福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「弘法大師伝」 後宇多法皇御製

2024-03-21 | 諸経

弘法大師伝 後宇多法皇御製

 

「第八祖大日本国贈大僧正法印大和上位諡弘法大師は讃州國多度郡の人也。法の諱は空𣴴、遍照金剛と号す。大唐青龍寺恵果和尚の付法なり。大日如来の七葉(注1)を以て両部の大法を承し、漢梵差無く悉く以て伝受す。夫れ両部の秘法は諸仏の奥蔵即成の径路なり。訶陵新羅之英傑、剣南河北の俊才、各々一果を得て兼ねて亦両部の灌頂をもって聴く事能わず。義明供奉に授くといえども法水流れず(注2)。ここに知んぬ、法身如来の正脈は独り大師の一流に属する而已矣。

 

大師生まれて父母に在りしとき、童稚の夢に諸仏と語ると見る、佛を造って礼を作すを事とす。志学にして石淵の贈大僧正に虚空蔵の法呂を受け、入心念持し名山勝地に悉地速に成す。年二十にして出家し、二十有二にして具足戒を受け、乃ち仏前に誓を発して大毘盧遮那経を日本国高市郡久米の東塔下に感得し、渡海の大願を是に中心に萌す。蓋し是和尚鈎索の加持、三蔵師資の因縁なる耳。遂に乃ち延暦二十三年孤帆を松浦の波に飛し、五瓶を蓮台の月に浴す。乃ち和尚告げて曰はく、汝西土にして也我が足に接す、吾れ東生して汝が室に入らん、久しくとどまること莫れ、吾は前に在りて去らんと也。先ず金剛杵を投じて南山の勝地を卜す。則ち大同元年帰朝し請来の秘教を録して上表以聞す。爾りし自り以降、一人三公武(あと)を接して躭(習+元)し四衆万民稽首して鼓篋(こきょう、つづみで始業を知らせ、書篋を開くこと)す。神泉の祈雨には龍神形を現じ、金(門構えに報)の震居には金色光を放つ。或は日輪夜を照らして蘇生途に于(たたず)む。難思加持の力、楚竹の記するところに非ず。弘仁十四年勅して東寺を給ひ、永く密教の場と為す。帝四朝を経て国家の奉為に壇を建て法を修すること五十一箇度、鎮護国家の基、大師の加持力にあらざる無き者乎。天長九年紀州の南山に住し深く穀味をいとひて専ら坐禅を好む。此の地は去る弘仁七年表請して入定の処と為す。擬するは来日二十一日寅の刻なり。吾れ入定の間は兜率他天に住して慈尊に侍し五十六億余年の後、必ず慈尊と共に下生して吾先跡を問ふべし、未だ下らざるの間は微雲間より信否を察すべし。この時勤あれば祐を得、不信のものは不幸ならん、と。期日爰に至り乃ち結跏趺坐して奄然として入定す。春秋六十二、夏臈四十一、慧光光を秘し法雷猶ほ春の如し。肉身壊せず、松檟封閉しぬ(注3)。運歩恩に泣く。ああ悲哉。

 

正和四年三月二十一日」

 

(注1、大日如来・金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果)

 

 (注2、恵果の六大弟子に、剣南の惟上、河北の義円(金剛一界を伝授)、新羅の恵日、訶陵の辨弘(胎蔵一界を伝授)、青竜の義明。唐朝において潅頂の師となったが、早世)あり。)

 

(注3、「松檟封閉しぬ」は「大唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚の碑」にあり。

 

 生は無辺なれば 行願極まり莫し

 

天に麗(つ)き水に臨んで 影を万億に分かつ

 

爰(ここ)に挺生(ていせい)有り 人の形にして仏の識あり

 

毘尼(びに)と密蔵と 呑并(どんへい)して余力あり

 

修多(しゅた)と論と 胸臆(きょうおく)に牢寵(ろうこ)す

 

四分(しぶん)に法を秉(と)り 三密加持す

 

三代に国師たりて 万類之による

 

雨を下し雨を止むること 日ならずして即時なり

 

所化(しょけ)縁尽き 怕焉(はくえん)として真に帰す

 

慧炬(えこ)已(すで)に滅し 法雷何(いづ)れの春ぞ

 

梁木(りょうぼく)摧(くだ)けぬ 痛ましい哉苦しい哉

 

松檟(しょうか)封閉す 何(いづ)れの劫にか更に開かん)

 

 

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