」

 確かにこんなあまりにもアメリカSF的な書き出しを読まされると、文学の読者としては辛いものがある。テレパス(読心能力者)だのエスパー(超能力者)だの、いい加減にしてくれと言いたくなるのをしばらく我慢して読み進んでいくと、フィリップ・K・ディックという作家の本当の独創性が見えてくるだろう。
 レムが評価するのもそこのところである。『ユービック』では世界それ自体が奇怪な変貌を遂げていくのだが、その理由が明示されない。一般のSFでは世界の破滅は戦争などの社会的な要因か、自然の力に由来する要因かに特定されて示されるが、ディックの場合にはそれが示されない。
 だから読者は登場人物と同じ立場で、世界の奇怪な変化に付き合わされ、現実の崩壊を体験させられることになる。レムはそのことを次のような的確な言葉で表現している。

「この要因の様々な特徴は目に見えるが、その源は見ることができず、世界はあたかも悪性の癌に倒れ、その転移によって生命のいろいろな部位を次々に蝕まれていくかのような振る舞いを見せる。」

『ユービック』では、月面上のエスパー同士の戦いで爆弾を仕掛けられ、負傷した主人公たちが地球に戻ると、いつしか時間退行現象が起きてくる。レムはその場面のことを言っているのである。

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スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(2)

2017年11月07日 | 読書ノート

 レムはSFが推理小説の場合のように、「単純化された文学を離れて芸術として完全なものへ向かうわけにはいかない」とし、「SFというジャンルは上級審に相当するものがない」と言っている。
 つまり純文学(と言われるもの=芸術性の高い文学)は、推理小説と同じように犯罪をテーマとすることがあるが、「未来や文明に関する考察」(=レム)をテーマとすることは滅多にないし、ましてや宇宙旅行や宇宙人、ロボットなどをテーマとすることがないからである。
 レムはそれがなぜなのかについては書いていないが、私は宇宙旅行や宇宙人、ロボットなどが、「人間の心理学的真実」に関わるものではないからだと思う。あるいは人間の真実は現在の中にしかないので、未来に属するそれらのテーマを純文学は扱うことができないからなのである。
 しかし、近年日本の純文学作家たちがSF的趣向を多用するのはなぜなのか。しかも、2011年の東日本大震災と原発事故以降にそのような傾向が見られるのはなぜなのかということは、レムの議論から離れても考えてみたい現象である。
 単純に言えば、日本の純文学作家たちがSFにすがりついていくのは、東日本大震災以降、未来というものを、と言うよりは現在というものを信じられなくなり、SFのスタイルを借りて黙示録的な世界観を示そうとしているからだと思われる。
 しかし、一見SFは未来というものをテーマにしているように見えるかも知れないが、実はそうではない。SFでさえ本質的に未来というものを抱え込むことはできない。たとえばアメリカSF映画の「スターウォーズ」が未来を描いているように見えたとしても、実は歴史的には過去に属する人間像や戦争像を描いているにすぎない。
我々は過去を所有することはできるが、未来を所有することは決してできない。SF小説のほとんどが、人間にとっての過去を描いているにすぎないのと同じように、SF小説のほとんどもまた未来を描いているように見せかけながら、過去を描いているのにすぎない。
 私は日本の純文学がSF化していくことに対して、肯定的に考えることができない。黙示録的世界ならSF小説の方がはるかにうまく描いてきたのだからだ。核戦争語の世界の崩壊や、人類の滅亡などというテーマを扱わせたら、純文学がSF小説にかなうわけはないのである。
 しかしそれもまた、SF小説の孕んでいる擬制であって、本当の黙示録的世界は現在にこそあるのだということを、SFは知り得ない。自分が扱っているものが未来であると思い込んでいるからである。
 だから純文学はSFに範を仰いではいけない。レムに言わせれば、SFには上級審に相当するものがないのであるから、純文学がいかにSF的結構を導入して、SF小説の上級審たろうとしても、その時純文学はSF以下的な下級審に堕してしまうであろうから。

 レムの議論に戻ろう。SFが上級審をもたないという事実は、SFという世界の閉鎖的性格をもたらす。SFはSFだけで完結した世界の中でのみ自己主張しようとする。レムはアメリカSFをそのような意味で指弾する。レムは言う。

「問題は、アメリカSFが自らの独占的な地位をかさに着て、思想や芸術の頂点に立つ権限があると主張していることだ。」

「アメリカSFの独占的な地位」というのは、世界のSF界の中で圧倒的にアメリカSFの占有率が高いということだろう。早川文庫のリストを見ればそれは一目瞭然であって、イギリスのSFが多少健闘していることはあっても、SFの主流はアメリカSF以外ではないのである。
 そうした現状がアメリカSFの閉鎖的性格をもたらす。その閉鎖性は文学の批評言語に対する完全なる無知として表れていて、レムに言わせれば、それはゲットー化しているのである。レムの言う「ペテン師」というのはゲットー化したアメリカSFのことなのだ。

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スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(1)

2017年11月06日 | 読書ノート

 映画「ブレードランナー2049」が封切りになったので、「ブレードランナー」を5回も観た人間としては、リドリー・スコット制作総指揮、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画を一時も早く観たいものだと思っている。
 と同時に「ブレードランナー」の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を書いた、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックのことも気になってしょうがない。游文舎の小谷文庫に『悪夢としてのP・K・ディック――人間・アンドロイド・機械』があったので、借りてきて読むことにした。
 この本は1986年にサンリオから出ているが、当時サンリオはSFを中心にした「サンリオ文庫」を出していて、フィリップ・K・ディックの小説もたくさん入っていた。その頃30代だった私はサンリオ文庫のディックを全部買って全部読み、現在も所有している。
『悪夢としてのP・K・ディック』は単行本で、巻頭にディックの短編1編と、13編のディック論(日本人10人、外国人3人)を収めている。その中にポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの「ペテン師に囲まれた幻視者」という論考があり、私はまずこれに取りついた。レムは『ソラリスの陽のもとに』というSF作品が大好きだったし、実在しない本の書評集『完全な真空』も読んでいたからである。
「ペテン師に囲まれた幻視者」はスタニスワフ・レムが、P・K・ディックの『ユービック』という作品のポーランド語訳の後記として書かれたものだという。解説によればそれまでディックを評価していなかったレムが、『ユービック』を読んで考え方を改め、ほとんどディックに対するオマージュとして書かれたものであるらしい。
 私はSF小説をあまり読まない人間である。かつてスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のもとになった(というかノヴェライズというか)、アーサー・C・クラークの同名の小説や、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』などの有名なSF小説を読んだが、あまり好きになれずのめり込んで読むことはなかった。だから、ディックだけは例外的に読んできたSF作家なのである。
 そして、そのきっかけとなったのが、レムが絶賛している『ユービック』という作品であった。私は『ユービック』を一晩で読み、その悪夢のような世界に圧倒され、その夜は夢魔に取り憑かれ、まともに眠ることもできなかったことを鮮烈に覚えている。
 それ以来ディックのファンとなった私はサンリオ文庫と早川文庫のディック作品をすべて読んだ。しかし、読んだ体験が強烈に残っているのはこの『ユービック』と『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の2作であり、この2作がディックの最高傑作だと思っている。
「ブレードランナー」の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、その内容をよく覚えていないし、リドリー・スコットの映画が凄すぎて、原作を駆逐してしまっているので、これは決してディックの最高傑作ではないと思う。

レムのディック論のことに戻ろう。『悪夢としてのP・K・ディック』という論集の中で、真に読むに値するのはレムのこの文章だけだと言ってもよい。「ペテン師に囲まれた幻視者」は、SF小説というものの本質的な欺瞞性を指摘し、本当の文学と通俗小説とを画然と分かち、ディックの小説が通俗性を免れている理由を明示し、『ユービック』という作品の核心に触れた文章である。以下、レムの論考を紹介しながら、ディックの作品にも触れていくことにしよう。
 この論考は次のような文章から始まる。

「正気の人間なら誰も、推理小説の中に犯罪の心理学的真実を捜したりはしない。そういうことを求める者は、むしろ『罪と罰』に向かうだろう。つまり、アガサ・クリスティに対して上級審となっているのがドストエフスキーというわけだが……(以下略)」

 レムは推理小説に心理学的真実を求めるようなことは正気の人間のやることではない、と言っている。犯人は誰か? トリックはどうなっているのか? というようなことをその場限りの興味で追求していく推理小説にそのような目的があるはずもないのだからである。

『悪夢としてのP・K・ディック』(1986、サンリオ文庫)「ペテン師に囲まれた幻視者」は沼野充義訳
 

 

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木村榮一『謎ときガルシア=マルケス』(2)

2017年11月05日 | ラテン・アメリカ文学

 本書はラテン・アメリカ世界の成立から、ガルシア=マルケスの作家への道を辿り、その後は年代順に作品に沿って論じていくという構成となっている。
 それ自体に問題はないのだが、序がいきなり開高健の話から始まること、また第6章旅立ちというガルシア=マルケスが作家となる前段階について述べた章でも、話は開高健から始まり、さらには第8章記憶と創造では司馬遼太郎が取り上げている外村繁の『澪標』のことから始まっていることに、奇異な感じを受ける人は多いだろう。
 かなり変則的な書き方である。第9章『百年の孤独』などは、木村自身の体験談から始まっていて、それが『百年の孤独』のあの信じられないようなエピソードの話につながっていくのである。
 あまり学術的な書き方ではないし、一部必然性が感じられない導入部もあるが、そんな書き方がこの本をずいぶんと分かりやすくしていることは否定できない事実である。ガルシア=マルケスの本質を〝語り〟というところに置くならば、木村もまた〝語り〟を通して、ガルシア=マルケスの本質に近づいていこうという姿勢なのだ。
 たかだか250頁の本であるから、言い尽くせないことがたくさんあるだろうとは想像がつく。ラテン・アメリカ文学を論ずるときに、新大陸の発見からスペインによる征服を経て、独立にいたり、さらには独裁政治を経験していくという歴史を語らずに済ますことはむずかしいが、そこのところが十分展開されているかというと、そうは言えないと思う。
 ガルシア=マルケスの前史については、読者は他の本で勉強すべきなのかも知れない。250頁ばかりの本ではいかんともしがたいということなのだろう。だからこの本には幅広い目配りはあるが、つっこみが足りないという印象が残ってしまう。
〝魔術的リアリズム〟ということについてはどうか。木村は最終章の「《魔術的リアリズム》の作家というよりも」の節で、ガルシア=マルケスの全作品を次のように位置づけている。

「ガルシア=マルケスはカフカ風の短編から、フォークナー、グレアム・グリーン、ヘミングウェイなどの影響がうかがえる作品、さらに『百年の孤独』に代表される《魔術的リアリズム》と呼ばれるようになった作品、あるいは一九世紀リアリズムや歴史小説の技法を生かした長編小説など、作品のテーマに合わせて変幻自在に手法、文体を変えて創作を続けてきた。」

 ラテン・アメリカ文学というと〝魔術的リアリズム〟といわれるものを持ち出してきて終わりというような論調を採っていないことは評価できる。しかし、〝魔術的リアリズム〟がラテン・アメリカ文学の中で、どのように位置づけられるのか、あるいはmagic realismというときの、magicの方に比重があるのか、realismの方に比重があるのか、ということについてもガルシア=マルケスに即して論じて欲しかった。そして、

「ガブリエル・ガルシア=マルケスは〝魔術的リアリズム〟の作家というよりも、むしろ人間への深い愛とその孤独を語りの中で追求し続けている作家といえる。」

というような常識的な議論に終わらせることなく、より深い追求を期待したい。
 ところでガルシア=マルケスが作家として歩み出すときに、カルロス・フエンテスの大きな力添えがあったということが、第7章疾風怒濤に書かれているが、あらためてフエンテスの偉大さに気づくことができた。フエンテスのように作家としても偉大でありながら、プロデューサーとしても有能だった人の存在を、ラテン・アメリカ文学の作家たちだけでなく、我々も十分感謝しなければならない。
 最後にひと言。この本には同じ内容の繰り返しの文章が多すぎる。木村の責任もあるが、それは編集者の責任に置いて対処すべき欠陥である。
(この項おわり)

 

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