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井上薫説への疑問(1)――裁判官の身分保障について

2008-05-11 22:27:03 | 事件・犯罪・裁判・司法
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 井上薫は、著書『市民のための裁判入門』(PHP新書、2008)において、わが国の裁判官については、一般の国家公務員に比べて手厚い身分保障が定められていることを具体的に示した上で、次のように述べている。

《しかし、これらの身分保障にも欠陥があります。〔中略※1〕
 その筆頭は、下級裁判所の裁判官の任期が憲法上一〇年と定められている点です。〔中略〕
 裁判官の職の不安定さが顕在化するのが、再任のときです。「再任は新任と同じで、再任するかどうかを決める最高裁の指名は、百パーセントの自由裁量だ」というのが、下級裁判所の裁判官の人事権を一手に握る最高裁の見解です。これでは、再任を希望する裁判官は、常日頃から最高裁の意向に沿うように自己規制するとともに、間違ってもその意向に反する判断は絶対にしないように振る舞うほかはありません。
 かくして、再任制度のおかげで、下級裁判所の全裁判官に萎縮効果が発生し、裁判官を拘束するのは法令のみという憲法上の規定は有名無実化し、「法令にあらざる最高裁の意向」に従わざるをえない事態となっているのです。もし、最高裁の意向に反すれば、即不再任が待っているのです。〔中略〕
 大日本帝国憲法下では、裁判官は終身官とされていました。これと比べても、日本国憲法が新たに導入した任期一〇年の制度は、裁判官の独立を大きく損なう点に、正当な注意が払わなければなりません。〔中略〕
 裁判官を拘束するのは、憲法上、法令だけとされているので、裁判官が違法行為をした場合に、人事上マイナスと評価されるのは当然です。これが、再任時の障害となるのもやむをえません。しかし、人事権者が、法令以外に基準を作り、これを満たさないから再任しないという運用をしたら、これは即憲法違反といわなければなりません。なぜなら、再任を希望する裁判官は、人事権者の作った「法令以外の基準」に従わざるをえず、裁判官の独立という憲法上の価値を侵害することになるからです。〔中略〕最高裁は、これまで下級裁判所の裁判官の指名は、自由裁量だと言い切り、そのように運用してきましたが、これは日常的な憲法違反といわなければなりません。》

 では何故、旧憲法下では終身官であった裁判官が、現憲法では任期10年の再任制に変えられたのだろうか。
 井上は、上記の引用文で省略した※1の箇所で、次のように述べている。

《下級裁判所の裁判官の定年は、簡裁判事が七〇歳、ほかは六五歳とされています。それまでの長きにわたって強い身分保障を受けるとなると、裁判官が自己研鑽を怠り、裁判官に必要な資質を欠く事態になるかもしれません。それを回避する趣旨です。》

 そうだろう。もっと端的に言えば、とんでもない判決を連発するような非常識な裁判官であっても、手厚い身分保障のために簡単に罷免することができない。それを補うための制度だろう。
 私はこの制度には充分に意義があると思う。

 では井上は、旧憲法のように終身官に戻せと言うのだろうか。そうは述べていない。何故だろう。
 最高法規である憲法に違反するものだとして最高裁を批判する井上の立場からすると、憲法自体を批判することはタブーなのかもしれない。

 井上は、司法府の頂点に立つ最高裁に権力が集中しすぎていることが問題だと説く。最高裁は、終身裁判所として司法権の頂点にあるばかりか、司法府内の行政権(裁判官の人事権など)、そして司法府内の立法権(裁判所の規則制定権)をも掌握している。このうち司法行政権、特に裁判官の人事権を最高裁が握っていることが、憲法で保障された裁判官の独立を侵害しているとして、次のような改善策を主張している。

《司法行政担当の官庁を第四権として別に作り、その長官(独任制)または委員(委員会制)は、国会の承認を得て内閣が任命することとし、裁判所は、最高裁以下、裁判権の行使のみに没頭することとします。この制度変更は、憲法改正を必要とせず、裁判所法改正だけで実現することができます。
 ただ憲法上、最高裁には、規則制定権、下級裁判所の裁判官の指名権が付与されています。司法行政を最高裁から分離する際には、これらの憲法上の規定をも改正の必要性が出てくるものと思われます。》

 果たしてこれは現実的だろうか。
 司法行政と言うと何やら本来の司法権とは別物のような印象があるが、要はこれは司法府を組織として運営していくために必要なものだろう。それを司法府から分離してしまうことは、およそ現実的とは思えない。
 例えば国会は立法府だ。国会には議員とは別に独自の職員がいる。その人事や会計、施設の管理といったことはさながら立法行政と言えようか。それを国会から分離して別の機関が行うことに何の意味があるだろうか。
 あるいは、政府の各省庁が訓令や通達を出すことは、行政府内の立法と言えるだろう。これを立法だから行政府で行うべきではないとして、別の機関が行うべきなのか。そんなことがそもそも可能なのか。
 井上が言っているのはそういうレベルの話だろう。
 憲法で裁判官には独立が保障されている点で、司法府は、上意下達が当然である他の組織とは異なるのではないかという反論が予想される。しかし、裁判官の独立とは、あくまで裁判の場で保障されるのであって、司法行政には及ばない。現に井上も、こう述べている。

《司法行政の組織が一体性を保って活動していくための規律の原則は、上命下服です。上司の命令に、部下は従わなければならないということです。一般の行政官庁の職員は、皆この上命下服の規律の中にありますから、裁判所もその例外ではないことになります。〔中略〕
 一人の裁判官から見ると、今自分のしようとしている仕事や問題とされている点が、裁判事務に属するのか、司法行政事務に属するのかの区別が重要となります。裁判事務であれば、裁判官の独立の原則により、司法行政は一切口出しができません。口出しすれば、直ちに裁判干渉という憲法違反行為となるわけです。裁判官は、司法行政権者から裁判事務について指図されたとき、これを拒否する法律上の義務を負っています。
 これに対し、司法行政事務であれば、司法行政権者の指図には従わなければなりません。これを拒否すれば、職務上の違法を犯したとして、懲戒処分等の不利益を受けなければなりません。》

 ならば、人事は司法行政事務なのだから、司法行政権者に従わざるをえないのではないか。裁判官の独立は保障されていても、人事権者が裁判官をどう評価するかは人事権者の専権事項であり、それは何ら憲法に違反しないのではないか。

 さらに、上記の引用文中、第四権についてこう述べるが、
 
《司法行政担当の官庁を第四権として別に作り、その長官(独任制)または委員(委員会制)は、国会の承認を得て内閣が任命することとし、》

これでは、わが国のような議院内閣制の下では、司法府の人事権を政府与党が完全に握るということになるのではないか。それで司法府の独立が保てるのか。
 井上は、最高裁批判に狂奔するあまりに、司法府の独立それ自体の維持という、より肝心なことを忘れ去っているように思う。

 井上はまた、裁判官の報酬の額と昇給制、それに最高裁が報酬額を決定するシステムも、裁判官の身分保障における欠陥だと説く。

《判事補になりたての報酬は、日本社会の中でも、十分な尊重を受けているとはいいがたいでしょう。家族がいれば、より早い昇給を願って、最高裁の覚えめでたくなることに汲々とならざるをえません。〔中略〕これでは、裁判官の独立は有名無実となってしまいます。
 〔中略〕司法試験と司法修習を経てきた裁判官の報酬としては、初任給が低すぎるというべきです。昇給制は、人事権を有する最高裁に従属する裁判官を生み出すという構造的欠陥を有します。
 このように、裁判官以外の職務では当然とも思える昇給制も、職権の独立が憲法上求められている裁判官について適用することは、憲法の精神に反する点に注意しなければなりません。》

 では井上はどうすべきだと言うのか。その具体的な言及はない。しかし、これらの記述からは、暗に、初任給はもっと高額にするとともに、昇給制自体も廃止すべきである、それが憲法に定められた裁判官の独立を保つために必要なことなのだとの意図が感じられる。
 果たしてそうなのかどうか。任官したばかりの判事補が一般企業の初任給をはるかに上回る給与を受け取ることが憲法の精神に忠実なのだろうか。あるいは、任官したばかりの判事補と最高裁判所長官とが同額の給与を受け取ることが憲法の精神に忠実なのだろうか。
 蛇足判決理論で井上にシンパシーを示す人々は、彼がこのような特異な裁判官観の持ち主であることにも留意すべきだろう。


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