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日々の思いをたまに綴るブログ。

死刑廃止論者の言い分

2008-09-14 01:18:25 | 事件・犯罪・裁判・司法
 私は素朴な死刑存置論者だが、少し前に『世界』9月号が「死刑制度を問う」という特集を組んでいるのを店頭で見て、たまには死刑廃止論者の言い分にも耳を傾けてみようと思い、購入した。
 いくつかの論文や対談、インタビューが掲載されていたが、しかし、心に響くものはなかった。存置論を修正する必要があるとは感じなかった。

 印象に残った箇所について、心覚えとして書き留めておく。

 加賀乙彦と安田好弘(麻原彰晃や光市事件被告の弁護人を務めた)との対談で、加賀は次のように述べている。
一般の人びとは、死刑がどのような刑罰であるかという、基本的なことを知りません。拘置所の中での死刑囚の実態についても、一切官の側からの情報が流れないのです。
そして、ジャーナリズム全体に徳川時代と全く同じ仇討ちの思想がいまだに残っている。死刑の判決が出ると社会部の記者は必ず被害者家族にインタビューして、「死刑の判決が出てほっとしました」といった〝誘導尋問〟をして記事にします。ところが何人かの記者に聞きましたが、彼らは死刑囚の実態をほとんど知らない。〔中略〕被害者の家族の方々も、死刑囚の実態を知らされることなく、一律に「死刑判決が下ってよかった」と言わされているように思います。
 たしかに、死刑囚の実態が広く知られているとは思わない。私も詳しくは知らない。
 しかし、死刑囚の実態を知らなければ、死刑の存否について判断を下すことはできないのか?

 私は、死刑のみならず、懲役刑の実態も詳しくは知らない。
 花輪和一の『刑務所の中』というマンガがヒットし、映画化もされるぐらいだから、きっと世の多くの人々もそうなのだろう。
 だからといって、私が懲役刑を存続させるべきだと考えることは許されないのだろうか。
 私が何らかの犯罪の被害に遭って、その容疑者が捕まれば、おそらく、警察の事情聴取の際に、処罰についての意見を聞かれることだろう。
「こんなケシカラン奴は、一日でも長く刑務所に入れておいてほしいと思います」
と言うことは、懲役刑の実態を知らなければ、許されないのだろうか。
 そんなことはないだろう。どうして被害者や第三者が、いちいち刑の実態を知った上でないと意見を述べてはならないのか。
 死刑についても、同じことではないだろうか。

 また、仮に、死刑囚の実態に人権上の問題があるとすれば、それは改善すれば済むことではないのか。
 そのことと、死刑の存否とは本来別の話だろう。
国家が殺人を犯すということは、国家が禁止している殺人を肯定することになってしまうのです。ですから死刑という刑罰は、殺人を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです。実際死刑は野蛮です。野蛮というのは、行為自体が野蛮なのではなくて、それによって醸し出される思想や価値観が野蛮なのです。
 ヨーロッパや韓国など、多くの国で死刑が廃止されていると聞く。
 わが国はそれら諸国と比べて、思想や価値観が野蛮なのだろうか。
 私はそれら諸国の社会の実態を知らない。だから、はっきりしたことは言えないのだが、海外事情に詳しいであろう知識人やジャーナリストなどからそういった趣旨の告発は聞かない。加賀も、わが国のどこが野蛮であると具体的に述べているわけではない。

 これが、懲役刑ならどうだろうか。
 加賀に倣って言うと、こうなるだろう。
「国家が懲役刑に処するということは、国家が禁止している拉致監禁して強制労働させることを肯定することになってしまうのです。ですから懲役刑という刑罰は、拉致監禁や強制労働を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
 さらに、罰金刑ならどうだろう。
「国家が罰金刑に処するということは、国家が禁止している窃盗を肯定することになってしまうのです。ですから罰金刑という刑罰は、窃盗を肯定するという意味において、非常に矛盾した刑罰なのです」
 こうした主張に賛同する方はそう多くはあるまい。そんなことを言い出せば、刑罰というものを科することはできなくなるからだ。いや、国家による刑罰に限らず、各種の共同体における、ルール違反に対するペナルティについても、同様のことが言えるだろう。

 安田弁護士は、昨今の世論調査で、死刑廃止論がさらに少数になり、死刑存置論が数を増していることについて、次のように述べている。
どうしてこんなことになったのか。日本には、もともと人の命を大切にするという思想や価値観が稀薄だったのかもしれません。あるいは、人を赦すということが、私たちの生き方、あるいは社会的価値観として共有されていなかったのかもしれません。
 それは逆ではないだろうか。
 人の命を大切にしたいからこそ、それを恣意的に奪った者に対して、極刑を求める感情が生まれるのではないだろうか。
 なんでもかんでも死刑にすればよい、例えば、万引きや痴漢でも吊せばよいのだというような意見が多数を占めているのなら、安田の言うこともわからないでもない。しかし、わが国の死刑存置論は、そういうものではないと思う。
 また、「赦す」とはどういうことだろうか。犯人が心から反省し、被害者に対して謝罪してから、はじめて被害者側に赦しの感情が生まれてくるものではないだろうか。反省も謝罪もないのに赦せと言われてもそれは無理な話だろう。また、反省し謝罪している犯人に対して、なおも世論が死刑を強く求めるケースが果たしてあっただろうか。
事件を犯した少年を非難することと彼を殺すことは別なのです。あの少年は事件当時一八歳一か月で、しかも幼いころから父親に徹底して虐待され、その父親の虐待が原因で自分の目の前で母親が自殺するという、大きな心の傷を負ったまま育ってきている。しかしそうした背景や社会全体が抱える問題を全部捨象して、彼を殺すことによって問題を解決しようというのは、思考停止、弱い者いじめのリンチ以外の何物でもないと思います。お互いの共存、他人への理解、人間の尊重という民主主義の前提からかなり逸脱しています。
 彼を殺すことによって問題は解決しない。
 そんなことは、司法関係者は百も承知だろう。
 裁判は、「社会全体が抱える問題」を解決するためのものではない。あくまで、彼個人にどのように刑事責任を取らせるかということを決める場にすぎない。
どうして事件を起こしてしまったのかという問題で象徴的なことがあります。多くの場合、裁判所は、被告人の幼少時の不幸が事件に影響していたとしても、これを否定します。彼らは、同じように不幸な境遇であっても、彼以外の大多数の人は事件を起こさずに生きているではないかというのです。
 しかし、実はそうではなく、逆なのです。同じような負の因子の中で育ちながらも、事件を起こさないで済んでいる理由を問うてみる必要があるのです。なぜ被告人は事件を起こし、彼以外の人は起こさないで済んでいるのか。もっと言ってしまえば、ぼくたち自身がどうして犯罪を犯すことなくいままで生きてこられたのか、それを問う視点がないから、いつまでたっても犯罪が個人の問題だけに還元されてしまう。個人の問題にされてしまうと、やはり復讐あるいは排除ということになってしまいます。司法が事実に向き合うという、司法たる責任を果たしていないことの積み重ねが、いまのような大変悲惨な事態を生み出しています。
 「それを問う」てどうなるのだろう。
 犯罪を個人の問題ではなく社会の問題だと考えるとする。すると個人の問題は消滅するのか? 考えなくてもいいのか?
 裁判は個人の問題を国家が裁く場である。社会の問題について結論を出す場ではない。

 安田は、司法に本来の役割以外のものを求め、それが果たされてないとゴネているだけである。
 そして、そういう理屈を持ち出すことで、死刑制度に対する疑念を膨らませようと画策している。
 だったら安田は、刑事弁護ではなくもっと違う分野で、社会の問題を解決せよと唱えるべきではないだろうか。

 「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長である亀井静香は、インタビューで次のように述べている。
みんな忘れているのですよ、自分自身も環境や場合によっては、凶悪犯罪を犯す羽目になるかもしれないということを。もちろん最終的に行動したその個人の責任は免れることはできません。しかし、たとえば鳩山大臣のように、生まれたときから何不自由なく物心のあらゆる面で恵まれた生活をしてきた人間には、そんな罪を犯すような瞬間はきわめて少ないでしょう。だから想像力が及ばないのだと思います。
 一緒にこの地球上に生息している存在として、私たちの社会の責任というものを全く考えないで、悪いことをした奴は除去していくという、強者の論理で押し切ることはやはり私はやめるべきだと思います。
 ここにも、論理の飛躍がある。
 「社会の責任というものを全く考えない」死刑存置論者がどこにいるというのだろう。
 社会の責任についてはまた別に考えればよい。
 社会にも責任があるから、個人に生命を奪うまでの刑を科すべきではないという理屈は、ちょっとよくわからない。
人間には、どんなに真面目に一生懸命生きていても、他人にたいへんな被害を与えている場合がある。
 たとえば食堂をやって一生懸命仕事をして、大繁盛する。これはいいことで、だれも批判することではない。ところが、それによってライバル店がつぶれる、サラ金から金を借りる、サラ金に金が返せない。一家心中するという場合だって、普通に起こりうることです。
 つまり、人間存在そのものが自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている存在でもあるのですよ。そう考えると、罪を犯した人間に対して単に自己責任だと、命を奪ってまで苛斂誅求することが本当にいいのかどうか。
 こんな、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな屁理屈を言い出せば、責任は無限に拡散し、誰にも何の責任も問えないことになるのではないか。
 「自分は意図しなくても他を傷つけ、被害を与えている」場合と、意図的に他人に被害を与える場合とでは、責任の有り様は当然異なる。
――亀井先生がずっと死刑廃止を主張し続けられる根本には何があるのでしょうか。
亀井 それは私は、あたりまえの感情を言っているのです。ごくごく自然に考えたら、死刑は廃止となりますよ。私は聖人君子でもないから、逆に犯罪を犯してしまう人に対してシンパシーがあるかもしれないですね。
 私は山の中の小さな村で、下から数えた方が早いような農家の生まれです。やはり生きていくことがどんなに辛いか、それはいろいろな経験をしました。〔中略〕
 簡単に言えば人間は偉そうなことは言えないということです。警察官だったときに連合赤軍の森恒夫を取り調べたこともありますが、かれら極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。かれらなりに世の中をよくしたいというところから始まって、武力闘争に至ってしまう。まちがった道だけれども、世のため人のためにと自分の生死を投げ打った、そこにはやはり尊いものがあると思ったのです。人間というのはそういうものではないでしょうか。
 私はこの箇所を読んで、愕然とした。
 亀井は警察の高級官僚でありながら、こんな感覚で公安事件を見ていたのか。
 まちがった道だけれども、動機が純粋であれば尊いのか。
 ならば、二・ニ六事件の青年将校や、サリンを撒いたオウム真理教の連中も尊いのだな?
 スターリンや毛沢東、ポル・ポトも尊いのだな?

 動機がどうであれ、間違っていることはしてはいけないのである。
 それが20世紀における人類の教訓であると私は思っているが、亀井の思うところはどうやら違うらしい。

 そして、
「極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。」
 そんなことは当たり前で、彼らは言うなればイデオロギーに殉じた人々、もっと単純に言えば狂信者である。いわゆる「悪人」とは違うだろう。
 では、暴力団の幹部や、前科何十犯というような職業的犯罪者なら、「根っからの悪人」か?
 私は、「根っからの悪人」などそうそういないと思う。
 世に伝えられる凶悪犯罪者にしても、おそらく、実際に接してみれば、程度の差はあれど、普通の人間と同様、長所も欠点もあるだろう。会話を交わしてみれば、愛すべき点も見られるだろう。
 しかし、そのことと、その犯人に刑罰を科すべきかどうかということとは別の問題である。たとえ、その刑罰が死刑であろうとも。

 井上達夫、河合幹雄、松原芳博の3人による座談会「死刑論議の前提」で、河合幹雄・桐蔭横浜大学法学部教授(1960-)が次のように発言している。
これは、知る人ぞ知る話ですけれども、殺人事件というのは実は被害者側に責任があるケースがほとんどです。そうでないと殺せない。けれども、被害者が無垢なケースしかマスコミに出られないものだから、ものすごく違うイメージになっている。学生たちにいわせると、被害者、特に遺族に量刑を決めさせたらいいとかいいますけれども、殺された人の遺族は加害者本人というケースが過半数です。だから、殺人の現状を全然知らないわけです。
井上 つまり、多くの殺人事件は家族間で起こっている。
河合 そうです。既遂に絞ると家族間で過半数です。しかも正式に結婚していないと家族外とカウントされますから、実際は大多数が家族内と考えてもらっていい。見知らぬ被害者は一割ぐらいでしょうか。
 また、次のようにも。
被害者の中で感情移入が本当にできるような人は少なくて、「あいつだけは生かしてはおけないと思っていた」とか、「おれがやらなくても誰かがやった」という事件はゴロゴロあるのが実態です。
 私は、殺人事件の実態を詳しくは知らない。
 しかし、仮に河合の言うとおりだとしても、それは、殺人事件一般の話だろう。死刑事件一般の話ではない。
 河合が言うような被害者側に責任があるケースについては、そうそう死刑にならないのではないか。

 現に、先日の3名に死刑執行との報道を見ると(大阪・東京拘置所で3人の死刑執行…保岡法相で初(読売新聞) - goo ニュース
万谷死刑囚は、1968年に起こした強盗殺人事件で無期懲役の判決を受けた後、仮出所中だった88年1月、大阪市の市営地下鉄谷町四丁目駅構内の通路で、短大生(当時19歳)の胸を包丁で刺して殺害したほか、87年8、9月にも、同市内で通りがかりの若い女性をナイフや鉄パイプで襲い、バッグを奪うなどした。2001年12月に最高裁で死刑判決を受け、確定した。

 山本死刑囚は2004年7月、いとこ夫婦に借金を断られ2人を包丁で刺殺し、約5万円を奪うなどした。神戸地裁の公判では、迅速化のため事前に争点を整理する「期日間整理手続き」を適用。06年3月、初公判から約2か月で、死刑判決を言い渡した。弁護側は控訴したが、本人が取り下げ、死刑が確定した。

 平野死刑囚は94年12月、過去に住み込みで働いていた栃木県内の牧場経営の男性(当時72歳)宅に侵入。男性とその妻(同68歳)をナイフなどで殺害、現金約56万円や貴金属などを奪い、放火して男性宅を全焼させた。
 いずれも、家族間の犯行ではないし、被害者側に責任があるとも思えない。
 また、死刑存置論者が想定している対象事件も、当然河合の言うようなケースではないだろう。
 河合は、関係ない話をさも関係あるかのように持ち出して、ごまかしているだけである。

 河合はまた、次のようにも言う。
私の言う理想は、死刑ができる裁判がある、けれども死刑判決が出ない。だから、死刑賛成ではないけれども、制度としての死刑廃止は反対なんです。
死刑判決をもらったあとの人間の変わりようというのは、すごいものがある、あれだけはあってもいいということを、現場の刑務官でいっている人がたくさんいます。だから最後に殺してしまわない制度をつくったらどうかという提案ができるし、実はそれは簡単にできるんですね。一審を死刑にして、最後を死刑にしなければできる。治安維持法時代は完全にそういう手法を使っていて、初めは厳罰で、その後転向させるという伝統があったのに、最近は、逆に最後に最高裁で死刑でしょう。あれは日本の伝統からいっても、まさに無様といいたいです。
 治安維持法違反で死刑になった者は日本人にはいないと聞くが、1審判決が死刑で、上級審で覆った事例があったのであろうか。
 仮にあったとしても、それは政治犯のことだろう。
 当時、刑事犯にそのような「一審を死刑にして、最後を死刑にしな」いということが行われていたのかどうか。
 おそらく行われていないはずだ。行われていれば、死刑廃止論者の多くがは「戦前は死刑が実質廃止されていたのに、戦後になって復活し、最近になって執行が増加している。反動的である」と主張するだろうからだ。
 だから、河合の言うような「伝統」は存在しない。
 これもまた、本来関係のない話を持ち出して、すり替えているだけだ。
 河合というのは、なかなか欺瞞的な人物であるらしい。
 
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西野喜一のアンフェア

2008-05-19 23:01:24 | 事件・犯罪・裁判・司法
 井上薫に引き続き、裁判員制度反対派の見解にもう少し触れようと、西野喜一『裁判員制度の正体』(講談社現代新書、2007)を読んでみた。
 著者は1949年生まれ。東京地裁などに勤めた元判事。本書刊行時の肩書きは新潟大学大学院実務法学研究科教授。

 裁判員制度の様々な問題点がわかりやすく説明されている。
 以前取り上げた井上と異なり、先進国で陪審制や参審制といった国民の司法への参加が行われている点についてもきちんと触れられている。
 その中に次のような記述があった。

参審または陪審という裁判への国民参加を実施している国はまずどこでもそうですが、その国の基本法である憲法で裁判のあり方を規定する際に、参審または陪審に条文上の根拠を与え、これらに憲法違反の疑いが生じないようにしています。日本国憲法が制定、公布される数年前まではわが国も、かなり特殊な形態とはいえ陪審制を実施していました。またこの現行憲法の起草に重要な役割をはたしたのは、世界でもっとも盛んに陪審制を実施していた国(アメリカ)の人たちでした。そういう状況で作られた憲法に国民参加にかんする規定がまったくないということは、この憲法下では裁判の国民参加はなく、裁判は裁判官だけにやらせるつもりだったのだろう、と解釈するのがもっとも素直で合理的な読み方です。》(p.80)(太字は引用者による)

《どうしても裁判への国民参加をやりたい人たちのなかには、憲法に規定がなくても、憲法には国民参加をやってはいけないとも書いていないと言う人もいます。憲法に規定がなくて国民参加をやっている国を探し出してきて、フランスがそうだと言う人もいます。しかし、フランスと日本とではあまりにも状況がちがいます。フランスでの国民参加(最初は陪審。二十世紀半ばに、陪審では偏頗な結論が多いとして、参審に変更)はじつに十八世紀のフランス革命時にさかのぼるもので、二百年以上の歴史を持っているのです。それほどの伝統があれば、何度目かの憲法改正の際(フランスの今の憲法は一九五八年公布)に司法への国民参加にかんする条文が入っていなかったとしても、それはいままでどおりとするという意味だ、と誰しもが思うことでしょう。
 これにひきかえてわが国は、終戦直後に裁判の制度を全面的にあらため、それまでとはまったく異なったシステムにしたのでした。これで憲法に参審、陪審を許す規定がなくては、それはこの憲法下では参審、陪審はやらないという意味だとしか考えられません。フランスでは憲法上の明文がなくて国民参加の一種である参審をやっているのだから、わが国でも憲法上の根拠なく参審、陪審をやってもよいのだ、というのは乱暴な議論だと誰しも思うでしょう。》(p.81~82)

 以上の記述を読んで、読者はどう思われただろうか。

・参審制または陪審制を採るほとんどの国は、憲法で国民の司法への参加について定めている。
・フランスは参審制を採るものの憲法で国民の司法への参加について定めていないが、それは伝統に由来する例外である。

 こう「誰しもが思う」のではないだろうか。私は思った。

 主要先進国とされるG7のうち、米、英、加は陪審制、仏、独、伊は参審制を採っている。
 英、加はコモン・ローの国なので、わが国との直接の比較は適当ではないだろう。米国は憲法で陪審制を定めていると聞く。
 フランスは西野が述べているとおりなのだろう。ではドイツとイタリアはどうだろうか。

 ネットでイタリアの憲法を探してみると、「現代イタリア事典」というサイトに次のようにある。

《共和国憲法第102条第3項は、

「人民が裁判に直接に参加する場合と形式は法律で定める」
と規定しており、人民の司法参加は憲法上の根拠規定を持っている。》

 なるほど西野の言うとおりだ。
 では、ドイツはどうだろうか。

 ドイツの憲法に当たる「ドイツ連邦共和国基本法」の邦訳があった。
 しかし、第9章の司法の章を見ても、それらしき条文は見当たらない。

 きっと、私が何かを見落としているのだろうと、思っていた。

 ところが、先日、雑誌『世界』が裁判員制度の特集を組んでいたので読んでみると、笹田栄司・北海道大学大学院法学研究科教授の「憲法から見た裁判員制度」という論文に、次のように書かれている。

《確かに、明治憲法に最も影響を与えたプロイセン憲法は陪審を規定し、また兼子説が引くワイマール憲法は陪審・参審に関して規定していた。しかし、ドイツ・フランスは現在、参審制を採用するが、憲法上、明示的な規定は置かれていない。両国とも法律で規定しているのである。》

 何だ? ドイツも憲法で国民の司法への参加について定めてはいないのか?

 プロイセン憲法は1850年に制定されたという。1871年のドイツ統一後の憲法のペースとなった。また、大日本帝国憲法制定に当たって参考にされたことでも知られる。
 西野に倣って言えば、ドイツも国民の司法への参加の伝統を有していることになる。1871年のドイツ統一後の憲法やナチス時代にも陪審制や参審制が実施されていたのかはわからないが、それでも、かなりの歴史をもつと言っていいだろう。

 にもかかわらず、何故西野はドイツについて触れないのだろう。
 おそらく、大日本帝国憲法がプロイセン憲法を参考にしたことや、ともに第2次世界大戦の敗戦国であることなど、ある程度の共通点があること、それに、憲法で国民の司法への参加を定めていない国がごく例外的であるという印象を与えておきたかったから、ドイツを挙げなかったのではないだろうか。
 主要先進国の中で大陸法系の4か国のうち、フランスとドイツの2か国が、憲法で国民の司法への参加を定めていないにもかかわらず参審制を実施しているのなら、わが国も改憲なしで参審制と同様の裁判員制度を実施できてもおかしくない。そのような印象を与えるのを防ぐために、敢えてフランスだけを例外的な存在として挙げるにとどめているのではないだろうか。
 しかし、こうした態度は、専門家として極めてアンフェアであろう。
 裁判員制度への賛否は別として、西野はこのような作為によって、本書自体の信頼性を貶めていると思える。

 なお、戦前わが国でも陪審制が行われていたわけだが、西野も井上も触れていないが、大日本帝国憲法に国民の司法参加に関する規定はない。
 だったら、戦前の陪審制は違憲だったのか? まさかそうは言うまい。
 そして、「伝統」を根拠にフランスが憲法で国民の司法参加を定めていないことを不問に付すならば、わが国においても同様の理屈が成り立たないこともないだろう。
 ちなみに、戦前の陪審制を定めた「陪審法」(大正12年4月18日法律第50号)は、戦時下の昭和18年4月1日にその施行が停止されたのみで、法律が廃止されたわけではない。
 また、現憲法下で制定された「裁判所法」の第3条第3項は、

《この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない。》

としている。
 裁判員制度は参審制だから陪審制とは異なるが、いずれにせよ国民の司法参加を現憲法が全く排除していると解釈するのは無理があるように思う。

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グリーンピース・ジャパンは窃盗罪を犯したか?

2008-05-18 17:06:06 | 事件・犯罪・裁判・司法
 引き続き、グリーンピースの鯨肉奪取について。

 miracleさんのブログによると、グリーンピースの顧問弁護士は「形式的には窃盗かもしれないが、横領行為の証拠として提出するためで、違法性はない」と話しているという。

 で、私もmiracleさん同様、「形式的も何も、窃盗は窃盗だろ」と思ったのだが、前回の記事を書きながら、まてよと思い直した。
 明白に窃盗罪に当たると言えるだろうか。

 目的が正当であったとしても、それだけで違法性は阻却されない。
 鯨肉横領を告発することが目的だったとしても、それだけで窃盗罪が成立しないというものではない。
 彼らは捜査官でもなく、もちろん裁判所の令状があるわけでもないので、なおさらである。
 また、前回述べたように、盗まれた物を盗みかえしたとしても、窃盗罪は成立する。だから、グリーンピースが言うように、仮にこの鯨肉が調査捕鯨関係者が横領した物だったとしても、だからといってグリーンピースに窃盗罪が成立しないということにはならない。

 しかし、窃盗罪が成立するには、「不法領得の意思」が必要だとされる。
 ウィキペディアの「窃盗罪」の項目に、不法領得の意思について、次のような説明がある。

《不法領得の意思
窃盗罪を含む財産領得罪一般に共通して、主観的構成要件要素として、故意のほかに「不法領得の意思」も必要であると考える説が有力である(記述されざる構成要件、判例・通説)。

不法領得の意思とは、判例及び通説においては、①権利者を排除して他人の物を自己の所有物として振る舞い、②その経済的用法に従い利用又は処分する意思をいう。なお、学説上、いずれかのみを必要とする説、両者とも不要とする説もあり、争いがある。

①権利者を排除して他人の物を自己の所有物として振舞う意思は、解釈上不可罰とされる使用窃盗(他人の物の無断使用)との区別のために必要とされる。すなわち、この要件を必要とする説は、使用窃盗の場合は財物を恒久的に自己の物とする意思に欠けるので、窃盗として処罰されないとする。逆に、この要件を不要とする説は、使用窃盗の不可罰性は可罰的違法性の欠如によって説明できるとする。

②経済的用法に従い利用又は処分する意思は、別罪である毀棄罪(器物損壊罪など)との区別をするため必要とされる。すなわち、この要件を必要とする説は、窃盗にせよ器物損壊にせよ、被害者にとっては財物の利用価値を毀損される点で違法性が同等であるにもかかわらず、窃盗罪が器物損壊罪(法定刑は3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)よりも重く処罰されることの根拠は、窃盗罪にはその物から経済的価値を引き出そうとする意思があり、道義的により重い責任非難に値する、という点に求めるほかないと考える(道義的責任論を前提とする)。

不法領得の意思が要件とされる結果、それが欠ける場合(例えば、路上に停車されていた自転車をほんの短時間だけ乗り回すがすぐに返還するつもりの場合や、いやがらせ目的で他人のパソコンを別の場所に隠すつもりの場合)は、窃盗罪は成立しないこととなる。ただし、判例において、各々の意思を広範に認める傾向にあるため、結果的として、不法領得の意思が不要であるとの説と大差がなくなっている。》

 今回の件で、グリーンピースには不法領得の意思があったと言えるだろうか?
 鯨肉の経済的用法とは、当然食べることだろう。また、その目的で売却することだろう。
 これがグリーンピースではなく、単に食べるつもりで、あるいは転売するつもりで奪取したのなら、間違いなく窃盗罪は成立するだろう。
 しかし、グリーンピースの目的は、あくまで調査捕鯨における鯨肉横領の追及にある。今回の鯨肉はその物証とするために奪ったにすぎない。

 ただ、グリーンピースは奪った鯨肉を食べたと聞く。これはおそらく、間違いなく鯨の肉であるかどうかの検証ということなのだろうが、果たして食べる必要があったのか、多くの論者同様私も強く疑問に思う。
 しかし、この食べる行為は、一般に鯨肉を食品として食べるのと、当然意味合いが異なるだろう。食べたことをもって、不法領得の意思があったと主張するのも苦しいように思える。

 一般人にとっては単に食べたり転売したりする目的で奪おうと考えることが不法領得の意思だと言えようが、グリーンピースの場合は、鯨肉であることを検証して告発することが目的なのだから、その目的に沿って奪おうと考えることをもって、不法領得の意思であるという論法も成り立つかもしれない。これもやや苦しいように思えるが。

 こう考えると、現時点で、間違いなく窃盗罪が成立するとスッパリ断言できる事案ではないように思えるのだが、どうだろう。

 私は別にグリーンピースを擁護しているのではない。今回の行為は強く批判されるべきだ。
 窃盗罪が成立しなくとも、食べたことにより器物損壊罪が成立することは免れないだろう。
 奪取した手段如何によっては、建造物侵入罪にも問われることになるだろう。
 ただ、不法領得の意思という点から見て、窃盗罪が成立すると簡単に言い切れるのか、疑問に思えるだけだ。

 前回触れたKABUさんも、法律のプロなら、こういう点に着目すべきではないのかな。

 しかし、今回のような件が窃盗罪に当たらないとしてしまうと、さらに同種の行為を誘発しかねないから、警察や検察や裁判所は、何とか窃盗罪成立に持ち込もうとするんじゃないだろうか。

(関連記事 「不法領得の意思」について補足

(関連記事2 やられたか

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井上薫説への疑問(3)――裁判員制度は違憲か

2008-05-15 23:15:34 | 事件・犯罪・裁判・司法
関連記事

 井上薫『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)によると、裁判員制度は違憲なのだそうである。

《以上のとおり、裁判員制度は、憲法に違反するので、法律上実施することができません。あえて実施すれば、予測不可能な大混乱を引き起こします。
 裁判員制度が憲法違反ということは、今さら、この制度が妥当かどうかを論じる余地はなく、残された道は、制度を廃止するしかありません。これは、裁判員制度の反対あるいは消極という国民の意思にも合致します。裁判員制度の欠陥はたくさんありますが、これらを一々検討するまでもなく、廃止する以外道はないのです。詳しくは、井上薫著『つぶせ!裁判員制度』(新潮新書、平成二〇年)を参照してください。》(p.267)

 しかし、どのように憲法に違反しているのか、その説明が本書では不十分であるとの印象を受けた。
 井上は、裁判員制度の欠陥として、次のような点を挙げる。

1.法令に基づく裁判はできない

《裁判所の構成員九人のうち六人を占める裁判員は、法律の素人なので、この裁判所は、法令に基づく裁判はできません。法律の知識は、裁判員は知らなくても、裁判官が教えてくれるから心配いらないという当局の宣伝文句を耳にしたことがあるでしょう。でも、これは間違いです。なぜなら、裁判員は、法律により、独立して職権を行使することとされている以上、裁判官の説明に従う義務を負わないからです。〔中略〕だから、裁判員制度の下では、法令に基づくことなく死刑に処されることもあるのです。》(p.264)

2.被告人の人権が保障されない

《憲法が手厚く被疑者や被告人の人権を守ろうとしても、裁判員がこれを理解していないのでは、裁判所において、実際にこれら憲法の配慮が活かされることが期待できないのは、火を見るより明らかです。被疑者や被告人の人権は、裁判員制度の下では有名無実となります。〔中略〕被告人は、このような裁判員裁判を拒否し、裁判官だけの裁判所に裁いてもらいたいと願っても、一切許されないのが今の裁判員制度なのです。》(p.265)

3.基準なき裁判

《裁判員の参加した裁判所は、法令に基づく裁判をすることが期待できない以上、裁判の基準を喪失したというほかありません。なぜなら、元来、裁判官も裁判員も、法令に拘束される以外、職権の独立が規定されています。今、法令の拘束を事実上脱したとすると、ほかに裁判の基準は一切ないのです。このような裁判所は、死刑判決を含むあらゆる判決を、一切の基準なしに、思うがまま出すようになるしかありません。ここに、司法権による新たな人権侵害が始まるのです。》(p.265-266)

 しかし、上記のいずれにも、裁判員制度が憲法のどの条文にどう違反しているから違憲だといった具体的指摘はない。

 例えば、憲法は、司法における国民参加といった事態を一切想定していない。もし想定していたとすれば、その点についての言及があるはずだ。日本国憲法制定時に、既に米国では陪審員制度が実施されていた。にもかかわらず、憲法にその旨の規定がないのは、憲法が国民の司法参加を想定していなかったからであり、それを敢えて新設するならば、改憲が必要になるはずである。故に裁判員制度は違憲である――このような見解があると聞く。私はこの見解には与しないが、そういう違憲論が成立しうること自体は否定しない。
 しかし、井上の裁判員制度違憲論は、どうもそういったものですらないように思える。これでは、

《これらを一々検討するまでもなく、廃止する以外道はないのです》

とまでは到底言えないのではないか。

 井上は、上記のように、

《詳しくは、井上薫著『つぶせ!裁判員制度』(新潮新書、平成二〇年)を参照してください。》

と書いている。しかし私は、同書を立ち読みしてみたが、本書における裁判員制度批判を水増ししたものに過ぎないとの印象しか受けなかった。たかがブログ上での批判のためだけに本1冊を購入するほどの金銭的・時間的余裕は私にはないので、以下、本書の記述のみに基づいて、井上の裁判員制度違憲論への批判を試みる。

 井上は、裁判員制度の欠陥として、上記の3点を指摘するが、これには嘘が含まれている。これは、裁判員制度についてある程度の知識がある方なら、誰でも気付くことだろうが。

 裁判員制度を創設した「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」には、たしかに井上が言うように、次のような条文がある。
 
(裁判員の職権行使の独立)
第八条  裁判員は、独立してその職権を行う。

 しかし、このような条文もある。

(裁判官及び裁判員の権限)
第六条  第二条第一項の合議体で事件を取り扱う場合において、刑事訴訟法第三百三十三条の規定による刑の言渡しの判決、同法第三百三十四条の規定による刑の免除の判決若しくは同法第三百三十六条の規定による無罪の判決又は少年法(昭和二十三年法律第百六十八号)第五十五条の規定による家庭裁判所への移送の決定に係る裁判所の判断(次項第一号及び第二号に掲げるものを除く。)のうち次に掲げるもの(以下「裁判員の関与する判断」という。)は、第二条第一項の合議体の構成員である裁判官(以下「構成裁判官」という。)及び裁判員の合議による
一  事実の認定
二  法令の適用
三  刑の量定
2  前項に規定する場合において、次に掲げる裁判所の判断は、構成裁判官の合議による。
一  法令の解釈に係る判断
二  訴訟手続に関する判断(少年法第五十五条の決定を除く。)
三  その他裁判員の関与する判断以外の判断
3  裁判員の関与する判断をするための審理は構成裁判官及び裁判員で行い、それ以外の審理は構成裁判官のみで行う。

 「第二条第一項」とは次のとおり。

(対象事件及び合議体の構成)
第二条  地方裁判所は、次に掲げる事件については、次条の決定があった場合を除き、この法律の定めるところにより裁判員の参加する合議体が構成された後は、裁判所法第二十六条の規定にかかわらず、裁判員の参加する合議体でこれを取り扱う。
一  死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件
二  裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く。)

 さらに、次のような条文もある。

(評議)
第六十六条  第二条第一項の合議体における裁判員の関与する判断のための評議は、構成裁判官及び裁判員が行う。
2  裁判員は、前項の評議に出席し、意見を述べなければならない。
3  裁判長は、必要と認めるときは、第一項の評議において、裁判員に対し、構成裁判官の合議による法令の解釈に係る判断及び訴訟手続に関する判断を示さなければならない。
4  裁判員は、前項の判断が示された場合には、これに従ってその職務を行わなければならない。
5  裁判長は、第一項の評議において、裁判員に対して必要な法令に関する説明を丁寧に行うとともに、評議を裁判員に分かりやすいものとなるように整理し、裁判員が発言する機会を十分に設けるなど、裁判員がその職責を十分に果たすことができるように配慮しなければならない。

 つまり、法令の適用はともかく、法令の解釈及び訴訟手続については、裁判員は職業裁判官の判断に従わなくてはならないとされている。
 従って、裁判員が全くのフリーハンドで判決を下せるかのような井上の説明は誤りである。

 さらに、井上は「法令に基づくことなく死刑に処されることもあるのです」と述べるが、そのような事態もありえない。
 まず、次のような条文がある。

(裁判員の義務)
第九条  裁判員は、法令に従い公平誠実にその職務を行わなければならない。

 それでも、裁判員が法令に従わずに重罰を科そうとする場合はどうするのか。
 それは、評決が、職業裁判官を含む過半数の意見により決められるとされていることで防止される。

(評決)
第六十七条  前条第一項の評議における裁判員の関与する判断は、裁判所法第七十七条の規定にかかわらず、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による。
2  刑の量定について意見が分かれ、その説が各々、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見にならないときは、その合議体の判断は、構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見になるまで、被告人に最も不利な意見の数を順次利益な意見の数に加え、その中で最も利益な意見による。

 したがって、仮に裁判員5名が死刑を主張し、裁判官3名+裁判員1名が死刑に反対したとしたら、それだけで多数決により死刑判決が言い渡されるということにはならない。

 さらに、井上は全く触れていないが、裁判員制度による裁判が行われるのは、1審だけである。控訴審、上告審は職業裁判官だけで行われる。
 だから、井上が言うような、「被告人は、このような裁判員裁判を拒否し、裁判官だけの裁判所に裁いてもらいたいと願っても、一切許されない」ということはない。

 井上は、裁判員は職業裁判官と違って法令を知らないから、法令に従うことは期待できない。だから裁判員を拘束するものは事実上何もなく、違法判決が有り得ると説く。
 しかし、法令を知っている職業裁判官が、法令に従わずに違法判決を下さないという根拠は何処にあるのか。
 現に、法令違反を理由に控訴審で覆るケースは多々あるのではないか。

 裁判員制度に様々な問題点があるというのは確かだろう。しかし、とりあえずはやってみても差し支えないレベルには達していると私は思う。
 裁判員制度導入の背景には、主要先進国の中で、国民の司法参加制度が設けられていないのはわが国だけであるという批判があったと聞いている。井上はこの点についても何も触れていない。
 他の国々で行われているからといって、必ずしもその全てをわが国でも同様に実施しなければならないとは思わない(例えば、死刑廃止は世界の大勢だと聞くが、私は死刑に賛成だ)。だからといって、わが国の国情に合致しないとは言い切れないものを、むやみに排撃するというのもどうかと思う。
 やってみて、不具合があれば改めればいいのではないかというのが、私の考えだ。
 それではその不具合により人権侵害を被った者はどうなるという批判があるだろう。それはそれなりの補償をすればよい。そんなリスクを恐れて現状維持に留まるだけでは改革はできない。
 同じ自由民主主義体制を採る他の先進国にできて、何でわが国にできないことがあろうかという思いから、私は裁判員裁判制度導入を支持している。
 そして、井上の裁判員制度批判とは、いわゆる「ためにする批判」ではないかとの印象が強い。

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井上薫説への疑問(2)――尊属殺重罰規定違憲判決違法論について

2008-05-12 22:41:52 | 事件・犯罪・裁判・司法
関連記事

 かつて、わが国の刑法には尊属殺人罪が設けられていた。

刑法第200条 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス

 現在の刑法からはこの条文は削除されている。
 削除のきっかけとなったのは、1973年4月4日の最高裁大法廷判決である。この判決が、刑法第200条は憲法第14条に定める法の下の平等に反し違憲無効であるとしたため、以後政府は刑法第200条を死文化し、尊属殺についても刑法第199条の通常の殺人罪を適用するようになった。そして刑法第200条は1995年の刑法改正(口語化)に伴い削除された。
 この判決は、最高裁による初の違憲判決として著名なものである。しかし井上薫『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)によると、井上の蛇足判決理論から見て、この判決は最高裁の越権行為による違法の産物であって、何ら判例と見なすべきものではないという。
 どういうことだろうか。

 「死刑又ハ無期懲役ニ処ス」といっても、情状などにより減軽される余地があるので、実際に判決で言い渡される刑罰は必ずしも死刑か無期懲役に限られていたわけではない。
 しかし、減軽しても懲役3年6月が下限だった。執行猶予は懲役3年以下でないと付けられないので、実刑とせざるを得ない。この点で、通常の殺人罪に比べて尊属殺人罪は著しく不平等であるとされたわけだ。

 この判決が下される前は、最高裁は刑法第200条は合憲であるとの立場をとっていた。それが一転したのは、本件事案が極めて特殊で、被告人に情状酌量の余地が多々あると判断されたからにほかならない。
 井上は、こうした事情を一通り説明した上で、次のように述べる。
 
《しかしそれなら、本件限りの特殊な判決をすれば足りることになります。つまり、尊属殺人罪を本件のような被告人の情状が極端によいという特殊事情のある事案について適用することは、憲法の定める平等原則に違反すると判断すれば足りたのです。こう判断すれば、本件では、尊属殺人罪の適用はできなくなり、普通殺人罪の適用により懲役刑の執行猶予にできたのです。本件以外の尊属殺人事件に適用した場合とか、一般的な尊属殺人罪の合憲性などに一言も言及することなく、本件での情状に見合った妥当な判決はできたのです。
 裁判の本質について改めて考えてみると、裁判は具体的紛争を対象とするものでした。だから、今担当しているその事件について法令をどう適用するかだけを決めれば、判決における判断としては十分だということになります。すると一般論を述べることは、すべて必要がないことになります。裁判における判断は、すべて本件限りの判断である必要があるのです。ここで、前に触れた必要性の原則を適用すれば、判決理由中の一般論はすべてその必要性がなく、蛇足と断定することができます。
 日本国憲法が採用した前述の付随的違憲立法審査制度からしても、憲法判断は、裁判権を行使するのに必要な限度が守られるべきで、この点からも、本件最高裁大法廷の判決のした違憲判断は蛇足であるということができます。》

 果たしてそうだろうか。
 たしかに、井上が言うように、本件に限っては尊属殺人罪ではなく通常の殺人罪を適用すべきであるという判決を下すことも可能だろう。
 しかし、それでは刑法第200条自体は有効なままとなり、その後も尊属殺人罪を適用されるケースも有り得ることになる。
 刑法第200条自体が違憲であり、今後あらゆるケースで適用すべきでないと最高裁が考えたからこそ、違憲判決が下されたのだろう。
 それは、井上が言うように、わが国の違憲立法審査制度から見て不適切な判断なのだろうか?
 なるほど、わが国の裁判所の違憲立法審査制度は、ドイツの憲法裁判所などとは異なり、一般的、抽象的に憲法判断をするのではなく、具体的事件に即して判断する、付随的違憲立法審査制度だとされている。
 しかし、井上のように、違憲判断の効力は具体的事件ただそれのみに及ぶと解するのは、違憲立法審査制度の意義を失わせるものではないだろうか。
 裁判所の違憲立法審査権とは、そもそも三権分立において、司法府が立法府を抑制する役割を果たすものだ。憲法は最高法規であるから、立法府においても憲法に反しない法律を制定することは当然だが、仮に立法府が合憲であると解釈して法律を制定したとしても、司法府がそれは違憲であると判断すれば、その判断が立法府よりも優先するわけである。
 その効力が具体的事件ただそれのみに及ぶと解しては、その事件以外の類似のケースにおいては、違憲判断は無意味であり、それにより不利益を被る者は、個別に訴訟で争わなければならないということになってしまう。それでは最高裁の判例など何ら実質的意味を持たないということにならないか。
 違憲立法審査権は、憲法第81条の次の条文に定められているのだが、
 
《最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。》

この条文から、違憲判断の効力は具体的事件ただそれのみに及ぶという解釈を導き出すのも困難であるように思える。

 一方井上は、次のようにも述べている。

《はっきりいって、違憲立法審査制度は、所期の機能を発揮していないのです。〔中略〕
 このようなことでは、違憲立法審査制度によって人権を守ろうとする憲法体制が、次第に有名無実となってしまうのを、指をくわえてながめているしかありません。
 私は、蛇足判決理論〔中略〕を駆使することで、違憲立法審査制度の機能不全という現実の打開策としようとしています。憲法訴訟の環境全体を見回してもこの理論以外に、有効な打開策はないといえましょう。》

 違憲判断の一般化を違法だと断じる蛇足判決理論が、どのような打開策と成り得るというのか、理解に苦しむ。

    *    *    *    *

 余談だが、井上はこの最高裁大法廷判決を「親殺し普通化判決」(p.136)と述べている。
 親殺し、つまり尊属殺人罪を違憲とし、通常の殺人罪(井上はこれを「普通殺人罪」と呼ぶ)を適用すべきとした判決であるが故のネーミングなのだろうが、何やらこの判決によって、親殺しが普通に行われるようになったかのような、まがまがしい印象を与える表現ではないか。
 また、被告人の情状について、次のように述べている。

《第一審判決は、刑の免除を言い渡しています。刑の免除とは、有罪だが刑は科さないものです。親を殺しながら刑を科さないという以上、よほど被告人情状がよろしかったのでしょう。控訴審判決は〔中略〕懲役三年六月の実刑を科しました。これは、尊属殺人罪の規定を適用して減軽した場合、法律上可能な最も軽い刑です。最高裁は、〔中略〕普通殺人罪を適用して、何と懲役刑の執行猶予を導きました。被告人は、最終的に刑務所に入らなくてもよいということになったのです。以上のとおり、三つの判決とも、何とかして被告人の刑を最も軽くしようとしています。被告人の情状が極端によいのでしょう。
 そこで、被告人の実父殺しに至る経緯を見ると、本件の特殊性が明らかになります。〔中略・経緯の説明が続く〕
 こうした本件事案の特殊性からして、最高裁の裁判官らは、被告人の情状をよく感じ取り、何とか刑務所に入れないように心を砕いたのでしょう。》

 青色で表示した箇所について、先の「親殺し普通化判決」というネーミングとあいまって、冷笑的なイメージを私は受けるのだが、いかがだろうか。少なくとも、この被告人に同情的な表現を、この箇所に限らず私は本書の中から感じ取ることはできなかった。
 蛇足判決理論を安易に援用する人々には、井上がこのようなメンタリティの持ち主であることも知っていただきたいものだ。

 
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井上薫説への疑問(1)――裁判官の身分保障について

2008-05-11 22:27:03 | 事件・犯罪・裁判・司法
関連記事) 

 井上薫は、著書『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)において、わが国の裁判官については、一般の国家公務員に比べて手厚い身分保障が定められていることを具体的に示した上で、次のように述べている。

《しかし、これらの身分保障にも欠陥があります。〔中略※1〕
 その筆頭は、下級裁判所の裁判官の任期が憲法上一〇年と定められている点です。〔中略〕
 裁判官の職の不安定さが顕在化するのが、再任のときです。「再任は新任と同じで、再任するかどうかを決める最高裁の指名は、百パーセントの自由裁量だ」というのが、下級裁判所の裁判官の人事権を一手に握る最高裁の見解です。これでは、再任を希望する裁判官は、常日頃から最高裁の意向に沿うように自己規制するとともに、間違ってもその意向に反する判断は絶対にしないように振る舞うほかはありません。
 かくして、再任制度のおかげで、下級裁判所の全裁判官に萎縮効果が発生し、裁判官を拘束するのは法令のみという憲法上の規定は有名無実化し、「法令にあらざる最高裁の意向」に従わざるをえない事態となっているのです。もし、最高裁の意向に反すれば、即不再任が待っているのです。〔中略〕
 大日本帝国憲法下では、裁判官は終身官とされていました。これと比べても、日本国憲法が新たに導入した任期一〇年の制度は、裁判官の独立を大きく損なう点に、正当な注意が払わなければなりません。〔中略〕
 裁判官を拘束するのは、憲法上、法令だけとされているので、裁判官が違法行為をした場合に、人事上マイナスと評価されるのは当然です。これが、再任時の障害となるのもやむをえません。しかし、人事権者が、法令以外に基準を作り、これを満たさないから再任しないという運用をしたら、これは即憲法違反といわなければなりません。なぜなら、再任を希望する裁判官は、人事権者の作った「法令以外の基準」に従わざるをえず、裁判官の独立という憲法上の価値を侵害することになるからです。〔中略〕最高裁は、これまで下級裁判所の裁判官の指名は、自由裁量だと言い切り、そのように運用してきましたが、これは日常的な憲法違反といわなければなりません。》

 では何故、旧憲法下では終身官であった裁判官が、現憲法では任期10年の再任制に変えられたのだろうか。
 井上は、上記の引用文で省略した※1の箇所で、次のように述べている。

《下級裁判所の裁判官の定年は、簡裁判事が七〇歳、ほかは六五歳とされています。それまでの長きにわたって強い身分保障を受けるとなると、裁判官が自己研鑽を怠り、裁判官に必要な資質を欠く事態になるかもしれません。それを回避する趣旨です。》

 そうだろう。もっと端的に言えば、とんでもない判決を連発するような非常識な裁判官であっても、手厚い身分保障のために簡単に罷免することができない。それを補うための制度だろう。
 私はこの制度には充分に意義があると思う。

 では井上は、旧憲法のように終身官に戻せと言うのだろうか。そうは述べていない。何故だろう。
 最高法規である憲法に違反するものだとして最高裁を批判する井上の立場からすると、憲法自体を批判することはタブーなのかもしれない。

 井上は、司法府の頂点に立つ最高裁に権力が集中しすぎていることが問題だと説く。最高裁は、終身裁判所として司法権の頂点にあるばかりか、司法府内の行政権(裁判官の人事権など)、そして司法府内の立法権(裁判所の規則制定権)をも掌握している。このうち司法行政権、特に裁判官の人事権を最高裁が握っていることが、憲法で保障された裁判官の独立を侵害しているとして、次のような改善策を主張している。

《司法行政担当の官庁を第四権として別に作り、その長官(独任制)または委員(委員会制)は、国会の承認を得て内閣が任命することとし、裁判所は、最高裁以下、裁判権の行使のみに没頭することとします。この制度変更は、憲法改正を必要とせず、裁判所法改正だけで実現することができます。
 ただ憲法上、最高裁には、規則制定権、下級裁判所の裁判官の指名権が付与されています。司法行政を最高裁から分離する際には、これらの憲法上の規定をも改正の必要性が出てくるものと思われます。》

 果たしてこれは現実的だろうか。
 司法行政と言うと何やら本来の司法権とは別物のような印象があるが、要はこれは司法府を組織として運営していくために必要なものだろう。それを司法府から分離してしまうことは、およそ現実的とは思えない。
 例えば国会は立法府だ。国会には議員とは別に独自の職員がいる。その人事や会計、施設の管理といったことはさながら立法行政と言えようか。それを国会から分離して別の機関が行うことに何の意味があるだろうか。
 あるいは、政府の各省庁が訓令や通達を出すことは、行政府内の立法と言えるだろう。これを立法だから行政府で行うべきではないとして、別の機関が行うべきなのか。そんなことがそもそも可能なのか。
 井上が言っているのはそういうレベルの話だろう。
 憲法で裁判官には独立が保障されている点で、司法府は、上意下達が当然である他の組織とは異なるのではないかという反論が予想される。しかし、裁判官の独立とは、あくまで裁判の場で保障されるのであって、司法行政には及ばない。現に井上も、こう述べている。

《司法行政の組織が一体性を保って活動していくための規律の原則は、上命下服です。上司の命令に、部下は従わなければならないということです。一般の行政官庁の職員は、皆この上命下服の規律の中にありますから、裁判所もその例外ではないことになります。〔中略〕
 一人の裁判官から見ると、今自分のしようとしている仕事や問題とされている点が、裁判事務に属するのか、司法行政事務に属するのかの区別が重要となります。裁判事務であれば、裁判官の独立の原則により、司法行政は一切口出しができません。口出しすれば、直ちに裁判干渉という憲法違反行為となるわけです。裁判官は、司法行政権者から裁判事務について指図されたとき、これを拒否する法律上の義務を負っています。
 これに対し、司法行政事務であれば、司法行政権者の指図には従わなければなりません。これを拒否すれば、職務上の違法を犯したとして、懲戒処分等の不利益を受けなければなりません。》

 ならば、人事は司法行政事務なのだから、司法行政権者に従わざるをえないのではないか。裁判官の独立は保障されていても、人事権者が裁判官をどう評価するかは人事権者の専権事項であり、それは何ら憲法に違反しないのではないか。

 さらに、上記の引用文中、第四権についてこう述べるが、
 
《司法行政担当の官庁を第四権として別に作り、その長官(独任制)または委員(委員会制)は、国会の承認を得て内閣が任命することとし、》

これでは、わが国のような議院内閣制の下では、司法府の人事権を政府与党が完全に握るということになるのではないか。それで司法府の独立が保てるのか。
 井上は、最高裁批判に狂奔するあまりに、司法府の独立それ自体の維持という、より肝心なことを忘れ去っているように思う。

 井上はまた、裁判官の報酬の額と昇給制、それに最高裁が報酬額を決定するシステムも、裁判官の身分保障における欠陥だと説く。

《判事補になりたての報酬は、日本社会の中でも、十分な尊重を受けているとはいいがたいでしょう。家族がいれば、より早い昇給を願って、最高裁の覚えめでたくなることに汲々とならざるをえません。〔中略〕これでは、裁判官の独立は有名無実となってしまいます。
 〔中略〕司法試験と司法修習を経てきた裁判官の報酬としては、初任給が低すぎるというべきです。昇給制は、人事権を有する最高裁に従属する裁判官を生み出すという構造的欠陥を有します。
 このように、裁判官以外の職務では当然とも思える昇給制も、職権の独立が憲法上求められている裁判官について適用することは、憲法の精神に反する点に注意しなければなりません。》

 では井上はどうすべきだと言うのか。その具体的な言及はない。しかし、これらの記述からは、暗に、初任給はもっと高額にするとともに、昇給制自体も廃止すべきである、それが憲法に定められた裁判官の独立を保つために必要なことなのだとの意図が感じられる。
 果たしてそうなのかどうか。任官したばかりの判事補が一般企業の初任給をはるかに上回る給与を受け取ることが憲法の精神に忠実なのだろうか。あるいは、任官したばかりの判事補と最高裁判所長官とが同額の給与を受け取ることが憲法の精神に忠実なのだろうか。
 蛇足判決理論で井上にシンパシーを示す人々は、彼がこのような特異な裁判官観の持ち主であることにも留意すべきだろう。
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井上薫『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)

2008-05-10 16:06:34 | 事件・犯罪・裁判・司法
 『司法のしゃべりすぎ』(文春新書、2005)などの著作で知られる、異色の判事だった(2006年退官)著者の最新刊。
 タイトルどおり、専門家でない一般市民のためにわが国の裁判制度をわかりやすく解説することを目的としている。
 著者の見解はこれまで雑誌の記事などで目にしたことはあるが、まとまった著作を読むのは初めて。

 そもそも裁判とは何であるか、司法権とは何であるかといった原論的な話から始まり、次いで裁判所の権限、裁判官の独立といったわが国の裁判制度の根幹部分について論じた後、裁判所の構成、司法行政の仕組みといったより具体的な話に移り、さらに実際の裁判の手続について簡にして要を得た説明を行い、末尾で来年施行される裁判員制度について触れている。
 この構成には、たしかに著者が言うように工夫が凝らされていると思った。
 ただ、一般市民がある日突然裁判に呼ばれることになったから裁判について知りたいとか、あるいは誰かを訴えたいがどうすればいいかわからないので知りたいとか、そういったニーズに応える本ではない。あくまで、裁判とはどういうものかを概括的に知るための本である。
 記述は平明でわかりやすい。入門書として適当なレベルだと思う。
 
 ただ、一般的な説明の中に、著者独自の見解(それも通説から見てかなり異色の)が、何の断りもなしに盛り込まれている。
 そのため、本書を全く鵜呑みにして、裁判とはこういうものだと信じ込んでしまうと、将来痛い目に遭うような気がする。
 したがって、著者ならではの裁判論を読んでみたいという読者ならともかく、一般市民が裁判制度について手っ取り早く知りたいと思って本書を読むことは、決してお勧めできない。
 「入門」と称する本で、独自の見解を何の注釈もなしに多数盛り込むことは、決して褒められた行為ではないだろう。

 例えば、著者独自の見解に、蛇足判決理論がある。これは、『司法のしゃべりすぎ』などで以前から主張されているもので、ご存知の方も多いだろう。最近では、自衛隊のイラク派遣をめぐる訴訟で、4月17日の名古屋高裁判決が、傍論部分で派遣遣を違憲だとし、この理論の立場から批判を受けたことが記憶に新しい。
 しかし、この判決についての是非はさておき、蛇足判決理論は一般論として果たして妥当なものだろうか。
 著者の言うように、判決理由に蛇足(主文を導き出すのに必要な説明以外の部分)を記載することは許されないと解すると、そもそも傍論というもの自体が許されないということにならないか。
 本書の蛇足判決理論についての説明を読んでみたが、疑問を禁じ得ない。

 私は本書を読んで、昔『お役所の掟』(講談社、1993)という本が売れた宮本政於(みやもと・まさお、1948-1999)という人物のことを思い出した。
 当時、『お役所の掟』を好意的に評価する声が多かったが、私には、自尊心が旺盛で、何でもかんでも自分の思うがままでなければ承知できないという、端的に言ってわがままな人物が、組織人としてうまくやっていけない鬱憤をこういう形で晴らしているという印象が強かった。
 もちろん、宮本が指摘していたようなお役所ならではのおかしな点はあるのだろう。しかし、多かれ少なかれそういったことはお役所に限らずどの組織にでもあるのではないか。そして、だからといってその組織でうまくやっていけない人物が言うことが常に正しいかというと、そうでもないのではないか。
 井上薫についても、同様の印象を受けた。

 本書における著者独自の見解の中で特に気になったのが、次の3点。
・裁判官の身分保障についての見解
・尊属殺重罰規定違憲判決違憲論
・裁判員制度違憲論
これについては、稿を改めて述べたい。


(関連記事1 井上薫説への疑問(1)――裁判官の身分保障について
(関連記事2 井上薫説への疑問(2)――尊属殺重罰規定違憲判決違法論について
(関連記事3 井上薫説への疑問(3)――裁判員制度は違憲か

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危険運転致死傷罪について思うこと(3)

2008-02-02 13:17:20 | 事件・犯罪・裁判・司法
承前

 今回の判決に際し、危険運転による事故を重く処罰するだけでは十分でない、飲酒運転をして事故を起こした場合に全て加重的に処罰するという、飲酒運転致死傷罪とでも言うべき罪を新設せよとの主張が見られた

 また、昨年12月20日の『産経新聞』の「主張」(ウェブ魚拓)は、

《今回の裁判も、飲酒運転に危険運転罪を適用するためのハードルが高すぎることを浮き彫りにした。
 同罪は事故当時、運転できないほど酒に酔っていたことを立証しなければならず、施行当時から現場の警察側では、立証要件が厳しすぎるという問題点が指摘されていた。
 飲酒運転を厳正に処罰する目的の法律が、法体系の厳格化で生かされないという矛盾が出ており、早急に同罪の改正に着手すべきである。》

《これほど明確な危険運転による痛ましい事故はないというのが、社会一般の常識的見方ではないか。》

としている。ではどの程度の要件を想定しているのかは明らかでないが、趣旨としては上記の主張と同様のものだろう。

 今回の判決のように、危険運転致死傷罪の要件が厳しすぎると感じられる事例が生じると、そういう反応が出ても不思議はない。
 しかし、飲酒運転を一律に非飲酒運転より重く処罰することは、果たして妥当だろうか。
 たしかに、飲酒運転をすれば、事故を起こす確率は高まるだろう。
 そして、飲酒は自由意思で行うものだから、飲酒が事故の原因であるなら、その責めは本人が負うべきだろう。
 しかし、その事故が飲酒の影響により起こったということは、どのように証明するのだろうか。
 今回の判決では、事故の原因は脇見にあるとされている。飲酒の影響で、脇見が長時間に及び、事故を起こすことになったのかもしれない。
 しかし、そうでないかもしれない。飲酒しようがしまいが、脇見の時間は変わらず、同じように事故が起きていたかもしれない。それを証明することは極めて困難だ。
 前回紹介したように、危険運転致死傷罪の要件が厳しく限定されているのは、要はそういう考えによるのだろう。
 蛇行運転のように、正常な運転でないことが明らかであれば、当然飲酒の影響があったことが推認できる。だから、飲酒という行為の責任を問うことができる。
 しかし、今回のように飲酒の影響が明白でない事案についてまで、危険運転致死傷罪を適用すべきではないということだろう。前回紹介したとおり、それが立法者の意思にも沿っている。法治主義、証拠裁判主義という点から見て、極めて妥当な判決だと私は思う。

 飲酒が事故に影響を及ぼした証明があろうがなかろうが、違法行為である飲酒運転をして、幼児3人死亡という重大な結果をもたらした以上、犯人は厳罰に処されるべきだ、そのためには危険運転位死傷罪の適用をためらうべきではないというのも、1つの考え方ではあるだろう。
 あるいは、飲酒運転は「危険運転」に決まっているではないか、飲酒が「正常な運転が困難な状態」に当たらないはずはないだろうといった素朴な疑問も有り得るだろう。
 朝日社説は、今回の判決が「普通の人の常識に反していないだろうか」、裁判は「国民の常識からかけはなれたものであってはならない」と説く。
 昔、私の母親が、凶悪事件の裁判の報道に触れて、「そもそも悪いことをした人を何故弁護してやらなきやいけないのか、わからない」と言っていたことが印象に残っている。
 あるいは、先に挙げた飲酒運転致死傷罪の新設を唱えている人は、ひき逃げに殺人罪を適用せよとの主張に賛意を表明している
 普通の人の感覚とは、概してこのようなものだろう。
 それに実際の裁判を極力近づけるのが、裁判員制度などの司法改革が目指すものなのだろうか?
 私は、そうではないと思う。それでは、前近代に後戻りすることになってしまう。
 何故刑事裁判で被告人に弁護士を付けなければならないのか、何故ひき逃げに殺人罪を適用できないのかを、懇切丁寧にわかりやすく説かれたならば、それを理解できない「普通の人」はほとんどいないだろう。ただ、そのプロセスに触れることなく、結論だけを押しつけられているから、それに違和感を覚えるという車態が生じているのだと思う。
 司法への国民参加というものは、だから、単に「普通の人」の感覚を司法に反映させるというだけでなく、むしろ、司法の現実を国民に広く理解してもらい、国民の法意識の向上を図るというところに大きな意義があるのではないだろうか。

 話を戻すが、飲酒運転致死傷罪を新設すべきという主張に対しては、飲酒運転自体を減らす効果があるかどうかという点からも疑問がある。
 というのは、飲酒運転して事故を起こす人物は、事故を起こすつもりで、あるいは事故が起こってもかまわないというつもりで、飲酒運転をしているのではないからだ。
 自分だけは大丈夫という根拠のない確信を持ち、さらにおそらくは幾度も大丈夫だったという経験が、飲酒運転に踏み切らせるのだろう。
 だから、飲酒運転で事故を起こした者を厳罰に処すだけでは十分ではない。また、かえってひき逃げを助長するという批判もある。
 厳罰化するなら、飲酒運転自体が道路交通法で禁じられているのだから、むしろその罰則を強化する方がはるかに効果的ではないだろうか。
 昨年9月に道路交通法が改正され、飲酒運転やひき逃げの罰則が強化された(こちらのサイトにわかりやすい対比が載っている)。
 しかし、まだ罰金刑が選択できるようになっている。例えば、これを廃止して、懲役刑のみにしてはどうだろう。
 そんなことをすれば、少なくとも一時的には刑務所が満杯になり、他の犯罪者の処遇にも支障が出るかもしれない。収容されている間、経済や社会の様々な分野に影響が出ることだろう。
 それに、飲酒運転は確かに危険な行為だが、しかし結果的には事故を起こしていないものを、それほどまでに重く処罰するのはどうか、他の犯罪のバランスからいってどうなのかといった反対の声も上がることだろう。
 私もそう思う。ただ、飲酒運転撲滅などということを本気で実現したいなら、飲酒運転致死傷罪の新設よりは、こちらの方がより効果的だろう。

 9日の『毎日新聞』の記事によると、罰則強化により、危険運転致死傷罪との溝はかなり埋められたという(ウェブ魚拓)。
 飲酒運転に対する社会の見方は明らかに厳しくなっているのだし、まずはこの罰則強化の効果を見定める必要があるのではないだろうか。特異な事例にとらわれて拙速にさらなる厳罰化を求めるべきではないと思う。


(付記)
 念のために書きますが、私は飲酒運転は懲役刑のみにすべきだと主張しているのではありません。事故を起こした際の厳罰化を声高に唱えるなら、飲酒運転自体の厳罰化に目を向けるべきではないかと主張しているだけです。
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危険運転致死傷罪について思うこと(2)

2008-01-30 22:29:36 | 事件・犯罪・裁判・司法
承前

 今回の報道では、危険運転致死傷罪の条文中の「正常な運転が困難な状態」という表現が元々あいまいであるのが問題だとの指摘が見られた。

 福岡地裁の解釈、つまり「正常な運転が困難な状態」とは「アルコールを摂取しているために正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、現実に、道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態」という解釈は、厳密に過ぎるものなのだろうか。

 この危険運転致死傷罪は平成13年12月の刑法改正により刑法に追加された罪である。この際、国会ではどのような議論がなされたのだろうか。政府はどのように説明し、議員はどのような質問をしたのだろうか。
 衆参両院の法務委員会の会議録を見てみた。
 第153回国会の衆議院法務委員会の平成13年11月6日の会議録を見てみると、次のような問答がなされている。


《○漆原委員〔註:公明党の漆原良夫。現国会対策委員長〕 先ほど、本罪が故意犯だということでございますので、まず第一項について、故意の内容について運転者はどこまで認識していることを要するのか、故意の内容についてお尋ねしたいと思います。
○古田政府参考人〔註:法務省刑事局長〕 第一項の前段は、これはアルコール等の影響により正常な運転が困難な状態というのが要件になっておりまして、そこでそういうことの認識が必要なわけでございますが、その内容としては、アルコール等の影響によって道路あるいは交通の状況等に応じた運転操作を行うことが困難な事態になっているという認識ということになります。
 ただ、そういう評価まで必要かと申しますと、それは別でございまして、例えば目がかすんでちらちら前方がよく見えなくなっているとか、そういうような困難な状態に当たる事実の認識があれば、故意としては十分であろうと考えております。
 それから、後段の高速度運転につきましては、もちろんこれは速度が速過ぎるために車のコントロールが非常に難しいという状態を意味しているわけですが、したがって、そういうことの認識が必要なわけですけれども、それは速度と同時に、カーブが曲がり切れないおそれを感じているとか、あるいはちょっとした運転のミスによってすぐぶつかってしまう可能性があるとか、そういうおそれを感じているような状態というようなことが基本的には本人の認識の重要な部分になろうかと思っております。(漆原委員「一番最後、もう一つ、進行を制御する技能」と呼ぶ)
 この進行の制御というのは、先ほど申し上げましたように、車の走行全体をコントロールすることが困難ということをあらわすためにこういう言葉を使っているわけで、そういう意味で、先ほど申し上げた酒酔い運転の場合であれば、どうも目がかすんでよく見えなくなっている、あるいは高速度運転の場合であるならば、カーブが曲がり切れないおそれがある、そういうふうなことを認識している、そういう状態のことをいうということでございます。
○漆原委員 そこで、「正常な運転が困難な状態」ということは具体的にどのようなことなんでしょうか。
○古田政府参考人 先ほど申し上げましたとおり、車両を道路あるいは交通の状況に従って的確に走行させることが困難な状態ということを意味しているということでございます。
○漆原委員 いや、それは条文を読んだだけのことであって、表現として抽象的なんですね。正常な運転が困難な状態、認識する必要、故意の内容ですから、これは認識しなきゃなりませんので、どんな状況を認識すればこれに当たるのか、これはしっかり答弁していただかないと今後のこの法律の適用に困ると思うんですが、できたら具体的な事例を挙げて解釈の基準を示していただきたいと思います。
○古田政府参考人 先ほど若干申し上げたところでございますけれども、例えば酒酔い運転であるならば、その影響のためにどうも前方がよく注視できなくなっている、見えなくなっている、あるいはふらふら蛇行運転を時々するという状態になっているというような、要するに、酒酔い運転で車の運転がまともにできないような兆候をあらわしているいろいろな事実、これはいろいろあると思いますけれども、そういう事実を認識しているということでございます。》

 また、民主党の細川律夫議員は、この危険運転致死傷罪の新設について、

《○細川委員 今、外国の例としてアメリカのミシガン州の例を出して、無免許運転致死罪が十五年以下の自由刑だ、こういうふうに言われたわけなんですけれども、このミシガン州の法律というのは、わけがわからぬといいますか、例えば故殺、故意に殺した場合ですね、車で殺したんだと思いますが、これも同じ十五年以下の自由刑になっているわけですね。本来、本質的な過失ですね、無免許運転致死罪が十五年で、故殺も十五年以下の自由刑というのは、どうもちょっと理解できないんですけれども、特別なミシガン州の例を出して、十五年が適当だというのはちょっと私は解せないんですけれども、世界の立法例からいくと、通常そんなに高くはない。最大十年ぐらいが適当な上限ではないかというふうに私どもは考えたんですけれども、それはいろいろ見解の相違でありましょうから、もう後は申しませんけれども、非常に刑が重いということで、これでは、運用上は非常にまた慎重にしていただかなければいけないというようなこともここで要望をさせていただきたいと思います。》

と、慎重な運用を要望している。

 そして、11月9日に政府原案どおり全会一致で可決されているのだが、その際附帯決議がなされている。この附帯決議のうち、次のような項目がある。

《政府は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである。
 一 本法の運用に当たっては、危険運転致死傷罪の対象が不当に拡大され、濫用されることのないよう、その構成要件の内容等も含め、関係機関に対する周知徹底に努めること。》

 参議院の法務委員会では、平成13年11月22日に、次のような問答がなされている。


《○佐々木知子君〔註:自民党の佐々木知子議員。元検事〕 刑法は一般人にとってのマグナカルタというようなもので、こういう行為をしたら、こういう運転行為をしたらこの罰条に該当するということが私はある程度というのは、ある程度じゃなくてもうかなり明確に、一義的に定まるようなものでなければいけないのではないかと思っておりますが、残念ながら法律家の私が読んでもちょっとわかりにくい文言が並んでいるように感じてなりません。
 まず、一項の前段ですけれども、これは飲酒運転と薬物運転というふうに考えてよろしいかと思います。「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」とございますけれども、これは道路交通法による酒酔い運転、「アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態」というのはどういうふうに違うんでしょうか。
○政府参考人(古田佑紀君)〔註:法務省刑事局長〕 ここで「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」と申しますのは、これらの影響によりまして道路及び交通の状況等に応じた運転操作を行うことが困難な状態、心身の状態をいうものであります。したがいまして、単に正常な運転ができない可能性があるというだけでは足りず、例えば酒酔いの影響によって前方の注視が困難になったり、ハンドル、ブレーキ等の操作等を意図したとおり行うことが困難になる、現実にそういう運転操作を行うことが困難な状態になっているということが必要だということでございます。
 一方、道路交通法上の酒酔い運転罪につきましては、これは御案内のとおり、アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態で車両等を運転した場合を処罰するものでございますが、これはアルコールの影響等により正常な運転を期待し得ないおそれが顕著な状態ということでございまして、その認定につきましては、飲酒によるアルコールの影響によって車両を正常に運転する必要な注意能力を欠くおそれがあると認められる状態にあれば足り、実際にその能力を欠いたり、あるいは失ったというふうな状態に至るまでのものではないと、そういうことでございまして、要するに、おそれの段階の話か、実際にそういう正常な運転ができない、あるいは困難な状態というところまで必要とするかという違いということでございます。
○佐々木知子君 正常な運転が困難な状態であると運転者本人が認識しているかどうかということに、その立証はどうするのか、あるいはそういう認識の要はないというふうに考えておられるのか。実務において道路交通法における酒気帯び・酒酔い運転もそれは同時に立件するのか、もしそうだとすれば、その罪数関係もお伺いいたします。
○政府参考人(古田佑紀君) これは、基本的行為が故意によって行われるということが前提でございますので、正常な運転が困難な状態にあることについての認識は必要でございます。
 ただ、正常な運転が困難という評価自体を本人がしていると、そこまでの認識が必要だというわけではなくて、そういう困難であるということを基礎づける事実を認識していれば故意としては十分であると考えております。
 その具体的な例としては、例えばしばしば居眠りしてしまうとか、あるいはしばしば目がかすんで見えなくなる、あるいはハンドルを思うように操作できなくてしばしば蛇行する、そういうふうな状態になってきている、そういうことを本人が認識していれば足りると。そういうことの立証につきましては、もちろん走行の形態が非常に大きな要素になるわけですが、その前の飲酒量でありますとかそういうようなことから総合的に捜査をして判断をして立証していくということになると考えております。
 また、罪数関係についてのお尋ねですが、これは酒酔い運転あるいは酒気帯び運転の一部を完全に取り込んだものでございますので、そういう意味ではこの本罪に当たるような事故を起こした場合には、本罪の事故との関係で酒酔い運転あるいは酒気帯び運転の罪は本罪に吸収されると考えております。》

 参議院法務委員会でも原案どおり全会一致で可決されている。その際附帯決議がなされており、その中には次のような一節がある。

《政府は、本法の施行に当たり、次の事項について格段の配慮をすべきである。
 一 危険運転致死傷罪の創設が、悪質・危険な運転を行った者に対する罰則強化であることにかんがみ、その運用に当たっては、濫用されることのないよう留意するとともに、同罪に該当しない交通事犯一般についても事案の悪質性、危険性等の情状に応じた適切な処断が行われるよう努めること。》


 以上のことから、「正常な運転が困難な状態」について政府は、
「車両を道路あるいは交通の状況に従って的確に走行させることが困難な状態」
「例えば酒酔い運転であるならば、その影響のためにどうも前方がよく注視できなくなっている、見えなくなっている、あるいはふらふら蛇行運転を時々するという状態」
「単に正常な運転ができない可能性があるというだけでは足りず、例えば酒酔いの影響によって前方の注視が困難になったり、ハンドル、ブレーキ等の操作等を意図したとおり行うことが困難になる、現実にそういう運転操作を行うことが困難な状態になっている」こと
「例えばしばしば居眠りしてしまうとか、あるいはしばしば目がかすんで見えなくなる、あるいはハンドルを思うように操作できなくてしばしば蛇行する、そういうふうな状態になってきている」こと
だと説明していることがわかる。そして、
「そういうことを本人が認識してい」
ることが必要であり、その立証については、
「もちろん走行の形態が非常に大きな要素になる」
が、飲酒量なども合わせて総合的に判断するとしている。

 前回述べた福岡地裁の判決における危険運転致死傷罪の解釈は、この政府解釈と一致していることが、対比していただければおわかりだろう。

 そして、両院の委員会の会議録をざっと見てみたが、これでは要件が厳しすぎるのではないかとか、もっと容易に適用できるように緩めるべきではないかといった指摘はない。
 それどころか、この罪の適用に当たっては、「不当に拡大され、濫用されることのないよう」にしなければならないなどと決議している。

 ということは、立法の趣旨に鑑みると、やはり今回のようなケースにこの罪を適用するのは困難だったのだと思う。
 そんなことは検察も承知しているが、幼児3人死亡という悲劇的な結果と世論の高まりを受けて、無理を承知で危険運転致死傷罪での起訴に踏み切らざるを得なかったのではないだろうか。
 
 例えば、昨年6月、兵庫県尼崎市で、泥酔運転の上大人3人を死亡させるという事件があり、12月に危険運転致死罪で懲役23年の判決が言い渡された。
 この件と対比してみると、今回の件が危険運転致死傷罪にそぐわないことが理解しやすいだろう。
 
 私は、今回の福岡地裁の判断は、極めて妥当だと考える。

(2008.2.2 尼崎の事件のリンク先を追加するなど若干修正)

(以下2012.6.2付記)
 衆議院会議録の引用中、質問者の細川委員の発言として、
「今、外国の例としてアメリカのミシガン州の例を出して、無免許運転致死罪が十五年以下の自由刑だ、こういうふうに言われた」
「無免許運転致死罪が十五年で、故殺も十五年以下の自由刑というのは、どうもちょっと理解できない」
とあるが、引用した部分の前を読むと、答弁者の古田政府参考人(法務省刑事局長)は、
「アメリカの例を申し上げますと、州によって差がございますが、例えばミシガン州では、飲酒運転致死罪が十五年以下の自由刑または二千五百ドル以上一万ドル以下の罰金あるいはその併科、イギリスにおきましても、飲酒運転致死罪が十年以下の自由刑、そんなような処罰規定があるように承知しております」
と、無免許運転致死罪ではなく、飲酒運転致死罪の規定について述べている。
 これが単に細川委員の勘違いなのか、それとも無免許運転致死罪についても同程度の重罰規定があるのかは不明。
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危険運転致死傷罪について思うこと(1)

2008-01-27 17:41:22 | 事件・犯罪・裁判・司法
 今月8日に福岡地裁で判決のあった、危険運転致死傷罪の適用の是非が問題となった裁判で、検察側が控訴したと聞いた。

危険運転罪求め控訴 3児死亡事故 福岡地検「地裁判決には誤認」(西日本新聞) - goo ニュース

 この事件では、危険運転致死傷罪の成立を認めなかった1審判決に対する批判を多数見かけた。
 例えば、判決の翌日の『朝日新聞』社説「3児死亡事故―危険運転でないとは」(ウェブ魚拓を取り忘れたので、全文を掲載しているこちらのブログにリンクを貼らせていただく)は、裁判員制度の導入を前に、普通の人の常識に反する判決があってはならないとしている。


《約4時間の間に自宅や居酒屋、スナックで缶ビール1本と焼酎のロック8~9杯のほか、ブランデーの水割り数杯を飲んだ。その足で車を運転し、時速100キロで暴走して車に追突した。追突された車は海に転落し、一家5人のうち幼児3人が亡くなった。

 これが危険運転致死傷罪の危険運転にあたらないというのは、普通の人の常識に反していないだろうか。》


 しかし、私はこの社説を読んで、むしろ判決の論理に説得力を覚えた。
 社説によると、


《問題は、今回の事故が危険運転、つまり「正常な運転が困難な状態」に当たるかどうかだった。

 元市職員はスナックから追突現場まで約8分間、普通に右折、左折やカーブ走行を繰り返し、蛇行運転などはしていない。警察官による飲酒検知では、酒酔いではなく酒気帯びだった。事故の原因は脇見運転だ。それが危険運転ではないと判断した裁判所の論理だった。》


という。
 これに対し社説は、


《いくら個人差があるといっても、今回のように大量に酒を飲んで「正常な運転」ができるとは、とても思えない。蛇行運転をしていないからといって、正常な運転とはいえないだろう。現に追突して大事故を起こしているのだ。

 警察官による検知が酒気帯びだったというのも、事故から1時間近くたってからのことだ。その間に元市職員は現場から逃げ、水を大量に飲んでいた。少しでも飲酒の影響を減らそうとしたのだろう。事故直後に検知していれば、どうだったのか。》


と疑問を投げかけているのだが、さてどうだろう。
 追突事故を起こしたから「正常な運転」ではない? ならば全ての追突事故には、いや全ての交通事故に危険運転致死傷罪が適用できることにならないか?
 「事故直後に検知していれば、どうだったのか。」さあどうだったのだろう。酒酔い状態だったかもしれない。飲酒検知の時の酒気帯びの程度と飲んだ水の量を考慮すれば大まかな見通しはつくだろう。そんなことを判決が見逃すとは到底思えない。

 危険運転致死傷罪の条文中、飲酒運転に関する箇所を見ると、

《アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。》

とある。この「正常な運転が困難な状態」であったかどうかが問われたわけだ。

 さらに、判決当日の『朝日新聞』夕刊に掲載されていた判決要旨を読んでみると、その論理は納得のいくものだった。
 判決要旨にはこうある。

《危険運転致死傷罪が成立するためには、単にアルコールを摂取して自動車を運転し人を死傷させただけでは十分でないことはもちろん、「正常な運転が困難な状態」とは、アルコールを摂取しているために正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、現実に、道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態にあることを必要とすると解すべきである。》

《出発後、事故を起こして乗用車を停車させるまでの約8分間にわたって、左右に湾曲した道路を道なりに進行し、その途中に点在している交差点を右左折、直進で通過することを繰り返していただけでなく、幅約2.7メートルしかない道路でも、接触事故などを起こすことなく、車幅1.79メートルの乗用車を運転、走行させていたこと▽事故直前、RVを間近に迫って初めて発見すると急制動の措置を講じるとともにハンドルを右に急に切るという衝突回避措置を講じていること▽事故直後、反対車線に進出していることに気づくとハンドルを左に急に切り、乗用車を自車線に戻していること、が認められ、これらの事実はいすせれも、被告人が現実に道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行っていたことを示すもので、事故当時も、被告人が正常な運転が困難な状態にはなかったことを強く推認させる事情と言える。
 被告人が脇見運転を継続していた区間はほぼ完全な直線である上、車道幅は約3.2メートルと広かったこと、被告人にとっては通勤経路であって通り慣れた道であったこと、交差点を左折してから進路前方を走行している車両は見えなかったことからすると、被告人は脇見をしやすい状況にあったと言える。
 また、被告人は、脇見運転の継続中も蛇行などをした形跡はなく、走行車線から大きくはみ出すことなく運転していたと認められるから、漫然と進行方向の右側を脇見していたとはいえ、前方に対する注意を完全に欠いてしまっていたとまでは言い切れない。
 何より、脇見運転の前後で被告人が現実に道路及び交通の状況などに応じた運転操作を行っていたことを併せ考慮すると、結局、脇見運転の事実をもってしても、被告人が正常な運転が困難な状態にあったと認めるには足りないと言うべきだ。》

 また、飲酒の影響については、こうある。

《被告人は〔中略〕事故当時、酒に酔った状態であったことは明らかだ。しかし他方で、被告人は、スナックを出て乗用車を運転し事故現場に至るまでの間に、アルコールの影響によるとみることができる蛇行運転や居眠り運転などに及んだことはなく、衝突事故なども全く起こしていなかったことが明らかである。》

《事故の48分後に実施された被告人の呼気検査において、酒気帯びの状態にあったと判定されていることからすれば、酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない。》


 これはやはり、危険運転致死傷罪の成立は困難だったのではないかという印象を受けた。
 大量の飲酒をした上で車を運転したこと、そして逃走したこと、さらに水を飲んだことは、いずれも悪質だし、非難されるべきだろう。
 しかし、飲酒運転をしていたことと、事故を起こしたこととの間に因果関係があることが立証できなければ、危険運転致死傷罪を適用すべきではないのではないか。
 態様が悪質で、結果が重大だから、重罰規定のある危険運転致死傷罪を適用すべきだと朝日社説は述べているように思える。しかしそれは、法治国家の姿ではない。


(以下2012.6.2付記)
 この福岡地裁の判決に対しては、検察側のみならず、被告人も量刑を不服として控訴した。
 2009年5月15日、福岡高裁は一審判決を破棄し、危険運転致死傷罪の成立を認め、懲役20年を宣告。被告人は即日上告した。
 2011年10月31日、最高裁は上告を棄却した。裁判官5人のうち1人が少数意見で危険運転致死傷罪の成立を否定したという。
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