福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の6/13

2024-07-19 | 先祖供養

地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の6/13

 

六、    一遍上人生死を示し給ふ事。

伊予の國河野七郎道廣とて物の哀をも知らず、傍若無人のものなりしが入道して法名を如佛とぞ申しける。延應元年1239の比(ころ)子息十歳にして母におくれ、それより無常の理自得して出家、命はあるに任せ衣食は得るに随と思立ち、法号を隨縁房と名け足に任せて諸国を流行しけれども、強(あながち)佛法の道理をも開悟せず、抜群の明師にも見(まみ)へ別して其の示しをも受けず。本来學解の功なければ邪を去り正を取ることも疎々敷く(うとうとしく)唯思立つ所の一念ばかりをこそ始終の依怙なりける。延長年中(923年から931年まで)に讃岐國志度寺のかたはらに立ちよりて教學の為に或僧に見(まみへ)て出家の本意、諸佛の本誓をくはしく尋ね申されけるに彼の上人、其の志の切なる事を感じて、諸佛の中には阿弥陀佛は往生浄土の願細やかに十方浄刹の中には西方極楽に優(まさる)所なし。他力本願とて名号を唱奉るばかりを力として命終の時にいたれば三尊来迎し玉ひて西方浄土に引導し給ふ。菩薩の中には地蔵薩埵と申すこそ其の名号はかはれども一躰不二の佛身にて衆生を度利し給ふ誓には奈落の底に入り玉ひて、抜苦与楽との本願、他の佛菩薩にすぐれ給ふぞかし。然れば此の教へにより此の佛をたのみ給ふにしくはなしと云々。隨縁房、僧の教訓のごとくに朝夕懈怠なく勤行しけるに、或夜の夢に僧一人来る向て云く、汝の母の業惑を救はん行は是弥陀の称名によるべし。輪廻生死のありさまは明日宇多津の濱に行きて見よ。必ず得る所有るべし、と示し給ふかと思へば覚ぬ。隨縁房、教の如くに濱に往き四方を顧みるに指して是と云べき物もなかりき。然るに海士の子どもの集りて其の比(ころ)都にはやりし輪鼓(りゅうご。空中独楽)と云物をもてあそびしを引廻してあそびける。面白くをぼへて且く立留り見るに、りゅうご地にをちてやみにけり。是を思念するに心として廻り、心として止ぬ、人の輪廻全体是の如し。三業の造作により六趣の街に迷ひ生死變轉偏に輪鼓のまはせばまわり地に墜ちて止のごとくなりと。自然に覚悟を得たり。其後、偏に好相の有難き事を思ひ地蔵の宝号を五畿十道に遊化し玉ふ程に都の東山に浄土門の知識御座(をはします)と聞て尋奉る御名を十遍上人と申せし御教化を納受したてまつり即ち改名して一遍上人と号す。されば六字称名の外、一向學章を捨て、単(ひとへ)に念佛を宗とし論談講説をも廃し、一面目の大知識と成り給ふも併しながら地蔵菩薩の化儀指南の御利生とぞ。

引證

延命經に云く、是得是失不善の念を起こし諸悪業を造りて六趣に輪廻す。生生の父母、世世の兄弟、悉く佛道を成ずる後に我成仏せん云々(仏説延命地蔵菩薩経「一切衆生は法性は同體にして無始無終無異無別なれども無明は異相にして生住異滅なり。是れ得、是れ失。不善念を起し、諸悪業を造り六趣に輪廻す。生生の父母、世世の兄弟、悉く佛道を成ぜしめて後我成仏せん。若し一人を残せば我成仏せず」)。

 

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