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トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

ビラ配布のためのマンション立ち入りを容認する朝日・毎日

2007-12-16 19:11:40 | 事件・犯罪・裁判・司法
 今月11日の「アサヒ・コム」の記事から。


《東京都葛飾区のマンションに04年12月、政党のビラを配布するために立ち入ったとして住居侵入罪に問われた住職荒川庸生被告(60)の控訴審で、東京高裁(池田修裁判長)は11日、被告を無罪とした一審・東京地裁判決を破棄し、改めて罰金5万円とする逆転有罪判決を言い渡した。検察側は一審で罰金10万円を求刑していた。

 荒川被告は04年12月23日午後2時20分ごろ、支援する共産党の「都議会報告」などを配るためにマンションに入った。各戸のドアポストに投函していたところ、住民に通報されて逮捕、起訴された。》


 この判決に対して、今月13日、朝日、毎日の両紙が、社説でそろって批判している。

 朝日社説「ビラ配り有罪-常識を欠いた逆転判決」(ウェブ魚拓)から。



《東京高裁の理屈はこうだ。憲法は表現の自由を無制限に保障しておらず、公共の福祉のために制限することがある。たとえ、思想を発表するための手段であっても、他人の財産権を不当に侵害することは許されない。住民に無断で入ってビラを配ることは、罰するに値する。

 一方、無罪とした東京地裁はどう考えたか。マンションに入ったのはせいぜい7~8分間。40年以上政治ビラを配っている住職はそれまで立ち入りをとがめられたことがなかった。ピザのチラシなども投げ込まれていたが、業者が逮捕されたという報道はない。ビラ配りに住居侵入罪を適用することは、まだ社会的な合意になっていない。

 市民の常識からすると、一審判決の方がうなずけるのではないか。住職の行動が刑罰を科さなければならないほど悪質なものとはとても思えないからだ。

 もちろん、住民の不安は軽視できない。マンションの廊下に不審者が入り込んで犯罪に及ぶこともある。ビラを配る側は、腕章を着けて身分を明らかにしたり、場合によっては1階の集合ポストに入れたりすることを考えるべきだ。

 しかし、そうした配り方の問題と、逮捕、起訴して刑罰を科すかどうかというのはまったく別の話だ。》


 どうして「まったく別の話だ」となるのか理解できない。
 「場合によっては1階の集合ポストに入れたりする」ではなく、常に集合ポストに配ればいいではないか。
 そうしていれば、この被告も、罪に問われることはなかっただろう。

 私はマンションに居住しているが、居住者として、各階の廊下にまでビラやチラシ配布の目的で立ち入ってもらいたくない。それが(一般)市民の常識だと思うが、どうだろう。
 朝日は、配る側、つまり運動家、いわゆるプロ「市民」の常識にとらわれすぎているのではないか。


《今回、住職は住民の通報で逮捕された。検察官が勾留(こうりゅう)を求め、裁判官がそれを認めたため、住職は起訴されるまで23日間も身柄を拘束された。》


 住民が通報している、つまり住民が立ち入りを拒絶していることが、刑罰を科せられる最大の理由だろう。
 住民が、立ち入りによって住居の平穏が侵されたと感じるならば、その感情は尊重されなければならない。
 表現の自由もまた尊重されるべきだが、住居の平穏が優先する。何故なら、住居の平穏を侵さなくとも、「表現」することは他の手段によって可能だからだ。
 
 毎日新聞の社説は、さらに面妖なことを述べている。
 社説「ビラ配布 表現の自由を守る工夫も要る」(ウェブ魚拓)から。


《政治ビラに限らない。商品広告なども、人々の生活の利便も踏まえて、節度ある方法による限りは、配布の自由が認められねばならない。自分の意見と異なるビラや不要な広告を配られるのは迷惑だとしても、社会全体の利益を優先し、表現の自由を守るために受忍する姿勢が求められる。》


 日々、集合ポストに入っている不要な広告のチラシやピンクビラで私は大変迷惑しているのだが、毎日の論説委員にはそのような経験はないのだろうか。
 「節度ある方法による限りは、配布の自由が認められねばならない。」――そのとおりだ。しかし、黙ってポストに入れていくという手法は、節度ある方法と言えるだろうか。
 ビラを配布する自由は認められるべきだが、そのビラの受け取りを拒絶する自由もまた認められるべきではないだろうか。
 街頭のビラ配りなら、それは可能だ。受け取らなければよい。しかし、ポストに投函されたビラは、必ず受け取らざるを得ない。
 配る側はそれでいいだろう。しかし、受け取る側には拒絶する自由が認められないのは一方的ではないか。
 不要なビラであればごみになるだけだ。その始末も受け取った側がしなければならない。

 しかし、中にはデリバリーのチラシなど、私にとって必要なものもある。
 また、人によっては、政治的ビラも読みたいという人もいるだろう。
 今回の事件で、被告が配っていたビラとは、共産党の「葛飾区議団だより」や「都議会報告」などだったという。共産党支持者ならこうしたものも読むこともあるだろう。
 だから、ポストに勝手に配布するという手法は,「節度ある」とは言い難いが、容認せざるを得ないと私は思う。
 ただ、マンションの場合、それは集合ポストで十分だろう。さらに廊下に立ち入って各戸のドアポストにまで入れる必要はないだろう。


《最高裁の最終的な判断を仰ぐことになったが、双方の判決がビラ配りの目的自体に不当な点はない、としたことを注視したい。ビラは小さな声を多数に伝えるために手軽で有効な手段だ。民主主義社会では表現の自由の一環として、ビラ配りの自由が保障されるべきことを改めて共通認識としたいからだ。》


 「ビラ配りで逮捕」「ビラ配りで有罪」と報じられることの多いこの事件だが、ビラ配り自体が罪に問われたのではなく、ビラ配り自体の自由など誰も問題にしていない。
 問題は、ドアポストへのビラ配りを目的として、マンションの廊下や階段などに立ち入る行為が、処罰に値するかどうかということだ。

 1審判決の時から、被告はどうして集合ポストを使わず、各戸のドアポストに入れていったのか、また判決はそれをどう評価しているのかということが気になっていた。
 今回、この被告を支援するサイトを見つけた。そこに1審判決の要旨が掲載されている。それによると、


《被告人が本件マンションの共用部分に立ち入った目的は,各住戸の玄関ドアポストに本件ビラを投函することにあり,集合郵便受けにとどまらず,ドアポストへの投函を図ったのは,集合郵便受けでは各種のビラが投函され,商業ビラに紛れて一緒に見ずに捨てられるおそれがあるため,居住者にビラを閲覧してもらえる可能性を高めようとする点にあったものと認められる。》


とある。そんなところだろう。
 判決はこの点について、


《マンションの設備としてドアポストが設置されていることから,集合郵便受けとドアポストが並列的,選択的に使用できるなどと解するのは相当ではなく,居住空間への接近の程度からみて両者に相違があるのは当然であり,ドアポストは居住者の個別の依頼のある物のみの投函が許すため,また,訪問者と会わずに書類の授受ができる等の便宜のために設置されているとも考え得るのである。また,現在では,一般に,各住戸の利用のため制限できない個々の住戸の関係者の立入りは受忍しなければならないとしても,防犯やプライバシー保護の観点から,その目的を問わず,全くの部外者が集合住宅の共用部分に立ち入ること自体に不安感,不快感を感じる居住者は相当数存在するものと考えられるところ,本件マンションにおいても当然そうした居住者が少なからず存在するものと推認されるのであって,そのような居住者の心情も尊重されなければならない。立入りによって居住者が抱く不安感,不快感への配慮という観点からは,立入りの目的が政治ビラの投函で,その態様も平穏なものにとどまるとしても,そうした立入りが一般に社会通念上容認されざる行為には当たらないものと断定してよいかとなると,若干躊躇を覚えざるを得ないところである。被告人は,居住者に本件ビラを読んでもらいたいがためにドアポストに配布したと供述するが,その点は集合郵便受けに投函する他の業者等であっても同様であり,被告人は,居住者と会った場合には目的を明らかにして不安感を払拭していたと供述するものの,被告人の考え方は,マンションの居住者の心情への配慮をやや欠いており,独りよがりな面がないとはいえない。


と指摘しつつも、


《しかしながら,他方で,居住者の抱く不安感や不快感を根拠に,本件における被告人の立入行為が直ちに社会通念上容認されざる行為に当たるといい得るかとなると,集合住宅の共用部分に部外者が立ち入る行為はその目的を問わず差し控えるべきであるとの考え方が強くなってきたのはさほど古いことではなく,このような考え方が一般化,規範化しているか否かはなお慎重に検討する必要がある。》


《概ね3階建て以上の建築物に集合郵便受けの設置を義務付ける郵便法の昭和36年改正の趣旨は,プライバシーの保護ではなく,郵便配達人の配達の便宜を図るという点にあったのであり,集合郵便受けの設置は,法規上はドアポストまでの接近を禁ずる根拠とはいえない。また,本件以前にビラ投函目的で集合住宅の共用部分に立ち入る行為が刑事事件として立件されたなどという報道は,ピンクビラの事案を除外するとほとんどなく(いわゆる自衛隊の立川宿舎への侵入事件があるが本件とは相当に事案を異にする。),かつては,政治ビラや商業ビラの投函目的で集合住宅の共用部分に立ち入り,各居室の玄関ドアポストにまで至る行為は,特段問題のある行為とは考えられていなかったふしがある。本件マンションにおいても,ピザのデリバリー業者のメニュー等が住戸のドアポストに入れられていたことが認められ,ドアポストへの全戸配布を行うポスティング業者の存在さえ窺われるが,そのような業者が逮捕されたなどという報道も知られていない。》


《被告人はこれまで40年以上にわたって政治ビラの投函に従事してきたものの,特段マンションの居住者から立入りをとがめられたりすることはなかったと供述しており,前記のようなポスティング業者の存在や共同住宅への立入りの実情,報道の有無等をも勘案すると,近時のプライバシー意識,防犯意識の高まりを考慮しても,現時点では,各住戸のドアポストに配布する目的で,昼間に居住用マンションの通路や階段等に短時間立ち入ることが明らかに許容されない行為であるとすることについての社会的な合意が未だ確立しているとは言い難く,これが社会の規範の一部となっているとは認められない。
 したがって,現時点でのプライバシーの意識や防犯意識の高揚を前提とすれば,本件のようにビラ配布の目的だけであれば集合郵便受けへの投函にとどめておくのが望ましいとはいえても,それ以上の共用部分への立入行為が刑事上の処罰の対象とすることについての社会通念は未だ確立しているとはいえず,結局、被告人の立入りについては正当な理由がないとはいえない。》


と、住居侵入罪の要件である「正当な理由がないのに」を否定している。
 さらに、だとしても共用部分(廊下、階段など)への立入禁止がマンションで明示されていれば住居侵入罪が成立するが、マンション管理組合の内部では立入を禁ずる意思形成はあったが、それが外部に明示されていなかったので、やはり住居侵入罪は成立しないとしている。
 高裁判決の詳細は現時点ではわからないが、上記の「共用部分への立入行為が(引用者注:「が」は「を」の誤りか)刑事上の処罰の対象とすることについての社会通念」は現時点でも確立していると認めたか、立入禁止の意思表示があったと認めた、あるいはその双方の理由により、有罪を認定したということなのだろうか。

 私は、集合住宅におけるビラ配りは集合ポストで済ませるべきものだと思うし、今回の高裁判決は市民の常識に沿った妥当なものだと考える。
 
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郵政民営化でふと思い出したこと

2007-10-02 07:27:25 | 事件・犯罪・裁判・司法
 その昔、はがきを作る業者が、官製はがきの販売をめぐって国を訴えたことがあった。
 業者のはがきはいくばくかの値段で売られている。それを買った客は、さらにそのはがきに50円の切手を貼って、ポストに投函する。そうしないと郵送してもらえない。つまり、50円+はがき代がかかる。
 官製はがきは、50円で売られている。客はそれを買い、書き込んで、そのまま投函すればよい。官製はがきなら、50円で済む。
 ところで、50円とは、あくまではがきの送料である。はがきと同じサイズに厚紙を切って、それに50円切手を貼って投函しても、郵便局はちゃんと届けてくれる。この場合、50円とは別に紙を用意しなければならない。
 しかし、官製はがきは、その紙自体も含めて50円で売られている。紙代、そして紙に郵便番号欄などを印刷する費用を考えると、明らかに50円で済むはずがないのに、50円で売られている。これはダンピングであり、不当に民業を圧迫するものではないか。
 こういう趣旨だったと思う。
 聞いたとき、なるほどもっともな話だと思った。
 しかし、この訴訟は、業者側の敗訴に終わったと記憶している。もうずいぶん昔のことで、敗訴した理由もよく覚えていないのだが……。

「官業が民業を圧迫するのはおかしい」
「民間でできることは民間に」
 私は、単純にこうした見地から、郵政民営化を支持してきた。
 かねてから、郵便局のサービスに不満を抱いていたこともある。

 そして、いよいよ民営化が成ったわけだが、果たして、官製はがき――じゃないや、なんて呼ぶんだろう、検索してもまだちゃんと決まっていないようですね――は、50円+はがき代で売られるようになるのだろうか。
 郵便事業に他業者が対等に参入できるようになるのだろうか。
 単に郵便事業会社が効率化、スリム化して一人勝ちするなら、何のための民営化だったのかということになる。
 今後を見守りたい。
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死刑執行を自動的に? 鳩山法相

2007-09-28 22:24:21 | 事件・犯罪・裁判・司法
 鳩山邦夫法相は福田康夫内閣でも留任したが、安倍内閣の法相としての最後の記者会見で、現在の死刑執行の仕組みについて見直しを提言したという(朝日新聞記事のウェブ魚拓)。
 
《死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山法相は25日午前の記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べ、見直しを「提言」した。

 現在は法務省が起案した命令書に法相が署名。5日以内に執行される仕組みになっている。

 鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」と発言。「誰だって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」として、法相の信条により死刑が執行されない場合がある現在の制度に疑問を呈した。》

 しかし、刑事訴訟法では、再審請求がある場合などを除き、死刑の執行は、「判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。」と定められている(拙記事「死刑執行は法務大臣の職務」参照)。
 したがって、同法を条文どおりに遵守すれば、大臣に責任が負わせられるはずもない。大臣は法に忠実に従っているだけなのだから、死刑廃止論者が死刑執行を問題視するのなら、この条文を改正するよう要求すべきなのだ。
 問題は、この条文を無視し、大臣があたかも死刑執行の裁量権を握っているかのような現在の運用にあるのではないか。
 だから、鳩山が言わんとするところが今ひとつ理解できなかったが、読売新聞の記事(ウェブ魚拓)を読んで、ようやくその意図がつかめた。法務大臣が命令するという形式自体を不要にすべきだというのか。

《鳩山法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑執行の現状について「法相によっては、自らの気持ちや信条、宗教的な理由で執行をしないという人も存在する。法改正が必要かもしれないが、法相が絡まなくても自動的に執行が進むような方法があればと思うことがある」と述べ、法相が死刑執行命令書にサインする現行制度の見直しを提案した。

 鳩山法相はさらに、「死刑判決の確定から6か月以内に執行しなければならない」という刑事訴訟法の規定について、「法律通り守られるべきだ」との見解を示し、執行の順番の決め方についても、「ベルトコンベヤーと言ってはいけないが、(死刑確定の)順番通りにするか、乱数表にするか、そうした客観性がある何か(が必要)」と述べた。

 そのうえで、誰を執行するのかを法相が最終的に決めるやり方では、「(法相が)精神的苦痛を感じないでもない」と言及。冤罪(えんざい)などを防ぐための慎重な執行が求められるという指摘については、「我が国は非常に近代的な司法制度を備え、三審制をとり、絶対的な信頼を置いているわけだから、(法相が執行対象者を)選ぶという行為はあってはならない」と語った。》

 「そのうえで」以下の箇所は全く正しいと思う。
 しかし、死刑執行命令のような重大事に、省のトップである法務大臣の決裁が不要というわけにはいかないだろう。
 官僚ではなく、国会が指名した内閣総理大臣が任命する閣僚に、死刑執行命令の権限が与えられているということは、わが国の民主制の上で、意義があるのではないだろうか。
 死刑執行の現状に問題があるという点には同意するが、大臣の責任さえ免れればそれでいいかのような、いささか軽率な印象を受ける。
 要は、運用を、法が想定している形に修正すれば済むことではないだろうか。

 この鳩山発言に、死刑廃止議員連盟会長である亀井静香がかみついたという(ウェブ魚拓)。
 亀井は鳩山を、

《「人間の命を機械みたいにボタンを入れておけば次から次に殺されていくようなイメージで扱っていいのか。法相の資格もなければ、人間の資格もない」と批判》

したという。さらに鳩山との面会を要請したが、鳩山は「そこまで言われてお会いする必要はないでしょう」と拒否したという。

 繰り返すが、「判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。」のだから、それが法が定めた本来の死刑執行の姿だ。つまり、ベルトコンベア方式だ。亀井は、鳩山に抗議するより、法改正を志向すべきではないのか。
 亀井は、死刑執行を「殺されていく」と表現する。
 死刑は、国家権力による殺人なのか。
 ならば、懲役刑は国家による監禁と強制労働か。
 罰金刑は国家による強盗か。
 国家には刑罰権というものが認められている。死刑であれ、懲役刑であれ罰金刑であれ、その正当性に変わりはない。警察官僚出身の亀井が、それを知らぬはずもない。
 死刑廃止論者が国民の、あるいは国会議員の多数を占めるようになれば、廃止を実現することもできるだろう。亀井はそれに向けて粛々と運動を進めていけばいい。
 しかし、死刑廃止論というのは、人権擁護運動の一つだと私は受け取っていた。
 鳩山を「人間の資格もない」と断じる亀井の人権感覚とはどういうものなのか、私は疑わしく思う。
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少年調書流出事件の本質

2007-09-22 23:12:44 | 事件・犯罪・裁判・司法
 昨年6月に奈良県で起きた、少年による母子3人放火殺人事件を題材とした、草薙厚子『僕はパパを殺すことを決めた』(講談社)が、少年やその父親の供述調書を引用していたことが問題となっている。
 少年と父親から告訴を受けた奈良地検は、秘密漏示容疑で、今月14日、草薙の事務所や、草薙に調書を洩らした疑いがもたれている鑑定医の自宅や勤務先を家宅捜索するなど強制捜査に乗り出した。
 一部マスコミはこれを言論の自由を脅かすものとして批判している。

 今月18日付『朝日新聞』社説「少年調書 刑事罰にはなじまない」(ウェブ魚拓)は、次のように述べている。


《罪を犯した少年の更生とプライバシーの保護。その事件を報道する自由と国民の知る権利。二つの価値がぶつかって、判断に悩まされる問題が起きた。》


《問題の本質は、本がどこまで長男や父親のプライバシーを侵害し、長男の更生を妨げるか、ということだ。

 確かに、成育歴や親子関係でプライバシーに踏み込みすぎている印象はある。「事件の真実を伝えることは社会的な意義があり、再発防止につながる」という筆者の言い分もわかるが、表現にもっと配慮すべきだったのではないか。

 こうした微妙なプライバシーの問題について、捜査当局が介入し、刑事罰を科すことは妥当なのか。やはり民事訴訟などに委ねるべきだろう。

 強制捜査の背景には、政治家の動きがある。出版直後に国家公安委員長が「人権への影響を考えると問題」と発言し、法相は「司法制度や少年法の趣旨に対する挑戦的な態度だ」と流出経路の調査を指示した。

 こうした動きには、メディアを萎縮(いしゅく)させ、報道の自由を脅かしかねない危うさを感じる。》


 今月15日付『毎日新聞』の社説「少年調書引用 強制捜査まで必要なのか」(ウェブ魚拓)も同趣旨だが、少年法との関連で、事件に関する情報が十分公開されていない点を強調している。



《少年法は、非行少年の更生の観点から、本人が特定されるような記事や写真の掲載を禁じるなどの保護規定を設けている。このため審判は非公開で行われ、事件の経緯や背景となった家庭環境などが十分に明らかになっているとは言えない。

 こうした制約に対し、できるだけ情報を公開して社会で共有し、同種事件の再発防止に生かすべきだという意見が強まっている。被害者の家族に対しては、長崎県佐世保市の小学生が校内で同級生に殺害された事件などで、情報公開がされるようになった。》


 少年法の制約により、事件に関する情報が十分社会に共有されないため、再発防止に寄与しないという主張は、一応もっともなものだと私も思う。
 だが、だからといって供述調書の流出という事態が許されるのか。

 朝日は、
「問題の本質は、本がどこまで長男や父親のプライバシーを侵害し、長男の更生を妨げるか、ということだ。」
という。ならば、プライバシーを侵害せず、長男の更生を妨げなければ、供述調書を一ジャーナリストが自らの著作物として公刊することが許されるのか。
 この本がもし、草薙自身の取材により明らかにした事実を記載しただけのものなら、長男や父親は秘密漏示罪で告訴することもなかっただろうから、地検が強制捜査に踏み切ることも当然なかっただろう。
 問題の本質は、供述調書が流出したということそれ自体にある。

 朝日社説によると、この草薙の著書は「ほとんどが長男や父親らの供述調書の引用だ」という。
 当然のことながら、供述者は、それが公刊されることを前提に供述しているのではない。関係者以外の目には触れないことを前提に供述しているのだ。
 仮に調書の公刊が社会的に許されるとするなら、供述者こそが萎縮することになるだろう。それにより関係機関に情報が十分に提供されなくなるおそれがある。そのことは、事件の真相解明をかえって妨げるのではないか。再発防止のための情報提供よりもまずそちらが優先するのではないか。
 また、供述調書を作成するのは捜査官であるから、供述調書を著作物と考えれば、その著作権は捜査官にある、あるいは国にあると言えるだろう。
 それを自らの著作物として公刊するというのは、ジャーナリストのモラルとしてどうなのか。

 それと、供述調書は、事件の真相を明らかにするものとして、それほど信頼していいものだろうか。
 今月21日付『東京新聞』社説「少年調書出版 情報を封じ込めるな」(ウェブ魚拓)は、やはりこの強制捜査を批判するものだが、草薙の著書の問題点を次のように指摘している。



《確かに問題の多い本ではある。少年や父親は匿名でも、成績、学校名や家庭環境などが詳細に書かれ、名誉、プライバシーを守ろうと著者が苦慮したようには見えない。

 ほとんどが調書の引用であるこの本には、調書が捜査官による作文であることへの警戒感もない。

 調書からは「父親の勉強強要、暴力が少年の性格をゆがめ犯行の引き金になった」という事件の構図が浮かぶが、捜査官は構図を強調する形で調書を作成したように読める。

 その点を批判的に読み取れていないとして、著者のジャーナリストとしての姿勢に疑問も出ている。》


 そう、調書とは、捜査官の作文である。
 素材は供述者の言葉であるが、何を書き、何を書かないか、どのように表現するか、調書全体としてどのような印象を読む者に与えるか、全て捜査官の思うがままである。
 それを無批判に引用するのは、ジャーナリストとして正しい姿勢だと言えるだろうか。

 草薙は、自身のブログに載せている、日本文藝家協会に寄稿した文「議論なく勧告を既成事実化していいのか」で、次のように述べている。


《マスコミ報道が過熱することには是非があると思うが、少なくとも成人事件の場合は、判決が確定するまで各社は取材を続ける。そうした中で、初期報道の誤りが訂正される機会もあるし、何より公判廷においてある程度事件の全貌が明らかになる。そこが少年事件と異なる。初期報道で喧伝された「普通の頭の良い子が突然、事件を起こした」という言葉だけが残されては、国民は不安に陥るばかりだ。私はこうした不安を解消する一つの方法が、「正しい情報」を公開し、検証することだと判断し、出版することを決めた。
 これまでの著作で当局の内部資料を参考にする場合は、今回のようにそのまま引用することはなかった。そうすれば抗議や勧告を受けることもなく、穏便に出版することができる。実際、法務省からは「なぜ地の文に溶け込ませて書けなかったのか」との質問があった。もちろん、調書の内容を地の文で書くこともできた。しかし、そうすることによって「これはどこまでが真実なのか」と疑う人が出てくる。この事件の真相を知るためには、少年がいかに追い詰められていたか、その心情を伝えることが不可欠である。そのためには、生の声を聞いてもらうのが最も良い方法だと判断した。》


 「正しい情報」「生の声」というが、そうである保証はどこにもないのだ。
 長男やその父親それぞれに、自分の思いのたけを述べてみよと文章を書かせたら、供述調書とは全く異なるストーリーが現れることも考えられる。

 さて、草薙や鑑定医が容疑をかけられた、刑法上の秘密漏示罪とは、次のようなものだ。


《(秘密漏示)
第百三十四条  医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、六月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。》


 公務員には法律で守秘義務が定められており、罰則もあるが、民間人にはそのようなものはない。
 ただ、ここで挙げられている医師や弁護士といった特定の職業については、その性質上このように守秘義務が定められているわけだ。
 東京新聞は「流通していい情報と悪い情報を国家機関が強権的に選別すべきではない」というが、ならばこの秘密漏示罪自体の廃止を主張すべきだろう。

 その後の報道によると、当初否認していた鑑定医は、草薙に調書を見せたことを認めるに至ったと聞く。
 つまり鑑定医は嘘をついていたわけだ。それは強制捜査がなければ明らかにならなかった。
 鑑定医や草薙が刑事責任を問われるのは当然のことだと私は思う。

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元公安調査庁長官宅捜索の報道を読んで

2007-06-15 07:25:09 | 事件・犯罪・裁判・司法
 総聯本部の土地建物売却の報道を読んだときには、総聯と政府間で何らかの手打ちが?と疑心暗鬼にかられたが、どうやら根回しなどのない独走的な行動だったようで、

東京地検、元公安調査庁長官宅を捜索 朝鮮総連ビル巡り(朝日新聞) - goo ニュース

どっちかというと、↑こちらが国策的な動きのようだ。
 そりゃそうだよなあと一安心。
 (記事全文のウェブ魚拓)。

 それにしても、どうにもうさんくさく、また謎めいた話だ。
 この元長官は、在日朝鮮人のために総連は必要だといった趣旨のことを述べているようだが、とてもそれだけで動いているとは思えない。
 今後の報道にも注目したい。


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朝鮮総聯本部売却の報道を読んで

2007-06-12 22:15:49 | 事件・犯罪・裁判・司法
朝鮮総連本部、売却 公安庁元長官経営の投資顧問会社に(朝日新聞) - goo ニュース

 今日の『朝日新聞』夕刊でこの記事を読んでびっくりした(記事全文のウェブ魚拓)。

 これは、要するに、元公安調査庁長官が代表取締役を務めるこの投資顧問会社による、総聯に対する救済策と考えていいのだろうか。
 18日に予定されているという、整理回収機構が総聯に朝銀からの融資の返還を求めた訴訟の判決は、おそらく総聯が敗訴するのだろう。
 土地建物の売却益はその返済に充てられるということか。
 そして、総聯本部はこれまでどおりその建物で活動を続けると。

 しかし、その投資顧問会社の代表取締役が元公安調査庁長官、元広島高検検事長だということは、ある種の国策による救済ということだろうか?
 総聯がわが国の政府、あるいはその一部と、何やら妥協して手打ちしたということなのだろうか。
 その代償として、何らかの情報提供を約束するとか、捜査に協力するとか・・・・?
 その投資顧問会社の行動が、全くの独自のものだとは思いがたい。

 そんな印象を覚えた。

 安倍首相は不快感を示したというが・・・・。

元公安調査庁長官に不快感 朝鮮総連の施設売却で首相(共同通信) - goo ニュース

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中国人戦後補償訴訟の敗訴と光華寮問題

2007-04-30 12:23:13 | 事件・犯罪・裁判・司法
 4月27日に最高裁が、中国人が提訴していた戦後補償5訴訟について、いずれも、日中共同声明を理由に求償権は放棄されたとして、原告を敗訴させたという。

強制連行訴訟、中国人元労働者らの請求棄却 最高裁(朝日新聞) - goo ニュース
慰安婦含む他の戦後補償4訴訟も敗訴確定(朝日新聞) - goo ニュース

 28日付朝日の社会面の記事は、《「光華寮とバランス」弁護団》との見出しで、次のように述べている。

《最高裁の三つの小法廷で、27日だけで計5件の戦後補償訴訟の中国人敗訴が確定した。なぜ、これほど集中したのか。
 原告弁護団は、最高裁が日中関係に配慮し、中国側に有利な結論となる「光華寮」と、不利な結論の「戦後補償」の二つの訴訟をほぼ同時期に決着させ、バランスを取ったのではないかと推測する。》

 私も全くそのように思う。
 この点については、今年1月の光華寮訴訟が決着へ向かうとの朝日の記事でもそれとなく指摘されていた。

 《「光華寮とバランス」弁護団》の記事は「アサヒ・コム」にも掲載されていないので、さらに一部を引用しておく。
 記事は、光華寮問題の経緯を述べた上で、

《提訴から40年、上告から20年たった「日本最古の未解決訴訟」に最高裁が手をつけたのは、滞留して長期化し始めた戦後補償裁判の処理を急ぐためではなかったか-それが、弁護団の推理だ。
 また、判例となる判決が出ると、それが最高裁としての統一見解であることを示すため、同種訴訟をほぼ一斉に決定で終わらせること自体はよくある。
 では、なぜ「この春」なのか。
 光華寮訴訟を審理し、戦後補償訴訟の一部も手がける第三小法廷には、5月22日限りで定年退官する上田豊三判事(民事裁判官出身)がいる。戦後補償訴訟と光華寮訴訟を同時期に決着させるため、上田氏の在任中にそれぞれの判決日を出すことを決めたのが要因の一つであるとは言えそうだ。》

としている。
 説得力のある説だと思う。

 しかし、司法判断とはそもそも個別に行われるべきものであり、全く別の事案でもってバランスを取るなどという行為自体がなじまないのではないか。
 また、中国外務省は早速、個人の求償権まで放棄されたと解釈するのは「不法で無効」だと抗議しているという。
 一国の最高裁の判断を「不法で無効」と断じる国に対して、取引じみた行為が通用すると考えたとは、最高裁は判断を誤ったのではないだろうか。 
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再び、光華寮裁判の報道を読んで(2)

2007-04-01 16:26:13 | 事件・犯罪・裁判・司法
承前

 下級審4件の判決をざっと読んでみた。
 コトの経緯は次のようになっている。

戦時中 国が賃借し、中華民国留学生の集合教育の宿舎として京都大学が使用。100名前後の留学生を居住させていた。
終戦後 集合教育は廃止され、賃料は支払われなくなった。寮生が自主管理するとともに、中華民国駐日代表団に善処を求めた。所有者は、国税庁などに売却を図ったが、寮生の占有が原因で成立せず。
1949 中華人民共和国成立。中華民国政府、台湾に逃れる。
1950 中華民国駐日代表団と所有者との間に土地・建物の売買契約が成立。しかし所有権移転登記がなされず。 
1952.4 日華平和条約締結。
1952.12 中華民国、所有者との間に改めて土地・建物の売買契約を締結(金額上乗せ)。
    購入後も、中華民国が管理を始めることはなく、寮生による管理が続き、中華民国支持者と中華人民共和国支持者が共に入居する状態が続いた。
    なおも所有権移転登記がなされなかったので、中華民国が所有者を提訴。
1961 登記をめぐる訴訟で中華民国が勝訴したのを受け、登記がなされる。
1966 中華人民共和国で文化大革命。寮生が文革を支持。
   大阪の中華民国総領事館が寮生に明け渡しを求める。
1967 中華民国、明け渡しを求めて京都地裁に提訴。
1972 日中共同声明。日本は中華人民共和国を承認し、中華民国と断交。
1974 中華人民共和国が外交交渉で日本に対し光華寮の所有権を主張し始める。
  (ただし、この事実は本件裁判では差し戻し審の控訴審まで明らかにされず) 
1977 京都地裁判決。寮生側勝訴。
1982 大阪高裁判決。一審判決を不当として取り消し、差し戻し。
1986 京都地裁の差し戻し審判決。中華民国側勝訴。
1987 大阪高裁の差し戻し控訴審判決。寮生側の控訴棄却。寮生側上告。
   トウ小平がこの判決を批判。

 一審判決は次のように述べ、中華民国の所有権を否定した。

《このようにある国家に革命が起り新しい国家が成立したが旧国家にもその領土の一部を支配して事実上併存し、承認の変更があった場合外国にある公有、公共用財産に対する支配権がどうなるかということは国際法上難しい問題であるが当裁判所はわが国が中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認している以上中国の公有である本件財産に対する所有権支配権は中華人民共和国政府に移り中華民国政府の支配を離れたものと解する。
 尚鑑定人安藤仁介は外国公館のような国家の代表機能に直接係るものであること以外のものは、事実上の支配関係、用途、性質、取得時期を考え個別的に帰属を判断すべきであるとしているが、そうした点を考えても本件財産が中華人民共和国政府の支配下に入ったという結論を変える必要はないと考える。》

 また、中華民国の当事者能力については、次のように肯定した。

《尚わが政府が中華人民共和国政府を以て中国に於ける唯一の合法的政府であると承認したことを考えると原告の当事者能力自体を問題とせねばならないが原告が今尚台湾とその周辺諸島を支配し事実上の国家形態をとっていることは否定できない事実であってそうしたものといえども対外的な私的取引その他より生じた紛争の解決をわが裁判所に求めることはもとより差支えないことであり当事者能力まで否定する必要はないと考える。》

 これに対し、控訴審判決は

《本来、政府や国家の承認は、多分に政治的な行為であって、承認を与える国の政府(行政府)が承認を与えられる政府や国家との関係(国際関係)をどのように処理すべきかという見地からこれを決定するのが常であるのに対し、国内裁判所は、国内における法律上の紛争、とりわけ私的な法律上の紛争をどのように合理的に解決すべきかという見地から判断を下すのが建て前であり、(中略)行政府の決定に基礎を置く承認の有無をそのまま判断の基礎とすることは、必ずしも適切ではなく、承認以外の事実を考慮して、未承認ないし承認を失った事実上の政府にも当事者能力を認めて、私的な法律上の紛争の合理的な解決を図ることが必要とされる場合のあることを否定していないのであるから、政府の承認と外国法廷における当事者能力とを直結する考え方に従うことはできない。》

と、やはり中華民国の当事者能力を肯定した上で、

《控訴人が前判示のように昭和二四年末以降今日に至るまで台湾及びその周辺の小島群を国家的体制の下に現実に統治、支配している事実に徴すれば、中国を代表する政府としての控訴人政府から中華人民共和国政府への政府承継は、不完全な承継と少なくとも同一視しうるものと考えられること及び前判示のように控訴人はわわが国から合法政府として承認されていた昭和二七年にわが国内に所在する本件建物の所有権を取得したものであることによりすれば、(中略)中華人民共和国政府の承認(中略)の遡及効は、本件建物に及ばず、中華人民共和国政府は、右承認後の現在においても本件建物につき当然には承継の権利を援用できない》
《もっとも、(中略)わが国内に所在する控訴人名義の不動産のうちその用途、性質上、中国を代表すべき国家機能に直接かかわるごときものについては、中華人民共和国政府の要請があれば、その所有権の同政府への承継を認めるのが相当と考えられるけれども、本件建物がかかる性質のものでないことは(中略)明らかである》

として、原判決の取り消しと差し戻しを命じた。
 差し戻し審はこの見解に従って、中華民国の主張を認め、寮生に明け渡しを命じた。
 寮生側はこれを不服として控訴したが、棄却され、さらに最高裁に上告した。

 以上4つの判決は、いずれも中華民国(台湾)の当事者能力を認めたものだ。
 ところが、今回の最高裁判決は、原告は中華民国政府ではなく「中国」という国家であり、日中共同声明により「中国」の代表権が中華人民共和国政府に移った以上、原告も中華人民共和国政府により引き継がれるべきだと判断したという。
 そうなのかなあ。
 私は、控訴審判決に説得力を覚えるがなあ。

 こんな入口レベルでの判断を下すのに、何故20年もかかったのか。
 1審で鑑定人を務めた安藤仁介のコメントは実にもっともだ。

 で、これらの判決が朝日の言う「一つの中国」「二つの中国」の話とどう関係しているというのだろう。下級審判決はいずれも、日中共同声明で日本政府が中華人民共和国政府を承認し、中華民国と断交したことを前提としている。ただ、訴訟当事者としての中華民国(台湾)の能力を認めているだけだ。政府が「一つの中国」の立場をとる一方で裁判所は「二つの中国」の立場をとってきたわけではない。
 朝日記事の、

《20年前には「二つの中国」を認める学説が有力だったが、現在では「一つの中国」を支持するのが通説になっており》

について、調べてみたがよくわからなかった。本当だろうか。どうも、読者をミスリードさせているように思えてならないのだが。
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再び、光華寮裁判の報道を読んで(1)

2007-03-29 01:08:50 | 事件・犯罪・裁判・司法
 光華寮裁判の最高裁判決が言い渡されたそうだ。原告が台湾(中華民国)だとする下級審の判断を否定し、72年の日中共同声明により「中国」の代表権が中華人民共和国に移った以上、原告も中華人民共和国が引き継ぐべきだと判断し、一審(京都地裁)に審理を差し戻したという。京都地裁がこれに従って原告を中華人民共和国に引き継がせれば、中華人民共和国は提訴を取り下げると見られており、実質的に台湾敗訴の判決だという(魚拓)。

 今この記事を書くためにアサヒ・コムを見ていたら、上の記事はどうも関西ローカルなようだ。全国用の記事の短いこと。28日の朝刊には、1面と社会面に記事が載っていたのだが、関西以外ではやはり扱いは小さいのだろうか。

 上記の魚拓の記事中にはないが、紙面では、大島大輔という記者が、

《日本と中国、台湾との間で外向的なあつれきを生んできた国内最古の未解決訴訟は、最高裁が日本政府による中国の承認を踏まえ、「台湾にはこの訴訟を続ける正統性がない」と明示的に認めたことで実質的に決着することになる。20年前には「二つの中国」を認める学説が有力だったが、現在では「一つの中国」を支持するのが通説になっており、最高裁もそうした現状を踏まえたと見られる。》

と述べている。
 
 前にも述べたことだが、この、20年前には「二つの中国」説が有力、現在では「一つの中国」説が通説だという見方は正しいのだろうか。

 Web上で見る限り、読売、産経の記事にはその種の言及はない(毎日のサイト、MSN毎日インタラクティブにはこの判決の記事自体が見当たらない)。朝日独自の見解だろうか。

 産経の記事がさすがに詳しい。(魚拓その1)(その2

 ↑その2の記事によると、
 
 昭和27年4月に、日華平和条約が締結される。
 同年12月に、台湾が光華寮を買い取る。
 昭和42年に、台湾が光華寮の明け渡しを求めて提訴する。
 昭和47年に、日中共同声明で日本は中華人民共和国を承認し、台湾と断交する。

とある。
 中華人民共和国が成立し、中華民国政府が台湾に逃れたのが1949=昭和24年だから、光華寮を中華民国が購入したのはその後のことだ。つまり、台湾に逃れてからの資産であり、中国を支配していた時代の資産ではない。この経緯も、これまで下級審で中華民国が勝訴していた理由の一つだろう。
(続く) 
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服の上からの撮影は無罪?

2007-03-10 23:49:28 | 事件・犯罪・裁判・司法
 goo ニュースでこんな記事がランキング1位に入っていたので、読んでみた。

女性の臀部撮影に無罪 「服の上から、違反でない」 旭川簡裁(北海道新聞) - goo ニュース

 ふーん?
 北海道迷惑防止条例を見てみる。

《第2条の2 何人も、公共の場所又は公共の乗物にいる者に対し、正当な理由がないのに、著しくしゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。
(1) 衣服等の上から、又は直接身体に触れること。
(2) 衣服等で覆われている身体又は下着をのぞき見し、又は撮影すること。
(3) 写真機等を使用して衣服等を透かして見る方法により、衣服等で覆われている身体又は下着の映像を見、又は撮影すること。
(4) 前3号に掲げるもののほか、卑わいな言動をすること。》

 はて? 記事を読む限り、この(2)には十分該当するのではないのかな?

 ああそうか。記事によると、

《判決は「道条例では、衣服等で覆われている内側の身体や下着を撮影することを禁じており、服の上からの撮影に関する規定はない」と弁護側の主張をほぼ認めた。卑わいな言葉を発したことは認定しなかった。》
 
とあるから、条例の

《(2) 衣服等で覆われている身体又は下着をのぞき見し、又は撮影すること。》

の「身体」というのは裸体のことで、服の上からの撮影は該当しないと判断されたのだな。
 しかし、本当にそんな解釈でいいのかな?
 服の上からの撮影も含むという解釈も、十分成立すると思うけど。
 そうでないと、服の上からなら、どの部位であろうと、撮影し放題ということになってしまう。
 条文には、

《著しくしゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。》

とあるのだから、その精神にのっとった解釈をすべきではないのかな。
コメント (2)
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