玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」74号発行

2016年12月30日 | 玄文社

 遅くなりましたが、「北方文学」74号が発行になりましたので、ご紹介したいと思います。12月10日に出来たのですが、13日に入院して27日に退院しましたので、それまで作業が出来ませんでした。お詫び申し上げます。
 今号は200頁強。いつもより薄いのですが、内容は充実していると思います。今号は小生も病気入院のためお休みですが、他にもお休みの人が多くてこういう結果になりました。
 巻頭を飾っているのはジェフリー・アングルスさんの「あやふやな雲梯」という詩作品です。カントの美学(もとはエドマンド・バークの美学)に触発されて書いたもので、核兵器をテーマとしています。平和主義的な観点からではなく、美学の観点から核兵器の崇高について思考をめぐらし、自らを「あやふやな雲梯」と呼んでいます。恐ろしい作品です。
 ジェフリーさんは65号の「現代詩特集」に登場願いましたが、これからもご寄稿下さると思います。ジェフリーさんについては以下のHPでお調べ下さい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeffrey_Angles
 詩作品が続いて次は館路子の「洪水の記憶に、私はまたも」。このところ災害詩人と呼ばれて、天災をテーマに書き続けている館さんですが、この作品も台風による水害をテーマにしています。「またも」というのは、平成16年の三条市7・13水害をテーマに書いたことがあるからです。
 霜田文子さんは今年8月に訪れたスペインについて、ガウディを中心にまとめました。ガウディといえば、我々はサグラダ・ファミリア教会くらいしか知りませんが、他にもたくさんあって貴重な観光資源となっているらしい。サグラダ・ファミリアの良さはその未完の美学にこそあるというのですが……。
 北園克衛の戦中の作品について論じた、「「郷土詩」は北園克衛にとって何であったか」は、相模原市で詩誌「回游」を主宰する南川隆雄さんの寄稿です。詩人としての長い実績を積み重ねてきた南川さんは、戦後詩史の探求者でもあります。
 大井邦雄の「優秀な劇作家から偉大な劇作家へ(3)」は、ハーリー・グランヴィル=バーカーが1925年に英国学術院で行った講演「『ヘンリー五世』から『ハムレット』へ」のうち、四つの項目を取り上げ、膨大な注を施して訳述したものです。今号では初めて〝訳述〟という行為についての自注を付して、大井さんが何を追究しているのかが理解出来ます。
 小説2編。対照的な2編といえます。一方は熟練の境地を示し、もう一方は若々しい感性を伝えているからです。新村苑子さんの「蜜の味」は主人公キクエの夢を効果的に使って、読むものを唸らせます。小説のつくりのうまさをこのところ見せてきた新村さんですが、まだまだ引き出しがいっぱいあることを窺わせます。恐るべき80歳です。
 新しい同人となった魚家明子さんの「眠りの森の子供たち」は大長編で、4回の連載となる予定です。全体的にはファンタジーと言えるかも。幻想的な要素がたくさんありますが、すべては子供たちの心の内部に関わっています。

 以下に目次を掲げさせて頂きます。

あやふやな雲梯◆ジェフリー・アングルス
洪水の記憶に、私はまたも◆館 路子
未完の夢、あるいは欠損の美
――アントニ・ガウディに寄せて――◆霜田文子
「郷土詩」は北園克衛にとって何であったか◆南川隆雄
優秀な劇作家から偉大な劇作家へ(3)
――シェイクスピアの一大転換点のありかはどこか――
◆ハーリー・グランヴィル=バーカー、大井邦雄訳述
新潟県戦後50年詩史(8)
――隣人としての詩人たち――◆鈴木良一
蜜の味◆新村苑子
眠りの森の子供たち(1)◆魚家明子

一部送料込みで1,500円です。ご注文は玄文社までメールでお申し付けください。
genbun@tulip.ocn.ne.jp

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アレホ・カルペンティエール『方法異説』(3)

2016年12月10日 | ラテン・アメリカ文学

「アレホ・カルペンティエールは文体の作家である」と前々回に書いた。この作品の最後の文章を読めば、そのことについては理解してもらえるだろう。

「多くの雨、少なからぬ雪、そして随分前から放置されてきたせいですでに色褪せた小さな霊廟が、モンパルナス墓地のポルフィリオ・ディアスの墓からそれほど遠くないところ、ボードレールの墓とオーピック将軍の墓のすぐ近くで、二本のドーリス式円柱に支えられて立っている。金色の金属に嵌めこまれたガラス扉を守る黒い柵を通して中を覗く者は、簡素な祭壇の上に据えられた聖牧女像――ヌエバ・コルドバ至高聖堂に祀られているのと同じもの――を目にすることだろう。足元に飾られたバラとケルビムの神秘的花冠の下には、四頭のジャガーに支えられた大理石の箱があり、そこには聖なる祖国に土が少しばかり収められている」

 このような墓の描写、一つの歴史の終焉(ここでは独裁者=第一執政官の死)を哀感を込めて描き出すことにかけては、カルペンティエールほどの作家はいないだろう。
 この濃密で美しい文章は、読む者を陶然とさせるものがあって、読者は絢爛たる文章に酔いながら、カルペンティエールの術中にはまっていくのである。
 この最後の文章には、なかなか読者には分からない固有名詞がいくつか出てくる。ポルフィリオ・ディアスはメキシコの独裁者であり、メキシコ革命によって追放になり、パリに住んで、死後はモンパルナス墓地に埋葬されている。
 このディアスこそは『方法異説』のモデルであり、この作品で描かれている、太平洋と大西洋に海岸を持つ国というのはメキシコのことだと思うのだがいかがだろう。『方法異説』に国名は出てこないが、メキシコだと判断出来る確かな証拠がある。
 オーピック将軍は詩人ボードレールの義父であり、ボードレールは義父との確執の中で詩人としての才能を開花させていったのであった。しかし、近くに埋葬されることをボードレールは喜ばなかったであろう。
 ヌエバ・コルドバ至高聖堂というのは、スペイン、アンダルシア州コルドバにあるコルドバ大聖堂のことと思うが、正確には分からない。この他にもいろいろあるが、大体ネットで調べれば見当はつく。
 ところで、このように調べなければ分からないような固有名詞を列挙した文章がこの小説に限らず、カルペンティエールの小説には少なからずある。最後の文章の伏線とも言える文章が第1章に出てくるので読んでみよう。

「ボードレールを崇拝する点は共通しているが――モンパルナス墓地で、悲しい碑文のもとに悲しく埋葬されている――、他にも、レオン・ディエルクス、アルベール・サマン、アンリ・ド・レニエ、モーリス・ロリナ、ルネ・ヴィヴィアンを読むべきだし、モレアス、とりわけジャン・モレアスを忘れてはいけない」

 この文章は最後の文章に呼応すると同時に、小説全体の教養的背景示してもいる。この後議論はヴィクトル・ユーゴーについての不相応な評価に対する批判や、デカルト的精神についての評価に繋がっていく。つまり、この独裁者はまったく無教養ではない。ヨーロッパ的教養をきちんと身につけた人物なのであって、ハイチのアンリ・クリストフとは違うのである。
 ところで、たいていの日本人は先の文章の中で、アンリ・ド・レニエくらいしか知らないし、名前も聞いたことのない人が多いだろう。こうした固有名詞の列挙は、ほとんどペダンティズムと紙一重で、いかにこれが作中人物のものとはいえ、カルペンティエールの文章に辟易する人もいるかも知れない。
 しかし、これがカルペンティエールの文章なのであり、この文章に魅せられてしまい、やみつきになる読者もいる。他にも挙げておこう。カルペンティエールはキューバ音楽についての著書を書くほどの音楽通であったから、この小説でも音楽について多くのスペースを費やしている。これもまたカルペンティエールの文章の特質である。

「そして、まるで大きな鋼製の典礼用具に大きなハンマーが打ち付けられて最初の鐘が子供の鐘をたくさん生みでもしたように、パロマの礼拝堂でそれまで一度も鳴らされたことのなかった鐘が高い音で反応し、続いて上方、庇護火山の雪がかかる境目のあたりでサン・ビセンテ・デ・リオ・フリオのソプラノ、さらに、タルペス修道女会のバリトン、イエズス会寺院の鮮やかな鐘、サン・ディオニシオのコントラアルト、サン・ファン・デ・レトランの通奏低音、聖牧女の銀色のソルフェージュなどが次々と響き渡って、衝突と打撃、呼びかけや金属音、喚起と悦楽の祝祭が始まった」

 この文章に見られるたぐいまれなレトリックと、ペダンティックな味わいを堪能して頂きたい。

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アレホ・カルペンティエール『方法異説』(2)

2016年12月07日 | ラテン・アメリカ文学

『この世の王国』はハイチ革命の歴史を描いたもので、マジック・リアリズムの代表作として名高い作品である。この作品の序文でカルペンティエールは、自分がフランスで学んだシュルレアリスムの世界が、ラテン・アメリカ圏の驚異的現実に比べていかに貧しいものであったか、ということを書いている。
 そうした驚異的現実はこの作品で、奴隷の反乱の先駆けとなるマッカンダルがブードゥー教の魔術によって、「蝶にでもイグアナにでも、馬にでも鳩にでも変身」する姿に代表される(ちなみに括弧内は『方法異説』の一節)。
 しかし、カルペンティエールがこの作品以降、このような魔術的世界に戻っていくことは二度とないのである。それは彼がキューバ人であってもインディオではなく、どこまでも純粋なヨーロッパ人であり、そのような魔術的世界を代表出来る存在ではないということに関わっている。
 たとえばこの『方法異説』はアウグスト・ロア・バストスの『至高の我』、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』と並んで、ラテン・アメリカ文学の三大独裁者小説の一つに数えられるが、カルペンティエールの独裁者はあくまでもかつての征服者=スペイン人であり、インディオ的な要素はまったくない。
『方法異説』のタイトルはもちろんルネ・デカルトの『方法序説』からきているが、主人公の独裁者=第1執政官はゲルマン的価値観に対してラテン的価値観を対置する。それは第1次世界大戦におけるドイツに対し、ラテン的世界の優位を説いて防衛戦を戦う姿勢でもある。
 そのラテン的世界を代表するのがデカルトの『方法序説』であり、デカルトに代表される西欧合理主義が否定されているわけでは決してない。『この世の王国』でカルペンティエールは、ハイチのブードゥーの世界を賞賛し、ヨーロッパ的価値観に対して否定的な眼差しを向けたかも知れないが、それ以降カルペンティエールがそうした世界観に戻ることはない。
 その最も顕著な作品が『光の世紀』であったように思う。カルペンティエールはラテン・アメリカの魔術的世界を捨て、フランス革命の世紀=光の世紀の希望と絶望の世界に正面から入っていく。その結果がまるで古典的な名作を読むような重厚な読後感を残す『光の世紀』という作品に結実しているのである。
 カルペンティエールは『春の祭典』でもキューバ革命を描いて、歴史的現実と個人の問題を小説の中軸に据えているが、よく考えてみればカルペンティエールという作家はずっとそのようなテーマを追究してきたのかも知れない。
 ところで『この世の王国』もまた、一部独裁者小説としての要素を持っている。第4部で世界初の黒人独立を勝ち取り、ラテン・アメリカ世界で黒人初の王制君主となるアンリ・クリストフの治世を描いた部分である。
 アンリ・クリストフは旧フランスの植民地であったハイチでフランス名を名乗り、フランスの再侵攻を恐れてラ・フェリエール砦を築き、クーデタの最中に銀の銃弾を使って自決する。
『方法異説』での独裁者は黒人でもなければ、インディオでもない。フランス的教養を持った白人であって、アンリ・クリストフとは違い、第1執政官はパリで色と欲と文化的精華に溢れた生活にふけりながら、国では残酷な弾圧政策を繰り広げる男であり、そのために本国を逃れてパリで客死することになる。
 だからカルペンティエールの『方法異説』はラテン・アメリカの現実に密着した、マルケスの『族長の秋』やミゲル・アンヘル・アストゥリアスの『大統領閣下』とは違った印象を与える。この第一執政官はパリでの生活の方を本国での生活よりも重視しているかのようなのだ。

アレホ・カルペンティエール『この世の王国』(1992、水声社)木村榮一・平田渡訳
アレホ・カルペンティエール『光の世紀』(1990,水声社)

 

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アレホ・カルペンティエール『方法異説』(1)

2016年12月06日 | ラテン・アメリカ文学

 キューバの作家、アレホ・カルペンティエールの未訳の長編『方法異説』が10月に水声社から刊行された。「フィクションのエル・ドラード」の一冊。
「フィクションのエル・ドラード」は20巻が予定されていて、これで11巻が出たことになる。驚くべきことがある。20巻のうち半数の10巻が寺尾隆吉訳であり、既刊11巻のうち寺尾訳は9巻を占めている。
 ほとんど個人訳の叢書である。カルペンティエール『バロック協奏曲』同じく『時との戦い』、ドノソの『夜のみだらな鳥』は鼓直訳が予定されているが、いずれもすでに本人の邦訳があり、改訳による出版である。
 寺尾隆吉はドノソの『夜のみだらな鳥』の出版についても、鼓直訳が出なければ「私がやる」と公言していて、大変な訳業となるであろう。寝る暇がないかと思えば、「ちゃんと普通の生活はしている」とのことであるから心配は要らないのかも知れない。
 しかし、寺尾訳はこの叢書の中で、アレホ・カルペンティエール、フリオ・コルタサル、ホセ・ドノソ、カルロス・フエンテス、フアン・カルロス・オネッティ、セルヒコ・ラミレス、フアン・ホセ・サエール、マリオ・バルガス・リョサと8人の作家をカバーしている。
 しかも同時進行で刊行中の現代企画室「ロス・クラシコス」でも、ホセ・ドノソの『別荘』とロベルト・アルルト『怒りの玩具』を担当しているし、他にも現代企画室から、翻訳不可能といわれたカブレラ・インファンテの『TTT』、水声社からマリオ・バルガス・リョサの自伝『水を得た魚』を刊行している。
 寺尾の睡眠時間のことよりも、私は翻訳の質を心配しないではいられない。この10年で20点を超える翻訳を手がけ、自著も3点出版していることから、かなりのハードワークであることは間違いない。
 しかも作家の傾向も多岐にわたっていて、一定の作家への拘りが見られない。昔の翻訳家は一人の作家をこつこつと訳して、いわばその作家と心中したわけだが、今日ではそのような翻訳の在り方は古くさいというのだろうか。
 ところで、アレホ・カルペンティエールは"文体の作家"である。キューバの作家と言われているが、生まれはスイスであり、母親はロシア人、父親はフランス人の生粋のヨーロッパ人である。
 カルペンティエールの作品はそのほとんどを読んだが、極めて文章の密度が高く、品格があって、ゆっくり読まなければならない文章の類に属している。と言うことは翻訳もまた時間をかけてゆっくりやってほしいということで、私は寺尾の訳業について重大な不安を感じているのである。でもカルペンティエールにとって極めて重要なこの作品を翻訳してくれたことに対して、私は寺尾に感謝している。
 アレホ・カルペンティエールは私にとって特別の作家である。ラテン・アメリカの作家は数多いが、コロンビアのガルシア・マルケス、チリのホセ・ドノソと並んで私にとって重要な作家である。
 彼の長編はほとんどが訳されていて、『この世の王国』から『失われた足跡』『追跡』『光の世紀』『バロック協奏曲』『春の祭典』『ハープと影』と読んできた。
 最初に読んだのは『失われた足跡』で、この作品で私はカルペンティエールにはまってしまったように思う。ラテン・アメリカ社会に存在するヨーロッパ的価値観と未開社会の価値観とに引き裂かれる主人公の物語であるが、その濃密で美しい文章に参ってしまった。
 そして、今はその細部を覚えてはいないのだが、内乱の国でホテルに泊まり、いきなり市街戦に巻き込まれる場面は衝撃的であった。それまで読んだことのない小説世界がそこにはあった。
『失われた足跡』の前に描かれた『この世の王国』はまさに、読んだことのない小説世界そのものであって、これぞマジック・リアリズムと思って読んだのだった。ただし、他の作品は大きく違っているのだが……。

アレホ・カルペンティエール『方法異説』(2016,水声社「フィクションのエル・ドラード」)寺尾隆吉訳

 

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ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(3)

2016年12月03日 | 日本幻想文学

ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(3)

 前回引用した部分は『幻想文学論序説』の結論部分の一部であって、トドロフの文学に対する考え方をはっきりと示しているところではないだろうか。
 トドロフによれば、文学そのものが「現実と非現実との言語的対立」に基づきながら、言語が言語それ自身を否定することによって、それを乗り越えていく行為である。だから「幻想文学こそは文学の精華なのである」と言いうるのである。
 20世紀の言語学によれば、言語は言語そのものを指し示すにすぎないのではあるが、言語を越えて出ることもある。この"越えて出る"ことをトドロフは幻想文学における本質と捉えているのである。
 そのことはトドロフの言う超自然と関わっていて、幻想文学にあっては物語と超自然の間に大きな関係があるということになる。トドロフは次のように書いている。

「物語というものの定義からして明らかなように、超自然が登場するテクストはすべて物語なのだ。というのも、超自然的出来事が、あらかじめあった均衡を変化させるものだからである」

 そいて、「超自然は物語の変化を最も急速に実現する」とも言っている。だとすれば、物語にとって、「超自然の社会的機能と文学的機能は要するに一つのものでしかないことは明らかで、いずれも同じく掟の侵犯なのだ」というわけである。
 我々はだから、幻想文学において超自然の中に言語が言語を超え出ていく部分を見なければならない。また「超自然の社会的機能と文学的機能が一つのもの」であるとすれば、幻想文学ならぬ一般文学においては「事件というものの社会的機能と文学的機能は一つのもの」ということになるであろう。
 その二つのものの共通の根拠は、言語そのものの中にあるのであって、"超自然"の中や"事件"の中にあるのではない。我々はトドロフの『幻想文学論序説』から、そうしたことも読み取らなければならない。
 ところでトドロフは幻想が怪奇と驚異の境界上にある一過性のものと見ていたのと同じように、幻想文学というものが19世紀に隆盛を見たものの20世紀には致命的打撃を被ったと見ている。19世紀はかろうじて超自然への信頼を装っていたが、20世紀はそれを許さなかったからである。
 トドロフはカフカの超自然的物語に新たな可能性を見て本書の結語としている。しかし、幻想文学が今日滅びたかと言えば、決してそんなことはない。超自然的物語は色褪せてしまったかも知れないが、まだ言語が言語自身を越え出ていく実験精神に可能性は残されているし、カフカの文学はそのようなものとして理解されるだろう。
 トドロフは本書の中で、幻想文学の範疇から詩と寓意を除外している。詩は文学の中でもとりわけ虚構によって成立するものではないことから、「幻想的ではあり得ない」のである。どんなに怪奇で驚異に満ちたことを書いても、詩にはそれに対する驚愕の反応がない。詩は最初から現実から離れた場所で出発しているのであるから。
 そして寓意についても、そこに示された二つの意味のうち、超自然的なものは除外されてしまうのであるから、これもまた「幻想的ではあり得ない」ことになる。ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』を読めば、あまりの恐怖に背中に戦慄が走るが、幻想詩を読んでも我々は怖さを感じることはないし、寓話的物語では超自然的部分は意味を剥奪されてしまうから、動物が喋ろうが、椅子が踊り出そうが、怖がってみようがないのである。

 まだトドロフの『幻想文学論序説』には重要なことがたくさん書いてあるが、そろそろ「日本幻想文学集成」へと進んでいかなければならない。集成を読み進めながら、トドロフを参照していければいいかなと思っている。
(この項おわり)

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